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迷宮氾濫8  喪失


「あ……ああ……」

 溢れ出す記憶。


 そうだ。思い出した。

 わたしの名前は、ユト。誇り高き鬼人族の姫。

 そして、あの白髪の大男は、幼い頃からずっとわたしを守り、わたしのために命を懸けてくれていた忠臣、キバ。

 キバは、わたしを探しに来てくれたんだ。

 わたしを助けるために、こんな暗い森の奥底まで。


 でも。

 脳裏に浮かぶのは、それだけではなかった。

『ほら、食べてみろ。弁当に入ってた唐揚げの、もっとデカくて熱いやつだ』


『凛とした強さを持って、元気に育ってほしいっていう願いを込めてな』


『おじさんが、パパッと追い払ってやるから』


 結城誠おじさんと過ごした、短かったけれど、温かくて、美味しくて、楽しくて、たまらなく幸せだった日常。


 人間は、餌じゃなかった。

 一緒に笑って、一緒にご飯を食べてくれる、温かい存在だった。


 だけど。

(……わたしは、鬼人族の姫……)


 ニンゲンと魔物は、決して相容れない。

 キバは人間を殺すし、人間はキバを殺す。


 わたしが『ユト』である以上、あの温かいアパートに帰ることは、もう、許されないのだと。


 凛は、その残酷な事実を、完全に理解してしまった。


 ◆


 戦場は、すでに終局を迎えていた。

「ガハッ……! ば、ばかな……私が、ニンゲンごときに……!」


 能力の大部分を奪い尽くされたキバは、両膝を突き、口から大量の血を吐いて黒曜石の地面に倒れ伏した。


 もはや抵抗する力は残されていない。逃げることすら叶わない。


 暴走状態の俺は、一切の感情を持たない亡者のように、ゆっくりとキバの前に立った。


 右腕を振り上げる。

 キバの命を、存在を、完全にこの世界から消し去るための、無慈悲な処刑の一撃。


 俺の拳が、キバの心臓を目掛けて撃ち抜かれる、その刹那だった。


「だめぇッ!!!」

 小さな影が、俺とキバの間に飛び込んできた。

 凛だった。


「ユト、様……!?」

 キバが絶望に目を見開く。

 俺の拳は、止まらなかった。

 いや、暴走した意識下では、止めることなど不可能だった。


 肉を断ち、骨を砕く、生々しい感触。

 俺の右腕は、凛の小さな背中から胸を貫通し、さらにその後ろにいたキバの心臓をも、一直線に貫き通していた。


「あ……ごほッ……」

 凛の口から、おびただしい量の鮮血が吐き出され、俺のジャージを赤く染め上げた。


 それでも、俺の暴走は止まらない。

 スキル【強欲】は、目の前の命を完全に塵にするまで破壊を続けようと、さらに左腕を振りかぶった。


 このまま渾身の一撃を叩き込めば、二人まとめて完全に消滅させることができる。


 その時だ。

『マスターッ!! お願い、止まって!! 目を開けて!! 自分が何をしてるか見てよォォォッ!!!』

 エク子の悲痛な絶叫が響き渡った。


「……ッ!」

 振り下ろそうとした左拳が、空中でピタリと止まる。

 漆黒のオーラが霧散し、俺の混濁していた意識に、冷水のような理性が急速に戻ってきた。


「……え?」

 視界がクリアになる。

 俺の目の前にあったのは。


 俺自身の右腕が、凛の胸を無残に貫いているという、信じがたい光景だった。


「あ……」

 俺は、震える手で腕を引き抜いた。

 支えを失った凛の小さな体が、キバの体と共に力なく地面へと崩れ落ちる。


「ああ……あああ……ッ!!」

 俺は喉の奥から獣のような悲鳴を上げ、血だまりの中に膝をついた。


「凛! 凛ッ!! 何やってんだ俺は! 違う、俺は、お前をッ……!」

 俺は血まみれの両手で、凛の体を抱き寄せた。


 冷たくなっていく体温。

 胸に空いた、致命的すぎる大穴。俺の【超速再生】を分けてやることもできず、命の灯火が消えかかっているのがわかった。


「ッ! 俺のせいだ、俺が力をなんて願ったからッ!! 凛、死なないでくれ、お願いだ……!」


 俺は、三十五歳のいい大人が、子供のようにボロボロと大粒の涙をこぼして泣きじゃくった。


「……泣かないで、おじさん」

 凛が、震える血まみれの手を伸ばし、俺の頬に触れた。


「おじさんのせいじゃないよ。……わたしが、勝手にやったの。キバを、殺させたくなかったから」

「なんでだよ……ッ! あいつはお前を!」


「キバはね……わたしの、大事な家族だったの」

 凛は、力なく微笑んだ。


「思い出したの。……わたし、鬼人の姫なんだって。

だから……ニンゲンのおじさんとは、これ以上、一緒にいられない。

……わたし、ニンゲンには、なれないや」


 自嘲気味に笑う凛の言葉に、俺はただ首を横に振ることしかできなかった。

 凛は、少しだけ顔を横に向け、自分と一緒に心臓を貫かれて倒れているキバを見つめた。


「……キバ。ごめんなさい。……あなたをずっと一人にして」

「ユ、ト……さま……」

 キバの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 彼もまた、愛する主を守れなかった絶望と共に、静かにその命を終わらせようとしていた。

 凛の息が、次第に弱くなっていく。


 彼女は最後に、もう一度だけ俺の顔を見上げた。

その赤い瞳は、いつものファミレスでパフェを見つめていた時のような、無邪気で優しい光を宿していた。


「……おじさん」

「……なんだ、凛」


「短かったけど……すっごく、楽しかった。

……お腹いっぱい、美味しいもの、いっぱいいっぱい食べさせてくれて……ありがとう」


 凛の声が、風に溶けるように掠れていく。

「おじさんは……わたしの、ほんとうのお父さんみたいだと思ってたの……ありがとう、お父さん」


 スッ、と。

 俺の頬に触れていた凛の手が、力なく地面へと滑り落ちた。


 赤い瞳が静かに閉じられ、小さな胸の上下運動が、完全に停止し光の粒子のなり崩れ去る。


 隣で、キバの身体もまた光の粒子となって崩れ去っていく。


「……ああ。あああああァァァァァァァッ!!!」

 俺の絶叫だけが、冷たい黒曜の森に虚しく木霊した。


 どんなに叫んでも、どんなに後悔しても、もう彼女が俺に「お腹空いた」と笑いかけてくれることはない。


『――対象の討伐を確認しました』

『――固有スキル【存在強奪】が発動します』

『――ステータスが上昇します。筋力+1300、耐久+1300、敏捷+1300』

『――スキル、及びアイテムの獲得はありません』

 俺の悲しみなどお構いなしに、システムは無慈悲に俺のステータスを押し上げていく。


 上がったのは力だけ。守りたかったものは、もうこの腕の中にはないというのに。


 ◆


 キバの死。

 それは、ダンジョンブレイクという厄災の完全なる終焉を意味していた。

「お、おい……魔物が! バケモノたちが消えていくぞ!」


「あの大男が死んだんだ! 俺たちの勝ちだ!!」

 遥か後方の防衛線で、キバの生み出した無数の眷属たちが一斉に泥のように崩れ落ち、消滅していく。


 生き残った冒険者たちの歓喜の叫びと、安堵の涙。

 新宿の街は、何とかして守り抜かれたのだ。


 だが、そのダンジョンの中で俺は、凛が着ていた服を抱きしめたまま、いつまでも、いつまでも動くことができなかった。


 理不尽にすべてを奪うスキルを手に入れた代償。

 俺は初めて、世界から『大切なもの』を強奪されるという絶望を、その身に刻み込んだのだった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


本作のこの展開は、当初から考えていた流れではありました。

しかし、物語を書き進める中で、「凛にも誠たちと共に生きる未来があったのではないか」と、何度も考えたのも事実です。

それでも最終的には、当初の構想どおりの結末を選びました。


読者の皆さまの中には、納得しきれない点や、別の結末を望まれる方もいらっしゃるかもしれません。

ですが、その迷いも含めて、この物語の一部として受け取っていただけたなら幸いです。


続き書きになる方はブックマーク、

面白いと思う方は是非評価を頂けますと嬉しいです。



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