成果、そして次の依頼
翌朝、俺は再び新宿の地下にあるあの事務所を訪れた。
昨夜の取り立ての不快感が胃の奥に鉛のように溜まっているが、今はそれを吐き出している暇はない。
「三日後と言ったはずだけれど。忘れ物でもしたのかしら、ジャージのおじさん」
デスクで冷めたコーヒーを口にしていたまどかが、眼鏡の奥から侮蔑を隠そうともしない視線を向けてくる。
俺は何も言わず、インベントリから三つの素材を取り出し、無造作に机の上に並べた。
――鉄裂き熊の剛胆胆。
――猛毒タランチュラの麻痺毒腺。
――装甲百足の魔力核。
静寂が、部屋を支配した。
まどかの手からコーヒーカップが滑り落ちそうになり、彼女は慌ててそれをデスクに置いた。
先ほどまでの余裕は消え失せ、彼女はその三つの素材を食い入るように凝視した。
「……嘘でしょ。たった一晩で、この三種を、それも欠損一つない『極上品』で揃えたというの?」
「約束通り、持って来た。……報酬を」
まどかは震える指先で素材の一つに触れ、本物であることを確認すると、深く椅子に背を預けて溜息をついた。
その瞳には、驚愕と、俺という人間に対する正体不明の「恐怖」が入り混じっていた。
「……分かったわ。黒犬は約束を違えない」
彼女はデスクの引き出しから、ずっしりと重いアタッシュケースを取り出し、俺の前に差し出した。中には、帯封のついた一万円札の束が三つ。
三百万円。
これを手に入れれば、あの借金取りを追い払うことができる。だが、手元に残るのは、雀の涙ほどの端金だけだ。
「受け取れ。……それで、次の依頼の話を聞こう」
俺が現金をジャージの懐にしまい込むと、まどかは表情を一段と険しくし、低い声で問いかけてきた。
「次の話をする前に、一つだけ確認させて。……結城誠、あなたは『人』を殺せるかしら?」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
隣で浮いているエク子のホログラムが、一瞬だけピクリと反応した。
「……できない。いや、しない」
俺は迷わず答えた。
「確かに俺は追い詰められている。妹を救うためなら、どんな泥水だって啜るし、魔物の喉笛だって素手で引き裂く。……だが、そこまでは堕ちたくない。俺が人でなくなれば、救った妹に合わせる顔がなくなる」
まどかは、鼻で笑った。
「……甘いわね。そんな甘い考えで、この泥沼を泳ぎ切れると思っているの?」
「甘くて結構だ。それが俺の最後の一線だ」
俺の言葉に、まどかは呆れたように首を振ったが、その表情にはどこか安堵したような色も混じっていた。
「いいでしょう。なら、次の依頼は『要人警護』よ。……守ってもらいたい要人は、私自身」
「あんたを? ちょっと待て」
俺は眉をひそめた。
「俺は昨日までただの事務員だった男だぞ。たまたま腕っぷしが強かったからといって、どこの馬の骨ともわからない人間に自分の命を預けるのか? あんたには、戦闘のプロの部下たちが腐るほどいるだろう」
「ええ、いるわ。……でも、誰一人として信用できないのよ」
まどかは自嘲気味に笑った。
「近々、手に入れた希少素材の数々を本家へ受け渡しに行く必要があるの。
けれど、今の私の周りは敵だらけ。
ボスの席を狙う私の兄弟たちが、私が失敗して失脚するのを今か今かと待ち構えている。
私の護衛を務める部下たちの中にも、本家に買収された裏切り者が紛れ込んでいる可能性が高いわ」
彼女の孤独な戦いの一端が見えた気がした。妾の子として蔑まれ、成果を上げれば上げるほど身内に命を狙われる。
「だから、組織の派閥争いと一切無関係な『外部の人間』が必要なの。
未登録のモグリでありながら、一晩でCランク魔物からレア素材を傷もなく回収する異常な実力者。
……おまけに、妹のために金が必要で、なおかつ『人は殺さない』という甘い矜持を持っている」
まどかの鋭い瞳が俺を射抜く。
「金や権力で裏切るような暗殺者じゃないと、あなたのその『甘さ』が証明してくれているのよ。どう? 適任だと思わない?」
皮肉なものだ。俺の譲れない一線が、裏社会を生きる彼女にとっては「信用に足る理由」になったのだから。
「……報酬はいくらだ?」
「護衛費用として『100万円』。何事もなく受け渡しが済めば、それで終わり。おいしい仕事でしょう?」
「受け渡し場所はダンジョンの中だと言ったな。……断っておくが、俺には登録証がない。正規の手段ではゲートを通れないぞ」
「そんなこと分かっているわ。……あなたは『ポーター(荷物持ち)』として入りなさい」
まどかは不敵な笑みを浮かべた。
「ポーターなら、適性がない一般人でも雇用契約さえあればダンジョンへの立ち入りが許可されるわ。
重い荷物を背負い、戦う力もない弱者として、私の背後に控えなさい。
……万が一の時に、その牙を剥くためにね」
ポーター。冒険者たちから「弾除け」や「荷車」と蔑まれる、ダンジョンにおける最底辺の職業。
だが、今の俺にはそれこそが、身を隠すための最適な外套だった。
「マスター……最底辺のふりをして、実は最強。……なんだかワクワクしてきました!」
エク子が耳元で嬉しそうに囁く。
俺は、懐の三百万の重みを感じながら、まどかに向かって短く頷いた。
「いいだろう。……あんたの命、預かってやる」
妹を救うためのカウントダウンは、まだ止まってはくれない。
俺は、三百万円を抱えて、まずは地獄の督促状が待つアパートへと引き返した。
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現在の所持金:3,014,000円
次の報酬予定:1,000,000円
直近の支払い義務:2,800,000円(借金)+家賃滞納分、他




