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ジムの人間模様

「それでは練習前に軽く自己紹介を」

「◯◯です。学生時代に首都で柔術を中心にMMAをかじっていました。よろしくお願いします」

 翌週の月曜、入会初日。おれは自分の体がなまっていることに驚かされた。無理もない。二十年ぐらいのブランクがあるのだから。全体練習のアップについていくだけで精一杯で、スパーは数回だけで終わりにした。

 おれはケージの外に座りながら他の会員の練習を見守った。おれを気遣い、インストラクターが隣に座り、話しかけてくれた。

「どうですか」

「初心者からケージが使えるなんて贅沢な時代になりましたね」

 その人は三十後半と歳が近く、しばらく昔話に花を咲かせた。昔はテレビで毎月格闘技の中継があった。学校の話題は格闘技一色で、どの選手が勝つかを予想し合った。興味がない女子でも人気選手の顔と名前が一致するほどだった。大晦日には視聴率で紅白歌合戦に勝った。それと比べると今の子は可哀想だ。五千円ぐらい出しても日本人を中心とする軽量級の試合しか見れないのだから。

 もちろんおれたちには彼ら若者にそれを直接言わないデリカシーがある。

 スパーを終えたばかりの木村という会員はインストラクターの隣に座ると、話に割り込み、勝手に自分語りを始めた。どこでバイクを飛ばしたとか、タトゥーを入れるか悩んでいるとか。おれは二人から離れ、帰る支度をした。

 ジムを出ると空気がうまかった。おれはラジオを聞きながら車を運転した。やはり人と一緒に運動するのはいい。一人だと予定調和で手を抜きがちだが、人を相手にすると予想外の負荷がかかり、限界の先まで導かれることがある。すると頭も体も覚醒し、気持ちが異様なほど高揚するのだ。おれは久々に歌がうたいたくなった。

 帰宅し、シャワーを浴びパジャマに着替えるともう十時過ぎだった。明日の仕事に障るのでさっさと寝るべきなのだが、いつもより多めにハイペースで酒を飲んでもぜんぜん酔わない。動物が休むべき夜に太陽よりも明るい部屋の中で大汗をかくと体内時計が狂うものだ。結局おれは十二時を回ってから布団に入った。

 翌朝はスマホのアラーム音が鳴る前に勝手に目覚めた。興奮冷めやらず、まだ体がかっかしている。腹がグーと鳴る。水をがぶ飲みしながら食べるカップラーメンは格別だ。頭がシャキッとし、何かしたい。久しぶりにこめんどくさい翻訳小説を読む。一文一文が味わい深く、感動する。格闘技をやめた後、おれはモヤの中で生きてきたのか。

 すべての感覚が研ぎ澄まされたおれは、修理を終えたばかりで元気な相棒を運転し出社した。いつもより五分ほど早く、深緑の車をシルバーの地味な社用車の隣に停めることができた。

 社内もいつもと変わって見えた。それはおれが目線を、社員たちに踏みつけられ輝きを失った床から上げたせいだろう。よく見ると社員はおれみたいに下を向かず、人とすれ違うたびに軽く朗らかにあいさつをし、活き活きとした表情で自分の席に着く。みなテキパキと自分の仕事をこなす。必要であれば同僚や他部署の社員と意思疎通し、互いに手持ちの情報を交換し、それを自分と相手の仕事に役立てる。冴えないと思っていた大人たちがこんなにかっこよく働いていたとは。

 社会人になりたての頃は、おれもああなれる、なろうと思っていたよな。みんなできてるんだから。サラリーマンなんて普通なんだから。若いおれは少数派の人間にとっての「普通」のハードルの高さを知らなかった。

「田中さん、さっきの書類ありがと」

「いえいえどういたしまして」

「お礼を兼ねてランチ一緒にどうかな」

「ぜひ!」

 彼らはかくも容易に飛び越える。

 今の会社に入社後、よく一人で周囲の美味しい店を食べ歩いたものだが、同僚がいると惨めになるから、結局は社員食堂に落ち着いた。そこではおれみたいな孤独な人間や、午前の仕事が長引き外に出る暇がない人間が、味も価格も決して納得できない定食を仕方なく食べる。

「隣に座ってもいいっすか」

「どうぞ」

 それはこの前、格闘技の話をした若い社員たちの一人で、渡辺という名前だった。

「ところで会社の近くに格闘技のジムがあるって知ってました?」

「ゼロプラスワンだろう。実はこの前、入会したよ」

「へえー。それで、どんな感じですか」

「広く、ケージもあり、グローブやレガースも貸し出していて、総じて恵まれた環境だよ」

「まじっすか。おれみたいな未経験者でも始められますかね」

「無料体験も受け付けてるから、気になったら試してみるといいよ」

 社会人になり新しい習い事を始めるにはそれなりの覚悟が要り、覚悟を決めるには時間が要る。

 その間、おれは水曜と金曜にジムに通うことを習慣とすることに成功した。

 他の会員たちと休まず続けてスパーができるようになった。大昔に習った基礎の技をふと思い出し、時代とジムが違うためその技を知らない若者に面白いようにかかると、自分も捨てたものではないと少しだけ自信を持てた。スパーの調子が良いと帰ってからの酒がまた格別だった。どうせすぐ眠れないのだからと、おれはPS5のゲームをプレイしながらぐだぐだビールを飲んだ。金曜日の夜は特に楽しかった。練習後の生の喜びを存分に噛みしめることができたから。

 土日のどちらかはスーパー銭湯に行った。行動は以前と同じでも目的が変わった。サウナよりも風呂に浸かる時間を長くした。人が少なく広々とした大浴槽で手足を大きく伸ばし体幹運動をする。血行が良くなり全身がほぐれ筋肉痛が和らぐ。軽やかな足取りで露天風呂に移る。王様のようにつぼ湯を独占する。岩風呂で温泉の匂いをかぎ、肩から上で秋の涼しく乾いた風を感じる。寝湯の硬い石に横たわり、全身の裏側をぬるま湯に浸す。柔術で絞め落とされ意識を取り戻す瞬間のような心地よい感覚が訪れる。温泉は生の癒やしだった。

 十月下旬の金曜日の退勤時間前、渡辺くんがおれを訪ねてきた。おれが他部署に人脈を持っていることが意外なのか、近くの同僚は帰る準備をする手を止めおれたちを見た。渡辺くんはおずおずと、こう切り出した。

「おれ、やっぱり見学に行くのやめようと思って」

「そうか」

「仕事だけでも疲れますし、夜遅いですし、彼女もいて……」

「べつにいいんだよ」

「はい」

「だって冷静になるとあり得ないよね。毎週決まった曜日に汗臭い男たちと組み合うなんて。考えただけでも気が滅入るよ」

「正直、そうっすね」

「上達したからって日常生活に役立つわけでも、ましてやカネになるわけでもない」

「そうですそうです」

「他にもっとラクして楽しめる趣味もある。どうせ抱くなら彼女がいい」

「まったくです」

「彼女を大切にしてあげるほうが重要なんだから、ぜんぜん気に病むことはないよ」

「分かりました!」

 そういうものなのだ。

 レベルや取り組みの差はあるが、格闘技を続けている人はもはや辞められないぐらいそれに依存している。より良い他の生き方が見つからない。おれの場合もそう。新しいことを学ぼうとしても冷たく拒絶され、昔習ったことを拾い直すしかなかったのだ。

 だからおれは男たちと組む。汗でドロドロになっちまえば男も女も体臭もクソもない。

 今秋最後の台風が過ぎると、日本全国は青天の日が続いた。読書の秋、芸術の秋、食欲の秋。とにかく何をするにもちょうどいい季節だが、仕事の秋とは言わないようだ。人間が元気のある時に本当にやりたいのはそれではない。

 スポーツの秋。入会してもう二カ月ぐらいになるが、おれはジムで影が薄かった。幅を利かせているのは押しの強い男、イキがっているが若いから愛嬌と放任されている学生、男相手でも物怖じしない好戦的な女など。だから表面的には明るく華がありフレンドリーなジムだが、長く通っていると誰に対してもそうではないことに気づく。小さな声でしか挨拶できないおれなどは完全に無視される。

 別に構わない。人付き合いを目的に運動しているわけではないのだからと、おれは割り切っている。誰もおれの名前を覚えようとせず、おれだってそうだ。それでもあいつの名を覚えたことには理由がある。

 木村という高校中退の社会人はだいたい、アップや基礎の時間が始まってから遅れてやってくる。更衣室に置きっぱなしにしたバッグから道具を取り出し、テクニックの練習に途中で混ざる。やつには二人の子分がいて、そいつらとしか組もうとしない。スパーが始まると、ケージに寄りかかりふてぶてしいツラをし、誰かが来るのを待つ。

 そのくせ木村は年上で自分より強い人にはへいこらする。代表にもインストラクターにもいい顔する。だから生意気ざかりの若者ということで容認されている。真面目に腹を立てるのは大人げないから。

 おれのどこかにはガキっぽいところが残っている。それを自覚させるから、おれは木村が苦手だった。

 一度嫌いになると、その相手を全否定したくなるものだ。おれはやつの容姿も声も話し方も、体臭も振る舞いも戦い方もことごとく気に入らなかった。

 やつは身長が百八十センチ、体重が八十キロ弱と、一般人からすればそこそこ大男だ。無駄にフィジカルが強いから技術が身につかないタイプで、打撃にせよ組技にせよ力任せになり、見ていて危なっかしい。寝技は大嫌いで、まったくやりたがらない。それなのにキックではなく総合を選ぶ。おれからすれば実に不可解だ。

「すいません、あいつと組んでもらえませんか」とインストラクターから言われても、おれは「私はケージの外で寝技を練習したいので」と断った。やつを相手にムキになるのが怖かったから。押し殺したはずの闘争心、あるいは自己顕示欲という厄介なものが目覚めるとまずかったから。

 もちろん嫌な会員ばかりではない。特におれは最近入会した高校生の星くんが好きだった。まず名前がいい。限りない将来性、希望を感じさせる。学校では野球部をしていたらしく、最初は丸刈りだった。

「部活の先輩が新入生をいじめるから止めようとしたら、逆にやられてしまったんです。やっぱり腕っぷしが強くないとダメですね」

 その正義感あふれる意志の強い声が、おれに一人の同級生を思い出させた。そうか、だからその名前に親近感を持てたのか。

「ひょっとしてきみ、星武くんの……」

 武くんはおれとは住む世界が違う人だった。サッカー部のキャプテンの彼は、スポーツ特待生として私立高校に進学した。その後のことは知らないが、これほど大きい息子がいるのだから、早く結婚したに違いない。

「なぁんだ、父の同級生だったんですね。これからよろしくお願いします!」

 その縁で、星くんはいつもおれに感じ良くあいさつしてくれた。休憩中はおれの話を聞いてくれた。

「いつから格闘技やってるんですか」

「もう二十年ぐらい前からかなぁ」

「やべっ、おれまだ生まれてないっすね」

 彼は他の会員からも好かれていた。礼儀正しく、謙虚で、年長者を敬う。木村も彼に目をつけ、子分の一人に加えようとした。木村は十八歳で、星くんは十七歳だった。

 しかし星くんは特定のグループに接近しなかった。誰とでも付き合い、格闘技だけでなく他者の異なる考え方や価値観を広く吸収しようとしているようだった。向上心ある若者だった。

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