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お盆明けの再出発

 日本の夏はお盆休みで全きものとなる。だから例外なく、毎年帰省ラッシュが発生する。普段より高い運賃を払ってでも飛行機に乗り、数時間の渋滞につかまることが分かっていても車を運転し、何もなく手持ち無沙汰になる実家に帰る。

 日中は墓参りで久しぶりに土を踏み、新聞などを使い慣れない手付きで火を起こし、白い煙と白い香りが立ち昇る線香を墓前に手向ける。遮るものがなく都会より高く見える空から日差しが降り注ぎ、墓石や水桶に反射し、墓参者の顔を明るく照らす。祖先が再びこの世に還る。

 夜は親子孫の三世代で花火を楽しむ。孫は必ず手持ち花火を二本か三本まとめて火をつける。子は一本ずつの方が長く楽しめると孫に教える。親は孫の愛らしい様子と、親になった子の成長を喜ぶ。線香花火はいつも最後だ。孫も残り少ないことを知り、一本ずつ丁寧に味わう。どんなに慎重に持っても、先端の玉は火花を散らし終えると潔く、ぽとりと落ちる。

 翌日。子や孫との別れを惜しむ親。老獪なもので、最後の最後になり孫に小遣いを与える。孫は大喜びし、急にかしこまり感謝の言葉を唱える。それでまたさんざん苦労して都会に戻る。喜びや楽しみが苦労に勝るならば、来年もまた帰省するのだろう。

 おれは大学に上がってからお盆に帰省したことがない。日本の夏の空気を吸わず、お盆休みの雰囲気に呑まれず、勉学に励むか格闘技に打ち込むか、日頃の仕事の疲れを癒やすという名目でゴロゴロするか。

 案の定、今年は母親から電話がかかってきた。親戚一同が集まる日はうちに帰ってこい、と。

「気が進まないんだけど」

「みんな来るんだから」

 みんな。父や母の人としての体面はそこに凝縮されている。

「それに叔父さんに仕事を紹介してもらったお礼を言わないと」

「じゃあお盆も休日返上で働いてるってことにして。それが何よりの恩返しになるはずさ」

 母親は案外、簡単に折れた。おれがいると話しにくいことがあるのだろう。まぁ、それはそっちのことだ。

 みっくんは長男ということでやはり家を離れられないらしい。しかし彼は一歩前に踏み出そうとしている。

「親戚に家を売る相談をしようと思って。実際、維持するのが大変だから」

「相談じゃなくて決定を伝えるんだ。余計な口出ししてくるやつには、代わりに労力とカネを出す気はあるのかって聞けばいい」

 建てたり壊したり。幸か不幸かおれとは関わりのないこと。

 お盆休みだからといって特に気合を入れず、おれはいつも通り過ごした。スーパー銭湯は営業中だった。夏だというのに利用者が多く、水風呂とサウナの間を行ったり来たりしていた。サウナに入ると中は酒臭かった。おれより年上のビール腹の男たちはテレビの前に陣取り、高校野球の生中継を見ていた。甲子園の気温は三十八度。球児たちは額に汗して球の行方を追う。自分たちの夢を叶えるため。大人たちは全身から汗をかき球児たちの活躍を目で追う。暴飲暴食でついた脂肪を燃やすため。酔いを覚まし夜もまた飲むため。

 おれたちも少年少女だったのに。

 おれの車が夏バテでダウンした。近くの整備工場に預けたが、急なことで代車を出せないという。仕方なく当面は電車で通勤することになった。

 田舎だから席に座れるだろうと思ってたが、利用者が少ないぶん三両編成と出し渋るものだから、車内は首都ほどではないがすし詰め状態だった。おれが子供の頃ならば、車内の大人は新聞や雑誌を読み、学生は英単語帳などで勉強していたものだが、今はみんなスマホだ。中吊り広告さえなくなってしまった。みな自分が得たい情報だけを得ようと、自ら設定したつもりの環境の中で効率よく生きている。どこも同じだ。

 おれは他の乗客と共に市中央駅から吐き出された。歩くと街の風景が変わって見える。おれは会社に真っ直ぐたどり着けず、遅刻しそうになった。

 社内はお盆明けらしい気怠いムードが漂っていた。社員たちはパソコンを立ち上げてもすぐに仕事に取り掛かろうとせず、近くの人とどんな休みを過ごしたか話をする。男たちは、帰省や旅行などの重労働を武勇伝のように語る。それを仕事の本調子を取り戻せない言い訳にしたいから。肩や腰の痛みや寝不足は男の勲章。連休でリフレッシュしピンピンしているのはおれのような役立たずばかり。

 今日も退勤時間になった。会社を出たおれは駐車場ではなく駅に向かう。人の流れがあるからそれについていけば迷わない。六時過ぎ。日はまだ長く、とろんとした茜色の空にヒグラシの鳴き声が染み渡る。信号が赤青黄と色を変える。人々は夕日を浴び真っ黒になる。

 交差点で信号待ちをしていると、どこかから懐かしい音が聞こえてきた。バンバン、ドスッ。ピピッ! パスッ、パスッ、パスッ……。おれはその音に導かれるようにして、ふらふらと交差点を離れた。

 外から見ると、裏通りの建物の一階には三本のサンドバッグがぶら下がっていた。なんだキックボクシングか。初心者たちがインストラクターの指導を受けながら練習をしている。おれはワンツーで顔と腰が上下左右に動く彼らを見るとうずうずした。おれならもっと上手にパンチとキックができるのに。だがおれは自分に「ばぁか」と言い、その場を後にした。

 車はなかなか直らなかった。おれは丸一週間も徒歩と電車での通勤を余儀なくされた。退勤時にはやはりサンドバッグを叩き、縄跳びをする音が聞こえてきた。おれは「キックは興味ない」と自分に言い聞かせた。それでもスマホで検索する誘惑に勝てなかった。

 格闘技ジム「ゼロプラスワン」はキックボクシングジムだったが、昨年のリニューアルで総合クラスが新設された。外からは見えなかったが、奥の方にはフルサイズのケージが設置されているようだ。スケジュール表を見ると月水金の夜七時から総合クラスがある。総合か、総合ならば……。

 今日はちょうど水曜日で、時間ももうすぐ七時だ。いつものように真っ直ぐ帰りシャワーを浴びビールを飲むか。それとも予定を変更し練習を見学していくか。おれは揺れた。今さら格闘技を再開してどうなるのか。数年やってみて自分には向かないことが分かったはずなのに。

 それでも見学だけならばと思い、ジムを訪ねた。選手のミットを持っていたジムの代表はおれに愛想よくあいさつし、受付のスペースに案内してくれた。

「総合格闘技の練習を見学したいのですが」

「もう少しで始まるので、座って見ていてください」

 ジムの中は広く、リングとサンドバッグが設置された手前のキックエリア、ケージがある奥の総合エリアと分かれていた。キッククラスは地方のジムとは思えないほど盛況で、女の会員もちらほらいて華やかだ。老若男女が共に上達しようと汗を流す姿はまぶしかった。

 総合クラスもキックほどではないが人が多かった。高校から大学までの若者がほとんどで、三十代と思われる人はインストラクターを含め二人だけ。アップをやり、テクニックを少々やり、残りはスパー。MMAをやりたい人はケージ内で、寝技を練習したい人はケージ外で。やることはどこもだいたい一緒だ。

 最後まで見る必要はないだろうと思い立ちかけたところ、キックのミットから戻ってきた代表に「格闘技は何かやっていたんですか」と聞かれた。

「柔術を少し」

「うちはもともとキックだけだったから、寝技ができる人が少ないんです」

 もう一度スパーに目を向けると、確かに打撃の展開が多く、積極的に寝技を仕掛ける人はいない。タックルでテイクダウンに成功した人はこつこつパウンドを打ち、上をキープする時間をなるべく長くしようとする。下になった人はすぐ立ち上がろうとする。最初から現代の洗練されたMMAに親しみ、それを習えばこうなるのだろう。

 上はパウンドに夢中になってバランスが崩れている。おれならば下からいくらでも三角や腕十字やスイープを狙えるのに。

「入会してくれると総合の子たちが本当に助かりますよ」

「そうですか」

 首都で寝技を基礎からみっちり仕込まれたおれが人の役に立てるかも知れない。それが決め手となり、入会を決めた。

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