未来ある若者
田舎暮らしは都会では考えられない出費を強いられる。
十二月上旬に初雪が降った。初っ端からハイペースで、ずんずん積もった。溶けるまで会社には電車で通おうと思っていたが、すぐに次の雪が降った。温暖化の影響で雪が増えるとはどうしたことか。
不便だからスタッドレスタイヤに履き替えた。それだけで数日分の労働の対価が吹っ飛んだ。来年は車検も控えている。生活必需品なのに金がかかってしょうがない。
テレビの天気予報のキャスターは、今年は首都でもホワイトクリスマスに期待できますと嬉しそうに告げた。数センチの積雪で交通が麻痺するくせに呑気なものだ。
首都のクリスマスには一つだけ思い出がある。大学一年生のころ、おれは毎日のようにジムで練習した。それはクリスマスも例外ではなかった。あの年の十二月二十四日は修斗クラスだった。
当時は総合格闘技が普及してなかった。ジムもまだ寝技中心で、修斗クラスの参加者は普段から少なかった。イブの夜も練習したのはおれ、高校三年生、倉田さんの三人だけだった。レベルがバラバラだから、インストラクターの指示を受けながら基礎体力をみっちり鍛えた。腕立てや腹筋などの筋トレ、馬跳びをしてから相手の股を素早くくぐるを繰り返す運動、サンドバッグにひたすら拳を打ち込むサーキット。男たちの全身から湯気が立ち昇った。
休憩時間。インストラクターはリズミカルな音楽を流していたプレイヤーのCDを換えた。すると街でよく聞くような定番のクリスマスソングが流れた。きつい練習を終え放心したおれたちの耳にはこの上なく神々しく聞こえた。窓は熱気で曇り、真っ暗なはずの外が白夜のように薄明るく見えた。
男たちにもクリスマスは等しく訪れるのだ。
早いものでおれが実家に戻って一年になる。
今年のイブはちょうど金曜日だ。同僚の雑談によると、忘年会シーズンでもあるので、どこの居酒屋もレストランも予約でいっぱいだという。日々の生活に彩りを添えようと願う人や、たまに気晴らしでもしなければやりきれないという人は、西洋の休日を日本の田舎町に無理やり持ち込み特別な日にしようとする。大人になったおれには生憎、その必要がなかった。
十九日の日曜日。おれはすることもないので、またみっくんとセミールをぶらついた。店内はジングルベルが無限ループで流されていた。おれたちは二階の玩具売場に上がり、ベンチに座って話をした。
彼は親戚の説得に成功し、家を取り壊し駐車場にすることを決め、今は役場から徒歩圏内のアパートで一人暮らしをしている。
「みんな意外と聞き分けが良くてね。今はほら終活とか言って、自分が死んだあと子供に迷惑をかけてはいけないという意識が高まってるんだ」
「時代は変わったな。さっきも家でテレビをつけたら、コンパクトな葬式、がん保険、テレビショッピングとかのCMばかりで。見ていて気が滅入ってしょうがない」
「ありがとうおじいちゃん!」
おれたちの近くで、望みのプレゼントを買ってもらった孫娘が大喜びで祖父に抱きついた。
何の才能もなくても、あの祖父ぐらいにはなりたいものだ。子を立派に育て、少ない年金をこつこつ貯め、孫にサプライズを与える。最後の社会貢献として、孫が大きくなるまで世話をする。次の世代を支えることで自分に価値を見出す。おれにはそれさえ出来そうにない。
無性に寂しくなったおれはいきなり、みっくんの家に遊びに行きたいと言った。午後は酒でも飲み、ぐだぐだと話をしようではないか。
そこでおれたちは一階の食品売り場でつまみと酒を探した。そこは家族連れで大賑わいで、羽目を外した子供がお菓子や風船を手にし走り回っていた。レジ前も混雑していた。購入量が多く、セルフではなく人がいるレジに客が集中するためだ。列に並んでいる間も子供は落ち着かない。小さな男の子が後ろからおれの足にぶつかってきた。振り返ると、赤ん坊を抱いた若い母親が「すみません」と謝ってきた。
「いいんですよ」
「マナー! マナー!」
厳しい頑とした声。列の間を縫うように移動する高齢の男。初めは店員か警備員かと思ったが様子が違った。男は子供を見つけると接近し、たとえその子がお行儀よくしていても「マナー! マナー!」と連呼。「まったくなっとらん」と意味不明の捨て台詞を吐いてどこかに消えていった。
おれは自分の将来の姿を見ているみたいで背筋が寒くなった。
月曜は二日酔いし、電車で出社した。まだ頭がぐらぐらするせいもあるだろうが、社内の雰囲気がいつもより落ち着かないようだ。若い社員はそわそわし、パソコンとスマホの画面を代わる代わる見て、何かを入念にチェックしている。中年の管理職は、年内に終わらせるべきなのに中途半端になっている細々とした仕事を整理し、それを暇そうな部下に配る。そのせいでおれのところにも結構な量の仕事が回ってきた。おれはそれらを黙々と処理した。
今週はみんなよく働いた。どんなに忙しくても金曜日には定時退社するという共通の目標があったから。終業時間のベルが鳴ると、若い連中は椅子のバネの力を借りて勢いよく立ち上がり、会社を出て夜の街に消えていった。管理職はそれを見届けてから、ゆっくりとだが着実に帰る準備をし、家族が待つ自宅に真っ直ぐ向かった。おれは車でジムへ。今年は運動の予定があるだけでも良かった。
今夜も雪だった。冬になると練習に来る会員が減った。学生の多くが自転車やバイクを使うからだ。イブとあってはなおさらで、サンドバッグを叩く音さえせず、しんとしている。
総合クラスが始まっても、会員は数えるほどしかいなかった。おれ、星くん、数人の会社員。
インストラクターは星くんに、「彼女いないの?」と聞いた。
「格闘技がおれの彼女っすよ」
それから二人はしばらく話し込んだ。来年三月に初心者でも参加できる試合があるので、それに出ないか。アマチュアのうちは負けてもいい、試行錯誤だ。とにかく実戦経験を積むことが大切だ。それで普段の練習の取り組み方もガラッと変わってくるから。
「早く出たほうがいいよ。強くなってからなんて思ってると、いつまでも出られないから」と、おれも口を出した。
「◯◯さんは試合に出たことありますか?」と、星くんがおれに聞いた。
「おれのことよりきみのことだ。星くんは度胸があり、勝負強そうだからきっと勝てるよ」
雪で遅れた数人が加わり、ようやくクラスが始まった。少人数なので寝技の基礎の打ち込みを丁寧にやり、テクニックにも時間をかけた。スパーは三分総当たりで集中して行った。星くんは勢いとスピードがあり、寝技でおれのバックを取った。センスが光る子だ。頑張り続ければ行けるところまで行くかもしれない。
スパー後、おれは消毒液を染み込ませた雑巾で床を磨きながら、星くんに話しかけた。
「ここもいいんだけど、本当に強くなりたければ環境がいい首都に行くといいよ」
おれはタップアウトでの経験を語った。クラスが多いから、その気になれば同じジムで一日に三部練が可能。若い選手が多く刺激になる。有名な選手も出稽古に来る。外国人のコーチが最新の柔術やMMAを教えてくれる。
「行きたいジムの近くの大学に上がれれば最高だね」
「実は家計の問題で、進学できそうにないんです。卒業したら働かないと」
スポーツ万能であんなに輝いていた武くんなのに、今は一人息子を大学に通わせることさえできない。それならば、星くんが格闘技に打ち込んだところで、いったい何になるというのか。
何にならなくてもいい。若い情熱を一度でも燃やすことができたなら、それは死ぬ最後の瞬間まで心を温めてくれるはずだから。
「選手志望なら内弟子にもなれるよ。会費や大会の出場料は免除になるし、寮も安く借りられ、仕事だって紹介してもらえる。一人で生きていくだけで精一杯かもしれないけどね」
星くんは割とあっさりしていて、「まだ先の話ですけどね」と笑ってみせた。若者は移ろいやすい。たった一年の間で将来の目標をころころ変えてしまう。そうやって自分の可能性を模索するのだ。
「格闘技だけが人生じゃないからね」と、おれも笑って言った。
帰宅しシャワーを浴びても、おれはいつものようにゲームをやる気分になれなかった。ビールを飲みながらさっきの星くんとの会話を反芻した。柄にもなく偉そうなことを言ってしまった。自分の乏しい経験で若者に影響を及ぼそうなんて恥ずかしい。未来ある星くんからすれば、おれなんて燃えカスみたいなものなのに。もう生意気に説教するのはやめよう。若者は放っておいても勝手に伸びるのだから。




