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虎の威を借る狐

 快適な一人暮らしが始まった。

 日曜日。おれはリサイクルショップで必要な家電家具を買い揃え、店の軽トラックを借りて部屋に運び込んだ。それらをあるべき場所に設置し、背中と頭から汗をかくと、少しだけ気持ちが若返った気がした。中古だが4K対応のチューナーレステレビは、新品で買ったPS5のゲームを高画質で映した。

 ゲームは高校時代にPS2で卒業したはずだった。おれは大学に上がると、RPGの主人公の能力値を高めるよりリアルな世界で自分を磨く方が充実し、楽しいことを知った。年齢を重ね、伸びしろがなくなったおれがゲームに戻るのは、あるいは自然なことなのかもしれない。

 二世代ものブランクがあったおれは、最新のゲームに驚かされた。おれがのうのうと生きている間にもゲームは着々と進化していた。才能ある創作者たちは、おれのような平民を顧みず、今もぐんぐん先を歩き続けている。おれなんかには絶望する権利さえない。彼ら先駆者の進歩のおこぼれをもらうだけで満足するしかないのだ。

 ゲーム以外にも、おれはスーパー銭湯という新たな趣味を見つけた。休日に狭い部屋の掃除をさっさと済ませると、おれは車を運転して市内の浴場をめぐった。午前中は温泉に入り、昼は施設内のレストランで軽く食事し、午後はサウナで汗を流す。最後に体を洗い、更衣室で体重計に上がり、何キロ落ちたかを確認する。調子が良ければ二キロは落ちる。楽に汗をかき、まやかしの達成感を得る。痩せたと気を良くし、帰りにスーパーでちょっと高いビールを購入し、自宅でそれを飲みながらコントローラーを握る。何も不足はない。

 今年の梅雨は長かった。天気予報を見ると、梅雨前線が洗濯ロープのように列島の上空にぶら下がり、微動だにしなかった。

 社内に湿気が立ち込めた。床はキュッと鳴り、壁はびしょ濡れだった。おれは窓際の席に座り、たまに外の曇り空を眺め、またパソコンの単純作業に戻った。無能は無害でもあると理解した上司や同僚はおれを放っておいてくれた。彼らの眼中にない存在になれ、やっと一安心できそうだった。

 会社には小さな社員食堂があった。安くないくせに旨くもないので評判は悪いが、梅雨時だけは商売繁盛だった。おれはアジフライ定食を頼み、人が少ない目立たない席を選んだ。壁際のくすんだ色の観葉植物を見ながら、魚と米を代わる代わる機械的に食べていると、ガヤガヤと賑やかな集団がおれに近づき、周りに座った。

「ちわっす」

「座ってもいいっすか」

「どうぞ」

 隣の課の若い男三人組だった。

 彼らは仲間内で盛り上がりながら、たまにおれに話しかけた。仕事の経歴、首都の人気スポット、配偶者の有無など、おれにとって愉快な質問ではなかったので、すべて短く答えた。彼らは次第におれを無視するようになった。

「ところで昨日の試合見た?」

「見た見た。倉田すごかったよね」

「まさか秋元に勝った原口に勝つとはね」

「倉田さんは最初から強かったからな」

 おれがいきなり口を挟むと、三人組はきょとんとした。

「◯◯さんも格闘技見るんすか」

「見るって言うよりやってた。同じジムに倉田さんがいたよ」

「マジで!?」

 倉田さんはおれより一個上で、十九歳の時に首都のタップアウトというジムに入会した。柔道エリートの彼は、最初から柔術紫帯を圧倒するほどだった。すぐに打撃の練習も始め、センスが良いからメキメキ伸び、二年目でプロに昇格した。テレビ中継もある大晦日のイベントに出場し、その後海外トップの団体でも中堅相手に勝ったり負けたりした。その強さは今も健在で、国内の総合格闘技のメジャー団体に参戦中だ。

「寝技だけだったらスパーをしたこともある」

「おい橋本ちょっと来いよ! ◯◯さん、倉田のスパーリングパートナーだったんだって!」

 おれの周りに格闘技好きな男たちが集まってきた。大事になってしまい、おれは脇から変な汗をかいた。

 有名選手のスパーリングパートナーというと何やら伝説じみているが、実際にはどうということはない。倉田さんはいつもスパーの時間になってからジムに来るので、まずは準備運動が必要だった。女とか、おれみたいに体重が軽く力を使わない男とか。それで体をほぐしてから徐々に重く強いやつと練習した。

「じゃあ◯◯さんって、実はめちゃくちゃ強いんだ」

「見かけによらないなぁ!」

 おれが格闘技をやっていたという話は午後のうちに広まった。他部署のヒマな連中が続々とおれを訪ね、格闘技に関することを聞きたがった。おれは虚栄心に駆られ、彼らが喜びそうな業界の裏話を教えてやった。同じ部署の社員まで聞き耳を立てた。

「へえ、あの仲の悪い二人にはそんな因縁があったんすね」

 その日から周囲のおれを見る目が変わった。特に格闘技について無知な人ほど、何の変哲もないおっさんが実は柔術マスターで、ナイフを持った強盗などが現れてもたちどころに制圧できるといった妄想をたくましくした。おれを舐めていた人たちも、首都の名門ジムで有名選手と切磋琢磨したらしいというおれを恐れ、一目置くほどだった。

 虎の威を借る狐。悪い気分ではなかった。

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