何も生み出せないおれ
桜咲いたら一年生という歌があるが、小学校の入学式は桜が散った後の雪の日に行われた。水分をたっぷり含んだ雪は保護者と児童の真新しい靴を汚した。淀んだ空、黒や透明の傘、フォーマルな服装。まだ学校がどういう所か知らない子供たちやその親にとって、それは微笑ましい光景なのかもしれない。
おれが幻滅というのを初めて味わったのは小学校に上がった時だった。遊び中心の自由な幼稚園から、勉強中心で規則重視の学校へ。新しい環境や友達を得ても、幼年時代への別れが寂しかった。それでも数カ月たつと慣れ、幼稚園から心が離れていき、近所のスーパーで年長組の友達だった子と再会しても胸が踊らなくなった。どうせもうたまにしか会わなくなるのに、毎日一緒だったころの親しみを取り戻せるはずがなかった。
少なくとも九年間は学校に通う。社会が敷いた義務という名のレールは果てしなく長く見えた。
人生の半分を終えたおれは車を運転し、職場に向かった。
会社は市中央駅からそう遠くない所にあった。三階建てで、やや手狭な駐車場がある。おれは真っ赤な外車の隣に深緑の軽自動車を停めた。
おれという競争が激しい首都で長く勤めた中年の派遣社員は最初、警戒された。月曜の朝礼であいさつを終えると険悪ムードが漂ったほどだ。
しかし無能は長く隠せない。コミュ力の低いおれが自ら人に話しかけ、仕事を取りに行くことはなく、部長からの指示を待ちながら黄ばんだ社内規定をパラパラめくった。
部長は仕方なく自ら重い腰を上げ、おれの席に歩み寄った。
「今メールで送った資料、そうそうそれなんだけど、午後まで目を通して短くまとめておいてくれないかな」
「あ、はい、分かりました」
午後になると、おれは部長にまとめた資料を印刷して提出した。部長は「ふうむ」と唸り、首を傾げながら会議室に向かった。
初日でおれの評価はほぼ定まった。冴えない並以下の男。首都から新しい風をもたらしてくれると思っていた女性社員は、期待を見事に裏切られ、おれを見下した。おれに自らの存在を脅かされると思っていた男性社員は、不安を綺麗さっぱり払拭され、おれに侮蔑の目を向けた。
終業時間になった。それまで真面目に働いているふりをしていた連中は、ベルが鳴るとすぐパソコンの電源を切り、帰宅の準備を始めた。どうやら残業はないらしい。これは前の会社にはなかった利点と言える。入社したばかりのおれは遠慮し、十五分ほどボケっとしてから会社を出た。
帰宅するとすぐ夕飯だった。銭湯に行き汗を流す時間もなく、必死に働いたわけでもないので、ビールがいつもほど旨くない。
「仕事はどうだった」と父が聞いた。
「どうってことないよ。どこで働いたって同じことさ」
「やっていけそうなら良かった」と母が言った。
それからしばらく無言で食事をした。母はテレビへ、父は新聞へ。CMになると母は思い出したようにこう言った。
「じゃあそろそろ一人暮らしをするのね」
「うん。ぼちぼちアパートを探し始めるよ。ただ、まだ最初の給料ももらってないから」
「そうねえ。でもできるだけ早いうちにしてちょうだい」
母はおれをさっさと追い出したいようだ。新聞を読みながら聞き耳を立てている父も同じく。大きくなった次男が邪魔なのだろう。長男夫婦との新生活に向け、どこか浮ついているようでもある。
すぐアパートが見つからなかったら、迷惑料を毎月払ったほうがいいな。
食後、おれは湯船に浸からずシャワーで済ませ、パジャマに着替え物置部屋に引っ込んだ。酒をあまり飲めなかったから頭も目も冴えている。時間はまだ九時過ぎ。読みたい本はない。動画サービスは解約中で利用できない。寝るまで二時間ぐらいあるのにユーチューブを見るのも惜しい。小中高の頃の教科書や漫画などの古い本が入っている本棚の中で、真新しいプログラミング本の背表紙が嫌がらせのように光っている。
おれは結局、何も生み出せなかったな。人を楽しませる作品やサービス、暮らしを便利にするモノ、社会的な価値の創出。あるいはもっと直接的な子作りとか。そういったものとはずっと無縁で、生きていて恥ずかしい。
本当は何かを創りたかった。誰かを喜ばせたかった。それができれば中年男だって輝けるのに。
プログラミングのバカ。
入社後最初の土曜日、おれは実家の最寄り駅の近くにある不動産屋を訪れた。スマホで検索して初めてその存在を知った会社には、男の社長、男の平社員、女のバイトの三人がいた。建て付けが悪いドアを開け客が入ってきたというのに、三人は誰も反応を示さなかった。
「あのう」
おれが誰にともなく声をかけると、社長は面倒くさそうに電子書籍リーダーから顔を上げ、社員に「ほら」と対応を促した。
「ご要件は?」
「ワンルームのアパートを借りたいのですが」
「今はどこも一杯ですねぇ」
新生活を始める学生や会社員が借りたばかりで、しばらく空きを待つ必要があるという。
バイトがコーヒーを淹れ、社長、社員、おれの順にカップを並べていった。飲むと、舌がざらつくインスタントだった。
「できるだけ早く入居したいのですが」
おれは社員に言ったのだが、遠くの席に座る社長が「住所と電話番号はあるんでしょうね」と、うっとうしそうに言った。
「ええ、もちろん」
「ならいいんですが」
それからおれは社員の運転で物件めぐりを始めた。不動産屋と同じく、古く陰気でヤニ臭い車は、おれを名前だけはゴージャスなアパートに連れて行った。
三件目を見終わった後、おれは車内で社員にこう言った。
「ずいぶん古いんですね」
「ご希望の家賃上限ですと、どうしても四十年とかの築古になってしまいます」
「安ければ仕方ありません」
「家賃ばかり考えると、かえって損をしますよ。古い家は断熱性が悪く、日当たりばかりを重視するから、どうしても夏は暑く冬は寒くなります。電気代や灯油代も馬鹿になりません」
時代遅れで性能が劣るが、捨てるわけにもいかないから安く貸し出す。
どの物件も大差ないので、おれは六月から入れる「平和荘」を借りることにした。決め手は名前だった。バブリーなカタカナよりも平和が一番だ。
おれが実家と会社の間を車で行き来する間、世の中では時が流れていった。会社で新入社員歓迎会が開かれて間もなく、ゴールデンウィークに突入した。歓迎されたばかりの社員の一部が五月病でダウンした。新緑の季節。観光地はどこも家族連れや外国人客で賑わった。彼らが引き揚げ、日本列島が梅雨入りした。日陰でじっと耐えていたカビやらコケやら藻やらが日頃の鬱憤を晴らすかのごとく大増殖した。
おれが借りたアパートの壁紙にもカビが生えていた。不動産屋の社員にどういうことかと聞くと、「どうせすぐ結露して汚れるので」と平気で答えた。
こうしておれは汚れた下着を取り替えないような部屋に引っ越した。




