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諦められるか

 三月になり暖かくなってきた。地球温暖化の影響で、冬が終わるのが年々早くなってきたようだ。おれは車の窓を少しだけ開け、新鮮な空気を取り込む。

 人生で初めて手にした愛車。昔なら電車で市中央駅に行くか、自転車でショッピングセンターに行くので精一杯だったが、今ならその気になれば県外にだって行ける。

 おれはもっぱら市内を運転した。むかし親に連れて行ってもらったことのあるデパート、レストラン、神社、運動公園などの位置を把握した。それらの点と点が線で結ばれ網になった。狭苦しいと思っていた地元の社会が急に広がった。首都の満員電車に揺られながら、それでも田舎よりはマシとしていた優越感は何だったのか。

 暖かくなると、おれは家の近くの銭湯に通い出した。家だと何かと遠慮があり、また浴槽も小さく足が伸ばせないからだ。

 古い公衆浴場は馬鹿みたいに熱かった。感覚が鈍い高齢者に合わせている、これといった効能がないから熱さでごまかしているという二説がある。とにかく、しゃぶしゃぶみたいにサッと入ってサッと上がるのが粋らしい。銭湯は生活の一部。旅行客みたいにぬるま湯にちんたら入っていたら時間がいくらあっても足りない。早く帰って酒を飲むのだから。

 おれは風呂上がりにリビングで缶ビールを飲むのが習慣になった。人生最後の春休みを満喫しようとしていた。

「いい身分だな」と、仕事から帰ってきた父がおれに言った。

「今だけだからね」

 ビールをグイとやると、急に思い出したかのように汗が噴き出した。

 母が料理を食卓に並べた。昔ならば食事前に「いただきます」と言うように強制されたが、今は何も言わず各自の好きなタイミングで食べ始める。兄が去り、おれが去った後、夫婦は行儀作法よりも効率重視の生活になったのだろう。父は新聞を読み、母はテレビを見る。会話はない。二人はそれが自然なのだろうが、おれは居心地が悪い。

「最近銭湯に行ってるみたいだけど、吉田くんを見かけなかった?」と、ようやく母が聞いた。

「いいや、どうして?」

 吉田光雄、通称みっくんは小中学校の同級生で、よく相手の家に遊びに行く仲だった。

「やっぱりお父さんが亡くなってからは銭湯に行かなくなったのね」

 みっくんは仕事を終えると、父の車椅子を押して銭湯に通った。甲斐甲斐しく父を介護する姿は、しばしば近所の人に目撃され、今どき感心な孝行息子と評判だったという。

「町役場で働いてるから今度会いに行ってみな」

 おれも公営住宅について問い合わせたかったから、翌日さっそく役場に行った。

 数年前に建て直されたばかりの役場は新しかった。広い駐車場には噴水と裸婦像まで据えられていた。役場に併設されている公民館には立派な体育館があり、年寄りたちがジャージ姿で太極拳を練習していた。悠々自適の老後といったところか。おれが年寄りになる頃には、老後なんて死語になり、終活という言葉しか残っていないことだろう。

 みっくんに会うより先に用事を済ませることにした。おれは役場の二階の住宅課に行き、担当職員から話を聞いた。本市勤務先、所得制限、暴力団員でないなどの要件は満たしているが……

「扶養親族はいらっしゃいますか」

「いえ、おれ一人です」

「近いうちに結婚のご予定は?」

「いい相手がいれば。役場で紹介してもらえるんですか」

 職員はおれの冗談に笑い、県が主催する婚活イベントのパンフレットを見せてくれた。参加要件は公営住宅に似ているが、年齢は三十九歳までと厳しい。

「おれもう四十なんで無理っすね」

 おれたちは真面目な話に戻った。

「単身者の場合は原則的に六十歳以上となっております」

「そこをなんとか。空きはないんですか」

「それがどこも一杯で」

 最近はアパートの大家が孤独死を恐れて、独り身の年寄りに部屋を貸したがらず、公営住宅に流れてくるのだという。ずらりと並ぶ同じ形の墓石みたいな建物は、配偶者も子も孫もいない寂しい年寄りがじっと静かに死を待つ場所。

「じゃあおれは遠慮しときます」

 おれより苦しんでいる人がいる。でもこのままではおれも将来確実にそうなる。おれは妙な危機感を抱き住宅課を離れ、一階の住民福祉部にいる旧友に会いに行った。

 カウンターの奥で働いている、禿げて中年太りした落ち着いた男性が、あのみっくんだとは到底思えなかった。だが向こうはすぐにおれと気づき、名前を呼んでくれた。

「本当にみっくんなのか?」

「久しぶりだね」

 ちょうど昼休みになり、外で食事しながら話をすることにした。役場と道路を挟んで対面にあるラーメン屋は、おれたちが子供の頃からあった。通学時と下校時はいつも店を閉じているので、いつ潰れるんだろうと勝手に心配したものだったが、狭い店内は客で賑わっていた。

「ここはとにかく安いんだ」

 年金をもらっている老夫婦は本来働かなくてもいいのだが、生活に張り合いがないとすぐ老けるとのことで、今も店を続けているという。

「光雄くん、いらっしゃい」と、女将さんが元気よくみっくんに声をかけた。

 おれたちは醤油ラーメンを注文した。みっくんは水を一気に半分も飲むと「ふう」と一息つき、熱いタオルで顔をゴシゴシ拭いた。

「貫禄がついたね」と、おれは彼に言った。

「いやあ恥ずかしい。きみはぜんぜん変わらないね。ずっと若く見えるよ」

「若いというより人間的に未熟なだけさ。ずっと平社員だったから。みっくんが地元で責任ある仕事をしているなんてすごいと思うよ」

 彼は照れ笑いをし、手を頭の後ろに添えた。その仕草は昔と変わらない。学級委員に選ばれた時もそうだった。

「お父さん、亡くなったんだって?」

「去年ね。気持ちの整理がつき、暮らしもようやく落ち着いてきたところ」

 みっくんには母親がいなかった。たぶん離婚だろうが、直接聞いたことはない。子供だって「親しき仲にも礼儀あり」を知っているのだ。

「そうかそうか。じゃあこれからは自分のために生きないと」

「自分のため。それってどうすること?」

「なんか趣味を持ったり、友達と遊んだり」

「子供みたいだね」

「そうさ。よかったら今度、一緒に遊ばないか」

「スーファミでもやる?」

「まさか。どっか遊びに行くのさ。旅行なんてどう?」

「おれ県外に一度も出たことないんだよ」

「いい機会だ。ぜひ一緒に行こう」

 話が弾んできたところでラーメンが届いた。分厚いチャーシューが何枚ものっているので、「頼んだのは醤油ラーメンですが」と確認したが、これでいいという。値段は驚異の六百八十円。

 みっくんは丁寧に手を合わせ、「いただきます」とささやくように言った。おれも言葉だけ倣った。

 ラーメンは美味かった。化学調味料だけではなく、ちゃんと醤油の味がする。店舗兼住宅で暮らす年金受給者にしか出せない味と値段だ。

「これでは他の店で働く若い世代が迷惑するな」と、おれは小声で言った。

「でもこうして若いお客さんに還元してくれるんだから」

 その発想はなかった。おれは素直に「なるほど」とうなずいた。

「ところでどうして地元に戻ってきたの?」

 みっくんを相手に適当な答えはしたくなかった。

「ふと心の中で緊張の糸が切れたんだ。朝起きて、おれもそろそろ四十だなって思ったら、涙が止まらなくなった。テレビをつければおれより若いのに立派な連中ばかり。おれはもう負けたんだ、ハナから才能なんてなかったんだ、誰もおれのことなんて気にも留めないんだ、だったら無理しても意味ないなって。諦めるのは苦しかった、特に生きる情熱と向上心を持ち頑張ったことのある首都では。おれはすっかり諦めるため地元に戻ってきたんだ」

「それで、諦めはついたの?」

「分からない。でも痛みを忘れ、落ち着いてきたと思う。その点やっぱ地元はいい。別に仕事を頑張らなくても、こうして知り合いやその家族からはおれだって認めてもらえるしね」

「落ち着きすぎて動くのもおっくうになるよ」

「だからたまには旅行しようって」

「ぜんぜん諦めてないじゃん」

「人生楽しもうってこと。楽しみを求めて生きる権利は誰にだってある。なぁ、ぜひ行こうぜ」

 おれたちはラーメンを食べ終え、連絡先を交換してから店を出た。横断歩道を渡るみっくんの脇腹が揺れる。ずっと座る仕事をしているからか、昔より猫背になったようだ。一つの仕事に特化した人の姿。

 みっくんも独身だった。父親にベッタリの一人息子だから女が敬遠したのだろう。おれはもういいけど、彼にはもう少し可能性を探ってみてほしい。

 三月の最後の土曜日、おれとみっくんは男二人で隣県の温泉旅館に泊まった。特に何かをしたわけではない。温泉街を散策し、旅館で卓球をし風呂を浴び、ちょっと贅沢な料理を食べただけ。修学旅行のような非日常的な気分で。みっくんは熱燗を二本飲んだだけでひっくり返った。おれは彼の豪快ないびきを聞きながらテレビのニュースを見た。世界のどこかでまた戦争が起きている。生きるか死ぬかで精一杯ならば、おれのような贅沢な悩みを持つ余裕はないのだろう。

 さて、来週からは新生活か。

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