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ずっと逃げてきたから

 誰も待ちわびていないのに、梅雨入りは例年より早かった。馬鹿の一つ覚えのように毎日雨が降った。家の玄関、スーパーやコンビニの床、広げた傘などから湿った不潔な匂いが漂った。トレーニングウェアは干しても生乾きで、自分と他人の汗と洗剤が混ざった複雑な匂いがした。

 梅雨はとにかく窮屈だ。外を歩くならば傘という小さい屋根の下からはみ出さないよう細心の注意を払う。車に乗るならば雨の音がやかましくラジオや音楽が聞こえない。

 おれの愛車は低気圧で関節痛になり、また整備工場に入院した。もう相当長い距離を走っているので、徹底的に壊れるまでだましだまし乗るしかないという。代車はもちろん急には出なかった。おれはやむなく電車を使うことになった。

 梅雨時で不快指数が上がるのに電車は相変わらず三両編成だった。晴れていれば自転車で通う学生も乗るので、いつも以上に人口密度が高かった。イヤホンをつけスマホを見る人々の頭が波のように揺れ動いた。

 首都と同様、乗客はドアの近くに立ちたがる。首都ならば自分が降りない駅でも、降りる人にスペースを空けるため一旦降りて乗り直すものだが、この町の乗客にそんな流儀はなかった。だから電車がゆっくり構内に入ると車内の緊張感が最大限に高まり、ついにドアが開くと押し合いへし合いが生じ、殺伐とした空気になる。おれは中央駅で降りる時、男子高生に横からグイと押された。それだけならいいのだが、男子はさらに悪態をついた。

「くそオヤジどけ」

 おれはそいつの襟カラーを後ろからつかみ、改札に向かう人の流れから引きずり出し、手頃な柱に押し付けた。

「てめえなんか言ったかこら」

 梅雨の満員電車でイライラしていたのと、試合前で気が立っていたので、おれは見境なくブチギレてしまった。柱には小学生が描いたような、非行防止のポスターが貼られていた。

「す、すみませんでした」

 よく見ると真面目そうな、普通の男子高生だった。弱っちいくせに、おれになら勝てると舐めてかかったに違いない。そう思うとますますムカついてきた。のどを締める右手の力が強くなっていった。

 男子はおれの手を叩いた。脳内で「ピピッ」という電子音が鳴った。おれはハッとし、手を放した。

 駅から会社に向かう途中、おれは傘の下で「大人げなかったかな」と思った。しかしさっきの男子にとってはいい教訓になっただろう。本当にヤバい大人より先におれに遭遇できたことは幸運だったはず。おれは若者のために良いことをしたのだ。そう無理に自分に言い聞かせても不快感は拭えなかった。自分の悪しき深淵を覗いてしまったかのように。

 覗き続けるべきか、目を背けるべきか。おれは自分にむしゃくしゃしながら会社への道を歩いた。

 試合に出るとなると、世界のすべてがおれを中心に回っているような錯覚に陥った。実際に、手の届く範囲内にいる人のほとんどが、おれが来月下旬に戦うことを知っていた。みっくん、ジムの会員、会社の同僚。両親は含まれなかった。

 彼らにとってはおれの試合なんかより、新居のほうがよっぽど重要だ。近くに住んでいるみっくんの話によると、取り壊しはすぐに終わり、基礎工事が始まったという。

「看板には十一月に竣工って書いてあったよ」

「へえ、意外と早いんだな」

「見に行ってみたら?」

「おれには関係ないよ」

「そろそろ試合でそれどころじゃないよね、ごめんごめん。ぼくは必ず応援に行くから」

 休みなく降り続けたせいでガス欠したのか、梅雨明けは例年より早かった。

 朝早くから太陽が押しつけがましくギラギラ輝き、湿っていた万物から容赦なく水分を奪った。地表の水分が上空に戻り、まとまって入道雲になり、地表に降り注ぐ。晴れ、にわか雨、雷。調子に乗ってアイスやかき氷を食べ過ぎ腹を下すように。夏はどうしてこう子供っぽいのか。

 試合一週間前となった。最後に強めのスパーをやり、残りは体重やコンディションの調整となる。おれは勝つイメージをつかむため殺気ムンムンになり、試合に出ない一般会員を強めに殴り、首を絞め、腕を極めた。「一本取られちゃった」とおどける人、「お願いします」とグローブを合わせ丁寧ぶって時間を稼ぐ人、おれの強い反撃を恐れただガードを固める人。おれは確かに強くなり、彼らとは違う存在になったのだ。

「いやあ、私はそこまで自分を追い込めませんよ」

 残りの一週間はテクニックだけを練習した。おれは共に試合に出る仲間たちと寝技や組技を確認し合った。近藤くんはエビすらもぎこちなかった。

 おれは心配になり、苦言を呈した。

「寝かされたらどうする?」

「大丈夫です。おれには打撃がありますし、組まれても腰が強いから倒れませんよ」

 そう言って負けていった人間をおれは嫌というほど目にしている。しかし今から付け焼き刃で寝技を練習しても間に合わない。近藤くんにとってはほろ苦い初戦になるかもしれないな。

 他人よりも自分の心配を。いや、心配はやめよう。おれは勝つんだから。

 試合当日は朝早くに目が覚めた。体重計に乗ると、数百グラムのオーバー。おれは水を一口だけ飲み、馴染みのスーパー銭湯に行った。

 日曜日の朝はそれなりに混んでいた。平均年齢が高い時間帯で、四十一のおれでも若いほうだった。不摂生がたたり不健康な体になった現代人たちはサウナと水風呂でデトックスを促進していた。彼らの突き出た腹、それとは対照的に細い手足を見ながら、おれは優越感に浸った。おれはついに試合に出る。そのため最後に汗をかく。おれは別格なのだ。

 計量一時間前なのにジムの駐車場は満車だった。おれは仕方なく会社の駐車場を使った。休みなのに車が数台停まっている。他人の日常はおれの非日常であり、逆もまた然りだ。おれはここから、自分が生きるべき世界へと向かう。

 近県からの出場者やその関係者が集まり、ジムは手狭に見えた。中には子供もいて、ケージ内を走り回ったり、金網をよじ登ろうとしている。女たちは手作りの弁当を広げ談笑している。彼ら彼女らにとっておれたちの試合は物見遊山。おれは自分の家に土足で上がられたような気分になった。

 おれたちゼロプラスワンからの出場選手はインストラクターの周りに集まった。一番緊張していたのはおれで、残りの人たちはリラックスし冗談を言い合った。

「シャドーを見ただけで打撃が苦手だって分かるな」と、近藤くんがある人を指さして言った。

 計量が始まった。おれたちは難なくパスした。それから試合が組まれていくのだが、おれが出るフェザー級でトラブルが発生した。他の出場予定者が、急な事情や体調不良を理由に欠場し、おれと近藤くんの二人だけになってしまったのだ。

 試合の主催者側はおれと彼に、「同門対決になりますがよろしいですか」と確認した。

 それじゃあ意味がない、普段の練習と同じじゃないかと思ったが、近藤くんは「構いません」と即答した。

 まさか同じジムの若い子と本気でぶつかり合うことになるとは。

 ジムの関係者の間で不穏な空気が漂った。インストラクターも選手も急に会話が減り、おれや近藤くんの顔色をちらちらと伺った。近藤くんは誰にともなく、「関係ないっすよ」と繰り返した。

「おぉ、いたいた!」

 会社の渡辺くんが格闘技好きの同僚や彼女を連れ応援に来た。なるほど抱くなら女と思えるぐらいの美人だ。その女性はおれを偉い人と勘違いして丁寧にお世辞を言った。

「仕事ができてしかも強いなんてかっこいいですね」

 渡辺くんはジムの中で手頃なスペースを見つけ、仲間たちと共に座った。おれには彼らの姿がひどく遠く見えた。

 それから少したってからみっくんも巨体をゆすり駆けつけた。運動でついた筋肉が贅肉に戻り、前よりまた一回り太ったようだ。彼は顔なじみの会員と軽く話をしてからおれの所に来た。

「同じジムの子とやることになったんだって?」

「そうなんだ」

 みっくんはおれの隣にどっしりと座り、息をついた。

「やりづらいね」

「ああ」

「気持ちを切り替えないと」

「そうだな」

 初めて会う他人を憎み、殴る蹴るの暴行を加えるだけでも無理があるのに、普段から練習している仲間をぶっ飛ばせるほどおれはイカれていない。しかもおれは活きが良い近藤くんのことが好きだし、限りない可能性を秘めた頼もしい若者だと思っている。おれみたいな人生下り坂の男が怪我させてはならない。

「正直もう帰りたい。おれには試合なんて無理だったんだ」

 おれは今までの人生ですべての競争から逃げてきた。マラソン大会でみっくんとビリ争いをした時、おれたちはどちらもヘラヘラ笑っていた。理由は周りが思っているような「走るのが遅くて恥ずかしいから」ではない。相手を負かしてしまうのが怖い、そんな弱い気持ちを隠すためだった。

 受験戦争にも参加しなかった。みんなが血眼になって争う姿が怖かった。おれは人の少ない、競争の少ない方へと進んだ。そんな片隅は田舎ではなく首都にあった。落ちこぼれ。人が捨てたカスを拾うドブネズミ。

 就活や仕事だってそう。おれは他人を蹴落としてまで社会でのし上がりたくなかった。僕にその手を汚せというのか。おれには尊い理想も大きな野望も人並みの度胸もなかった。

 みっくんはまた大きく息をし、「きみもやっぱりそうだったか」と言い、こう続けた。

「だったら負けてこいよ。きみは彼の肥やしになるんだ。それなら少しは有意義だろう」

 フライ級の第一試合が始まった。おれはジム関係者から離れた所で、みっくんと肩を並べ試合や観客に目を向けた。近藤くんは自分の試合が迫っているというのに、ケージ内で戦うジムの仲間に声援を送っている。気負った様子はない、運動会のように。彼はおれより若いが、今まで部活などを通じ何度も競争に勝ってきたのだろう。おれは彼の敵ではない。

 おれなんかが試合に出ては対戦相手に失礼だ。

 おれはもう負けることを決めていた。それが見え透いていてはならない。近藤くんや、試合に向けてサポートしてくれたジムのため、おれはまことしやかに負けるべきだ。それならば誰よりも得意なはずだろう。逃げ続け、弱さを否定してこなかったのだから。それがおれの本性だ。

「さて、そろそろ行くよ、みっくん」

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