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ハローワールド

 あれから一年以上になる。無駄に歳を重ねてもう、四十二だ。

 派遣の契約が更新されず、おれは無職になった。公営住宅に申し込んだら、なんと通った。おれは外壁が剥がれ落ちた、見ているだけで気が滅入るような無機質な建物の一室に引っ越した。

 伸び放題の雑草、使う者のいないブランコ、ベランダに干されている股引、敷地の外に広がる新興住宅街。おれはここで死ぬのだろうか。ここで死なせてくださいお願いします。

 おれは近くのスーパーでバイトをした。利用客は、日中や昼間は年寄りが、夕方や夜は現役世代とその子供が多かった。おれは半自動化されたセルフレジを見張る仕事だった。機械を上手く使いこなせない人を機械に従わせる機械となったおれ。

 これがおれという人間の行き着く所。上手く言い換えれば最適解。正直、快適ではある。少なくとも今のところは。

 夏のある日。おれは仕方なく実家とはもう呼べない新居を訪れた。体格がほぼ同じ父から喪服を借りるためだ。

 二世帯住宅で広くなったはずなのだが、兄嫁の趣味で生活スペースをやたら細かく仕切るので、窮屈な印象を受けた。玄関で靴を脱ぎリビングに通されるまで、おれは他の部屋の中を見れなかったし、生活臭も感じられなかった。

 父と母が喪服を探す間、おれはリビングで兄と向き合った。兄はおれが持たないすべてを持ち、貫禄があった。それは背負うものの重たさがつけるものだった。

 おれたちに共通の話題はなかった。今も昔も。おれとは違い、一度も脱線することなく人生を歩み続け、そのまま先祖代々の墓に向かおうとする兄と何を話せというのか。

 兄嫁がお茶を淹れてくれた。ようやく気づいたのだが、お腹がかなり大きくなっている。

「実はまた子供ができたんです」

「それはよかった」

「どうも女の子らしいんだ」

「男の子と女の子が一人ずつ。すばらしいね」

「ええ本当に」と、リビングに入ってきた母が言った。

「また孫ができるんじゃあ、父さんも母さんもまだまだ老け込んでいられないね」

「生きる張り合いができて助かるわ」

 父は真っ黒いスーツを後ろからおれの肩に当て、「ところでどうして喪服が必要になったんだ」と聞いた。

「大学時代の恩師が亡くなって。首都まで行ってくるよ」

 当時は教授としては若い先生だった。ずっと独身で子がなかった。七十二歳で、大学の研究室で静かに息を引き取ったという。

 加齢臭と線香の匂いが染み込んだ喪服を着ながら、おれは首都郊外の葬儀場を訪れ、懐かしい先生の遺影に手を合わせた。なりたかった自分というものがあるならば、おれの場合はこの先生を指すのだろう。

 おれはまっすぐ帰らず、少ない荷物を駅のロッカーに預け身軽になった。首都の交通網は昔と比べあまり変化がなく、おれはほとんど迷うことなくタップアウトがあった雑居ビルを訪れたが、そこの管理人にこう言われた。

「最近移転したばかりなんですよ」

 スマホで調べ、五分ほど歩き、目的地にたどり着いた。時間は午後二時半ごろ。ジムの外には大量の花輪が飾られ、格闘技界の有名人の名前もちらほら見られる。中は何かのイベント会場と見紛うほどおしゃれだ。

「見学者の方ですか」

 外で突っ立っていると、中から人が出てきた。会長。もともと老け顔のせいか、初めて会った二十年以上前と比べほとんど変わっていない。謙虚で腰が低いが、気さくで芯が強く、人望がある人。格闘技で華々しいレコードを残しているわけではないが、その人柄を慕い、今も多くの前途有望な若者がジムの門を叩く。

「きみはまさか……」

 なんと会長はおれなんかのことを覚えていてくれた。目立たないけど毎日練習に来ていた人間として。

「あの頃は学生だったのに大人になったなぁ」

「会長はお変わりなく」

「立ち話もなんだから中にどうぞ」

 おれたちは受付のスペースに座った。会長は新ジムと新体制にかける思いを熱く語った。最高の設備を導入し、優秀なコーチ陣を招聘し、さらに寮では栄養士が指導する三食やサプリメントを提供する。すべては選手のため。

「若者に夢を託すんですね」

「違うよ。選手に勝って、喜んでもらうのがおれの夢なんだ」

 会長の目が少年のようにきらりと光った。当時今のおれより年下だった会長はすでにジムを構える一城の主で、今の会長はおれより年上だがずっと若々しく輝いている。常に前を見て、次の目標に立ち向かう。

 おれはタップアウトを退会した後のことをざっと話した。

「いったいおれはどこで踏み外したんでしょうかね」

「踏み外したら踏み直して踏ん張らないと。でないとずるずる落ちてくばっかだよ」

 おれがその言葉を胸に刻んでいる時、誰かがジムのドアを開き入ってきた。

「こんちわっす」

 聞き覚えのある声、見たことのある横顔。

「ほ、星くんかい?」

「お久しぶりです」

 彼は着替えながら今までのことを語ってくれた。初戦敗北後、変わらなければと思い詰めた彼は、高校を中退し親に勘当され首都にやってきた。

「◯◯さんからタップアウトの話を聞いて、いいなぁと思ったんです。ジムのホームページを見て会長に連絡したら、やる気があるなら大歓迎。たとえ格闘技で芽が出なくても、人生を充実させるため全力でサポートするって。それで今は寮で暮らし、ジムの初心者クラスを教えたり、整体院で勉強しながらバイトしてます」

 やや疲れているが満ち足りた笑み。会長はこれが見たいのだろう。

 三時からプロ練が始まった。ジムの所属選手、出稽古の人、それから星くんという見習い。会長の指導でテクニックをやり、選手同士でやりたい技を打ち込み、スパーに入る。星くんは自分より格上の相手に果敢に挑み、返り討ちにあっても何度も立ち上がり、必死にタックルで食らいつく。一ミリでも上に登ろうと懸命に。

 おれは見ていて恥ずかしくなった。ここに集まった人たちの百分の一も生きていない自分が。

 たとえ見学でもおれにはここに一分一秒も長く留まる権利はないと思い、スパーの短い休憩時間に会長や星くんに別れを告げ、今や建物ごと変わってしまったタップアウトを永遠に後にした。

 おれは夜遅く、故郷の田舎町に帰ってきた。

 公営住宅内の敷地は闇に包まれていた。もともと少ない外灯の半分近くが壊れているからだ。建物の階段や通路にはコウモリの糞が散乱している。首都から戻ってきたばかりだと、そういった住環境の不備が嫌でも目につく。慣れてしまう前になんとかしなければ。

 もう夜だというのに、おれは部屋の中で落ち着かなかった。今の自分にできることを見つけようと躍起になった。とりあえず掃除だ。手垢で汚れた冷蔵庫を拭き、一度も湯を張ったことのない浴槽を磨き、ホコリをかぶった家具を水拭きする。他にできることは? おれはゲーム機から無理やり目を離し本棚に向けた。古い実家から救い出したプログラミング本の背表紙が、おれを誘うように、あるいは挑みかかるように、白い光沢を放っている。

 おれはその手触りを確かめたく、手に取った。ひやりとし、すべすべした。大学生のころ、未来に大きく羽ばたこうと手にした参考書のように。ずしりとした重み。これならば毎日少しずつでも学び、こつこつと数年続ければ、何かが身につくのではないか。おれだって何も手を打たず、ただ死ぬのを待っているだけではないという、生きる言い訳になるのではないか。

 おれは本を開き、ノートPCを立ち上げた。環境構築からやり直し、ツールの四角い枠に「ハローワールド」のコードを書き、実行する。やはりエラー。前回とまったく同じことをやっているから結果も同じ。しかしおれは根気強く「踏み外したら踏み直して踏ん張る」を繰り返し、エラーの解消に一歩ずつ近づこうとした。

 こんにちは世界、こんにちは世界。おれはまだ諦めたくないよ。

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