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決断

 今年もまた桜の季節になった。

 おれたちの町にはこれといった桜の名所がない。そのおかげか、新入社員が前日からシートを敷き場所取りをするという悪習もない。会社単位ではなく、家族や友人などの親しい人と、川沿いや山の公園などの何気ない場所で花を愛でる。大げさなイベントではなく春の生活の一部。月見と同じく静かに、少しだけ厳かに。

 首都で花見をしたのは一度だけ。大学時代のことだ。

 おれたち四年のゼミ生は平日の昼に花見に出かけた。校門からバス一本で行ける緑地公園は穴場で、鏡のように美しい池の周りに樹齢の古い桜が何本も生えているのに、他に人はほとんどいなかった。おれたちは池のそばにシートを敷き、贅沢に桜を満喫した。

 若いから花より団子だった。おれたちはめいめい持ち寄ったお菓子やつまみを食べ、慣れない日本酒を飲んだ。酔うとあらゆる感覚が鈍り、声も動きも反応も大きくなった。おれたちは冗談を言い、大げさに手を叩いて笑い、下手な歌をうたった。太陽がだんだん眩しくなり、目を細めると眠くなってきた。おれは木陰に移動し、草の上に横たわった。

 シートに座っている人はもういなかった。ベンチに座り飲み続ける男子、あずま屋に移りおしゃべりをする女子、いつの間にか消えた一組の男女。

「おつかれー」

 おれの隣に仲村という女が座った。彼女は大きく伸びをすると、「いい所だね」と言った。

「きみも横になるといい」

「そうだね」

 おれたちはしばらく無言でそうしていた。あちこちから若者たちの歓声が上がる。特に女子の甲高い声が目立つ。男が追い、女が逃げる。春の午後の日差しは危険なほど温かかった。

「すー、すー」

 仲村は眠ったようだ。おれは彼女の顔を観察する。大学から出たことのない内気な教授のゼミに集まった学生の中では美人な方だった。呼吸と共に胸が起伏し、木漏れ日が揺れ、静かな海のようだ。おれは安心した。

「うぅん」

 仲村は寝返りを打ち、おれに身を寄せた。彼女はおれの耳元で酒の匂いがするぬるい息を吐いた。それは何度も何度もおれに打ち寄せた。徐々に意識が遠のき、おれは眠った。

 目が覚めるともう四時だった。春の夕方は寒く、おれの体は芯から冷え切っていた。酒を飲まなかった女子が中心になり後片付けをしていた。おれも慌ててそれに加わった。仲村の姿はなかった。

 あれはおれへのアプローチだったのではないかと気づいたのは数日後のことだ。その後、おれは何度も何度も思い出すことになる。おれが女に接近した唯一の時として。

 おれは自分から飛躍できない男だった。

 春は過去を思い出す季節で、それ以上に今を見つめ直す季節でもある。

 会社の所属部署に新入社員が男女一人ずつ配属された。新人研修で仲良くなったようで、もう付き合っている様子だった。彼らは常に二人で行動しようとした。上司も先輩社員も、それをどうすることもできなかった。

「いつまでくっつき続けるか賭けようぜ」と、二十代後半でお調子者の男が言った。

 ゴールデンウィーク明けという見方が最有力だった。それまでに職場でもっと魅力的な相手を見つけるか、新生活に伴い心境が大きく変化し別れるか、どちらかが五月病で脱落するか。

「どう思いますか」と、おれも聞かれた。

「二人同時に退社。会社を共通の敵として。その後は分からないけど」

 二人は連休中、旅先の韓国から上司にスマホで辞表を提出した。

 ジムも四月に多くの人が入り、五月にその多くが出ていった。

 おれはインストラクターから体験の人や新しい会員の相手をするよう促された。休憩中やスパーの合間、おれは彼らに基礎的な動きを教えた。そのすべてが首都で教わったものだった。おれは今ゼロプラスワンにいるが、基準はいつまでもタップアウトだった。青春時代を送った場所の方に愛着が湧くからだ。

 多くの社会人と違い、おれは教えるという経験がまったくなかった。だから最初は、自分ではなんとなくできる、分かったつもりになっていたことを体で示し、言葉で伝えることは実に困難だった。相手もきょとんとし、反応が芳しくなかった。おれは自分のせいと反省し、初めて指導する側の立場として教則動画を見直し参考にした。すると教えることがだんだん上手になり、相手もめきめき伸び、手応えを感じられるようになった。教えると自分が成長するとは本当だ。おれは自信をつけた。

 おれは水曜と金曜しか来ないが、近藤くんという大学一年生は入会すると毎日、キックも総合も練習していた。どうせ長続きしないだろうと思っていたが、最初の一カ月を乗り切り、ジムにも定着してきた。若い頃のおれを見ているようで好ましかったが、彼の目標は毎日練習することではなかった。

「試合っていつになったら出られるんですか」

「も、もう出るつもりなの?」

「はい。練習する意味がないんで」

 何気なく言ったつもりだろうが、それはおれへの痛烈な皮肉だった。無意味なのに漫然と練習を続けている中年男。今のおれには軽く聞き流すことができなかった。

「向上心があるのはいいことだけど、もうちょっと基礎を練習してからじゃないと。アマチュアとはいえ一応ジムの名前を背負って出場するんだし」

「それもそうですね。ちょっと代表と相談してみます」

 代表もおれと同じように軽く説得したが、聞かないと見ると、あっさりオーケーを出した。

 近藤くんが出るとなり、もっと先に入会していた会員たちも次々と出場を決めた。さらに三十代の会員も二人続いた。

「おれは、少し考えさせてください」

 そう答え時間稼ぎしている間、おれは相当に苦悩した。試合に出る会員に偉そうに技を教える資格はないという負い目を感じながらゼロプラスワンで残りの格闘技人生を送る惨めさと、試合に出ることの辛さや怖さなどの苦痛を天秤にかけると、それはその日の時間帯や天気や気分によって大きく揺れ動いた。この歳になって恥ずかしいことだが、おれは人生の大きな決断を迫られていた。

 よし出ようと思えば、敗北や骨折などの悪いことを想像し、テンションがガタ落ちに。やっぱりやめようと思うと、テンションが谷底から一気に絶頂に駆け上がるが、そこを過ぎると長い長い下り坂に入り、ゆっくり死に向かう。やっぱり出ようとすると生き返り、一時的に安心するが、すぐ塞ぎがちに。

 出ても出なくても苦しむならば出ればいい。そんな簡単なことになかなか気付けなかった。そうするうちに季節はまた梅雨を迎えようとしていた。

 おれはスパー後で気持ちが高揚しているうちに、代表に「おれもエントリーしておいてください」と言った。わっと声が上がり、おれは出場する会員たちから歓迎された。

 酔っぱらいと同じで、吐いちまったほうが案外すっきりするものだ。覚悟を決めると気が高ぶった。職場にいる時から夜の練習が待ち遠しくてならなかった。じっとしていられず席を立つことが増えた。

 トイレで用を足す時、隣に人が並んだ。渡辺くんだった。

「格闘技最近どうですか」

「それが今度、試合に出ることになってね」

「マジっすか。リアルファイターっすね」

「最近はキッククラスも出てるんだ」

「それでシャキッとしてるんですね。充実している人は雰囲気からして違うなぁ」

「そんな。大したことないよ」

「会場はどこですか」

 七月の最後の日曜日。場所は近県で最も設備が整っているゼロプラスワン。

「すぐそこなら、同僚を誘って応援に行きますよ」

 普段のおれならまずいことになったと思うはずだが、ついに決断を下せたことでいい気になっていたので、会社の人たちにもぜひ来てもらいたかった。みんな見てるんだから勝たないとというプレッシャーも心地よかった。

 おれは毎日定時で退社できた。仕事が忙しい時も、おれには練習があるのだからと、周りが勝手に配慮してくれた。おれは自分から上司や同僚に礼を言い、勝って恩に報いますと宣言した。

 ジムでの居心地が良くなり、更衣室の雑談に混ざれるようになった。

「引き締まってきましたねえ」と、近藤くんが言った。

「試合に出るまで酒をやめたからね」

 それは最初苦痛に思えたが、ノンアルコールでも喉の渇きは癒せたし、それに肉体が着実に変化していく面白みと充実感も強かった。楽しみを先延ばしにしただけ。試合後は練習後より美味しく酒を飲めるのだから、今の苦しみにも耐えられる。

「おれより背が高いのに階級は同じフェザー級なんですね。一緒に頑張りましょう!」

 練習の強度を上げ、寝技よりMMAスパーを増やした。慣れるとすぐ誰にも負けなくなった。おれから見れば会員たちは穴だらけだった。自分なら、油断さえしなければ勝てると確信を持てた。

 年齢などぜんぜん問題ではない。むしろ経験豊富なぶん有利だ。心に火をつけることができれば、おじさんだって燃えるのだ。

「中年がなんだ、なめんなよ!」とおれは心の中で絶叫した。

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