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理性を捨てて

 次の水曜日。仕事を終え真っ直ぐジムに行くと、普段より総合クラスの会員が少なかった。日曜日にアマチュアの試合があったそうだから、出場した人は疲れて休んでいるのだろう。だから会員の平均年齢はいつもより上で、試合後の弛緩した空気が漂っていた。

 アップを終えると、休日返上でセコンドに行っていたインストラクターが、試合結果を話してくれた。星くんと木村は判定負けで、他の数人も判定で勝ったり負けたり。アマチュアは安全なルールでやるからそうなりやすい。

「まぁ、まだこれからですよ」とインストラクターが言った。

 金曜日には試合に出た人が戻ってきた。木村はなぜか饒舌で、子分たちに言い訳をした。慣れないヘッドギアのせいで視界が遮られた、パウンド禁止だから上になっても何もできなかった、相手が最後タックルに逃げ時間を稼ぎやがった。おれは聞きながら、ちらちらとジムの入口を見た。星くんは来なかった。その日も、翌週も、その後も。

 ある日の練習後、おれは気になったから代表に「星くんはどうしましたか」と聞いてみた。

「退会するって電話がありました。いろいろ理由は言ってましたが、たぶん敗戦がこたえたんでしょう」

「まだ若いし、格闘技ばかりが人生じゃありませんからね」と、おれは星くんに言ったことを繰り返した。

 おれはこれまで格闘技で気持ちがぷつりと切れる人を嫌というほど見てきた。それは真面目で思い詰めやすい人ほど多かった。入会後直ちに「プロになります」と宣言し、そのため毎日練習に来るが、一カ月も続かないうちに姿を消す。己にかけたプレッシャーに負けてしまうのだ。おれのようにのらりくらりと練習を続けるぐらいならきっぱりやめ、次に真剣に打ち込める目標を探そうとする。それはいいことだ。消去法でだんだん本当に自分に合った、人生を賭けるに値するものに近づけるのだから。

 おれも代表も星くんの今後の活躍を願った。

 星くんという潤滑油がなくなると、総合クラスの人間関係がギクシャクするようになった。

 少し前までは主に、若い会員の活気あるグループと、おれやみっくんを中心とするおとなしいグループに分かれ、それとは別に木村が子分二人を従え独自の勢力を保っていた。星くんは誰からも好かれていたので、その間を自由に行き来していた。おれも星くんを架け橋とし、若い子たちとスパーをすることができた。

 今やこの三つの勢力は完全に切り離された。スパーになると、若い連中はケージに入り、おれたち年上の会員はその外に出た。若い連中は木村たちを煙たがり、木村たちも身内だけで固まり他者と交流しようとしないので、ケージ内は二色鍋の様相を呈した。

 木村は時々、「あぁ、試合に出てえな」と独りごちた。早く負けを勝ちで上書きしたいという心理もあるだろうが、それよりも試合に出るのだからエンジョイ勢より偉いのだぞ、とアピールしているようでもあった。

 しかし次に近場で開催されるアマチュアの大会は夏で、それまで期間がぽっかり空いてしまった。木村は欲求不満に陥った。子分たちと馴れ合いのスパーをしてもつまらない。元プロでテクニシャンのインストラクターを相手にしても軽くいなされ、のれんに腕押しだ。

 木村はとうとう、気の弱いおれたちに目をつけた。オヤジ狩りってやつだ。

 やつはスパーの時間になるとケージの外をうろつき、獲物の目の前に立ちじっと睨みつけた。「次、お願いします」という言葉を引き出すと、黙って背中を向け、ケージに入っていった。

「無理しなくてもいいんですよ」と、おれはその三十歳ぐらいの会員に言った。

 木村は体重が十キロ以上軽いその初心者を力任せで投げ飛ばして上になり、上半身を大きく揺らしパウンドを放ち、ドタバタとサイドにつくとアームロックを極めた。次のスパー相手とも同じような展開になった。

 木村はケージから出て水分補給すると、おれの前にぬっと現れ、至近距離でおれを見下ろした。おれはやつの顎を見た。目を合わせなくていいから楽だった。知らんぷりをするなら年上の陰キャのおれのほうが断然有利だ。二十秒もすると、やつは諦め一人でケージに入った。

「あの木村ってやつ感じ悪いね」と、みっくんがジムからの帰り道に言った。

「なるべく関わらないことだ。誰も得しないから」

 金曜日は珍しく残業した。仕事がプライベートの時間を侵食する。おれは電気が消えた周辺のオフィスビルを見ながらため息をついた。誰もいなくなったので窓を開けると、暖かく湿った空気が頬を撫でた。春の匂い。練習に参加できなくても顔だけ出すか。みっくんと飲むかもしれないし。

 八時半ごろにジムに入ると、中はしんと静まり返っていた。BGMはラップ曲で、男が何かの社会問題に腹を立て、気が利いた歌詞でリズミカルに小刻みに風刺している。タイマーが「ピピピ」とけたたましく音を立てるが、棒立ちになっている会員の誰も動かない。何があったのかと思いケージに近づくと、みっくんの巨体が中央にごろんと横たわっていた。眼底がどす黒く腫れ、気を失っている。代表が「大丈夫ですか、大丈夫ですか」と大声で呼びかけながら、顔をピシャピシャ叩く。みっくんはハッと目を覚まし、とろんとした目で代表を見る。

「やり過ぎだよバカ」と、インストラクターが肩で息をしている木村に言った。

 会員の話を総合すると、木村はまだ下手くそでガードもままならないみっくんを一方的に殴り、組み付き、床に頭から投げ落としたという。おれはすぐに更衣室で着替え、準備運動を始めた。親友が理不尽に暴力を振るわれたのにかたきを討ってやらなければ人間ではない。おれは喜んで理性を捨てた。

「気をつけてくださいね」と、おれとみっくんの仲を知る会員が心配して言った。

「なんとかします」と、おれはわななきながら答えた。

 おれはほとんど使ったことがないオープンフィンガーグローブをはめ、レガースをつけ、ケージに入った。三分間にセットされたタイマーが鳴った。

 木村が腰の入っていないワンツーを全力で出してくると、大人になってから意図的に押し殺してきたおれの闘志に火がついた。一気に若くなったおれは、初めて憧れた格闘技の選手、スイス出身の空手家が得意としたかかと落としを無意識に放った。前世紀の立ち技選手の必殺技が現代MMAのスパーで炸裂し、木村の巨体がぐらりと揺れた。おれはそのままやつに組み付いて倒し、サイドについた。ケージの外で歓声が上がった。それで目を覚ました木村は下から両手でおれを突き飛ばし、逆に上になった。おれは素早くエビをしフルガードに戻した。

 木村は丸太のように太い腕で岩のような拳を次々と振り下ろした。おれはなんとかやつに抱きつき三角や腕十字を試みるが、すでにやつは汗びっしょりで、しかも力任せで暴れ回るものだから、とらえどころがなかった。こういう人間の動きを止められる手持ちのカードは一枚しかない。おれはわざとフルガードを解き、MMAでは極めて不利とされるハーフガードにし、やつがパウンドをする前に禁断の二重絡みを仕掛けた。

 案の定、ふくらはぎを圧迫された木村はどうしていいか分からず、動きが止まった。おれはすかさずやつの両脇を両手で持ち上げ、股の下に潜り込み、太ももと腰を抱えながらスイープをかけた。おれはわざと上にならず横に倒れ、絡めたままの足と両腕を使い股裂きを仕掛けた。アメリカのクレイジーな柔術家の教本で習得したエレクトリックチェアー。体がガチガチに硬い木村は悲鳴を上げたが、意地でもタップしなかった。残りの三十秒、おれはたっぷりやつの股関節を伸ばしてやった。恥ずかしい体勢を強いられた木村は脂汗をかきながら、自分に向けられた殺意のこもった応援を聞くばかり。

「ぶっ殺せ!」

「へし折っちまえ!」

「調子こくなよボケ!」

 木村は立ち上がれず、這うようにしてケージを出ていった。おれは戦いを見守ってくれた会員たちに、「さぁ、みんな中で練習しましょう。誰に遠慮する必要もありませんよ」と言った。老いも若きも汗だくで取っ組み合った。

 おれはみっくんの家で勝利の美酒に酔った。彼は両目が真っ黒で、汚いパンダのようだ。

「みっくんはよせよ。気絶したばっかなんだから」

「知るもんか。いま飲まないでいつ飲むんだ」

 みっくんはおれ以上にハイテンションで、さっきの戦いぶりをさんざん褒めちぎった。おれも得意になった。ビールはガンガン減り、安い焼酎に切り替えた。

「あんなに戦えるなら試合に出ればいいのに」

「おれには無理だよ。それに今さら何の意味があるんだ」

「無理なもんか。本気を出せば強いんだから。意味だってあるさ。必死に練習して、試合で勝って、仲間とおいしく酒を飲む。それは誰にでもできることじゃない」

 確かにその通りだ。生き残ったぞという、原始時代から続く命の実感。ただ会社に通っているだけでは永遠に味わえない。おれは格闘技に取り組んでこそ初めて生きられるのだ。

「さっきのスパーを終えてようやく分かったよ。ぼくにはやっぱり向いてないって」

「おいおい、やめるのか」

「実はぼく、怖かったんだ、木村とやるのが。反撃すればもっとひどい目にあうと思ったから、ただじっと耐えていた。それでもあいつは一切手心を加えなかった。弱っちいおじさんを一方的に殴れるって、どういう人格してるんだろうね」

「いじめっ子みたいなやつだな」

「でも格闘技ではそれが正解なわけじゃん。相手の嫌がることを喜んでやる人間が強くて、認められるわけじゃん」

「……そうなんだよな実際」

「ぼくだって楽しく痩せて、こうしてお酒も飲みたい。ただそのために自分らしさが否定される所に身を置きたくないんだ。ゼロプラスワンは本当にいいジムなんだろう。けどぼくは苦手だ」

 みっくんは残りの焼酎を一気にあおった。すると急に酔いが回ったのか、ジムにいた時みたいにふらふらしてきた。

「おい大丈夫か」

「ダメかも。先に寝るね」

 彼はそう言うと、隣の狭い寝室に入った。おれは一人で飲みながら、自分だってみっくんと同じ側の人間だと思った。友のためとはいえ吹っ切れてしまった自分が恐ろしかった。

 だが、ジムでおれの評価が上がった。

 木村が消え、総合クラスが和気あいあいとした。おれを無視していたキックの怖い人たちでさえ「意外とやるじゃん」と声をかけてくれた。代表はおれを見るなり「七月の試合どうですか」と熱心に誘った。インストラクターは「懐かしい技ばかりでしたね」と例のスパーを振り返り、その中でおれが使った技術をクラスで紹介した。彼からコメントを求められたおれは、会員たちを前に偉そうにこう言った。

「やはり基礎が大切です。ピンチになった時、何も考えずとっさに動けるのは、基礎が助けてくれるからです。昔のジムでは、柔術クラスで基礎をみっちりやらされました。せっかく総合を選んだのですから寝技も頑張りましょう」

 格闘技はおれに残された最後の可能性。

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