シールが貼られた机と本棚
三月になり、本格的な花粉症シーズンが到来した。
春の強風が吹き、スギ花粉を撒き散らす。生き物の目、鼻、口から入り、アレルギー反応を起こす。人間だけではない。犬は体を床にこすりつけ、猫は鼻水を垂れ流す。猿に至っては人間のように目を真っ赤にし、涙も鼻水も止まらず、見ていて哀れだ。
すっきり晴れた日の午前中。おれが淀んだ空気を入れ替えようと会社の窓を開くと、近くに座っていた社員たちが大げさにくしゃみをし、一斉におれを睨みつけた。
春の訪れを喜べるのは、花粉症を未だ患ったことのない人。
昼休み。おれは外の空気を吸うため会社を出た。大陸から飛んでくる黄砂か花粉か知らないが、遠くの山並みがぼんやり濁って見える。ただでさえ無表情な人の多くがマスクをしている。おれは日本の花粉が嫌で外国に移住した大学時代の同級生を思い出した。当時は無謀と思ったが、今、その選択は正しかったように思える。
おれは体に付着した花粉を手で払ってから会社に入った。
午後の仕事中、母からスマホに連絡が入った。近々ついに家を取り壊すことになったから、必要なものを取りに一度戻れと。おれに取りに戻るものなどなかった。だがそこはおれが生まれ育った場所だから、しっかり別れを告げておきたかった。
土曜日の午前、おれは実家を訪れた。モノが半分ぐらい減り、子供か年寄りの歯茎のように、その不在が目立った。母は家具や家電を撤去した後の床や壁をきれいに磨き上げていた。どうせ取り壊すのだからおれには無意味に思えるが、母にとってはそうではない。昔からそういう人で、「ちゃんとしている」ことに生き甲斐というか、人としての正しさを感じる。
おれは二階に上がった。物置部屋からは父や母の私物が消えていた。数日前、リサイクルショップに買い取りに来てもらったのだという。おれが小さい頃に使っていた机と本棚はまだ残っていた。貼ったシールもそのままに。捨てるとなると惜しい。日々の生活に彩りを添えようと嬉々としてシールを貼った幼少時代が。もしやり直せるなら、おれはもっともっと思い切り楽しみたい。おれの黄金時代を、黄金のように尊かった文化の恵みに浴し。
のそり、のそり。廊下を摺り足で渡る音がする。
「軽トラック借りてきたから、後でリサイクルセンターに捨てに行こう」と、父が小さい声で言った。
本棚から本を取り出し、紐で縛り、収集所に出せる状態にした。買ったばかりのプログラミングの本を手にし、迷ったが、持ち帰ることにした。
おれは父と二人で重い机を二階から下ろした。父は腰が悪く、途中で何度も休んだ。階段では机を壁にぶつけた。そのたびに一階のリビングから「慎重に運んで」と母の厳しい声が飛んできた。おれは口答えを控えた。
リサイクルセンターから戻るともう一時を過ぎていた。母は簡単な昼食を作ってくれた。三人ですする最後のうどん。
「家を建てる間、どこに住むんだい?」
「マンションを借りた」
「短期だから条件が悪くって」
父や母の職場から遠く、無駄に駅チカで、家賃も割高だという。そこでしばらく我慢して暮らす。新居が建った後も、今までみたいな夫婦二人きりの生活は送れない。兄嫁とは何かと対立するだろうし、孫も大きくなりもう可愛くはない。先のことを考えると不安ばかり。
「まぁ住む家があるだけでも幸せさ。少なくとも孤独死することはないからね」
「そんなの当たり前じゃないの」と母が言った。ただ真面目に働けばそれなりに報われた世代の考え方だな、とおれは思った。
「私たちのことより、お前自身の心配をするんだな」と、父がおれに言った。
親から見てもおれはそんなに惨めで無力なのか。おれはさっき捨てた机に貼られたシールのアニメキャラの笑顔を思い出した。戻りたい戻りたい戻りたい。おれを笑わせてくれ、おれにぬくもりを与えてくれ。おれはそれに飢えているんだ、今だって。
おれは最後の一本をすすり終え、「ごちそうさまでした」と言った。二人とも返事はなかった。そのまま「もう行ってみるね」と言っても。
駐車場から車を出し、おれは実家を後にした。




