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時はアーデルハイトがハンナ副院長に修道院を案内してもらった日に遡る。
前世の塾講師としての記憶を取り戻した後、子どもたちと過ごしていた。
お昼のお祈りの時間になり、子供たちと礼拝堂へ向かった。中庭はイレーネの花からいい香りが漂っている。それを嗅ぐと不思議と心が浄化されるような落ち着いた気持ちになる。
アーデルハイトはエルザと手を繋ぎながら歩く。一人ひとりと少しずつなんとか早いタイミングで関わりを持ちたい。
信頼関係を作るには、まずは相手のことを知ることが肝心だと思っているからだ。
「いい香りだわ。エルザもそう思うでしょう?」
こくん、とエルザは小さく頷いた。
引っ込み思案な子には、はいかいいえで答えられる質問から入るのは、前世での経験に則ったものであった。
「エルザは本が好きなのよね。何の本が好き?」
「…お花の妖精のお話」
「水色のお花かしら。最後、水色の瞳の女の子に幸運を授けた…」
先程と同じようにこくんと頷く。赤毛を三つ編みにしたエルザの瞳は晴れやかな空のような水色だ。
「素敵なお話よね、私も好きよ。今度はこの本でお勉強しましょうか」
エルザが小さく微笑んだ。それを見てアーデルハイトも同じように笑んだ。
教会の裏手にある扉から教会に入る。一気に厳かな空間へと変わる。
音を立てないように進みながら、木でできた長椅子に一列になって六人で並んで座った。
お祈りは何度か慰問した時にしたことがあった。その時にしかしていなかった、が正しいだろう。アーデルハイトは敬虔なイレーネ教徒では決してなかったし、エーレン家の中にもそういった者はいなかった。貴族の務めとして慰問に訪れ、王都にある大聖堂での催し物に招待されたら、貴族として参加するだけだった。
前世では、至って普通の日本人だ。特定の宗教を信仰していた訳ではない。学生時代には教養として、世界で広く信仰されている宗教の歴史や信仰対象を学び、社会人になれば、生徒にそれらを教えていた。それ以上でもそれ以下でもない、宗教との関わり方だった。
祈り方はキリスト教と似ていると思う。目を閉じて両方の手を組んで、心の中で祈りを言葉にする。
アーデルハイトには、ずっと女神に一言、言ってやりたいことがあった。馬車で記憶を取り戻してから、ずっと。不敬を、失礼を承知で心の中のもやもやをぶつけた。
(普通はやり直しがきくタイミングで記憶を蘇らしてくれるもんじゃないの。修道院送りを回避できるタイミングでしょ、普通。どうやって破滅フラグやバッドエンドを回避するか、試行錯誤させてくれるもんじゃないの。…まあ、送られたのがこの修道院で良かったな、とは思います。ありがとうございます)
いや、でも…とその後も暫くアーデルハイトは心の中で思いの丈をぶちまけた。
目を開けると子供たちが退屈そうに足をぶらぶらさせてアーデルハイトのことを待っていた。静かに待てるいい子たちである。
行きましょう、と目で合図して立ち上がり、先程入ってきた扉から外へと出る。
アーデルハイトはすっきりとした面持ちになっていた。
昼食後に副院長に呼ばれ、修道院の一階にある執務室に向かった。扉を叩いて、はい、という返事を聞いてから、アーデルハイトは、失礼します、と扉を開けて中に入った。
執務室は、木でできた机が二つあり、副院長は向かって右側を使っていた。両側の壁にある本棚は、たくさんの本や書類で埋まっていた。
「お呼びと伺いました」
「ええ、子供たちと過ごしてみて、何か困っていることがあれば、と思ってね」
書き物をしていた手を止めて、副院長はじっとアーデルハイトの目を見つめた。
「いえ、皆さんいい子で助かっています。子どもたちに字を教えても構いませんか」
「勿論よ。あの子たちに必要だと思うことは何でもしてあげて。ああ、何か必要なものはあるかしら」
アーデルハイトは逡巡した。字を書くのに必要なものと少し私用で使いたいものと。
「紙と何本かのペンと鋏と…それから紐をお借りしたいのですが」
「分かったわ。鋏はここにあるから、持っていきなさい。紙とペンは写字室に予備も含めてあるからそれを。紐は…そうね…」
そう言いながら副院長は周りを見渡した。棚の上に置かれた小包を見つけ、動きを止めた。
「あの麻紐でいいかしら。それで良ければすぐに渡せるわ」
「十分です。ありがとうございます」
副院長は小包を纏めている麻紐を解きながら言葉を続ける。
「今日は夕食の時間まで子供たちの面倒を見てあげて。そこからは貴方の自由時間よ。ただ、明日から皆と同じように朝早くからお務めしてもらうから、早めに休みなさい」
「はい、分かりました」
修道女たちの朝は早い。三時半には教会でお祈りが始まるのだ。それに間に合うように支度をしなければならない。
「はい、では、麻紐と鋏ね」
「ありがとうございます。鋏は明日にはお返しします」
よろしくね、と言った副院長はアーデルハイトに退室するように促した。一礼して、執務室を出る。
アーデルハイトは一度、自室に戻り、借りた荷物を机の上に置いた。二段目の棚を開き、中の鞄を取り出す。そして、その中に入っていた万年筆を手に取った。
遊戯室へと戻る前に二階にある写字室で数枚の紙と五本のペンを借り、子供たちの元へと向かった。
夕食を終え、自室に帰ってきたアーデルハイトには、すると決心したことがあった。
それは髪を切る事だ。
そう思ったのには二つの理由がある。
一つ目にはまず、長いが故に面倒な手間が増えることだ。修道女には髪が綺麗で美しいことを必要とはされていない。何しろ全てベールで隠れてしまう。昨日入浴した後に思ったことだが、長いと兎にも角にも、乾くのに時間がかかる。ドライヤーなどないこの世界では、自然に乾かすしかない。ずぶ濡れで寝る訳にはいかないし、髪が濡れたままだと体が冷えるのも気になる。
もう一つは、小遣い稼ぎだ。紙はまだまだ貴重だ。写字室にあるからといって、どんどん勝手に使ってしまうのは良くないだろう。子供たちに、気兼ねなく使って欲しい。沢山書いて沢山間違えるからこそ、覚えられるのだから。
それ故、紙を買いたいと思ったが、貨幣は全く持ってきていなかった。宝飾品は大事な品だから売りたくない、それ以外に売れそうなものなど何も無い。綺麗と褒められ続けてきた髪ならもしかしたら。そう思って切ろうと思ったのだ。
ランプを鏡の前に置く。ぼんやりとした姿が鏡に映った。
貴族令嬢として、この髪は貴族であるという証の一つであった。社交界に出るとあっては、髪は優雅にまとめられ、公爵家の権威を示すかのように高価な髪飾りを纏った。美しくある為に侍女たちは丹精込めて磨き上げていた。
でももう、貴族ではないから。そんな日は、もう二度と来ないから。
右手で鋏を手に取り、左手で耳あたりの髪をひと房掴んだ。そのままするすると手を下へと滑らせて、中指と薬指が鎖骨についた所で止める。その手の上に鋏を当てがった。
悲しくはない。後悔もない。これで、公爵令嬢を断ち切れる。新たな人生の始まりだ。
右手に力を込めた。冷たい金属の感触を通して、髪が切られていくのを感じる。アーデルハイトの金糸のような髪が、一本一本切れていく。開いていた指環の部分がどんどんと近付いていく。カチン、と鋏が閉じ切れば、左手には前世風に言えば、四十センチ程の長さのひと房の髪が握られていた。
前に垂らせば胸の下あたりにまであった髪。それが一部分だけ肩に付くか付かないか位の長さになっていた。
「…綺麗ね」
アーデルハイトは切り取った髪を、ランプに照らしてみて独り言つ。その髪を机の上に置き、同様にどんどん切り進めていく。それは過去との決別だった。
ぐるりと一周切り終わった。机の上に置かれた髪を先程もらった麻紐でぎゅっと縛った。このしっとりと艶やかな髪は、間違いなく侍女たちの努力の賜物だ。
こんな髪に憧れ、やれトリートメントだのヘアミルクだのヘアオイルだの、色々口コミを読んで購入した前世をふと思い出した。ホームケアだけではやはり限界があったのだろう。毎日エステに通っているような待遇だったからこその、この艶なのだろう。
ばっさりと切ると、随分頭が軽くなった気がする。前世的に言えばこの長さはミディアムと言うべきか。手櫛で髪を整える。ベールに仕舞い込むので、人に見せるものではないからあまり気にはしないが、毛先はがたがたである。
「切るのは難しいのね」
前世では美容院で、今世では侍女に髪を切ってもらっていた。髪は前髪位しか自分で切ったことはない。
束ねた髪を二段目の棚にしまった。どこかのタイミングで市場に下り、買い取ってもらわないと。果たしていくらになるのだろうか、アーデルハイトはぼんやりとそんなことを考えた。




