8
ハンナは院長から聞いた通りだと思いながら、眉間を右手の人差し指の関節でほぐした。
――王子に婚約を破棄された公爵令嬢を預かることになった――
そう院長から聞いた時、また厄介事を抱えなければならないのか、と眉間に皺がよった。アーデルハイトが来るまだほんの二日前のことだ。
このリューリング大修道院は規模が大きい。王都にある大修道院を除けば、この国の二番手の規模感だ。その分大なり小なり様々な問題事が日々発生している。その上で婚約破棄された公爵令嬢を預かるなんて、仕事を増やされるこっちの身にもなってほしい、と心の中で悪態を付いた。勿論、そんなことを思っているなんて気付かない涼しい顔で話を聞いていた。多額の寄付をいただいているヴァルトハイム公爵の頼みなど、大修道院の院長であっても断れるはずもない。婚約破棄をされるなんて、さぞ悪辣で高飛車な性格の令嬢がやってくるものだと思っていたのだが。
迎えた次の日の朝、といってもまだ暗闇の中の時間だが、顔を合わせた院長から、礼儀の正しいお嬢さんだったよ、と共有を受けた。なるほど、と。男性に媚を売るのが上手な女性も確かに多い。そういう女性なのだろうか、と警戒心を強めた。そういう女性は、対女性になると、一層攻撃的になる人が多い。
ただ、院長は長年このリューリング大修道の院長を務めあげている人物だ。毎日様々な人と面会し、相談に乗ったり、時には商人さながらに売買の契約を結んだりしている。人を見る目は誰よりもある、とハンナはマティアスのことを買っていた。その院長を騙すほどの人物なのかどうか、見定めようではないか、とハンナは緊張した面持ちで、アーデルハイトと対面したのであった。
修道院長の目は正しかったのだ。ハンナはこの三日間のアーデルハイトの様子を伺いながら思った。孤児院の子供たちとの関係も良好、修道女たちとの関係も良好。
佇まいは貴族のそれだが、高圧的な態度もなく、貴族と比べれば遥かに質素な修道院の暮らしにも、庶民の文化にも抵抗はないようだった。
ハンナは院長と共に教会の入口に立っていた。教会を訪れる人たちに挨拶を返しながら、さるお方の到着を待っていた。
ジークハルト・フォン・ヴァルトハイム。ここ、ヴァルトハイム公爵領を治める公爵家の嫡男だ。貴族学院を卒業してから、公爵から管理を任されるようになったのだろう。定期的に視察に訪れている。
今回は、同じ家格の公爵家から修道女としてリューリング大修道院で預かることになった、ということで時期を早めての視察だ。これも急に決まったことだった。それだけ他領の公爵令嬢を預かるということは、ヴァルトハイム公爵家にとっても重要なことなのだろう。
ハンナは、きっと彼も拍子抜けするだろう、と思った。王都で話題の中心となっている令嬢が、粛々と修道院で生活していることに。
暫くして遠くから蹄の音が聞こえてきた。ハンナは懐中時計をさっと開く。いつもの通り、時間通りのご到着だ。
目の前に止まった馬車から御者が降りてきて、ドアを開く。それと同時に、ステップがおりてきたのを確認して、修道院長とハンナは頭を垂れた。
「お二人共、顔を上げてください」
その言葉に院長とハンナは顔を上げた。身分が下の者は、声をかけられるまで話しかけることはできない。柔らかな黒い髪に深い緑色の瞳は、ヴァルトハイム公爵家の特徴で、ジークハルトはそれをしっかりと受け継いでいた。故に少し冷たい印象を受ける。
そして奥にもう一人。ジークハルトの近習だ。明るめの栗色の髪に青灰色の瞳で、主とは対照的に親しみやすい。
「お待ちしておりました、ジークハルト様」
「こちらの急な要望に答えていただき、感謝します」
ジークハルトは誰に対しても丁寧に接する。これはヴァルトハイム家の習わしだ。領地運営を実直に行う彼らは、普段から多くの領民たちと接する。彼らが幸せでなければ、豊かでなければ、たちまち公爵家は立ち行かなくなる、だから領民には敬意を持って接しなさい、それがヴァルトハイム家の教えの一つであった。ジークハルトにとってこの言葉遣いは、敬意を持って接しているという証だ。
「さあ、修道院へご案内いたします。彼女は公爵令嬢ではなく、ただのアーデルとして生活していますので…」
院長がそう促した。言外に、大っぴらにアーデルハイトとは呼ばないように、という注意を含んでいる。それを聞いてジークハルトは軽く頷いた。
「彼女に何か問題は?」
「いえいえ、よくやっていますよ。勤勉に働き、皆との関係も良好で」
「そうですか。少し気付かれないよう彼女の様子を伺っても?」
ええ、勿論です、と院長がジークハルトに微笑んだ。そしてちらりと副院長に視線を送る。
「この時間だと、アーデルはどこに?」
「普段ですと遊戯室でしょう。子どもたちの相手をしているはずです」
「なるほど。では、中庭を通って孤児院の方へ向かいましょう」
前に院長とジークハルト、その後ろに副院長とデニスという並びで歩く。中庭のイレーネの花は香り高く、すくすくと花を咲かせていた。
「花摘みを終えた後ですが、これだけまたイレーネの花が咲いているので、今年はたくさんお茶ができるでしょう。公爵家へ献上できる量も、いつもより多そうです」
院長が、イレーネの花に目をやりながら言う。
「それは大変ありがたい話です。母はこの花茶がとても気に入っておりますから」
「同時に、いつもよりも忙しくなりそうで…。さあ、お入りください」
院長が扉を開け、一歩孤児院の中に入ると、子供たちの明るい声が耳に届いた。
遊戯室の扉は換気のため開け放たれており、そこから楽しそうな声が聞こえる。
「アーデル先生!わたし、名前が書けるようになったよ!」
それに対するアーデルハイトの返答は、残念ながら聞こえない。
ジークハルト達が足を進めて、そっと遊戯室を覗いてみると、奥に備え付けられた机を囲んで子供たちが座っているのが見えた。アーデルハイトは座ることなく、立ったまま腰を屈めて子供たちの合間から指南している。
柔らかな表情で微笑みながら子供たちと接していた。修道服を着ているのに、どこまでも貴族らしい雰囲気があり、ちぐはぐな印象だ。
「先生!見て見て!」
大きな声で女児が呼びかける。アーデルハイトはそちらへ移動して、その少女の横に行き、手元を覗き込んだ。
「ここが少しだけ違うわ。もう一度思い出して書いてみて」
そう告げて傍らで見守る。手も出さず口を出さず、傍にいるだけだ。うーんと唸りながら女児は、手元にある別の紙を難しい顔をして見つめ、そして自分が書いたものを交互に見比べる。あっ、と声を漏らして、書き換える。
「アーデル先生、これ、どう?」
「正解よ、よく出来たわね」
アーデルハイトが優しく頭を撫でた。
その様を見て、ジークハルトは扉から離れる。時間にしてほんの五分にも満たない程度だったが、アーデルハイトのここでの様子を知るには十分だった。
修道院にある応接室に向かいながら、ジークハルトは院長に声を落として伝える。
「いつもの確認が終わり次第、彼女をお呼びいただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、かしこまりました。そのように」
ジークハルトの脳裏に先程の映像が焼き付いて離れない。本日向かうように指示した父とエーレン公爵家にいい報告ができそうだ、と思った。




