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どうしてあの時、一緒に思い出せなかったのだろう。今の自分を形作っている大切な経験なのに。
教育系の大学を卒業したあと、新卒で高校受験の集団塾の塾講師として働き始めた。昼過ぎに校舎に行き、終わりは夜遅く終電間際。授業準備は勤務時間には入らないと言われ、24時を過ぎて帰宅したあと、空が白み始めるまで次の日の授業準備をしてから眠る。次の日に目覚めのシャワーを浴びて、また一日が始まる。四時頃寝て十時頃起きる、怠惰な大学生のような睡眠の取り方だった。
それでも、生徒の「分かった!」「成績が上がったよ!」「教えてくれた問題テストに出た!」そんな言葉を聞けば、苦労した甲斐があったと、疲れもどこかに飛んでいく。そんな仕事だった。
と、同時に綺麗事だけの世界ではなかった。冷たい言葉を掛けられたことも一度や二度ではなかった。それは生徒からでもあったし、保護者からでもあった。生徒を思って指導したことが、厳しすぎるとクレームになったこともあった。
嬉しい思いと同じくらい、いやそれ以上に苦しい、悔しい思いも沢山した。
だからこそ、二年間苦しい思いをした経験を生かして、三年目も頑張ろう、そう思った、矢先だった。この世界に転生したのは。
「…せんせ?大丈夫?」
グレーテに声をかけられはっと、現実に引き戻される。私は今、塾講師だった日本人ではなく、アーデルハイトだ。
「ええ、大丈夫よ。少し…、目眩がしただけなの」
そう取り繕ってアーデルハイトは姿勢を整える。心配そうに見上げてくるそれぞれの瞳を微笑みながら見つめ返した。
「さて、ではルーカス、貴方には何か好きな本はあるかしら」
「僕ではなく…、エルザの方が」
そう言ってルーカスは、エルザに話を譲ろうとする。今までもそうしてきたのだろう、年長者だから我慢する、年下に譲る。もしかしたらそう教わってきたのかもしれない。共同生活を営む上では大切だろう。
だが、とアーデルハイトは思う。まだルーカスだって、十二の子どもだ。出来ることなら甘やかしてあげたい。
「勿論、順番で聞いていくわ。皆さんも考えてみてね。まずはルーカスからよ」
そう言うと少しほっとした様子でルーカスは逡巡する。孤児院を併設している修道院では子どもに向けて読み聞かせをすることが多い。かく言うアーデルハイトも、自領の修道院で小さな子ども相手に読み聞かせをしたことがある。だから、それぞれ覚えのある本はあるはずなのだ。
「騎士道物語なんですけど…、でも名前は分からなくて…」
「あら、素敵ね。どんな内容だったか覚えてるかしら?」
アーデルハイトの頭の中には、この国で子どもたちに親しまれている大多数の本の内容が入っていた。というのも、童話や騎士道物語など、子どものうちに読むであろう類のものは、小さい頃から読まされていたし、読むこともまた、子どもの頃から好きであった。
お人形ではなく、豪奢なドレスや宝飾品ではなく、アーデルハイトの幼少期は本に囲まれていた。王都に住まう令嬢としては珍しいことではあったが、振り返ってみれば、公爵家での教育や王妃教育の土台の知識として非常に有用であった。
「主人公である騎士が、王の友として、友を護り戦う話なんですけど…」
「なるほど…、他に覚えてることはない?例えば、最後はどうなった…や、あ、台詞でも構わないわ」
騎士道物語の鉄板だ。この類の物語は王道物として広く親しまれてる。だからこそ、数が多くて一つに絞れない。
「最後はこの王国ができて、主人公は王の妹を奥さんにしました。領地をもらって、幸せに暮らした、と」
実際の史実を元に脚本した物語だ。主人公はエーレン家の初代公爵となった、ヴィルフリート・フォン・エーレン。アーデルハイトの遠い遠い祖先だ。
「そうね…それを題材にした本はたくさんあるけれど、一番有名な作品にしましょうか。それなら素敵なお姫様も出てくるわ」
「お姫様!?」
リーゼ、グレーテ姉妹も目を輝かせた。いつの時代でもお姫様は女の子の憧れの対象だ。
アーデルハイトは立ち上がって本棚の前に立つ。分類ごとに分けられていて見やすく探しやすい。
目当ての本はすぐに見つかった。『獅子の盾』、非常にシンプルなそれでいて題材が分かりやすい題名だ。獅子はこの国の象徴だからだ。
この時代の本は装丁も相まって非常に高価だ。手に取るとずっしりと重みがあるのが普通だ。だがこの本はどうやら少し異なるようだった。確かに重いが、装丁の質が違う。本を開いて確認してみる。間違いない、修道女の手書きだ。
もしかしたら、ここに置かれている本の幾つかは、手書きで書き写したものなのかもしれない。
アーデルハイトは元の椅子へと戻り、題名を読み上げる。この国の文字は、アルファベットの様なものだ。八つの母音と二十二の子音で構成されている。この三十文字をまずは覚える所から始める必要がある。
第一節を読み始めた。平易な言葉で書かれているので、ルーカスの好みということで選んだ本だったが、文字や言葉を覚える教材としては適切だったのかもしれない。
(文字を覚えたら、読んだ音を聞いて、綴りを書く練習をしてもいいわね。でもその前に、自分の名前を書けるようになる方が嬉しいかしら。文字を覚える遊戯として、神経衰弱のようなことをしても面白いかもしれないわ)
本を読み上げながら、アーデルハイトの頭の中は、どうやって教えるかでいっぱいだった。久しく味わっていなかった高揚感も確かに胸の中に存在していた。




