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修道院での生活に慣れ始めた五日目のことだった。
同じく孤児院で幼児の面倒を見ているアメリアが声をかけてきたのは。
「院長が呼んでるわ、応接室に来て、と」
どうやら急ぎの用件みたい、とアメリアが付け加えた。
アーデルハイトは首を傾げながら、アメリアに子どもたちを任せて遊戯室を出た。呼ばれる用件に全く心当たりがなかった。気にかけてくれてはいる、とは思うが、院長が言っていたように扱いは平等だ。それなのに、わざわざ呼び出すなんて。しかも、普段仕事をしている執務室ではなく、応接室だなんて。
孤児院を出て、中庭の渡り廊下を通って修道院内へ入る。玄関ホールのすぐ左手が応接室だ。
扉を叩いてから、アーデルです、と声をかける。するとすぐに扉が開いた。開けたのは副院長だった。
失礼します、と頭を下げて応接室へと足を踏み入れた。目に映った絨毯を見て、ここだけは修道院の中ではなく、貴族の屋敷のそれのような誂えだと思った。
「顔を上げなさい」
院長から声を掛けられて、アーデルハイトはゆっくりと頭を上げた。部屋の真ん中にローテーブルと、その左右に布張りのソファが置いてあるのが見えた。右側のソファに院長が浅く腰掛け、左側には男性が姿勢正しく座っていた。これだけで、院長よりも格の高い方が来ていることが分かった。左側の男性を視界に認めた瞬間、アーデルハイトの口から声が漏れていた。
「…ジーク、兄様…」
はっとして慌てて、今度は貴族の礼で頭を下げる。ジークハルトの高貴な雰囲気と、この貴族の屋敷の応接室のような雰囲気に圧され、つい今までの貴族としての癖が出てしまったのだ。
アーデルハイトとジークハルトは、いとこ同士であった。アーデルハイトの母の兄が、ジークハルトの父にあたる。とはいえ、ジークハルトと話したことは片手で数える程しかない。アーデルハイトの母は、嫁いだのだから、と実家にあまり寄り付くことがなかった。
最後に会ったのは、アーデルハイトが十二で、ジークハルトが十五の時だった。
「申し訳ございません、大変失礼いたしました。どうか、お許しを」
「顔を上げてください、アーデルハイト。気にしてませんから」
アーデルハイトはゆっくりと顔を上げた。ヴァルトハイム家特有の深い緑の瞳と目が合った。
アーデルハイトが顔を上げたのを確認すると、ジークハルトは院長に向き合った。
「院長方、申し訳ないのですが、席を外していただけますか」
「しかし…、妙齢の女性を男性と二人にするには…」
「では、デニスを傍らに控えさせましょう。信のおける男ですから」
そう公爵家の嫡男であるジークハルトに言われてしまっては、院長たちはもう何も言えない。
「かしこまりました。後ほど、アーデルの分のお茶もお持ちしましょう」
そう言って院長が席を立ち、二人は応接室を出ていった。ばたん、とドアが閉まる音がして、ジークハルトは後ろに控える男を手で示した。
「アーデルハイトはデニスに会うのは初めてでしたよね」
はい、とアーデルハイトが頷くとデニスと呼ばれた男が一歩前へ出る。背筋を正し真っ直ぐにアーデルハイトを見た。
「光栄にもジークハルト様の近習の役目を仰せつかっております、デニス・リッケンと申します。アーデルハイト様も以後、お見知り置きください」
「…アーデルですわ。デニス様、私はもう、ただの修道女です。そのようにお話いただく理由などございません。是非、アーデル、と。気軽にお話ください」
「…では、お言葉に甘えて」
そう言うとデニスの表情がふっと柔らかくなった。
アーデルハイトは、同じことをジークハルトにも思ってはいるが、彼の話口調がこうなのは今に始まったことでは無い。癖か何かなのだろう、その意を汲んでジークハルトにはわざわざ伝えることは無い。
「とはいえ、我が主もこの口調ですから、つい抜けないかもしれませんが」
「デニス様がお話しやすいようにしていただければ」
そうですね、そう言ってデニスは元いた位置へと一歩下がり、後ろで腕を組み控える。
「アーデルハイトも、どうぞ座ってください」
「ジークハルト様も此処では是非、アーデルと。それに貴族の方と同じ席につくなどできませんわ」
「その貴族である私が、気にしないと言っているのです、どうぞ」
そこまで言われてしまえば、アーデルハイトは折れるしかなかった。
「では、失礼いたします」
そう言ってアーデルハイトは一礼してから、ジークハルトの目の前のソファに腰掛ける。布張りのソファは反発力があり、腰掛けてもしっかりと体を支えてくれた。アーデルハイトが浅くソファに座ったのを見て、ジークハルトが話題を振る。
「最後に会ったのは…、王都でしたか」
「いいえ、リューリングのお屋敷でしたわ。ヴァルトハイム家のお祝い事で…」
「ああ、両親の記念パーティーでしたか。…では、六年振りになりますね」
こくり、と頷く。ジークハルトはこの六年間ですっかりと大人の男性になったな、とアーデルハイトはふと思った。アーデルハイトより三歳上のジークハルトだが、六年前の時にはまだ年相応のあどけなさがあった印象だった。
「伯父上と伯母上は息災でいらっしゃいますか?」
「ええ、それはもう。父上は私に爵位を譲る気は無いのか、と思うくらい毎日忙しくしてますし」
そう言ってジークハルトはくすりと微笑んだ。彼なりにアーデルハイトを笑わせようとしているらしい。
扉がこんこんと叩かれた。計ったようなタイミングだった。デニスが近付き扉を開くと、副院長が立っていた。
「失礼します」
そう言って、お盆に乗ったティーセットをテーブルの上に運ぶ。慌ててアーデルハイトが手伝おうと腰を浮かすと、副院長がそれを制した。
「アーデル、貴方は座っていなさい。今はジークハルト様のお客様なのですから」
アーデルハイトはその言葉に浮かした腰をソファにつけた。副院長が給仕するなど、こんなことはまずない。普段だったら、修道女が来るはずだ。それだけこの面会は秘匿にされているのだろう。
「ありがとうございます」
ティーカップに紅茶を注いでくれた副院長にそう言うと、副院長は少し微笑んでから退出した。
「さて、本題に入りますが」
そう言ってジークハルトは体を前に出し、膝の上で手を組んだ。紅茶が届けられるまでに話さなかったということは、周りに聞かれたくない話、ということだ。
「今日ここに来たのは、他でもない貴方の様子を知るためです。修道院での暮らしはどうです、慣れましたか?」
「…まだそんなに時間は経ってはいませんが、皆様よくしてくださってます。そのお陰で、大分慣れたかと思います」
そうですか、良かった、とジークハルトは微笑む。何度もよく見てきた、貴族の笑顔だ。
「逆に何か困っていることは?」
笑顔だけなら何も気にせずに微笑み返すことは出来たが、その後の言葉にアーデルハイトはジークハルトの深い緑の瞳を見つめた。ジークハルトは何を聞きにここに来たのだろうか、本心は何だろうか、何と答えることが正解だろうか。アーデルハイトは一瞬にして思考を巡らせる。困っていることを聞いて、何を探りたいのだろう、何か弱みでも掴みたいのか。貴族の腹の探り合いが始まったのか、そう思った時だった。
ぱっと、ジークハルトが両手を上げた。
「勘違いさせたのなら、申し訳ありません。そういう意味ではなく…、その、単純に貴方のことが心配で…」
「…あ…、いえ、こちらこそ、…その、すみません」
感情を表情に出さないのは得意だったはずなのに、ジークハルトに見抜かれた。アーデルハイトにとっては衝撃だった。
その様をすぐ後ろで見ていたデニスがくつくつと笑い始めた。
「ジーク様、さてはまたあの表情をされたんでしょ。胡散臭いからやめた方がいいと、何度も言ってるじゃないですか」
そのデニスの一見すると命知らずの発言にアーデルハイトは思わず目を丸くしたが、何も咎めない、寧ろたじろいでいるジークハルトの様子を見て、笑いを堪えることが出来なかった。口元に手を当てて、唇を精一杯噛み締める。
そうだ、間違いなく胡散臭かった。腹の中を隠している貴族のそれだった。
「アーデル嬢、言い訳させてもらいますね」
そう話し始めたのは、デニスだった。
「ジーク様は表情が乏しいから、冷たい、とか怖い、とかよく言われるんですよ。だから、笑ったらどうだ、と公爵に言われて、やってみてるんですけど、結果はこんな感じで」
アーデルハイトは心の中で首を傾げた。六年前は、そういった印象はなかったのに。
ジークハルトとデニスはお互いに信頼し合っているのだろう。ジークハルトが先程院長に言った"信の置ける男"というのは、まさしくそうなのであろう。ジーク様、と呼んでいるところにもそれを感じる。
「…分かる気がいたします。我々は感情を表に出さないように幼い頃から教育され続けてきます。ですから、気付いたら、上手な笑い方など分からなくなってしまって。だからきっと、私自身も…」
アーデルハイトはそこで言葉を切った。婚約を破棄された、そう続く言葉だったからだ。
こほん、とジークハルトが一つ咳払いをして、場をまとめた。
「話を戻しますが…、何か困っていることは?」
アーデルハイトは改めて逡巡する。ずっと一つまだ出来ていないことがあった。
「…では、紙を融通していただきたいのです。何かと沢山書きますから」
「紙ですか。公爵家に在庫はいくらかありますから、そちらで良ければすぐに手配しましょう」
「ありがとうございます。代金は必ずお支払いいたします。ただ、その件で商人か誰かをお繋ぎいただきたく存じます」
「商人?」
こくりとアーデルハイトは頷いた。
「その、私は今一銭も持っておりませんので、それで…」
「なるほど、かしこまりました」
ジークハルトはそう承知したような素振りではあったが、金銭を受け取ろう、などとは全く考えていなかった。しかし、アーデルハイトの矜恃を尊重し、受け入れたように取り繕った。
「では、宝石商でよろしいですか、目が利く者の方がいいでしょうから」
「あ、いえ…、その宝石ではなく…」
アーデルハイトは思わず言い淀んだ。何かを売って銭を稼ぐ場合は、第一に宝飾品になる。次点で服だ。特にレースが付いているものだと、レースは手作業で作られているため高値で取引される。
髪と言うことは、特に男性に向かって言うことは、ばつが悪かった。
ただ、確かに蛇の道は蛇だ、専門にしっかりと見てもらった方が、高く買い取ってくれるかもしれない。
「…その、…髪なのです」
「…髪、と言いますと」
勇気を出した一言で理解してもらえなくて、アーデルハイトはいたたまれない思いになった。
ジークハルトはジークハルトで、その言葉が表すことを咀嚼するのに時間がかかった。
「まさか」
いや、そんな、まさか、有り得ない。
「…髪を売る必要などありません、アーデルハイト。代金が無くともきちんと渡しますから」
「でも、もう切ってしまいましたから」
ジークハルトは目を丸くした。
アーデルハイトはぼうっと、この人のどこが表情が乏しいのだろうと思った。やはり、六年前の印象は正しいのではないだろうか。
ただそれは、アーデルハイト自身が社交界の中で些細な機微の変化に気付くように訓練された成果であった。
ジークハルトは左手の親指と人差し指で眉間を押さえた。突飛な事実に頭では理解出来ても、信じられない思いが強かった。
「分かりました、必ず手配しましょう」
数日後、秘密裏にアーデルハイトは商人と引き合わされた。破格の値段で買い取ってもらうことができたのだが、アーデルハイトはその値段が破格だとも思わず、何故その金額を手に入れることが出来たのか、をついに知ることはなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
ようやく、二人目の主要人物の登場です。




