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デニスが扉を叩いて、ジークハルトの仕事部屋へ入ると、ジークハルトは厳しい顔をしながら書類に向かっていた。あともう十分程でここを出なければならない。デニスは、そのことに気付いているのかどうか分からない主に声を掛けるべきか思い悩む。あの表情は集中の証だったからだ。
アーデルハイトが倒れた次の日、ジークハルト達はヴァルトハイム領内の北の山脈、プラール山脈に視察に行くことになっていた。馬車で向かうが、着くのに途中の宿に一泊して、一日半、といった所だ。
馬車の中に持ち込む鞄の中にも、大量の書類が入っていることをデニスは知っていた。公爵家の当主、と言っていいようなほど、ジークハルトに仕事が集まっているように見えるのだが、ジークハルト本人に言わせれば、彼の父である現当主フリードリヒ・フォン・ヴァルトハイムの仕事量は、こんなものでは無いらしい。本当にそうなのか疑わしいが。
ジークハルトが一枚、書類にサインをし終えたところで、デニスが声をかける。
「ジーク様、もう間もなく出発のお時間です」
「…そうか」
そう口にしたにも関わらず、左手で新たな書類を手繰り寄せ始めたので、慌ててデニスはジークハルトに近付いた。
「そこまでです。支度しますよ」
ジークハルトはぱっと顔を上げて、デニスを視界の中に捉えると一言、いたのか、と呟いた。
ジークハルトが書類仕事をしていると、こうなるのが常だ。集中しすぎると、全く周りの音も自分への声掛けも、聞こえなくなってしまうのだ。その上で無意識下で返答をする。
デニスはジークハルトに仕えて三年になる。もうそんな事には慣れっこだった。
「もうお時間ですから。その書類は鞄の中にしまいますか?」
「ああ、頼む」
ジークハルトは机の上の書類や筆記具を引き出しを開けて、元の位置に戻す。約一週間程、ここを留守にする。持ち越すと気がかりなものは先に処理できたはずだ、そう一通りの仕事を思い出し逡巡して、ジークハルトはふと手を止める。
「悪いんだが、侍女を一人呼んでくれないか。少し用事を頼みたい」
デニスは明らさまに、げっとした表情をした。
「今からですか!?もう時間が…」
「すぐに終わる」
ジークハルトがきっぱりとそう言えば、拒否できるような空気感ではない。
「…分かりました」
デニスは扉を開けて、扉のすぐ横に控えていた侍女に声をかける。本当は荷物を運ぶ人手として呼んでいたのだが。
「少しいいかな?入って」
そう言って部屋の中へ誘導する。失礼します、と教えられた通りの動きで、ジークハルトの部屋へと入る。
「一つ頼みたいのですが」
「はい、もちろんです」
「リューリングの花屋に行って、花束を作ってきてください。送り先は、修道院のアーデルへ。必ず、花屋が届けるようにお願いできますか」
侍女がこくりと頷いた。ヴァルトハイム家の者に行かせないのは、ジークハルトなりの配慮だろう、とデニスは思った。若い女性が公爵家の嫡男から花束などを受け取ろうものなら、間違いなく噂の的となる。
アーデルハイトからは特別扱いを受けたくないといった確固たる信念を感じていた。ただの修道女になろうとしているのだろう、と。
「花束は何色にいたしましょうか」
「青色に…いや…」
ジークハルトはそこまで考えていなかったようで、反射的にエーレン家を象徴する色を答えたが、頭の中にあの殺風景な部屋が思い浮かんだ。必要最低限の家具しか置かれていない、彩りの少ない寂しい部屋を。
「何か元気が出そうな色で」
「かしこまりました」
具体的な色の指定ではなかったが、公爵家で働いている侍女たちは皆優秀だ。ジークハルトの意を汲み取った花束を仕上げさせるだろう。
ああ、そうだ、とジークハルトは、机の1番上の引き出しを開ける。片手程度の大きさの紙を一枚取り出し、お大事に、と一言だけ書き記し、それを侍女に手渡した。
「これも花束に付けておいてください。あまり目立たないところに」
「かしこまりました。失礼いたします」
侍女が部屋を足早に出て行った。ジークハルトは使ったものを引き出しにしまった。
「私達も出よう」
ジークハルトが鞄を手にして歩き出し、デニスもそれに続いていく。ジークハルトが仕事をしていた部屋の隣は彼自身の私室だった。夜遅くまで仕事をしても、朝早く起きて仕事をしたいと思っても、直ぐに移動することができて便利だった。
そこから階段を降り玄関ホールへと来たところで、ジークハルトと声を掛けられ、足を止める。
「…仕事以外で出歩く日は、いつになったら見れるのかしら」
そう頬に手を当ててため息混じりに言う女性は、ジークハルトの母だった。柔らかな栗毛の髪に琥珀色の瞳をしていて、黒や緑を基調とするヴァルトハイム家にはいない雰囲気だからこそ、その場にいるだけで華やかな印象を与える。
「今は仕事が立て込んでおりますので」
感情の見えない涼しい顔で、ジークハルトは答える。この問答には慣れっこだった。そして、この後続いてくる言葉も、ジークハルトには想像できた。
「貴族学院を卒業してからもう三年。貴族であればどんな家柄でもどんな方でもいいと伝えているのに…。貴方ってばどうして…」
ジークハルトの父と母は身分差を乗り越えた恋愛結婚だった。公爵家と男爵家、貴族同士ではあるが実家が持つ力には雲泥の差がある。大恋愛の末に色んな障害を乗り越えた、とジークハルトの母、アマーリエ・フォン・ヴァルトハイムは、ジークハルトが幼少の頃からよく話していた。アマーリエ自身、きっとジークハルトが年頃になったら浮いた話の一つや二つ出てくると思っていたのだろうが。
「もう交流会のお相手も考えているのよね?ドレスも宝飾品も準備は整えておきますから」
ジークハルトは顔には出さないものの、内心ではげんなりしていた。仕事が立て込んでいる中で、女性を誰か選ばなければならないなどと、今はそんな余裕は無かった。いっそのこと、ドレスと宝飾品と同じように整えられていれば楽なのに。ジークハルトはいつも女性に失礼この上ないことを考える。
「母上、時間ですので失礼いたします。一週間ほど留守にしますので」
小言が永遠と続きそうだったのでそう言って切り上げる。まだ何か言いたげな母親を残して、ジークハルト達は馬車へと向かった。




