2
馬車の揺れが突如として止まったところで、アーデルハイトは目を覚ました。窓に寄りかかって眠ってしまったらしい。
さっと身支度を整える。髪を手で梳き、襟元に触れて皺のないように整える。自分と対面にある椅子の上に置いた鞄に掛けておいた手袋をはめる。そして姿勢をすっと正した。御者が来るまでに流れるように一連の動作を終える。 アーデルハイトに残った、公爵令嬢としての矜恃が、どこの誰から見ても完璧な令嬢であるかのように振る舞わせるのだった。
(ああ、現実なのね…。)
窓に映る自分を見て、公爵家令嬢としての自分と日本人としての自分が、同居しているような、そんな気になる。動作は貴族そのものだが、思考は純日本人そのものだ。
もう、やるしかない、ここで生きていくしかない、そう思った時、がちゃりと馬車の扉が開いた。
「お待たせいたしました」
御者の言葉を合図に、アーデルハイトは立ち上がって鞄を手に取った。ずっしりと重いそれには、着替えが四、五着と、愛用していた万年筆や懐中時計、祖母から受け継いだ宝飾品が詰め込まれていた。
ありがとう、そう言いながら御者が差し出した手に自分の右手を乗せて馬車から降りる。そろりとステップに足を置き、反対の足を地面に下ろす。そしてもう一方の足も地面へと着ける。地味に高さがあるので、いつもこの瞬間が緊張する。
暗くてよくは見えないが、足元は石畳のようだった。教会の入口までは、石畳が続いているのだろう。
馬車の足元には、先程まで馬車の上に積まれていた荷物も下ろされていた。アーデルハイトのドレスや宝飾品の一部だ。寄付という形で修道院に渡すことになっている。厄介な貴族令嬢を預かる代わりに、貰ったドレスや宝飾品を売り修道院の維持費に充てるわけだ。
「お待ちしておりました」
初老の男性が声をかける。白い聖職者の服を身に纏っているのだろうが、暗いのと手に持っているランプのせいで、黄色を纏っているように見える。
深々と男性が頭を下げた。貴族に対する礼のそれだ。
「リューリング大修道院の修道院長をしております、マティアスと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「アーデルハイトですわ。…院長、私はもうエーレン家の人間ではございません。いち修道女として接していただきたいのです」
「そうですか、では、そのように」
院長は軽く頷いた。元々公爵家と修道院でのやり取りの中で、そういう形で話は付いていた。ただの修道女という扱いであると、父親からもそう告げられていた。アーデルハイトにこの場であえて口にさせることで改めて、公爵家の令嬢ではないのだ、と実感させる目論見が両者ともにあったのかもしれない。
ただ、前世の記憶を取り戻したアーデルハイトにとっては、貴族でないことなど当たり前だった。ごくごく普通の一般庶民として生まれ育った日本人なのだ。公爵令嬢ではなくなったことに、今はもうさほどショックも受けてはいない。
元々、好奇心の強い性格をしていることもあり、今まで経験したことの無い修道院での生活を楽しみにすらしている。
「こちらの荷は、どうぞお納めください」
「では、ありがたく。後ほど運ばせましょう。御者の方も、厩戸という程のものでもありませんが、馬を停める場所があります。案内させますので、どうぞこちらで一晩お休みになってください」
かたじけない、そう言って御者は、院長の指示で出てきた修道女に案内され、馬車の運転席に上がり込んだ。
アーデルハイトはその馬車を眺めた。もう一生乗ることの無いエーレン家の家紋が入った馬車。乗り心地にこだわって作られた最高級品で、あの馬車で家族と色々な場所に出掛けた。
「では行きましょうか。貴方の自室へ案内します」
「はい。よろしくお願いいたします」
アーデルハイトは、ぱっと気持ちを切り替え、院長の後を追う。石畳は想像した通り教会の入口までだった。教会の手前で右に曲がると修道院へと続く道になっているようだった。院長が照らすランプの灯りのおかげで、暗い道でも足元に不安はない。ただ、電気のあの明るさが非常に恋しい。
「この修道院の詳しいことは、明日明るい時間に説明しましょう。今はもう暗くて何も見えませんから」
「ありがとうございます。…この香りはイレーネの花でしょうか」
「ええ、中庭に花畑があるのですよ」
中庭というよりも、庭園のような空間だと、アーデルハイトは明日知ることになる。
「いい香りが漂ってくるので、さぞお手入れに力を入れているのでしょうね」
「修道女たちが頑張っているのですよ」
自分もきっと、そういう仕事をすることになるのだろう、そうアーデルハイトは思った。
「さあ、こちらです」
院長が修道院の扉を手で示した。木で出来た重厚な扉だ。院長がその扉を開けて、アーデルハイトは修道院の内部へと一歩踏み出した。




