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記憶がない。
何故自室にいるのかが分からない。
目を開けたアーデルハイトが思ったことは、それだった。
ゆっくりと体を起こすと、額に乗せてあった濡れた布がぽとりと布団の上へと落ちた。
「あれ、私…」
アーデルハイトは一生懸命思い出そうとするが、応接室を出たあとからの記憶がない。
窓の外に目をやる。空はまだ明るかった。そう時間が経っていないのかもしれない。
汗のせいでべったりと服がまとわりついていて、気持ち悪い。頬に張り付いた髪を耳に掛けようと腕を上げたところで、服が変わっていることに気付いた。誰かが着替えさせてくれたのだろう。
頭が重く感じて、酷い頭痛があったことを思い出した。先程と比べれば、大分ましになっている。前日に重い頭痛があった次の日の朝、くらいの頭の重さだ。
辺りを見渡せば、机の上に水差しとグラスが置かれていた。汗もかいたし喉も乾燥しているし飲もう、と思い布団を剥いで、足を寝台から下ろし、足の裏を床につけた。冷たい床が心地良い。立ち上がると体の重さをひしひしと感じた。横になっている時間が長かったからか、重力を久しぶりに感じている。
水差しからコップに水を注いでそれを一気に飲み干す。どうやら相当喉が乾いていたらしい。まだ足らないと、もう一度注いで今度は何口かに分けて飲む。
そうしていると大分頭が冴えてきて、なんとなく先程のことを思い出してきた。
頭痛と目眩で立っていられなくなったのだった。目の前の視界がどんどんと狭くなり暗くなっていくあの感覚を思い出し、ぞわり、と身震いした。
(きっと、誰かが気付いてくれたのね)
幸い応接室を出てすぐが、修道院の玄関ホールとなっており、人通りが多い場所だから、きっとすぐに見つけてもらえただろう。有り難さと申し訳なさが同時に押し寄せてくる。
子どもたちはどうしているだろうか。自分がするはずだった仕事はどうなっているだろうか。今ここにいることに、アーデルハイトは急に焦りを覚えた。
前世の時は、休みたい時に休んだことが殆どなかった。自分が授業に立たないと、授業が成立しない。勿論、代講を頼むことは出来る訳だが、引き継ぎの準備や教室に迷惑をかける申し訳なさが大きく、交代で休みを取ることを推奨されている日しか、休んだことはなかった。何度、行きたかったライブやイベントを諦めたことだろうか。大人数の遊びも、日程調整が難しく、次第に誘われなくなっていった。休まなければならないと定められている有休五日と法定休日を確保するために、休んでないのに、休んだことにしたことも両手では収まりきらないほどあった。
そんな過去があったから、仕事に穴を開けてしまった事への罪悪感が一気に押し寄せてきた。
取り敢えず着替えよう、汗を拭こうと手拭いを手にしようとした時、コンコンと、扉が叩かれる音がした。
「アーデル、起きてる?開けるよ」
アメリアの声が聞こえて、慌てて扉に向かった。こちらから伺うべきだったのに、と深く自省する。
ゆっくりと扉が開くと、アメリアは肩で扉を押しながら両手にお盆を持って部屋に入ろうとしていた。アーデルハイトが扉を端を持って、開くように引いた。
「アーデル、大丈夫?」
そう声を掛けながら、アメリアは水差しとコップが置かれている机の上にお盆を置いた。お盆にはスープが入ったボウルとパンが並んでいた。
「はい。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「いいのいいの。倒れてびっくりしちゃった。顔色は大分良くなったわね。よく寝れた?」
「はい。本当に今さっき起きたところで…。これから何をしたら…」
「あーもう、取り敢えずまずは座りなさい。アーデル、貴方は今日もお休みよ。副院長がそう命じたんだから、有難く休みなさい」
アメリアは、でも、と言いかけるアーデルの肩を押して寝台に座らせた。
「子どもたちのことは、心配いらないわ。私がまとめて面倒見られるし、それに何よりいい子たちだしね」
「…すみません、ありがとうございます」
「いいのよ、お互い様よ。私に何かあったら、アーデルに頼むことになると思うし。慣れない環境で凄く頑張ってたんだから。ずっと気を張ってたでしょ?それで体調崩しちゃったのよ」
アーデルハイトは申し訳なさに俯いた。体調管理も仕事のうちだ、と思ってきた。授業に穴をあけるわけにはいかない。前世では就職してからインフルエンザはおろか、風邪にかかったことすらなかったのに。学校では学級閉鎖になり、どんどん生徒が休んでいく中、生徒から貰うこともなく、無事に乗り越えていたのに。
「食事を持って来たけれど、食べられる?…まあ、食欲がなくても少しは口にした方がいいわ。ずっと寝てたんだから」
食事の話題を出されて、急に空腹を覚えた。今、何時かは分からないが確かに朝ご飯を食べてから、何も口にしてなかった。
「はい、いただきます」
アメリアはその言葉を聞いて、机の前に置かれた椅子を引き、アーデルハイトをそこに座らせる。
「しっかり食べなさい。丸一日何も食べていないんだから」
その言葉を聞いて、アーデルハイトは動きを止めた。丸、一日?
「え、丸一日…?今って…何時…ですか」
「ん?朝九時くらいよ。皆朝ごはんを食べ終わったところよ」
アーデルハイトは、血の気が引いていくのを感じた。前世風に言えば、やらかした、というやつだ。
アーデルハイトは、倒れた当日のお昼過ぎ位かと思っていた訳だが、それがまさかの翌日の朝だったわけである。
「そんな…」
「たっぷり寝れて良かったじゃない。薬もよく効いたみたいね」
看護棟にはたくさんの薬草や、薬草から抽出した薬が保管してある。それの幾つかを使用してくれたのだろう。
「…すみません」
「謝る必要なんてないのよ。これも助け合いでしょ?」
そう言ってアメリアは微笑んだ。
ここの修道女たちは元来博愛主義な人が多い。女神に仕え、女神に奉仕することを生業としているのだから、当たり前なのかもしれないが。貴族社会のあの冷たさの中で生きてきたアーデルハイトにとっては、凄く温かいことに感じた。
「ありがとうございます」
「さあ、召し上がって」
アーデルハイトは木でできたスプーンを手に取り、スープを掬った。少しぬるくなったスープであったが、一口飲めば、じんわりと体内に広がり、五臓六腑にしみわたっていく。
「…美味しい、です」
「良かった!」
アメリアは溌剌とした笑みを浮かべながらそう答える。
くたくたに煮られた野菜を掬って口に運ぶ。アーデルハイトの分だけ、胃に負担にならないよう更に煮てくれたのだろう。優しさに胸がじんわりとした。




