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夜の九時。修道院は寝静まっている。
それもそのはず、次の日の朝は三時起きだからだ。
前世だったらまだ最後のコマの授業中なのになあ、などと思いながら、明日の教える内容の構想を考える。
修道院の生活は夜の七時から七時半の間には寝れるようになっている。そうすれば八時間近くは寝れるからだ。
アーデルハイトは、その睡眠時間を削る生活を二日目からずっと続けていた。十時に寝れば五時間寝れる。その睡眠時間があれば十分だと思っていた。
ある程度の文字を覚えたから、次は算数だ。生活する上で数字とは切っても切れない関係がある。それにどうやら、多少緩和されたとはいえ相変わらず反抗的な態度のレオも、算数は好きなようだった。何かを覚えることより、計算をする方が性に合うのだろう。
基本的な四則計算を段階を踏んで教えていきたいと、アーデルハイトは考えている。ただ、子どもたちの年齢は、前世の学年でいえば、小一から小六まで年齢がばらばらだ。小六の子に、一桁の足し算は飽きてしまうだろうし、小一の子に割合の計算はついてこれるはずがない。
そこで、授業を半分にして、授業を受ける生徒と自習をする生徒とに分けることにした。そうすれば、習ったことを復習して、定着させることができる。いわゆる宿題的な役割を果たせることができる。
ただ問題は、授業も自習用のドリル的なものも、自分で用意しなければならない点だ。コストは単純に二倍。しかもコピー機などはないから、全て手書きで作らなければならない。
アーデルハイトの右手の中指には、懐かしのペンだこが出来上がっていた。
修道院での生活が始まってからひと月が経っていた。だからこそアーデルハイトは、この生活に慣れた、と思っていた。
その慣れこそ一番の敵であることを失念していたのだった。
六月の中旬に入りたての頃、夕方庭で子どもたちと遊んでいる時だった。夕立に合い彼らを慌てて孤児院の中に入れ、外に干してあった大物の洗濯物を取り込んだ。
濡れた子どもたちを浴室に向かわせ、アーデルハイト自身は乾いたタオルで簡単に拭っただけだった。
取り込んだ大物の洗濯物は、寝具だったが、洗濯室へと持っていき、竿にかけ部屋干しにしたのだった。
その次の日。
「お待ちしておりました、ジークハルト様」
ジークハルトはいつものように、院長と副院長に出迎えられていた。
前回はアーデルハイトが修道院に来たばかりということもあり、突発的な訪問で、短い期間での再訪となった。
「変わりはありませんか」
「はい。お陰様で修道院の皆も子どもたちも元気にやっています」
「それは何よりです。アーデルハイトから手紙を貰いましたので、まずはその件から話を進めたいのですが、よろしいでしょうか」
もちろんです、そうマティアス院長が言うと、ハンナ副院長に、目配せをする。アーデルハイトを呼ぶように、とのことだろう。
応接室に通され、ジークハルトはいつもの席に腰掛ける。後ろには同じく、いつものようにデニスが控えた。
紅茶が運ばれてくるのと同じくして、アーデルハイトが応接室に入ってくる。
正しく貴族に対する一礼をした様を見てジークハルトは訝しげに眉根を寄せた。
美しい所作に一か月前との変わりはない。ただ、何かが引っかかった。
「顔を上げてください」
その一言がないと、永遠に頭を垂れ続けるであろうその様は、貴族として躾られた証だ。
アーデルハイトの表情を見て、ジークハルトは違和感の正体に気付いた。やつれたように見えるのだ。
「本日は、お時間を割いていただき、ありがとうございます。手短に終わらせますので、何卒よろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ。騎士を目指す人が一人でも増えたら、こちらとしても願ったり叶ったりです」
おかけください、と院長の横を手で示し、座るように促した。失礼します、と修道服の裾を摘んでアーデルハイトは腰掛けた。
アーデルハイトは酷い頭痛がしていた。昨日の夕立もあり、気圧の変化のせいだろう、と思っていた。また手仕事でしている写本も、間違えてはいけないという緊張感が故に、高い集中力を必要とするので、目の疲れを非常に感じていた。
前世でも気圧が急に変化するタイミングでの頭痛に悩まされてきた。肩こりも首こりもあり、よく鎮痛剤にお世話になっていた。今はあの効き目が恋しい。
アーデルハイトは紹介して貰えた商人から、手帳を購入していたので、そこに騎士を呼んでしたいことをまとめていた。手帳を開き、右手で万年筆を持つ。
「一つ目に、何人か騎士様にお越しいただいて、騎士を志した理由や実際にどうやって騎士になったのかを伺いたいのです。できれば、その、あまり身分の高くない方に」
ジークハルトはこくりと頷いた。デニスが何人か候補の目星を付けていて、それを馬車の中で共有を受けていた。
「三名ほどでよいでしょうか。何名か候補はおりますので、詳細が決まり次第、お伝えしましょう」
「ありがとうございます。その際に可能であれば、お名前と役職、騎士の歴をお伺いできると嬉しいです」
分かりました、と言ってジークハルトがデニスに目配せをする。デニスはポケットから手帳を取り出しそこに書いていく。が、しばらくもしないうちにその手を止めた。
「ジークハルト様、発言してもよろしいでしょうか」
デニスにはあの日の砕けたような雰囲気は全くなく、貴人に仕える侍従としてあるべき姿そのものだった。修道院の中でも、最も地位の高い二人がこの場にいるからであろう、使い分けが上手だな、とアーデルハイトは思った。
ジークハルトはアーデルハイトを見た。アーデルハイトがこくりと頷くと、許可すると短く言う。
「ありがとうございます。なるべく子どもたちと年齢の近い若い者を派遣しようかと思っておりましたが、様々な役職の者の方がよろしいでしょうか」
その言葉にアーデルハイトはぱっと顔を明るくした。
「もし、そうしていただけるなら、とても嬉しいですわ。ルーカスはその身一つ、努力次第で道が開かれることに希望を抱いてまして…。実際にそういう方にお会いできたら、ルーカスもとても喜ぶかと思います」
「では、打診してみましょう」
ありがとうございます、そう言いながらアーデルハイトは、手帳の役職と書かれたところに波線を書いた。
「二つ目に、実際に体を動かしている所を見せていただきたいです。例えば模擬戦のようなことを」
「それは我々も考えていたところです。騎士たちも子どもたちに良い所を見せたいでしょうから」
ジークハルトは微笑みながら言ったが、アーデルハイトはあの日のような胡散臭さは感じなかった。
孤児院の横手にある、いつも子どもたちが遊んでいる庭を上手く活用しよう。手帳に庭で、と書き込んだ。
「最後に三つ目は、孤児院の子どもたちは今、文字を覚えたところなので、折角なら文字を使った何かが出来ないかと思っているのです」
「文字ですか…」
「はい。正直、全ての子どもが騎士に興味を抱いているわけではありません。そういった子たちでも楽しめるようなことを、と。例えばですけれど、机の上に文字が書いてあるカードを並べておいて、騎士に関する言葉を作っていく…といったことを」
なるほど、そう言ってジークハルトは考え込む。少し沈黙が訪れた。
頭痛のせいで、アーデルハイト頭は上手く回らなかった。何かいい案を、と考えるが出てこない。
少しよろしいですか、そう言って沈黙を破ったのは、院長だった。
「この話をアーデルハイトから聞いた時に、孤児院の子どもたちだけではなく、折角ならリューリングの子どもたちにも体験させたい、と思ったのです。ただ…全員が文字を読めるわけではないでしょう」
院長はそこで言葉を区切った。アーデルハイトが考えた文字を使った遊戯を楽しめるのは、文字を知っている子どもたちだけだ。
しかしアーデルハイトとしては、この企画自体は何らかの形として実現したいと思っていた。自分が学んでいることが使えるようになっている実感というのは、自己効力感が増すきっかけにもなる。これを学び続けていたら、いいことがあるのかもしれない、そう思うきっかけにしてほしかった。
字の読み書きが出来ない子がいることで、成り立つ企画。それでいて、読み書きが出来なくても楽しめるもの…。
「…ですので、孤児院の子どもたちには、後日騎士様に向けた手紙を書いてもらうのはどうですかね」
院長がそう言葉を続けた。アーデルハイトは手帳の左の頁の空いている空間に、手紙と書いた。
手紙を書くのは良いと思う。是非採用したい。ただ、その日、当日に、騎士がいるからこそできる何かがしたいのだ。
「…手紙、素敵だと思います。私としてはできれば、その日中に何か…」
手帳からぱっと顔を上げてそう言うと、立ちくらみに似た感覚に襲われ、途中で言葉を止めた。ただそれは一瞬で消え去った。
「…大丈夫ですか」
ジークハルトの深い緑の瞳が、不安げにアーデルハイトに視線を送っていた。
「申し訳ございません、大丈夫です」
アーデルハイトはカップに手を伸ばし紅茶を一口、口に含んで喉を潤した。
少し冷めてしまったせいか、普段より香りと味がしない。
アーデルハイトがカップをソーサーに置いたのを確認して、ジークハルトがでは、と話を切り出す。
「その辺りは後日もう少し詰めるとして、日程ですが、今の話だと準備や周りに広める期間も必要でしょう。一月半後などはいかがですか」
その言葉にアーデルハイトも院長もこくりと頷いた。
手帳を広げたデニスが日程を確認する。
「七月の最終土曜日はいかがでしょうか」
アーデルハイトの万年筆を持つ手がぴくりと反応した。もう乗り越えたと、何事にももう気持ちを揺さぶられることは無い、とそう思っていたのに。
七月の最終土曜日は貴族学院の卒業パーティーの日のはずだった。はずだった、というよりかはアーデルハイトが出席をしないだけなのだが。
自分はその場にいないと、改めてまざまざと思い知らされる。日程を提案してきたデニスにそのような意図は、勿論ない。
院長は頷いたが、アーデルハイトが無反応なことに気付いたデニスがおずおずと口を開いた。
「アーデル嬢、この日ではない方がよろしいでしょうか」
アーデルハイトは慌ててぱっと顔を上げ、首を横に振った。
「いいえ、すみません。もちろん大丈夫です」
「…では、その日にしましょう。時間帯はお昼過ぎから夕方まで。三つ目のことに関しては、もう少し構想を練っていただけますか」
ジークハルトの言葉にアーデルハイトは頷いた。その提案は有難かった。今はなかなか考えられそうにないからだ。夜寝る前に考えよう、とぼうっとする頭で思った。
「リューリングの町には、私の方で代表の方に宣伝を頼みましょう。今までもお願いしたことがありますから」
院長がそう言っているのを、言葉と言うより音声として認識する。
暑くなってきているから、この頭痛の原因は、脱水症状か何かだろうか。目を開けているのも辛くなってきた。横になりたいが、勝手にここを出ていく訳にはいかない。
「細かいことはまた次回にしましょう。また二週間後に参りますので」
ジークハルトはそう言ってアーデルハイトの方を見た。アーデルハイトはその視線を受け取って、こくりと頷いた。
この話はここまでで、ここからは別の議題が始まるから、席を立つように促したのだろう。アーデルハイトはそう思った。
「では、失礼します」
アーデルハイトはそう短く言って、万年筆と手帳を持ちソファから腰を浮かした。ふらつきそうになる体を、全身の筋肉に力を入れてなんとか堪える。
扉の前まで行って振り返ってお辞儀をし、扉を開けて外へ出た。
緊張が一気に抜けた。失礼な所はなかっただろうか、不安になりながら数歩歩いたところでくらっとして壁に寄りかかる。
さすがにこの後、子どもたちの所に戻る訳にはいかない。少し休みを貰おうか、許可は、誰にしたらいい、そう頭の中でぐるぐると考えている内に、目の前が真っ暗になった。




