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ジークハルトは、早々に打ち合わせを切り上げた。アーデルハイトの様子がおかしく、早く解放してあげたかったからだ。
あれはどう見ても体調不良だが、周りはあんなにも気付かないものだろうか、と訝しむ。
(いや、でもそうか、弱みを見せたら付け込まれるから)
そういう社会で生きてきたのだ。腹の中は全て見せないように、そう取り繕うのが当たり前だった。
気付かせないように上手く演じていたわけだ。
残念ながらジークハルトの目は誤魔化せなかったわけだが。
「少し席を外します。すぐに戻りますので」
そう言ってジークハルトは立ち上がり、扉を開け廊下に出た。その瞬間、視界の端で何かが動くのを捉えた。アーデルハイトが、壁に体を預けた瞬間だった。
手を貸そうと、歩みを速めた時にぐらりと前に体が傾く。ジークハルトは手を伸ばし、ぎりぎりでなんとかその肩を支えた。
アーデルハイトが手にしていた手帳と万年筆が、支えをなくして床へと落ちていく。石造りの床に当たり、カーンと高い音が響く。アーデルハイトの左肩とジークハルトの手の間にベールが挟まってしまったせいだろう、髪を覆っているベールがずれた。熱のせいで上気した頬に、細く柔らかな髪の毛がはらりとかかる。その毛先は不揃いだった。
ジークハルトはアーデルハイトが床に倒れこまないように、片膝を床に付き体勢を整え、その膝の上に彼女の上半身を乗せた。
修道服の上からでも伝わってくる熱。直接触らずとも分かる、間違いなく高熱だ。眉間に皺を寄せ苦しそうに息をしている。
このままにしてはおけないと、アーデルハイトを横に抱きあげようとした時、靴音が聞こえてきた。ジークハルトはその音でデニスだと直感で気付く。
「ジーク様」
なかなか戻らない主を心配してか、手帳と万年筆が滑り落ちる音を聞いてか、デニスが様子を伺いに来た。ジークハルトは片膝をついたまま、横目でデニスを視界に入れる。
「これは…」
「彼女を部屋まで運ぶ。誰か部屋が分かる者を」
呼んできてくれ、とジークハルトが最後まで言い終わらない内に、子供たちの声が響いた。修道院の扉を開けるとすぐにこの応接室が視界に入る造りになっている。丁度昼時だ。お祈りを終えて応接室と同じ階にある食堂に行くのだろう。
子どもたちと引率の修道女の姿が、ジークハルトの目に映るのと同じくして、子どもたちもこちらに気付く。
「え!?先生…!?」
「あ、ちょっと…!」
(…なんとも間が悪い…)
ジークハルトはどうこの場を収めるか逡巡する。
子供たちを引き連れたアメリアの制止を振り切って、ばたばたとこちらへ駆け寄ってこようとする子供たち。その瞬間、ジークハルト達の前にすっとデニスが立ち塞がった。
デニスは中腰に屈んで子供たちの目線と合わせる。
「先生は、少し体調が悪いだけだから、大丈夫。ほら、食事に行っておいで」
そう柔和に微笑みながらデニスは、一番年長のルーカスの肩に手を置いた。さあ、と促す。
「え…でも…」
ルーカスの瞳は不安に揺れている。他の子どもたちは、デニスの足元から体を捻りジークハルトとアーデルハイトを覗き込もうとしていた。
「ここは大人に任せなさい」
騒ぎが聞こえたのだろう、応接室から出てきた院長が優しく、それでいて有無を言わせない表情で告げる。
「はい…」
子どもたちは渋々といった表情でアメリアと共にちらちらとこちらを振り返りながら食堂へと向かった。
デニスはジークハルトと代わろうと腰を屈めたが、ジークハルトはそれを目で制した。
院長は共に出てきた副院長に視線を向けながら口を開く。
「副院長、マスターキーを。ジークハルト様、アーデルの私室は三階になります。お手数お掛けしますが、お願いできますかな」
「もちろんです」
そう言ってジークハルトはアーデルハイトを抱き上げながら立ち上がった。羽のように、とは思わないが、ジークハルトの筋力をもってすれば、このままずっと抱えていられそうな軽さだった。髪からだろうか、石鹸のような清潔感のある香りがジークハルトの鼻腔を掠めた。
デニスは手帳と万年筆を拾う。万年筆にEWの刻印を見つけたが、デニスはそれが誰のことかはその一瞬で思い至ることはなかった。
振り返って二人を視界に入れたアメリアは、絵になるな、と心の中で思った。本人が嫌がっていたから詮索こそしていないが、いい所のお嬢様なのだろう、ということには薄々感付いていた。所作の美しさや丁寧さ、姿勢の良さが外見の美しさ以上の雰囲気を醸し出していた。
ジークハルトはさすがに手が届かない、とアーデルハイトには言ったが、もしかしたらそんなことはないのかもしれない、とアメリアは思った。
マスターキーでアーデルハイトの私室を開けて一歩部屋へ入る。全ての荷物は棚にしまってあるのだろう、私物も何も無く、がらんとした殺風景でどこか寂しい印象を受けた。ジークハルトは整えられた寝台にアーデルハイトを横たえる。
疲れが溜まって高熱が出たのだろう。きっと慣れない環境で無理をしていたに違いない。とっくに限界を越えていたのに、気付かないでいたのだろう。
ジークハルトは、苦しそうに呼吸をするアーデルハイトを見て、眉根を寄せた。頬にかかった髪を払おうと手を動かしかけ、我に返って止める。右手がぴくりと動いた。
「ありがとうございます。今、看護棟の者をこちらに呼んでいますので…」
副院長が頭を下げながら言う。言外にアーデルハイトの部屋から出ていくように、というものを含んでいた。女性の部屋に男が入るのは、世間的にも憚られるものだ。しかもそれが、持ち主の許可なく勝手にとあっては尚更だ。
それを察知したのかデニスが近くの棚の上に手帳と万年筆を置く。ジークハルトはアーデルハイトをちらりと一瞥して、では、と言って部屋を出た。
あの呼吸が落ち着くのを傍で確認したかった。ただその役目は自分ではない。
「…戻ろう」
ジークハルトはデニスに向けてぽつりと呟いた。自分には自分のすべきことがある。公爵家嫡男として、それを行うだけだ。深く長く息を吐いた。




