8.ライオネルへの提案
客間の中でも一番良い部屋で、前室の奥に寝室があり、そこから続いて浴室があった。ここまで湯を運ぶのも大変だったろうが、おかげで芯まで温まった。
「女性向けの香油を切らしておりまして、申し訳ございません」
「構わないわ。気にしないでマリア。急に来た私たちのせいよ」
「急に天候が崩れたせいですわね。お気に召す香りかはわかりませんが、こちらを使わせていただきます」
香油なしよりは、爽やかな香りのものをつける方がまだましだった。暖炉に火の入った暖かい部屋で、使用人のマリアがせっせと手入れをしてくれた。名を尋ねる隙間がなかったのだがやっと聞けた。
そのマリアの作業はとても手慣れていて、女性用の香油はないが、女性の貴族に仕えたことがあるのだとわかった。また借りた寝間着といい、ライオネルの母がこの屋敷に長逗留することがあったのだろう。
香油の香りは先ほど会ったライオネルからただよってきたものと同じだった。
そして、湯浴みの時間も、その後の手入れの時間も、マリアの口は留まることを知らなかった。半刻ほどだったが、私はライオネルたち騎士について昔からよく知っている気分になれた。
ライオネルは一年をかけて領地を回る。特に北にあるこの屋敷付近には、冬が近づくとやってくるらしい。そして主要な道が雪に埋もれ、領地内から移動ができないのだとうそぶき春を迎えるという。
「私たちの冬の支度は彼らの支度分までやらねばならぬので毎年本当に大変なのですよ!」
「彼らはよく食べそうよね」
「本当に! その通りです。雪を溶かせばいいので水だけは豊富に手に入りますが、薪や野菜や、そして葡萄酒! 葡萄酒の消費量が本当に規格外なのです。彼らは魔物を倒すか、仲間同士で殴り合うか、酒を飲んでいるのです」
殴り合うというのは訓練なのだろうが、思わず笑ってしまった。
「食べられる魔物肉が手に入るのは助かりますが、差し引いても他の準備と冬の間のお世話の方が大変ですね。今年は秋の間に材木や釘を手配しましたので、古くなった厩舎の手入れをしていただくつもりですよ。有り余る体力を有効に使っていただきます」
騎士は平民出身の者も多い。マリアの勢いにきっと負けてしまうのだろう。
「それでも、パトリシア様がいらっしゃる間は多少大人しくなるかもしれませんね。男というものは、女性の前ではよく見られたいと思うものなのですよ。どうか彼らに、大人しくなさいとおっしゃってくださいな」
「言ってしまったら逆効果だと思うわ」
「確かにそうですね。でしたら彼らが騒いでいる場所でにっこりと笑ってらしてください。きっと彼らは急に自分の所業が恥ずかしいものだと思い出すことでしょう」
留まることのないマリアの口も、眠る準備ができたところでようやく落ち着きを取り戻した。
ベッド脇の小さなテーブルに、ランプと本が置かれた。まだ眠る時間には少しはやいだろうと置いていってくれたのだ。小さな子どもに読ませる物語だった。
懐かしさを覚え、眠るまでのほんの短いひととき、物語の世界へ飛び立った。
翌日、吹雪はまだ止まず、私たちは引き続き屋敷に留められることとなった。マリアに身支度を手伝ってもらい、朝食は部屋で食べた。その後は暇をしているので、マリアによってあちこち案内される。その一つに、たくさんの本が並んだ部屋があった。
「ライオネル様の母君は読書家でして、よくこちらで過ごしておいででした」
「昨日借りた本も、楽しかったわ。幼いころ読んでもらった覚えがあった」
古い建国の物語だ。
この国の初代国王と結ばれた精霊の娘の話だった。
私の回答に満足しているのか、マリアは何度もうなずいてあちこち本の紹介をしてくれた。
「もしよろしければこちらで過ごされますか?」
特にやることもない。私はマリアの言うとおりにすることにした。
すると彼女はテキパキと暖炉に火をつけ、お茶を運び、くつろげる場所にしてくれた。すっかり腰を落ち着けたので、エルトン卿にも本を読むか好きなようにしたらいいと言うと、彼は話をしてくると部屋を出ていく。マシューは最初からいない。ここの騎士たちとはとてもウマが合うようで、魔物狩りの話をたくさん聞くのだと言っていた。実践的な狩りの話が本当に面白いようだ。
本を読んで一刻ほどしたところで、扉がノックされ、ライオネルが顔を出した。
「雪に閉ざされれば何もすることのない屋敷だ。退屈だろう。すまないね」
「いいえ、本を読んでおりました……そちらは、ロジョーグ盤ですか?」
「ああ、本を楽しんでいるならいいのだが、暇つぶしにと思って」
賽子を振り、コマを進める陣地取りゲームだ。貴族の子どもがよくやっているが、単純なだけにいつまでも楽しめるものだった。
「ずっと活字を追っているのも大変ですから、ぜひ対戦してくださいな」
読んでいた本を持ったまま、テーブルへ移動する。
書庫には座り心地のよいソファとは別に、丸テーブルと椅子が二脚あった。
二人で向かい合い、賽子を振る。
「では私が赤でライオネル様が白ですわね」
「本当に久しぶりだな」
ライオネルはとても強敵だった。
私が考え込んでいる間、彼は盤の真横に置いた、先程まで読んでいた本に目を向ける。
「建国神話か」
「ええ、昨晩子供向けのものをマリアが部屋に置いていってくれたので、懐かしくなって。こちらはもう少し対象年齢が上の物語ですね」
小さな子供向けの挿絵がたくさんの本を読んで、もう少し詳しく思い出したいと本棚を探した。
赤と白の駒をああでもないと頭の中で動かしていると、ライオネルが本を手に取り少しだけ黙って、話を続けた。
「昨日、昼から天気が崩れるだろうとは思っていた。だが……同時に、行かねばとも思ったのだ」
「行かねば?」
私はようやく見つけた場所へ赤い駒を置く。
ライオネルはさほど時間をとらずに白い駒を置く。
「私の祖母は王家の人間でね」
「ああ……そうでしたね」
「王家には精霊の血が流れているという。あの日何かが私の背中を激しく押した。今日、外に向かわねばならないと。たまにそういったことがある。戦場でもこの勘のようなものに何度も助けられた。聞いたことがあるだろう? 戦場の鬼神だの、戦闘狂だの」
「それだけライオネル様がお強かったということでしょう」
その強さが仲間の命を救ってきたのだ。貶めるような呼び方は好きではなかった。
「おかげで森のあの灰色熊を仕留めていただきました」
あれは、私たちが三人で出会っていたら、かなり手こずっただろう。なんならその視界に入らぬよう逃げ出さねばならなかったかもしれない。
私がふと盤から目を上げると、ライオネルの青い瞳とぶつかった。
「はたして灰色熊だったのだろうか」
赤と白の駒が次々に動いた。
ゲームは接戦で、最終的には三マス差で私の勝ちだ。
「良い勝負だったな」
「このあたりの攻め手が弱かったのかと」
「確かに。つい気を取られているうちにしてやられた」
終わった後にそれぞれに指摘をしながらコマを集めた。カランと音がするたびに、責める自分と、押しやる自分が喧嘩をしている。
やがてそんな様子にライオネルがコマを片付ける手を止めた。
「どうかしたか?」
「……そうですね、少し、悩んでいます」
「手伝えることなら手伝いたいが」
提案する彼に私はにっこりと笑顔を向ける。
きっとそういうだろうと思った。
ロジョーグ盤は性格がでる。彼はとても誠実で、そして相手を思いやる人だ。それでいて時には人を嵌めるために騙すことも戦略だと考えている。
対戦しての、彼への感想だった。
はたして、囁きは灰色熊のためだったのだろうか。それとも、ライオネルの祖母が、私のもとに彼を送り届けてくれたのか?
「わたくし、婚約が白紙になったと申し上げたでしょう?」
「あ、ああ」
「殿下と真実の愛を育んだお相手は、わたくしの異母妹なのです」
「なに!?」
驚きと軽蔑。ここにいない彼らへ向けたその感情に、ああやっぱりと思った。
彼はそういったことに怒ってくれる人だ。昨日からの態度といい、とてもよい人なのだ。
「冬の始まりに王城で開かれるパーティーで、婚約は白紙にするとチャールズ殿下から言われたのです」
「それは……まかり通るのか?」
「無理でしょうね。ですから実際には白紙になってはいないのです。きっと」
「では、まだ、婚約は有効なのか」
「たぶん。ただ、わたくしもさすがに、親がそれを認めないから元通りになれと言われても、はいそうですかなんて言うのは癪なのですよ」
「当然だな。私ならそこでたたっ切っている」
憤るライオネルに思わず笑ってしまう。
だって彼は、婚約者を切り捨てるなんてことをしていないのだ。
「失礼にもほどがあるだろう。どれだけグレンウィル嬢を馬鹿にすれば気がすむのだ」
そんな風に言ってもらえると、胸がすっとした。
「少し、相手を焦らせてみたいのですが、協力していただけますか?」
「私にできることなら、なんでも」
「ふふ、そんな気安く請け負ってはいけませんよ、ライオネル様」
こんないい人を巻き込むなんて、自分はなんて悪い女なのだ。
「結局は元通りになるのでしょうけれど、ライオネル様、わたくしと恋に落ちてくださいますか?」
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