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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第8話 公爵令嬢様、教室のほどほどを実践する


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王立学園に入学して、二日目の朝を迎えました。


 昨日は入学式だった。


 リリスは制服姿がとても似合っていた。


 教室では自己紹介をして、斜め前の席になった。


 第一王子殿下とも視線が合った。


 そして帰宅後、ガロウ公爵から、


『娘が「学園の廊下のほどほど」を図にしている。あと、制服姿のアルフレッド殿を思い出して泣きかけている。説明しろ』


 という書状が届いた。


 説明できるか!!


 俺にも分からん!!


 ……と言いたいところだが、最近の俺は少し慣れてきた。


 リリスは真面目なのだ。


 本当に、ものすごく真面目なのだ。


 俺との距離感を間違えたくない。


 俺を困らせたくない。


 でも、そばにいたい。


 その結果が、図解であり、椅子四分の一であり、心の椅子なのである。


 ……やっぱり分からん。


 いや、気持ちは分かる。


 方法が分からない。


 そんなわけで、学園二日目。


 今日から本格的な授業が始まる。


 朝、制服に袖を通した俺は、鏡の前で深呼吸した。


 昨日よりは少し慣れた気がする。


 だが、胸の奥には緊張が残っている。


 学園生活が始まる。


 リリスと同じ教室。


 同じ廊下。


 同じ食堂。


 同じ授業。


 そしておそらく、同じツッコミ。


「若様」


 背後でライズが襟元を整えながら言った。


「本日から授業でございますね」


「ああ」


「教科書、筆記具、しおり、ハンカチは確認済みです」


「ありがとう」


「予備のハンカチも入れてございます」


「リリス用か?」


「念のため」


「もはや装備だな」


「はい。若様の学園生活において、ハンカチは重要装備と判断しております」


「剣より使うかもしれない」


「否定できません」


 ライズが真顔で頷いた。


 いや、本当に否定できないのが怖い。


「それと」


 ライズは鞄の留め具を確認しながら続けた。


「フルーラ公爵家より、早朝に書状が届いております」


「またか」


「はい」


「今度は何だ」


「旦那様が先に読まれ、大変笑っておられました」


「嫌な前情報」


 俺は受け取った書状を開く。


 差出人はガロウ公爵。


『娘が「今日は授業中に振り返るのは三回までにします」と宣言した。三回は多いのか少ないのか判断に困る。説明しろ。 ガロウ』


 三回!?


 授業中に振り返る回数を決めたの!?


 しかも公爵様も判断に困っている!!


 俺も困る!!


 俺は書状を閉じ、静かに額を押さえた。


「ライズ」


「はい」


「授業中に振り返るのは何回までが適切だと思う」


「基本的には零回かと」


「そうだよな」


「ただし、教師に指名され後方を見る必要がある場合は除きます」


「真面目に答えてくれてありがとう」


「アマリリス様は三回と仰ったのですね」


「ああ」


「努力は感じられます」


「そうなんだよ」


 そこが難しい。


 最初から振り返る気満々ではある。


 だが、制限しようとしている。


 そこには努力がある。


 俺はそれを無下にしたくない。


 しかし授業中に三回振り返られると、たぶん目立つ。


 いや、リリスは存在だけで目立つ。


 もう目立つこと自体は避けられない。


「若様」


「なんだ」


「本日は、声量にお気をつけください」


「分かっている」


「教室でのツッコミは、周囲の生徒に記憶されます」


「昨日すでに記憶された気がする」


「では、今さらかもしれません」


「諦めが早い」


 朝食の席では、父上が相変わらず楽しそうだった。


「アルフレッド、三回らしいな」


「父上、笑いすぎです」


「いや、リリス嬢は実に健気だ」


「健気なのは否定しませんが」


「授業中に三回まで。いいではないか」


「よくありません」


「一回目は朝の確認、二回目は昼前の補給、三回目は帰り前の名残惜しさだな」


「何の分析ですか」


「恋する令嬢の振り返り配分」


「朝食中に変な理論を立てないでください」


 母上はくすくす笑いながら、俺の皿に果物を添えた。


「アル、今日はきちんと食べてね」


「はい」


「初授業は緊張するものよ」


「母上もそうでしたか?」


「ええ。あなたの父上は初授業から寝ていたけれど」


「父上?」


 俺が見ると、父上は目を逸らした。


「若かった」


「学園初日で寝るのは若さですか?」


「前日に剣の稽古をしすぎただけだ」


「その後、先生に叩き起こされていたわね」


「母上、詳しいですね」


「同じ学園だったもの」


 そういえば、父上と母上は学園時代からの知り合いだった。


 父上とガロウ公爵も学生時代からの友人。


 つまり王立学園には、父上たちの過去もある。


 ……嫌な予感がする。


 学園のどこかで、父上の若気の至りが語られないことを祈る。


 祈るしかない。


 馬車で学園へ向かう途中、俺は窓の外を眺めていた。


 王都の朝は活気がある。


 商人たちが店を開け、馬車が行き交い、通りには朝の光が差している。


 昨日より少しだけ心は落ち着いている。


 入学式という大きな行事を越えたからかもしれない。


 だが、今日は今日で初授業だ。


 しかも、リリスの三回問題がある。


「若様」


 ライズが向かいから言った。


「本日は、アマリリス様が振り返られた際の対応を決めておくとよろしいかと」


「対応?」


「一回目は軽く頷く。二回目は前を向くよう視線で促す。三回目は授業後に褒める」


「お前、参謀みたいだな」


「従者でございます」


「従者の範囲を超えている」


「若様の平穏のためです」


「俺の平穏はもうだいぶ死んでいる」


「復活の余地はございます」


「本当か?」


「……多少」


「今、間があったな」


 学園に到着すると、正門前は昨日よりも落ち着いていた。


 とはいえ、登校する生徒たちで賑わっている。


 上級生らしき者たちは慣れた様子で歩き、新入生はまだ少し緊張した顔をしている。


 俺が馬車を降りると、周囲からちらほら視線が向く。


 もう覚えられているらしい。


 まあ、フルーラ公爵令嬢の婚約者だから仕方ない。


 少し離れた場所に、フルーラ公爵家の馬車が止まった。


 まずミラが降りる。


 次にリリス。


 今日はガロウ公爵の姿はない。


 さすがに毎日学園まで来るわけではないらしい。


 いや、来てもおかしくないと思ってしまっている俺が怖い。


 リリスは俺を見つけると、ぱっと笑った。


 そして。


 足が動く。


 止まる。


 深呼吸。


 歩く。


 昨日より自然だ。


 成長している。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


 俺は微笑んだ。


「今日も走りませんでしたね」


「はい。ミラにも褒められました」


「素晴らしいです」


 リリスの頬が赤くなる。


「朝から褒められました」


「朝から泣かないでくださいね」


「はい。今日は授業がありますので」


「その意識は大事です」


 ミラが静かに礼をした。


「アルフレッド様、本日もよろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


 俺は小声で尋ねる。


「ミラ殿、紐は?」


「本日は持たせておりません」


「ありがとうございます」


「ただ、手帳はございます」


「それはもう仕方ないですね」


「はい」


 リリスが不思議そうに首を傾げる。


「アル、何のお話ですか?」


「学園生活の安全確認です」


「安全」


「はい」


「私も気をつけます」


「ぜひお願いします」


 俺たちは教室へ向かって歩き出した。


 廊下のほどほどは昨日と同じくらい。


 少し近いが、まあ問題ない。


 リリスは時々俺の方を見そうになって、前を向く。


 頑張っている。


 その様子が可愛くて、俺は少し笑ってしまった。


「アル?」


「いえ、頑張っているなと」


「はい。今日は授業中に振り返るのは三回までにします」


「その件ですが」


「はい」


「基本的には、授業中は前を向きましょう」


「……」


「リリス?」


「やはり、三回は多いですか?」


「多いというより、授業中ですから」


「では、二回」


「減らす方向ではなく」


「一回」


「そうではなく」


「……零回」


「はい」


 リリスは少ししょんぼりした。


 しまった。


 言い方が厳しかったか。


 俺は声を柔らかくする。


「授業が終わったら、いくらでも話せますから」


「本当ですか?」


「はい」


「授業中に我慢できたら、褒めてくださいますか?」


「もちろん」


「では、頑張ります」


 リリスの表情が明るくなった。


 単純。


 いや、素直。


 とても素直。


 廊下を歩く生徒たちが、俺たちをちらちら見ていた。


 その中に、昨日隣の席になったユリウス・ローレンがいた。


 栗色の髪を揺らし、軽い足取りで近づいてくる。


「おはよう、アルフレッド」


「おはようございます、ユリウス」


「おはようございます、アマリリス様」


「ご機嫌よう、ユリウス様」


 リリスは完璧な礼を返す。


 ユリウスはにこにこしていた。


「朝から仲が良さそうだね」


「普通に挨拶していただけです」


「そうかな」


「そうです」


「でも、今『授業中は振り返らない』みたいな話が聞こえたけど」


「聞こえていたんですか」


「少しだけ」


 ユリウスは楽しそうだ。


 昨日から完全に面白がっている。


 リリスは少し恥ずかしそうに言った。


「私、授業中にアルが気になってしまうかもしれませんので、我慢の練習をします」


「なるほど」


 ユリウスは一瞬目を丸くし、それから笑いを堪えた。


「アマリリス様は正直だね」


「そうでしょうか」


「うん。とても」


「アルにもよく言われます」


「だろうね」


 俺はユリウスを見た。


「笑っていますよね?」


「ごめん。笑ってない」


「口元が完全に負けています」


「君の従者もよく言われていそうな台詞だ」


「よく言います」


 そんな会話をしながら教室に入る。


 昨日よりも空気は少し軽い。


 新入生たちも、一日目を終えて少しずつ緊張が解けているようだ。


 だが、俺とリリスが入ると、やはり視線が集まる。


 斜め前の席。


 リリスは自分の席に座り、鞄を置いた。


 そして、振り返りそうになって止まった。


 偉い。


 俺は席に座りながら、小さく頷いた。


 リリスは前を向いたまま、少し嬉しそうに肩を揺らした。


 分かりやすい。


 ユリウスが隣に座り、ひそひそと聞いてくる。


「今のは何?」


「授業前なので、振り返りを我慢したリリスへの評価です」


「もう仕組みができているんだ」


「できてしまいました」


「君たち、本当に面白い」


「また言った」


 一時間目は礼法の授業だった。


 担任のマクレイン先生とは別の、年配の女性教師が教室に入ってくる。


 背筋がすっと伸びた、厳しそうな先生だ。


「皆さん、おはようございます。礼法を担当するエレノア・ベイルです」


 教室が静まる。


 ベイル先生は鋭い目で教室全体を見渡した。


「王立学園において、礼法はただの形ではありません。相手への敬意、自らの立場、場の空気を読む力。それらすべてが表れます」


 なるほど。


 大事な授業だ。


 俺は背筋を伸ばした。


 リリスも完璧な姿勢で前を向いている。


「本日は初回ですので、まずは基本姿勢、礼の角度、座った状態での会話姿勢を確認します」


 座った状態での会話姿勢。


 リリスの肩が微かに動いた。


 また刺さった。


 大丈夫か。


 ベイル先生は生徒を順番に立たせ、礼の仕方を確認していく。


 さすが貴族子弟が多いだけあって、皆それなりにできている。


 だが、細かいところで注意が入る。


「視線が落ちすぎです」


「手の位置をもう少し自然に」


「礼の前に一拍置きなさい」


 厳しい。


 しかし的確だ。


 やがてリリスの番になる。


 彼女は立ち上がり、優雅に礼をした。


 完璧だった。


 教室の空気が少し変わる。


 ベイル先生も一瞬だけ目を細めた。


「アマリリス・フルーラさん。大変美しい礼です」


「ありがとうございます」


「ただし、美しすぎる礼は時に相手との距離を作ります」


「……距離」


 リリスが反応した。


 俺も反応した。


 先生、その言葉は危険です。


「礼とは壁ではなく橋です。相手を遠ざけるものではありません。心を込めなさい」


「はい」


 リリスは真剣に頷いた。


 距離を作る。


 橋。


 心。


 これはリリスの中で何か変な化学反応を起こしそうだ。


 頼む。


 普通に受け止めてくれ。


 次に俺の番。


 立ち上がり、礼をする。


 ベイル先生が頷いた。


「アルフレッド・シェルザートさん。基本はできています。少し肩に力が入っていますね」


「はい」


「相手に誠意を示そうとしているのは伝わります。ただ、硬すぎると相手も緊張します」


「承知しました」


「あなたは、少し力を抜くことを覚えなさい」


「はい」


 力を抜く。


 母上にも言われたことだ。


 俺は自分でも真面目すぎるところがあると分かっている。


 リリスといる時は、ツッコミのせいで力が抜けているのか入っているのか分からないが。


 席に戻る時、リリスが少しだけ振り返りそうになった。


 止まった。


 偉い。


 しかし、彼女の肩がぷるぷるしている。


 褒めたいのを我慢しているのか?


 いや、違う。


 俺を見たいのを我慢しているのか。


 俺は席に座ってから、机の下で小さく親指を立てた。


 ライズの真似みたいで嫌だったが、声を出せないから仕方ない。


 リリスが一瞬だけ横目でそれを見た。


 頬が赤くなった。


 前を向いたまま、小さく頷く。


 よし。


 これで授業中に振り返らずに済むかもしれない。


 隣のユリウスが小声で言った。


「今の親指、何?」


「応援です」


「君も使うんだ」


「不本意ながら」


 礼法の授業は続いた。


 座った状態での会話姿勢では、生徒同士で向かい合って短い会話をすることになった。


 席の近い者同士で組む。


 俺の相手はユリウス。


 リリスの相手は隣の令嬢、エレナ・クライス伯爵令嬢だった。


 昨日も少し挨拶した、落ち着いた雰囲気の令嬢だ。


 リリスは完璧に会話姿勢を取っている。


 だが、時々こちらを気にしている。


 エレナ嬢がそれに気づき、微笑んだ。


「アマリリス様」


「はい」


「アルフレッド様が気になりますか?」


「……はい」


 認めた。


 早い。


 エレナ嬢が小さく笑う。


「でも、今は私と会話の練習ですわ」


「はい。分かっています」


「では、私をアルフレッド様だと思って」


「それはできません」


「即答ですのね」


「アルはアルですので」


「まあ」


 聞こえてる。


 完全に聞こえてる。


 ユリウスが笑いを堪えている。


 俺は手で顔を覆いたくなった。


 ベイル先生がこちらを見た。


 しかし、怒るというより、少し興味深そうな顔だった。


「アマリリスさん」


「はい」


「会話相手には、今向き合っている相手を見なさい」


「はい」


「大切な方が別にいても、目の前の相手への礼を欠いてはいけません」


「はい。申し訳ございません」


 リリスは素直に頭を下げた。


 ベイル先生は頷く。


「ただし、気持ちを隠せないほど大切に思う相手がいることは、悪いことではありません」


「……はい」


「大切なのは、その思いを場に合った形で示すことです」


 リリスは真剣に聞いている。


 俺も思わず聞き入った。


 場に合った形。


 それはまさに、リリスが学ぼうとしていることだ。


「分かりました」


 リリスは静かに答えた。


「私は、アルを大切に思っています」


 教室がざわついた。


 そこ、声に出す!?


「ですが、今はエレナ様と向き合います」


 リリスはエレナ嬢へ向き直った。


「エレナ様、失礼いたしました」


「い、いえ」


 エレナ嬢が頬を赤くしている。


 周囲の令嬢たちも何とも言えない顔になっている。


 ベイル先生はしばらくリリスを見たあと、静かに頷いた。


「よろしい。大変率直ですが、礼を学ぶ姿勢としては悪くありません」


 許された。


 いや、本当に?


 これでいいのか礼法。


 ユリウスが小声で言った。


「すごいな、アマリリス様」


「そうですね」


「場を凍らせずに、むしろ納得させた」


「本人は大真面目ですから」


「君、毎日大変だろう」


「はい」


「でも、ちょっと羨ましい」


「なぜですか」


「ここまで真っ直ぐ思われることは、そうそうない」


 俺は言葉に詰まった。


 ユリウスの言う通りだ。


 リリスの好意は真っ直ぐすぎる。


 重い時もある。


 近すぎる時もある。


 だが、こんなにも迷いなく大切だと言ってもらえることは、きっと当たり前ではない。


「……そうですね」


 俺は小さく答えた。


 一時間目が終わると、教室には一気にざわめきが戻った。


 リリスはすぐにこちらを振り返った。


 約束通り、授業中は振り返らなかった。


 いや、振り返りかけたが止まった。


 十分だ。


「アル」


「はい」


「私、振り返りませんでした」


「はい。よく頑張りました」


「褒められました」


 リリスの顔がぱっと明るくなる。


 周囲の生徒たちが見ている。


 だが、もういい。


 これは褒めるべきだ。


「授業もちゃんと聞いていましたね」


「はい」


「エレナ嬢との会話も、最後はきちんと向き合えていました」


「はい」


「とても立派でした」


「……っ」


 リリスの目が潤む。


「リリス」


「はい」


「教室です」


「泣きません」


「偉いです」


「褒めると泣きそうになります」


「難しい」


 エレナ嬢が近づいてきた。


「アマリリス様」


「はい」


「先ほどはありがとうございました」


「こちらこそ、失礼いたしました」


「いえ。私、少し感動しました」


「感動?」


「はい。あんなに真っ直ぐ大切だと言えるのは、素敵です」


「……ありがとうございます」


 リリスが照れる。


 エレナ嬢は俺を見る。


「アルフレッド様も、大変ですね」


「よく言われる気がします」


「でも、お幸せそうです」


「……否定はしません」


 リリスがぱっとこちらを見た。


「アル、今」


「はい」


「幸せを否定しませんでした」


「しませんでした」


「……」


「リリス?」


「泣きそうです」


「教室です」


「我慢します」


 リリスは両手を握りしめ、必死に耐えた。


 エレナ嬢が口元を押さえている。


 ユリウスは肩を震わせている。


 クラスメイトたちが、だんだん俺たちの扱いに慣れ始めている。


 早い。


 慣れるのが早い。


 二時間目は歴史。


 三時間目は基礎魔法理論。


 リリスはどちらも真面目に受けていた。


 振り返らなかった。


 ただ、基礎魔法理論で教師が「魔力には個人差があり、相性も重要です」と言った時、リリスが少しだけこちらを見そうになった。


 相性という言葉に反応したのだろう。


 分かりやすすぎる。


 俺は机の下でまた小さく親指を立てた。


 リリスは前を向いたまま、小さく頷いた。


 この合図、便利だ。


 ライズに負けた気がして少し悔しい。


 昼休み。


 ついに食堂の時間が来た。


 王立学園の食堂は広い。


 天井が高く、大きな窓から光が入る。


 長いテーブルがいくつも並び、生徒たちが自由に席を選ぶ形式だ。


 身分順という厳密な決まりはないが、自然と家格や友人関係で固まりやすい。


 新入生たちは少し緊張しながら席を探している。


 俺はリリスと一緒に食堂へ入った。


 ユリウス、エレナ嬢も近くにいる。


「さて、どこに座りましょうか」


 ユリウスが言う。


 俺が周囲を見る前に、リリスが俺を見た。


「アル」


「はい」


「食堂のほどほどです」


「ついに来ましたね」


「はい」


「まずは席を決めましょう」


「隣がよいです」


「早い」


「食事中に向かいだと、見つめすぎてしまうかもしれません」


「隣でも見られると思います」


「では斜め前?」


「それが無難です」


「でも斜め前は教室と同じです」


「同じだと何か問題が?」


「授業中を思い出します」


「授業中を思い出して落ち着くのでは?」


「アルを見られなかった我慢を思い出します」


「なるほど分からない」


 エレナ嬢が吹き出しそうになった。


 ユリウスは完全に笑っている。


 結局、四人でテーブルにつくことになった。


 配置は、俺の正面にユリウス。


 俺の斜め前にリリス。


 リリスの正面にエレナ嬢。


 これなら会話もしやすい。


 距離もほどほど。


 リリスは最初少し悩んでいたが、座ると納得したように頷いた。


「食堂のほどほど、暫定です」


「暫定なんですね」


「はい。食事のしやすさも大切ですので」


「そこは正しいです」


 昼食は数種類から選べた。


 俺は肉料理とパン、スープを選ぶ。


 リリスは魚料理と野菜の皿、果物の小さなデザート。


 上品だ。


 俺の皿はやや男らしい。


 いや、腹が減っているのだから仕方ない。


「アルはお肉がお好きなのですね」


「はい。稽古の後などは特に」


「では、私も今度」


「無理に合わせなくていいですよ」


「でも、アルが好きなものを知りたいです」


「知るだけでいいです」


「食べてみるのも知ることです」


「それはそうですが」


 リリスは俺の皿を見つめていた。


「一口、いただいてもよろしいでしょうか」


 その瞬間、食堂の一部が反応した。


 え?


 聞いていた?


 周囲の生徒たちがちらちら見ている。


 婚約者同士で一口分け合う。


 まあ、距離感としては近い。


 かなり近い。


 俺は慎重に答えた。


「リリス、自分の皿の料理もありますから」


「はい」


「食べきれなくなると困ります」


「一口だけです」


「……」


「だめですか?」


 上目遣い。


 ずるい。


 食堂でこれはずるい。


 俺が迷っていると、ユリウスがにこにこしながら言った。


「婚約者同士なら、別におかしくないんじゃない?」


「ユリウス」


「僕は面白……いや、微笑ましいと思う」


「今、面白いと言いかけましたね」


「気のせいだよ」


 エレナ嬢も微笑んだ。


「一口くらいでしたら、可愛らしいと思いますわ」


 味方がいない。


 いや、悪いことではない。


 俺は小さく息を吐き、自分の皿から肉を一切れ切り分けた。


「では、これを」


 小皿に乗せてリリスへ渡そうとする。


 リリスが少しだけ身を乗り出した。


「アルが食べさせてくださるのでは?」


「食堂です!!」


 声が出た。


 思ったより出た。


 食堂が一瞬静かになった。


 やってしまった。


 俺は咳払いした。


「……失礼しました」


 周囲からくすくす笑いが起こる。


 リリスは顔を赤くしている。


「す、すみません。婚約者らしいかと」


「婚約者らしいの範囲が攻めすぎです」


「攻めすぎ」


「はい」


「では、小皿でいただきます」


「お願いします」


 リリスは小皿を受け取り、肉を口に運んだ。


 少し目を丸くする。


「美味しいです」


「よかった」


「アルが好きな味です」


「そうですね」


「覚えました」


「食堂のほどほど以外にも覚えるものが増えていませんか」


「アル理解です」


「また出た」


 ユリウスがとうとう笑った。


 エレナ嬢も肩を震わせている。


 周囲の生徒たちも楽しそうに見ている。


 完全に食堂の注目を集めてしまった。


 だが、険悪ではない。


 笑いがある。


 たぶん、これならまだいい。


 昼食の後半、リリスは自分の果物を一切れ見つめていた。


 嫌な予感。


「リリス」


「はい」


「それは」


「アルにも、少し」


「小皿でお願いします」


「はい」


 先に釘を刺した。


 リリスは素直に小皿へ果物を乗せ、俺に差し出した。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 食べる。


 甘くて美味しい。


「美味しいです」


「よかったです」


 リリスが嬉しそうに笑う。


 その笑顔を見ていると、食堂中に見られていることも少し忘れそうになる。


 だが、忘れてはいけない。


 ここは学園だ。


 公共の場だ。


 ほどほど。


 大事。


 昼休みが終わる前、エレナ嬢がリリスに尋ねた。


「アマリリス様、午後は図書棟の見学もあるそうですわ」


「図書棟」


 リリスが俺を見る。


「アルは本がお好きですか?」


「はい。読む方だと思います」


「では、私も」


「リリス」


「はい」


「本は、自分の興味で選んでいいんですよ」


「アルが好きな本も知りたいです」


「それは今度教えます」


「今度」


「はい」


「約束です」


「約束です」


 リリスは嬉しそうに頷いた。


 その様子を見て、エレナ嬢が微笑む。


「お二人は、約束が多いのですね」


「そうですね」


 俺は苦笑した。


 小さな約束が増えていく。


 また会う。


 手を繋ぐ。


 制服を見る。


 本を教える。


 距離感を一緒に考える。


 どれも小さなことだ。


 でも、リリスにとっては一つ一つが大切なのだろう。


 俺にとっても、少しずつ大切になっている。


 午後の授業と見学が終わる頃には、俺はかなり疲れていた。


 授業自体よりも、リリスの我慢を見守り、ツッコミを抑え、周囲の視線に耐える方が疲れた気がする。


 だが、リリスは一日よく頑張った。


 授業中に振り返らなかった。


 食堂では少し攻めたが、小皿で我慢した。


 廊下でもほどほどを守った。


 これは褒めるべきだ。


 帰り際、正門近くでリリスと向かい合った。


 ミラが少し離れて待っている。


 ライズも背後にいる。


 ユリウスとエレナ嬢は先に帰った。


「リリス」


「はい」


「今日は一日、よく頑張りました」


 リリスの顔が一瞬で赤くなる。


「授業中も前を向けていましたし、食堂でも最後は落ち着いていました」


「はい」


「学園での距離感も、昨日よりかなり良かったと思います」


「本当ですか?」


「本当です」


「……っ」


 リリスの目に涙が浮かんだ。


「泣きます」


「ここ正門です」


「我慢します」


「偉いです」


「褒めると我慢が難しくなります」


「またですね」


 リリスは必死に深呼吸した。


 そして、小さく笑った。


「アルが褒めてくださるから、頑張れます」


「俺も、リリスが頑張っているからちゃんと見ようと思えます」


「……」


「リリス?」


「今のは、少し強すぎます」


「何がですか」


「嬉しさが」


「嬉しさに強弱があるんですね」


「はい」


 リリスは涙を堪えながら笑った。


「今日は馬車の中で泣きます」


「はい」


「でも、悲しくありません」


「分かっています」


「嬉しい涙です」


「はい」


 俺は鞄からハンカチを一枚取り出した。


「馬車の中で使ってください」


「……アル」


「ただし、返してくださいね」


「はい。洗って返します」


「宝物には?」


「……少しだけ考えました」


「リリス」


「返します」


 彼女はハンカチを受け取り、大切そうに胸元に抱えた。


 その仕草だけで、俺の胸が少し温かくなる。


 ミラが静かに微笑んでいる。


 ライズは見えないところで親指を立てている気がする。


 たぶん立てている。


「では、また明日」


「はい。また明日、アル」


 リリスは馬車に乗り込む。


 扉が閉まる直前、小さく手を振った。


 俺も振り返す。


 馬車が動き出す。


 その後ろ姿を見送りながら、俺は長く息を吐いた。


 学園二日目。


 初授業。


 初昼食。


 初めての食堂のほどほど。


 色々あった。


 だが、悪くない一日だった。


 むしろ、少し楽しかった。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上が待っていた。


「どうだった、初授業は」


「無事に終わりました」


「リリス嬢は振り返ったか?」


「振り返りませんでした」


「おお」


「食堂では少し事件がありました」


「何だ」


「俺に肉を食べさせてもらおうとしました」


 父上が盛大に吹き出した。


 リーマスが静かに目を閉じた。


「青春でございますね」


「違います」


「違うのか?」


 父上が笑いながら聞く。


「違います。食堂です」


「場所の問題か」


「大問題です」


 父上はひとしきり笑ったあと、少し真面目な顔になった。


「王子殿下とは?」


「今日は特に接触はありませんでした」


「そうか」


「ただ、視線は感じました」


「引き続き注意しなさい」


「はい」


「だが、今日はよくやった」


「ありがとうございます」


「リリス嬢も頑張ったようだな」


「はい」


「なら、褒めてやったか?」


「褒めました」


「泣いたか?」


「馬車の中で泣く予定だそうです」


「予定制か」


 父上はまた笑った。


 その日の遅く。


 やはりフルーラ公爵家から書状が届いた。


 差出人はガロウ公爵。


 内容はこうだった。


『娘が馬車の中でハンカチを抱えて泣いた。悲しくはないらしい。あと「食堂のほどほど」は小皿が重要だと言っている。説明しろ。 ガロウ』


 俺は書状を読み、天井を見上げた。


 父上は腹を抱えて笑った。


 リーマスは「小皿は節度の象徴でございます」と頷いた。


 ライズは親指を立てた。


 そして俺は、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 食堂のほどほどを!!


 小皿で定義しないでください!!

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