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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第7話 入学式前日、公爵令嬢様は準備の時点で近い


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 ついに来てしまった。


 何が来たのか。


 王立学園の入学式である。


 いや、正確にはまだ前日だ。


 だが、俺の心はすでに入学式当日の朝くらい緊張している。


 なぜなら、明日から俺とリリスは同じ学園に通うことになる。


 制服を着て。


 教室に入り。


 授業を受け。


 食堂で昼食を取り。


 廊下を歩き。


 社交界とは違う、同年代の貴族子弟たちの視線を浴びることになる。


 そして何より。


 リリスがいる。


 あの、距離感を真剣に研究している公爵令嬢がいる。


 俺の隣に。


 たぶん。


 いや、絶対に。


 王立学園。


 それは王国中の貴族子弟にとって、ある意味で小さな社交界だ。


 王族、公爵家、侯爵家、伯爵家、子爵家、男爵家。


 さらに優秀な騎士家や文官家の子弟も集まる。


 年齢は十五歳から十八歳まで。


 将来の婚姻、派閥、友情、敵対関係。


 いろいろなものが、ここで形作られる。


 父上いわく、


「学園とは、勉学をする場所であり、将来面倒になる相手を早めに見分ける場所でもある」


 とのことだ。


 嫌な言い方。


 でもたぶん真実。


 そして今、俺は自室で学園用の鞄を確認していた。


 机の上には、先日リリスと一緒に選んだ学用品が並んでいる。


 革鞄。


 筆記具。


 教本ケース。


 しおり。


 そのしおりだけは、リリスとお揃いだ。


 淡い青の小さなリボンがついたもの。


 俺のものには銀の飾り。


 リリスのものには青い石の飾り。


 お揃いだが、露骨すぎない。


 ……はずだ。


 いや、リリスはきっと気づいた人全員に説明する。


『アルとお揃いです』


 と言う。


 絶対言う。


 俺には分かる。


 そして周囲が「まあ」となる。


 俺が照れる。


 リリスが嬉しそうにする。


 俺がツッコむ。


 未来が見える。


「若様」


 背後からライズの声がした。


「明日のご準備は整いましたか?」


「一応な」


「制服はすでに整えてございます」


「ああ、ありがとう」


「靴も磨いております」


「助かる」


「喉の調子はいかがですか?」


「なぜ喉?」


「明日はツッコミが多くなる可能性がございますので」


「やめろ。不吉な準備をするな」


 ライズは真顔だった。


 だが、最近こいつの真顔は信用できない。


 真顔でからかってくるからだ。


「ライズ」


「はい」


「明日は、できる限り静かにいく」


「承知いたしました」


「リリスも、学園での距離感を意識しているはずだ」


「はい」


「だから、きっと大丈夫だ」


「左様でございますね」


「……何だ、その間は」


「いえ、若様が前向きで大変よろしいかと」


「今、絶対何か思っただろう」


「アマリリス様は、若様の予想を越えてこられるお方ですので」


「言うな」


 分かっている。


 リリスは努力する。


 真剣に。


 誰よりも真面目に。


 そして努力の結果、たまに斜め上に飛ぶ。


 それが怖い。


 だが、可愛い。


 ……怖いと可愛いが同居している時点で、俺もだいぶ慣れてきた気がする。


 すると、扉が軽く叩かれた。


「アル、入ってもいいかしら」


「はい、母上」


 母上が入ってきた。


 淡い緑のドレスを着て、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。


 手には小さな箱。


「準備はできた?」


「はい。だいたいは」


「そう。明日から学園ね」


「はい」


「緊張している?」


「……少し」


「アマリリス様のこと?」


「それもあります」


 母上はくすりと笑った。


 やはり見透かされている。


「リリスも、きっと緊張しているわ」


「そうでしょうね」


「だから、明日はまず安心させてあげなさい」


「はい」


「あなたも無理に格好つけなくていいのよ」


「格好つけているつもりはないのですが」


「男の子は、好きな子の前では少し格好つけるものよ」


「母上」


 やめてほしい。


 母親にそういうことを言われるのは、父上にからかわれるよりも照れる。


 母上は小さな箱を俺へ差し出した。


「これを」


「何ですか?」


「ハンカチよ。新しいものを用意しておいたわ」


「ハンカチ」


「明日、必要になるかもしれないでしょう?」


「リリスが泣く前提ですか」


「嬉し泣きかもしれないわ」


「否定できない」


 箱を開けると、白いハンカチが数枚入っていた。


 端にはシェルザート家の紋章が控えめに刺繍されている。


「上等なものだから、令嬢に貸しても失礼にならないわ」


「ありがとうございます」


「アマリリス様がもし泣いてしまったら、自然に差し出してあげなさい」


「はい」


「でも、毎回貸していると全部宝物にされるかもしれないから、返してもらうのよ」


「母上も分かってきましたね」


「ふふ。可愛らしい方だもの」


 母上は本当にリリスを気に入っている。


 それが嬉しくもあり、少し照れくさくもあった。


「アル」


「はい」


「明日から、あなた自身もきっと色々な視線を向けられるわ」


「分かっています」


「王家とのことも、社交界の噂も、なくなるわけではない」


「はい」


「でも、あなたはあなたらしくいなさい。困っている人を放っておけない、少し真面目で、少し照れ屋で、ツッコミが忙しいアルのままで」


「最後」


「大事でしょう?」


「否定できません」


 母上は笑った。


 その笑顔に、少しだけ肩の力が抜ける。


 俺は新しいハンカチを鞄に入れた。


 準備は整った。


 あとは明日を迎えるだけ。


 そう思った時だった。


 廊下の方から足音が近づいてきた。


 やや速い。


 そして、扉の外で止まる。


「若様、旦那様より書状でございます」


 使用人の声。


 俺はライズに目を向けた。


 ライズが扉を開け、書状を受け取る。


 封蝋はフルーラ公爵家。


 また来た。


 もう驚かない。


 いや、少し驚く。


 頻度が高い。


「ガロウ公爵からですか?」


 母上が穏やかに聞いた。


 俺は封を開け、読む。


『娘が制服を着たまま「明日はアルに会えます」と三十七回言っている。あと、教室での距離を紐で測ろうとしている。説明しろ。 ガロウ』


 俺は静かに目を閉じた。


 三十七回。


 数えたのか公爵様。


 そこじゃない。


 紐で測ろうとしている?


 教室で?


 まだ行ってないのに?


 どうやって?


「アル?」


 母上が心配そうに聞く。


「リリスが、教室での距離を紐で測ろうとしているそうです」


「まあ」


 母上は口元に手を当てた。


「勉強熱心ね」


「母上まで」


「でも、紐は目立つわね」


「そこです」


「明日は、紐を持ってきていないか確認した方がいいかもしれないわ」


「本当にありそうで怖いです」


 ライズが静かに言った。


「若様、念のため、私も確認いたします」


「頼む」


「アマリリス様のお荷物を直接確認することはできませんが、ミラ殿に視線で確認します」


「視線で会話できるんだな」


「侍従と侍女とは、そういうものでございます」


「便利だな」


 その夜。


 俺はなかなか寝付けなかった。


 窓の外には月が浮かんでいる。


 白い光が部屋の床を照らし、静かな夜の空気が漂っていた。


 鞄は机の横に置かれている。


 制服は明日のために整えられている。


 ハンカチも入れた。


 筆記具も確認した。


 教本もある。


 準備はできている。


 それでも胸が落ち着かない。


 リリスは今頃どうしているだろう。


 制服を見ているのか。


 教室の椅子配置を想像しているのか。


 紐を持ち出そうとしてミラに止められているのか。


 ……ありそうだな。


 俺は寝台の上で小さく笑った。


 不安もある。


 噂もある。


 王子の件もある。


 学園には、きっと面倒な者もいる。


 それでも、リリスと一緒に学園へ行くことを、俺は楽しみにしていた。


 翌朝。


 入学式当日。


 朝の空はよく晴れていた。


 春の柔らかな光が窓から差し込み、屋敷の廊下を明るく照らしている。


 俺は王立学園の制服に袖を通した。


 濃紺の上着。


 銀の縁取り。


 胸元の徽章。


 鏡の前に立つと、昨日までの自分とは少し違って見えた。


 学園生。


 今日から、俺は王立学園の生徒になる。


 ライズが襟元を整える。


「若様、よくお似合いです」


「ありがとう」


「アマリリス様も、きっと」


「言わなくていい」


「きっと大変お喜びに」


「言わなくていいと言った」


「失礼いたしました」


 ライズの顔は真面目だ。


 だが絶対面白がっている。


 朝食の席では、父上と母上が待っていた。


 父上は俺を見るなり、満足そうに頷いた。


「おお、なかなか様になっているじゃないか」


「ありがとうございます」


「制服を着ると学園生らしくなるな」


「今日から学園生ですから」


「リリス嬢が見たら泣くかもしれん」


「朝から言わないでください」


「ハンカチは持ったか?」


「母上からいただきました」


「よし」


「よしなんですか」


 母上は静かに笑っていた。


「アル、朝食はしっかり食べなさいね」


「はい」


「緊張すると食べられなくなる人もいるけれど、あなたは今日一日忙しいのだから」


「分かっています」


「それに、途中でお腹が鳴ったら、アマリリス様が心配するわ」


「それは困りますね」


「アルが空腹で倒れたら、私が半分食べさせます、とか言いそうね」


「言いそうで怖いです」


 父上が笑った。


 俺はパンを口に運ぶ。


 普通の朝食。


 温かいスープ。


 焼きたてのパン。


 卵料理。


 だが、今日だけは少し味が違って感じた。


 緊張と期待が混ざっている。


 朝食後、玄関ホールへ向かうと、使用人たちが並んでいた。


「若様、ご入学おめでとうございます」


「おめでとうございます」


「いってらっしゃいませ」


 皆が頭を下げる。


 胸が少し熱くなった。


「ありがとう。行ってくる」


 俺がそう言うと、使用人たちは嬉しそうに微笑んだ。


 ライズが馬車の扉を開ける。


 俺は乗り込み、学園へ向かった。


 王立学園は王都の北側にある広大な敷地に建てられている。


 白い石造りの校舎。


 高い時計塔。


 広い中庭。


 訓練場。


 図書棟。


 礼拝堂。


 学寮。


 すべてが壮麗で、歴史を感じさせる。


 馬車が学園の正門へ近づくにつれ、同じように入学式へ向かう馬車が増えていった。


 各家の紋章。


 華やかな制服姿の少年少女。


 付き添いの親や従者。


 門の前には、すでに多くの人が集まっている。


 ざわめき。


 緊張。


 期待。


 春の空気の中に、若い声が混ざっている。


 馬車が止まった。


 扉が開く。


 俺は外へ降りた。


 瞬間、いくつかの視線がこちらに向いた。


「シェルザート伯爵家の……」


「あの方が?」


「フルーラ公爵令嬢の婚約者」


 聞こえる。


 やはり噂は広がっている。


 俺は背筋を伸ばした。


 ここで動揺してはいけない。


 すると、少し離れた場所に見慣れた馬車が止まった。


 フルーラ公爵家の馬車。


 周囲の視線が一斉にそちらへ向く。


 まずガロウ公爵が降りた。


 入学式にも来るのか。


 いや、当然か。


 娘の入学式だ。


 だが、制服姿の若者たちの中にいると、圧がすごい。


 次にミラ。


 そして。


 リリスが降りた。


 俺は呼吸を忘れた。


 王立学園の制服。


 先日見た時にも思ったが、やはり似合っている。


 濃紺の上着に、淡い青のリボン。


 金の髪にはブルーローズの髪飾り。


 朝の光を受けて、彼女の姿はまるで絵のようだった。


 周囲から小さな感嘆が漏れる。


「綺麗……」


「さすがフルーラ公爵令嬢」


「本当にお美しいわ」


 リリスはその視線を受けても、完璧に微笑んでいた。


 だが。


 俺と目が合った瞬間。


 その完璧な笑顔が、少しだけ崩れた。


 ぱっと花が咲くような笑顔。


 それから、足が動く。


 止まる。


 歩き出す。


 前より自然。


 ただ、やっぱり少し早足。


 ミラが後ろで静かに見守っている。


 ガロウ公爵が目を細める。


 リリスは俺の前まで来て、礼をした。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


 俺も礼を返す。


「制服、とても似合っています」


 そう言った瞬間。


 リリスの顔が赤くなった。


 周囲がざわつく。


 しまった。


 人前だった。


 でも本心だ。


 リリスは両手を胸の前で握り、深呼吸した。


「泣きません」


「はい」


「入学式なので」


「はい」


「でも、とても嬉しいです」


「俺も、リリスの制服姿を見られて嬉しいです」


「……っ」


 リリスが目を潤ませた。


 やばい。


 追撃してしまった。


「アル」


「はい」


「朝から強いです」


「何がですか」


「私の心に」


「表現」


 近くにいた令嬢たちが小さく笑った。


 聞かれた。


 もう遅い。


 リリスは少しだけ俺の隣に寄った。


 近い。


 でも、学園の正門前としてはぎりぎり。


 いや、少し近い。


「リリス」


「はい」


「学園でのほどほどですか?」


「はい」


「正門前の?」


「はい」


「基準が細かい」


「場所ごとに違うとアルが言いました」


「言いましたけど」


 俺が言った。


 確かに言った。


 場所や状況によって距離は変わると。


 それを真面目に受け止めた結果がこれだ。


 正門前のほどほど。


 きっとこの先、廊下のほどほど、教室のほどほど、食堂のほどほどが出てくる。


 未来が見える。


「リリス」


「はい」


「今日は、まず入学式に集中しましょう」


「はい」


「距離感は、その都度考えましょう」


「はい。都度」


「メモしなくていいです」


「……」


「今、メモしようとしました?」


「少しだけ」


「やっぱり」


 ミラが小さく頭を下げた。


 鞄の中にメモが入っているのだろう。


 紐は?


 紐はあるのか?


 ライズがミラに視線を送る。


 ミラがわずかに首を横に振った。


 よかった。


 紐はない。


 たぶん。


「リリス」


 ガロウ公爵が低い声で言った。


「入学式だ。落ち着いて行きなさい」


「はい、お父様」


「アルフレッド殿」


「はい」


「娘を頼む」


「はい」


「泣きそうになったら」


「ハンカチは持っています」


「よし」


 よしなんだ。


 ガロウ公爵が真剣に頷いた。


 もうハンカチ所持確認は必須事項らしい。


 入学式の会場である大講堂へ向かう道には、多くの新入生が集まっていた。


 俺とリリスが並んで歩くと、視線が集まる。


 リリスは公爵令嬢として堂々としている。


 俺もできるだけ自然に歩く。


 だが、隣のリリスが時々こちらを見る。


 ちら。


 前を向く。


 ちら。


 前を向く。


「リリス」


「はい」


「前を見て歩きましょう」


「はい」


「転びます」


「気をつけます」


 リリスは前を向いた。


 三秒後。


 ちら。


「リリス」


「アルが制服を着ているので」


「理由になっているようでなっていません」


「見たいのです」


「入学式後に見られます」


「今も見たいのです」


「正直すぎる」


 リリスは頬を赤くしながらも、真剣だった。


 可愛い。


 だが危ない。


 石畳で転んだら大変だ。


「では、講堂まで転ばずに歩けたら、あとで少しだけ見てもいいです」


「本当ですか?」


「制服姿を見る許可を出すのも変ですが、本当です」


「頑張ります」


 リリスの歩き方が一気に真剣になった。


 前を見る。


 背筋を伸ばす。


 完璧な歩き方。


 いや、そんなに効果あるのか。


 周囲の新入生たちは、俺たちのやり取りを聞いていたらしく、くすくす笑っている者もいた。


 恥ずかしい。


 だが、険しい視線よりはいい。


 大講堂に入ると、その広さに少し圧倒された。


 高い天井。


 壁に並ぶ歴代校長の肖像画。


 正面には王立学園の紋章。


 長椅子が整然と並び、新入生たちが家格や所属予定の組ごとに案内されている。


 俺とリリスは、身分順の関係で少し離れた席になるかと思っていた。


 だが、係の教師が名簿を確認し、俺たちを同じ列の近い席へ案内した。


 公爵令嬢とその婚約者という扱いなのだろうか。


 リリスの顔が明るくなる。


 近い席。


 これは危険だ。


 いや、椅子は決まっているから大丈夫か。


 俺が席に座ると、リリスは隣の席へ座った。


 普通に隣。


 距離は椅子一つ。


 健全。


 完璧。


 そう思った。


 しかしリリスが小声で言った。


「アル」


「はい」


「椅子が固定されています」


「そうですね」


「動かせません」


「動かさなくていいんです」


「これは、学園側が決めたほどほどですね」


「違います」


「違うのですか?」


「ただの座席です」


「まあ」


 リリスは少し驚いた顔をした。


 いや、座席に距離感の意思を見出さないでほしい。


 式が始まる前、周囲の新入生たちの会話が耳に入る。


「フルーラ様、本当にシェルザート様と並んでいるわ」


「婚約者ですもの」


「王家との話はどうなったのかしら」


「でも、見て。フルーラ様、とても嬉しそう」


「シェルザート様も落ち着いているわね」


 落ち着いて見えるなら成功だ。


 内心はそこそこ忙しい。


 リリスは表情を整えて前を向いている。


 公爵令嬢の顔。


 その横顔は美しく、周囲が見惚れるのも分かる。


 だが、膝の上の手が少しだけ握られている。


 緊張しているのだ。


 俺は小声で言った。


「リリス」


「はい」


「大丈夫です」


 リリスの指先が少し緩んだ。


「ありがとうございます」


「泣かないでくださいね」


「今は泣きません」


「今は」


「式が終わったら少しだけ」


「予定に入れないでください」


 リリスの口元が少し緩んだ。


 それだけで、俺も少し安心した。


 やがて鐘が鳴り、入学式が始まった。


 校長の挨拶。


 王立学園の歴史。


 学園生活の心得。


 新入生代表の宣誓。


 式は厳粛に進んだ。


 俺は真面目に聞いていた。


 隣のリリスも、背筋を伸ばして座っている。


 完璧な姿勢。


 ただし、校長が「学園では互いに節度ある距離を保ち」と言った瞬間、リリスが微かに反応した。


 こっちを見るな。


 前を向け。


 俺は視線だけで伝えた。


 リリスは小さく頷いた。


 伝わった。


 最近、俺たちも視線で少し会話できるようになってきた気がする。


 式の終盤。


 教師から新入生へ向けて、今後の流れが説明された。


 今日はこのあと各組に分かれて教室へ移動し、担任から説明を受ける。


 組分けは、身分だけでなく学力や適性も見て構成されるらしい。


 俺の組は、すでに書類で知らされていた。


 一年一組。


 そしてリリスも同じ一組。


 婚約者だから配慮されたのか、偶然かは分からない。


 いや、たぶん配慮だ。


 フルーラ公爵家とシェルザート家の婚約者を初日から別組にする方が面倒だと判断されたのかもしれない。


 式が終わり、講堂にざわめきが戻る。


 新入生たちが立ち上がり、教師の案内に従って移動を始めた。


 リリスも立ち上がる。


 そして、俺を見た。


「アル」


「はい」


「転ばずに講堂まで来られました」


「あ」


 覚えていた。


 俺も覚えていた。


 制服姿をあとで少し見てもいいという約束。


 いや、見てもいいって何だ。


 リリスは期待に満ちた目で俺を見ている。


「……教室に着いてから少しだけ」


「はい」


「歩きながら見ないでください」


「はい」


「転びますから」


「はい」


 リリスは嬉しそうに頷いた。


 前を向いて歩き始める。


 偉い。


 ただし、少しだけ口元が緩んでいる。


 可愛い。


 講堂から教室へ向かう廊下は、新入生で混雑していた。


 制服姿の少年少女。


 緊張した顔。


 楽しそうな声。


 互いに名乗り合う者。


 家名を確認する者。


 すでに派閥らしき小さな集まりも見える。


 学園生活は、もう始まっている。


 俺とリリスが並んで歩くと、周囲が自然と道を空けた。


 公爵令嬢の存在感もあるが、噂のせいでもあるだろう。


 リリスは堂々と歩いている。


 俺も隣で歩く。


 近すぎず、遠すぎず。


 今の距離は悪くない。


「アル」


「はい」


「廊下のほどほどは、このくらいでしょうか」


「はい。良いと思います」


「覚えます」


「メモはあとで」


「はい」


 本当にメモするつもりだ。


 鞄の中に小さな手帳があるのを俺は知っている。


 ミラが出発前に「最低限にしております」と言っていた。


 最低限の距離感メモとは。


 教室に着くと、すでに何人かの生徒が席についていた。


 教室は明るかった。


 大きな窓。


 黒板。


 整然と並ぶ机。


 壁には学園の規則と時間割が掲示されている。


 席は名前で決まっていた。


 俺の席は窓側から二列目。


 リリスの席は、その斜め前。


 隣ではない。


 斜め前。


 絶妙な距離。


 リリスが席札を見て固まった。


「アル」


「はい」


「斜め前です」


「そうですね」


「隣ではありません」


「そうですね」


「でも、振り返れば見えます」


「授業中は前を向きましょう」


「はい」


「先生の話を聞きましょう」


「はい」


「俺を見続けないように」


「……はい」


 今、少し間があった。


 危ない。


 リリスは斜め前の席へ座った。


 そして、座った状態で少しだけ振り返る。


 俺を見る。


 微笑む。


 すぐ前を向く。


 頑張っている。


 だが、周囲の生徒は見ている。


 特に近くの令嬢たちが目を輝かせている。


 噂が加速する未来が見える。


 俺が席に座ると、隣の席の男子が声をかけてきた。


 栗色の髪の、爽やかな印象の少年だ。


「君がアルフレッド・シェルザート?」


「はい。アルフレッド・シェルザートです」


「僕はユリウス・ローレン。ローレン侯爵家の三男だ」


「よろしくお願いします、ローレン様」


「ユリウスでいいよ。堅苦しいのは苦手なんだ」


「では、ユリウス。俺のこともアルフレッドで構いません」


「ありがとう」


 ユリウスはにこりと笑った。


 気さくな人物らしい。


 ただ、その目には好奇心がある。


「噂は聞いているよ」


「でしょうね」


「フルーラ公爵令嬢と婚約した伯爵子息」


「その言い方、重いですね」


「実際重い話だろう?」


「否定できません」


 ユリウスは小さく笑った。


「でも、さっき見ていて思った」


「何をですか?」


「噂よりずっと仲が良さそうだ」


「……そう見えますか」


「うん。フルーラ様、君を見る時だけ表情が柔らかい」


 俺は斜め前のリリスを見る。


 リリスは前を向いている。


 だが、耳が少し赤い。


 聞こえている。


 絶対聞こえている。


「リリス」


 俺が小声で呼ぶと、彼女はぴくりと反応した。


「聞こえていましたか?」


「少しだけ」


「前を向いているのに?」


「アルの声は聞こえます」


「性能が高い」


 ユリウスが笑いを堪えていた。


「なるほど。噂より面白そうだ」


「面白がらないでください」


「いや、失礼。でも、君たちは人気が出そうだ」


「何の人気ですか」


「見守りたい婚約者として」


「もう屋敷だけで十分です」


 俺は頭を抱えたくなった。


 学園にも見守り勢が増えるのか。


 やめてほしい。


 いや、無理だろうな。


 リリスは目立つ。


 俺たちのやり取りも目立つ。


 諦めるしかないのかもしれない。


 やがて担任の教師が教室に入ってきた。


 四十代くらいの男性で、眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の教師だ。


「皆さん、席についてください」


 教室が静かになる。


 教師は教壇に立ち、名簿を開いた。


「一年一組の担任を務める、エルド・マクレインです。これから一年、皆さんの学業と生活を支えていきます」


 低く落ち着いた声。


 厳しすぎず、軽すぎない。


 信頼できそうな教師だ。


「まずは入学おめでとうございます。皆さんは今日から王立学園の生徒です。家名を背負う者も、己の才でここに来た者も、この教室では同じ学び舎の仲間です」


 教室の空気が少し引き締まる。


「ただし、貴族社会の現実から完全に自由になるわけではありません。礼儀、節度、責任。それらを忘れず、互いを尊重してください」


 節度。


 またリリスが反応した。


 斜め前で肩が少し動く。


 俺は笑いそうになった。


 先生、初日からリリスに刺さる言葉を使わないでください。


「では、簡単に自己紹介をしてもらいます」


 来た。


 自己紹介。


 新入生全員が一人ずつ立ち、名前と家名、簡単な抱負を述べる。


 順番に進んでいく。


 侯爵家の子息。


 伯爵家の令嬢。


 騎士家の少年。


 文官家の少女。


 皆、緊張しながらもそれなりに立派に話している。


 やがてリリスの番になった。


 教室の空気が明らかに変わる。


 全員が彼女を見る。


 フルーラ公爵令嬢。


 美貌と家格、そして婚約の噂。


 注目されるのは当然だ。


 リリスは静かに立ち上がった。


 背筋を伸ばし、優雅に礼をする。


「アマリリス・フルーラと申します」


 声は澄んでいた。


「この学園で多くを学び、皆さまと良き関係を築ければと思っております。未熟な身ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」


 完璧。


 短く、品があり、隙がない。


 教室のあちこちから感嘆の空気が漏れる。


 リリスは着席した。


 俺は心の中で拍手した。


 その直後。


 リリスがほんの少しだけ振り返った。


 俺を見る。


 目で何かを訴える。


 たぶん、「どうでしたか?」だ。


 俺は小さく頷いた。


 とても立派でした。


 そういう意味を込めて。


 リリスの頬が少し赤くなり、前を向いた。


 可愛い。


 だが、近くの令嬢たちが見ていた。


 また噂になる。


 次は俺の番だった。


 俺は立ち上がる。


 視線が集まる。


 フルーラ公爵令嬢の婚約者。


 伯爵子息。


 噂の中心。


 俺は一度息を吸い、前を向いた。


「アルフレッド・シェルザートです。シェルザート伯爵家の長男として、この学園で多くを学び、自分に足りないものを身につけたいと思っています。皆さんと良い関係を築けるよう努めます。よろしくお願いします」


 礼をする。


 着席する。


 大きな失敗はない。


 よし。


 そう思った瞬間、斜め前のリリスが小さく拍手しそうになっていた。


 慌てて手を止めた。


 今は全員に拍手する場面ではない。


 危なかった。


「リリス」


 俺は小声で言う。


「危なかったです」


「すみません。アルが立派だったので」


「ありがとうございます。でも拍手は後で」


「はい」


 ユリウスが横で肩を震わせている。


「仲良いな、本当に」


「声が聞こえていますよ」


「ごめん。でも面白い」


「面白がらないでください」


 自己紹介が終わり、担任から今後の説明があった。


 時間割。


 授業棟の案内。


 寮生と通学生の違い。


 食堂の利用。


 図書館。


 訓練場。


 入学初日は説明が多い。


 リリスは真面目に聞いている。


 俺も聞く。


 だが、食堂の説明になった時、リリスがまた少し反応した。


 昼食。


 誰と食べるのか。


 どこに座るのか。


 距離感。


 考えている。


 絶対考えている。


 説明が一段落すると、担任は言った。


「本日はこれで終了です。明日から本格的な授業が始まります。なお、しばらくは学園内を自由に見学して構いません。ただし、立ち入り禁止区域には入らないこと」


 教室の空気が緩む。


 生徒たちが立ち上がり、会話を始める。


 俺も鞄を持とうとした。


 その瞬間、リリスが振り返った。


「アル」


「はい」


「制服姿を見てもよい約束です」


 覚えていた。


 いや、もちろん覚えていたけど。


 教室で言う?


 周囲が一斉に反応した。


 ユリウスが吹き出しそうになっている。


 令嬢たちがこちらを見ている。


「リリス」


「はい」


「ここでは少し目立ちます」


「では、廊下で?」


「廊下も目立ちます」


「では、どこで?」


「見なくても、朝見たでしょう」


「足りません」


「足りない!?」


 声が出た。


 担任がこちらを見た。


 俺は慌てて頭を下げる。


「失礼しました」


 担任は眼鏡の奥で少し笑ったように見えた。


 見逃してくれたらしい。


 ありがたい。


「リリス、あとで。落ち着いた場所で」


「はい。約束です」


「はい、約束です」


 リリスは満足そうに頷いた。


 ユリウスが俺の肩を軽く叩く。


「アルフレッド」


「何ですか」


「大変そうだな」


「分かりますか」


「でも、楽しそうだ」


「……否定はしません」


 俺がそう言うと、ユリウスはにやりと笑った。


「いいね。君たち、本当に面白い」


「だから面白がらないでください」


 教室を出ると、廊下には他の組の新入生たちもいた。


 そこで、少し離れた場所から鋭い視線を感じた。


 俺は振り返る。


 廊下の奥。


 何人かの生徒に囲まれた少年がいた。


 金に近い明るい髪。


 整った顔立ち。


 制服の着こなしも完璧。


 周囲が自然と一歩引くような存在感。


 第一王子殿下。


 エドワード・アプル。


 王家からリリスとの縁談話があった人物。


 遠目に何度か見たことはある。


 その王子が、こちらを見ていた。


 いや、正確には、リリスを見ていた。


 そして次に、俺を見た。


 ほんの一瞬。


 だが、確かに視線が合った。


 冷たい、とまでは言わない。


 だが、穏やかでもない。


 探るような、測るような視線。


 リリスも気づいたのか、少しだけ表情を引き締めた。


「アル」


「はい」


「行きましょう」


「はい」


 彼女は俺の隣に立った。


 いつもより少し近い。


 だが、その近さは甘えというより、不安を隠すためのものに見えた。


 俺は小声で言った。


「大丈夫です」


「……はい」


「俺は隣にいます」


 リリスの指先が小さく震えた。


 だが、彼女は泣かなかった。


 前を向き、公爵令嬢の顔で歩き出す。


 俺も隣を歩く。


 背中に視線を感じる。


 王子の視線。


 周囲の視線。


 学園生活は、きっと簡単ではない。


 そう思った。


 だが、隣のリリスが小さく言った。


「アル」


「はい」


「今の廊下のほどほどは、少し近めでもよろしいでしょうか」


「……はい。今はそれでいいです」


「ありがとうございます」


「ただし、歩きながら俺の制服を見ないように」


「……はい」


「今、見ようとしましたね」


「少しだけ」


「リリス」


「我慢します」


 思わず笑ってしまった。


 緊張が少し解ける。


 リリスもつられて、ほんの少し笑った。


 王子の視線も、周囲の噂も、これからの面倒も。


 全部なくなるわけではない。


 けれど、俺たちは歩き出した。


 王立学園での一歩目を。


 少し近い距離で。


 そして、その日の帰り。


 俺が屋敷に戻ると、父上が玄関ホールで待っていた。


「どうだった、入学式は」


「無事に終わりました」


「リリス嬢は?」


「頑張っていました」


「泣いたか?」


「泣きませんでした」


「ほう」


「ただ、制服姿を見る約束を教室で確認されました」


「ははははは!」


 父上は笑った。


 リーマスが静かに頷く。


「アマリリス様らしいことでございます」


「あと、王子殿下と少し目が合いました」


 父上の笑いが止まった。


 表情が少し真面目になる。


「そうか」


「はい」


「何か言われたか?」


「いえ。視線だけです」


「なら、今は気にしすぎなくていい」


「はい」


「だが、注意はしておけ」


「分かっています」


 父上は頷いた。


 そしてすぐにまた笑みを浮かべる。


「それより、制服姿を見せる約束は果たしたのか?」


「父上」


「果たしたのか?」


「……帰り際に少しだけ」


「リリス嬢は?」


「泣きかけました」


「だろうな」


「予想しないでください」


 その夜。


 フルーラ公爵家から書状が届いた。


 差出人は当然、ガロウ公爵。


『娘が「学園の廊下のほどほど」を図にしている。あと、制服姿のアルフレッド殿を思い出して泣きかけている。説明しろ。 ガロウ』


 俺は書状を読み、静かに天井を見上げた。


 父上は腹を抱えて笑った。


 リーマスは「図解とは大変分かりやすい」と頷いた。


 ライズは親指を立てた。


 俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 入学式初日から!!


 距離感の教本を作らないでください!!

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