第6話 公爵令嬢様、学園準備でも近すぎます
第6話 公爵令嬢様、学園準備でも近すぎます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
婚約者ができてからというもの、俺の日常は明らかに変わった。
朝起きる。
顔を洗う。
朝食を食べる。
父上にからかわれる。
ライズに親指を立てられる。
フルーラ公爵家から書状が届く。
ガロウ公爵から「説明しろ」と言われる。
……おかしい。
どう考えても最後の二つがおかしい。
婚約者ができると、普通はもう少し甘酸っぱい日々が始まるものではないのか。
いや、甘酸っぱくはある。
リリスからの手紙は可愛い。
会えば嬉しい。
笑ってくれると胸が温かくなる。
手を繋いだ時など、俺はしばらく自分の手を見てしまった。
……今のは聞かなかったことにしてほしい。
だが、それと同時に、ツッコミの量が尋常ではない。
リリスは俺との距離感を真剣に学ぼうとしている。
その姿勢は本当に偉い。
偉いのだが、基準がどんどん増えている。
アルのほどほど。
アルの手のほどほど。
社交の場のほどほど。
温室のほどほど。
心の椅子。
椅子四分の一。
いや、最後二つは本当に何なのか。
そして今朝も、フルーラ公爵家から書状が届いていた。
父上の執務室で開かれたその書状には、こう書かれていた。
『娘が「学園でのアルのほどほど」を決めるため、教室の椅子配置図を描いている。説明しろ。 ガロウ』
知らん!!
まだ入学してない!!
教室も見てない!!
椅子配置図って何!?
俺は書状を机に置き、静かに額を押さえた。
父上は朝から大笑いしていた。
リーマスは「アマリリス様は大変勉強熱心でございますね」と頷いていた。
ライズは当然のように親指を立てていた。
だから立てるな。
「アルフレッド」
父上が笑いを含んだ声で言った。
「リリス嬢は学園生活を楽しみにしているようだな」
「楽しみにする方向性が独特すぎます」
「お前と同じ学園に通うのだから当然だろう」
「それは分かります」
「婚約者と学園生活。青春だな」
「急に父親らしいことを言わないでください」
「私はいつも父親らしいだろう」
「父親が公爵令嬢の真似をして甲高い声を出したこと、まだ忘れていませんからね」
「若気の至りだ」
「最近です」
「心は若い」
「便利に使わないでください」
父上は笑いながら椅子に背を預けた。
執務室には朝の光が入っている。
机の上には婚約関係の書類と、学園から届いた入学準備の案内。
そう。
俺たちはもうすぐ王立学園へ入学する。
王族、上級貴族、騎士家、文官家、有力商家の子弟など、多くの若者が集まる場所。
勉学だけでなく、人脈形成や礼儀、実技、社交を学ぶ場でもある。
つまり、これから俺とリリスは、家の中や茶会だけではなく、学園という大勢の目がある場所で婚約者として過ごすことになる。
……大丈夫か?
いや、主に距離感が。
「それでだ」
父上は一枚の紙を俺へ差し出した。
「学園準備のため、制服や学用品の採寸、注文を済ませる必要がある」
「はい」
「本日、フルーラ公爵家と日程を合わせてある」
「はい?」
「お前とリリス嬢で、一緒に王都の指定店へ行ってこい」
「一緒に!?」
「婚約者同士だ。何もおかしくない」
「いや、おかしくはありませんが」
「ガロウも了承済みだ」
「公爵様が?」
「ただし条件がある」
「でしょうね」
父上はにやりとした。
嫌な予感しかしない。
「ガロウも来る」
「でしょうね!!」
「ミラ殿も来る」
「安心材料です」
「ライズも同行する」
「当然ですね」
「私は行かない」
「珍しいですね」
「行きたいが、仕事がある」
「正直ですね」
「代わりにリーマスを行かせようかと思ったが」
「思ったが?」
「リーマスが『私が行くと旦那様が後で劇として再現を求めるでしょうから、今回は控えます』と言っていた」
「賢明すぎる」
リーマスは静かに頭を下げた。
さすが家令。
自分の役割をよく分かっている。
そして父上、再現する気だったのか。
やめてほしい。
学園準備の買い物を、父上とリーマスの演劇で再現されたら、俺はしばらく立ち直れない。
「指定店は王都中央区にある。制服、礼装、学用品、魔法筆記具まで扱う大きな店だ」
「承知しました」
「リリス嬢と一緒に選んできなさい」
「はい」
「ただし」
父上は真面目な顔になった。
「外では社交界以上に人目がある。リリス嬢の距離感もそうだが、お前自身も気をつけなさい」
「分かっています」
「婚約者を守る意識を持て」
「はい」
「そして、ツッコミは声量に気をつけろ」
「そこですか」
「大事だ」
否定できない。
俺のツッコミは、最近だいぶ反射になっている。
公爵家の庭園や我が家の温室ならともかく、王都の店で大声を出すのは避けたい。
いや、避けられるかはリリス次第だ。
頑張れ俺。
自制心を持て。
昼前。
俺はライズと共に王都中央区へ向かった。
フルーラ公爵家とは現地で合流する予定だ。
馬車の窓から見える王都は、いつもより賑やかに見えた。
中央区は貴族向けの店が並ぶ場所で、通りには高級な馬車が行き交い、歩道には身なりの整った人々が歩いている。
宝飾店、仕立屋、書店、茶葉店、香水店。
看板ひとつ見ても品があり、店先の窓には美しく飾られた品々が並んでいた。
王立学園の入学時期が近いこともあり、同じ年頃の貴族子弟らしき若者たちの姿も多い。
これは。
目立つな。
俺とリリスが一緒に歩けば、間違いなく目立つ。
フルーラ公爵令嬢と、その婚約者になった伯爵子息。
噂の二人。
好奇心の視線が集まるのは避けられない。
「若様」
向かいに座るライズが言った。
「本日は落ち着いてまいりましょう」
「俺もそのつもりだ」
「アマリリス様が予想外の行動をされた場合も」
「できるだけ落ち着く」
「もし声が大きくなりそうでしたら」
「なりそうだったら?」
「私が背後で小さく咳払いをいたします」
「それで止まるか?」
「止まらない場合、親指を立てます」
「それは逆効果だ」
馬車が店の前に止まった。
王立学園指定店『リュミエール商会』。
大きな建物だった。
白い外壁に金の装飾。
入口には王立学園の紋章が掲げられ、店員たちが丁寧に来客を案内している。
馬車を降りると、すぐに店員が近づいてきた。
「シェルザート伯爵家のアルフレッド様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました」
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。フルーラ公爵家の皆様もまもなくお越しになる予定です」
そう言われた瞬間、通りの向こうから白と金の馬車が見えた。
フルーラ公爵家の馬車だ。
店先の空気が少し変わる。
周囲にいた貴族子弟たちが視線を向ける。
ざわめきが広がる。
「あれはフルーラ公爵家の……」
「アマリリス様かしら」
「隣にいるのは婚約者の?」
「シェルザート伯爵家のご子息でしょう?」
聞こえている。
ばっちり聞こえている。
俺は背筋を伸ばした。
馬車が止まり、まずガロウ公爵が降りてきた。
圧。
今日も圧がすごい。
通行人の一部が自然と道を空けた。
騎士団長の存在感である。
次にミラが降りる。
そして、リリスが姿を見せた。
淡い白に近い水色の外出着。
金の髪は柔らかくまとめられ、今日もブルーローズの髪飾りが輝いている。
上品で清楚。
まさに公爵令嬢。
周囲から小さな感嘆の声が上がった。
リリスは俺を見る。
顔が明るくなる。
足が一瞬動く。
止まる。
頑張った。
今日も止まった。
彼女はゆっくり、かなり意識した歩き方でこちらへ来た。
「アル」
「リリス。ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
リリスは礼をした。
完璧。
周囲の視線にも乱れない。
ただし、顔が少し嬉しそうすぎる。
いや、それはそれで可愛い。
「走りませんでした」
小声で言われた。
「はい。とても立派でした」
俺も小声で返す。
リリスの頬が赤くなる。
ガロウ公爵が背後で眉を寄せる。
すみません。
褒めるとこうなるんです。
店員が丁寧に頭を下げた。
「フルーラ公爵閣下、アマリリス様、本日はお越しいただき誠にありがとうございます」
「うむ」
「よろしくお願いいたします」
リリスは公爵令嬢の顔で微笑んだ。
店員たちが一瞬見惚れている。
分かる。
分かるぞ。
完璧な時のリリスは、本当に隙がない。
問題は、その完璧さが俺の前でよく崩れることだ。
「では、まず制服の採寸からご案内いたします」
店員に案内され、俺たちは店内へ入った。
広い。
天井が高く、壁には学園制服の見本や各種礼装が飾られている。
棚には筆記具、鞄、徽章、教本を入れる革製ケースなどが整然と並ぶ。
店内には他の貴族子弟とその家族もいた。
俺たちが入ると、視線が一斉に集まる。
好奇心。
驚き。
祝福。
探り。
さまざまな目。
リリスはその視線を受けても、背筋を伸ばしたままだった。
俺も堂々としていなければ。
そう思った瞬間。
リリスが半歩近づいた。
近い。
しかし、いつもよりは控えめ。
彼女なりの「学園準備のほどほど」なのだろうか。
「リリス」
「はい」
「少し近いです」
「これは、外出時のアルのほどほど候補です」
「候補制なんですか」
「はい。実地確認中です」
「店内で?」
「はい」
周囲には人がいる。
店員もいる。
ガロウ公爵もいる。
ライズもミラもいる。
そしてリリスは真剣だ。
俺は声量を抑えた。
「候補は後で検討しましょう」
「分かりました」
リリスは少しだけ離れた。
本当に少しだけ。
拳一つ分。
成長している。
たぶん。
まずは男子用制服の採寸だった。
俺は店員に案内され、仕立て室へ入る。
ライズが同席する。
リリスたちは隣の待合室へ案内されるはずだった。
はずだったのだが。
「アル」
「はい」
リリスが真剣な顔で言った。
「私は、待合室で待っています」
「はい」
「採寸を見たい気持ちはあります」
「見なくていいです」
「ですが、我慢します」
「素晴らしい判断です」
「婚約者でも、採寸は節度が必要です」
「その通りです」
「でも、終わったら見せてください」
「何をですか」
「制服姿です」
「ああ、それなら」
「楽しみです」
リリスの目がきらきらしている。
制服姿がそんなに楽しみなのか。
いや、俺もリリスの制服姿は気になる。
……気になる。
想像した。
リリスが王立学園の制服を着ている姿。
清楚で、上品で、少しだけ照れて。
だめだ。
絶対似合う。
「アル?」
「いえ、何でもありません」
「今、何か考えていましたか?」
「考えていません」
「本当ですか?」
「本当です」
ライズが背後で小さく咳払いをした。
やめろ。
今のは声量注意ではなく、からかいだろう。
仕立て室では、店員が手際よく採寸をしていった。
肩幅、袖丈、胸囲、腰回り、脚の長さ。
俺はただ立っているだけなのだが、妙に緊張する。
隣の部屋にリリスがいると思うと、余計に落ち着かない。
店員は慣れた様子で布を当てながら言った。
「アルフレッド様は姿勢がよろしいですね」
「ありがとうございます」
「剣術をなさっているのでしょうか」
「はい。少し」
「なるほど。制服も動きやすいよう、肩周りを調整しておきましょう」
「お願いします」
こういう店員の対応はさすがだ。
貴族子弟の制服を扱うだけあって、所作も言葉も丁寧で無駄がない。
採寸が終わり、試着用の制服を着せられた。
濃紺を基調とした上着に、銀の縁取り。
胸元には王立学園の徽章。
思ったよりしっかりした作りで、着ると自然と背筋が伸びる。
「よくお似合いです」
店員が言った。
「ありがとうございます」
「では、待合室の皆様にもご確認いただきますか?」
「はい」
心臓が少し動いた。
ただ制服を見せるだけだ。
落ち着け。
俺は仕立て室から出た。
待合室にはリリス、ミラ、ガロウ公爵がいた。
リリスは椅子に座っていたが、俺が出た瞬間、立ち上がった。
速い。
ただ、走ってはいない。
彼女は俺を見て、固まった。
「リリス?」
「……」
「どうしました?」
「……アル」
「はい」
「とても、素敵です」
リリスの声は震えていた。
顔が赤い。
目が潤んでいる。
おっと。
これは危ない。
泣くか?
店内で?
「ありがとうございます」
俺がそう答えると、リリスは両手を胸の前で握った。
「学園で、毎日その姿を見られるのですか?」
「制服ですからね」
「毎日」
「はい」
「……毎日」
「リリス?」
「幸せすぎて、少し怖いです」
「制服で!?」
声が少し大きくなった。
ライズが咳払いする。
しまった。
店内だ。
俺は声を抑える。
「リリス、落ち着いてください」
「はい。落ち着きます」
「深呼吸を」
「はい」
リリスは深呼吸した。
ガロウ公爵が腕を組みながら俺を見ている。
その目は少し複雑だった。
娘が俺の制服姿を見て嬉しそう。
父親として複雑。
分かる。
でも睨まないでほしい。
「アルフレッド殿」
「はい」
「制服は似合っている」
「ありがとうございます」
「だが、娘を泣かせるな」
「制服の責任まで俺に!?」
また声が出た。
ライズの咳払い。
くっ。
声量が難しい。
次はリリスの採寸だった。
俺は当然、待合室で待つ。
リリスは仕立て室に向かう前、こちらを振り返った。
「アル」
「はい」
「私も、制服を着たら見ていただけますか?」
「もちろんです」
「変ではないでしょうか」
「リリスなら、きっと似合います」
「……っ」
リリスが一瞬で赤くなった。
「ま、まだ着ていないのに」
「想像で分かります」
「想像」
「はい」
「アルが、私の制服姿を想像……」
「リリス?」
「い、行ってきます!」
リリスは慌てて仕立て室へ入っていった。
ミラが続く。
俺はその背中を見送り、少ししてから気づいた。
しまった。
また余計なことを言ったかもしれない。
待合室には、俺とライズ、そしてガロウ公爵が残された。
気まずい。
非常に気まずい。
ガロウ公爵は腕を組んだまま、俺を見ている。
俺は姿勢を正した。
「……アルフレッド殿」
「はい」
「リリスは、今日も朝から落ち着かなかった」
「そうなのですか」
「ああ。制服を選ぶだけだと言っているのに、三度も髪飾りを確認していた」
「リリスらしいですね」
「……そうだな」
ガロウ公爵の声は、少し柔らかかった。
意外だった。
「娘は、昔から人前では完璧であろうとした」
「はい」
「公爵家の娘だからな。周囲もそれを求めた」
「……」
「だが、お前の前ではよく崩れる」
俺は何と答えるべきか迷った。
ガロウ公爵は続ける。
「最初は心配だった」
「はい」
「だが、最近少し思う」
「何をでしょうか」
「崩れる場所があるのも、悪くはないのかもしれん」
その言葉は、低く静かだった。
騎士団長の声ではなく、父親の声だった。
俺はリリスの笑顔を思い出す。
泣きそうな顔。
照れた顔。
真剣に距離を測る顔。
公爵令嬢としての完璧な仮面の下にある、柔らかい素顔。
「俺は、リリスが自然に笑える場所になれたらと思っています」
自然とそう答えていた。
ガロウ公爵は俺を見た。
鋭い視線。
だが、怒りではない。
「簡単ではないぞ」
「はい」
「リリスは泣き虫だ」
「知っています」
「天然だ」
「かなり」
「少々、思い込みが激しい」
「少々でしょうか」
「……かなりだ」
「はい」
「そして、一度信じた相手には深く寄りかかる」
「……はい」
「支えきれるか」
重い問いだった。
店内のざわめきが遠く聞こえる。
制服の布が擦れる音。
店員の声。
窓の外を通る馬車の音。
その中で、ガロウ公爵の言葉だけがまっすぐ届いた。
支えきれるか。
俺はまだ十五歳だ。
大きなことは言えない。
けれど、リリスを軽い気持ちで受け止めるつもりはない。
「支えられるようになります」
「今は?」
「今は、まだ足りないと思います」
「……」
「でも、逃げません」
俺はガロウ公爵の目を見た。
「リリスが俺を信じてくれるなら、俺もそれに応えます。分からないことは、ちゃんと話して、覚えていきます。距離感も、泣くことも、学園のことも」
「……ツッコミもか」
「それはたぶん一生続きます」
ガロウ公爵が一瞬、目を瞬かせた。
そして、低く笑った。
本当に小さな笑いだった。
「そうか」
「はい」
「ならば、見ている」
「はい」
「だが、泣かせるな」
「そこは変わらないんですね」
「当然だ」
少しだけ空気が和らいだ。
その時、仕立て室の扉が開いた。
リリスが出てきた。
俺は息を呑んだ。
王立学園の女子制服。
濃紺の上着に白いブラウス。
銀の縁取り。
膝下までの上品なスカート。
胸元のリボンは学年色の淡い青。
金の髪にブルーローズの髪飾り。
似合う。
想像以上に。
公爵令嬢としての気品がありながら、学園生らしい初々しさもある。
普段のドレスとは違う、少し身近な可愛らしさ。
俺は完全に言葉を失った。
リリスは不安そうにこちらを見る。
「アル」
「……」
「変、ですか?」
「いえ」
俺はようやく声を出した。
「とても似合っています」
「本当ですか?」
「本当です」
「可愛い、ですか?」
直球。
店員が息を呑んだ。
ミラが静かに目を伏せた。
ガロウ公爵が俺を見る。
逃げ場がない。
いや、逃げる必要もない。
「はい。とても可愛いです」
リリスの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「……っ」
目が潤む。
まずい。
「泣きません」
「はい」
「店内なので、泣きません」
「偉いです」
「でも、少しだけ」
リリスはハンカチを目元に当てた。
少しだけ泣いた。
店員たちが微笑ましそうに見ている。
周囲の令嬢たちが小声で「可愛らしい」と言っている。
ガロウ公爵は壁を見ている。
たぶん泣きそうなのを隠している。
父娘だな。
俺はそんな二人を見て、少し笑ってしまった。
「アル」
涙を拭いたリリスが言う。
「はい」
「学園で、この制服で、隣にいてもよろしいですか?」
「授業中は席次があります」
「はい」
「廊下では、歩きやすい距離で」
「はい」
「人前では、ほどほどに」
「はい」
「でも、婚約者として隣にいることは、もちろん構いません」
リリスは嬉しそうに笑った。
「はい」
その笑顔を見た瞬間、俺は思った。
たぶん、学園生活は大変になる。
噂もある。
王家の視線もある。
同級生たちもきっと放っておかない。
リリスの距離感研究も続くだろう。
俺のツッコミはさらに忙しくなる。
だが、この制服姿のリリスと一緒に学園へ通うのだと思うと。
少し、いや、かなり楽しみだった。
採寸の後は、学用品選びになった。
ここからがまた大変だった。
まず鞄。
男子用、女子用、それぞれいくつか種類がある。
俺は実用性重視で、丈夫な革鞄を選んだ。
リリスはそれをじっと見た。
「アルと同じ形にします」
「女子用の方が使いやすいのでは?」
「同じがいいです」
「リリス」
「……だめですか?」
「駄目ではありませんが、使いやすさも大事です」
店員がすかさず女子用の似た色の鞄を持ってきた。
「こちらでしたら、アルフレッド様のものと同じ革を使用し、形はアマリリス様向けでございます」
「まあ」
リリスの目が輝く。
「アルと同じ革」
「そこに反応するんですね」
「はい」
鞄はそれに決まった。
次に筆記具。
俺が銀の飾りのついた万年筆を選ぶと、リリスは同じものを見つめた。
「同じ」
「リリス」
「使いやすそうです」
「本音は?」
「アルと同じです」
「正直でよろしい」
結局、色違いを選ぶことになった。
俺は銀。
リリスは青い石の飾りがついたもの。
「青はブルーローズの色です」
「似合います」
「アルがそう言うなら、これにします」
店員がにこにこしている。
完全に微笑ましい婚約者を見る顔だ。
恥ずかしい。
さらに教本用の革ケース。
リリスは俺の選んだものと並べて、じっと考える。
「アル」
「はい」
「教本ケースは、お揃いにすると目立ちますか?」
「まあ、少しは」
「では、中のしおりだけお揃いにします」
「妥協案が可愛い」
「可愛い?」
「あ」
しまった。
声に出た。
リリスが赤くなる。
「今、可愛いと」
「言いました」
「店内で」
「言いました」
「嬉しいです」
「泣かないでください」
「はい」
ミラがまたハンカチを構えた。
今日は忙しい。
その後も、リリスは何かにつけて「アルと同じ」「アルが好きなら」「アルの隣で使うなら」と言い、俺はそのたびにツッコミを入れたり、宥めたり、少し照れたりした。
ガロウ公爵は終始複雑な顔だったが、何度かリリスが「お父様はどう思いますか?」と尋ねると、すぐに真剣に答えていた。
「その色はリリスに似合う」
「本当ですか?」
「ああ」
「では、アルは?」
「俺も似合うと思います」
「では、これにします」
ガロウ公爵の顔が少し沈んだ。
お父様の意見だけでは決まらない時代が来てしまったらしい。
少し可哀想だった。
買い物が一段落した頃、店員が控えめに声をかけてきた。
「よろしければ、学園用の外套もご確認ください」
外套。
冬場や雨の日に使うものだ。
色は学園指定だが、裏地や留め具に少しだけ個性を出せるらしい。
俺は実用的なものを選ぼうとした。
だが、リリスが外套を見ながら真剣な顔をしている。
「リリス?」
「はい」
「どうしました?」
「外套は、少し大きめがよいでしょうか」
「なぜですか?」
「もしアルが寒そうだったら、半分貸せます」
「いや、俺も外套を着ています」
「でも、もし忘れたら」
「忘れません」
「もし濡れたら」
「屋内に入ります」
「もし風で飛んだら」
「どんな状況ですか」
リリスは真剣だった。
「婚約者として、備えたいのです」
「外套を半分貸す備え?」
「はい」
「距離が近くなりますよ」
「……それは、非常時ですので」
「非常時の定義が甘い」
店員が笑いを堪えている。
ライズが咳払いした。
俺も咳払いしたい。
「リリス、外套は自分に合う大きさを選びましょう」
「はい」
「俺が寒ければ、自分の外套を着ます」
「では、もし本当に困ったら言ってください」
「はい」
「半分貸します」
「その時はお願いします」
リリスは満足そうに頷いた。
たぶん、非常時に外套を半分貸す未来を少し期待している。
そんな非常時は来ないことを祈る。
すべての注文が終わる頃には、俺はかなり疲れていた。
だが不思議と、嫌な疲れではなかった。
リリスと一緒に物を選ぶのは、騒がしいけれど楽しい。
彼女が何を大切にしているのか、少しずつ分かる。
同じものを持ちたい。
俺の好きなものを知りたい。
学園でも隣にいたい。
その全部が、彼女のまっすぐな好意から来ている。
重い。
少し重い。
だが、温かい。
店を出る時、通りには午後の光が差していた。
買い物客や馬車の流れは相変わらず多い。
俺とリリスが並ぶと、やはり視線が集まる。
だが、リリスは最初より落ち着いていた。
俺の隣に、近すぎず、離れすぎず。
いや、少し近い。
でも、彼女なりに外出時のほどほどを保っている。
「アル」
「はい」
「今日の外出時のほどほどは、どうでしたか?」
「最初よりかなり良かったと思います」
「本当ですか?」
「はい」
「店内で、近すぎませんでしたか?」
「少し近い時はありました」
「はい」
「でも、ちゃんと確認しながらでした」
「はい」
「偉かったです」
リリスの顔が赤くなる。
目が潤む。
だが、深呼吸した。
「泣きません」
「はい」
「外なので」
「はい」
「でも、馬車の中で少し泣くかもしれません」
「宣言しなくても」
「嬉しいので」
俺は笑ってしまった。
「リリス」
「はい」
「学園準備、一緒にできて楽しかったです」
彼女はぱっと顔を上げた。
「本当ですか?」
「本当です」
「私もです」
リリスは少しだけ手を伸ばしかけた。
そして止めた。
自分の手を胸の前で握る。
我慢している。
人目があるから。
俺はその姿を見て、少し胸が温かくなった。
「リリス」
「はい」
「馬車までなら、手を繋ぎますか?」
「……よろしいのですか?」
「はい。人が多いですし、婚約者ですから」
自分で言って、少し照れた。
リリスは一瞬固まり、それから花が咲くように笑った。
「はい」
俺は手を差し出した。
リリスがそっと握る。
力加減は、前よりさらに優しかった。
「アルの手のほどほど、合っていますか?」
「はい。ちょうどいいです」
「覚えました」
「また覚えるんですね」
「大切です」
通りの人々が微笑ましそうに見ている。
貴族令嬢たちが小声で何か話している。
ガロウ公爵は少し前を歩きながら、何度も振り返っている。
ミラは穏やかに見守っている。
ライズは後ろで――。
「ライズ」
「はい」
「今、親指を立てたな?」
「人混みで見えないと思ったのですが」
「見えてる」
「失礼いたしました」
リリスがくすっと笑った。
その笑顔を見て、俺も笑った。
騒がしい。
本当に騒がしい。
でも、悪くない。
馬車の前で手を離すと、リリスは名残惜しそうに自分の手を見た。
だが、すぐに顔を上げる。
「アル」
「はい」
「学園でも、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
「私は、頑張ります」
「無理せずに」
「はい。でも、アルの隣に立てるように」
その言葉は、いつもの天然な響きとは少し違った。
真剣で、静かで、強い。
俺は頷いた。
「俺も、リリスの隣に立てるように頑張ります」
「……っ」
リリスの目がまた潤む。
「馬車の中で泣きます」
「はい」
「今は我慢します」
「偉いです」
「アルに褒められると、我慢が難しくなります」
「褒めるタイミングが難しい」
リリスは笑いながら馬車に乗った。
扉が閉まる前、彼女は小さく手を振る。
俺も振り返す。
馬車が動き出し、フルーラ公爵家の紋章が遠ざかっていった。
俺はしばらくその馬車を見送った。
胸の中に残るのは、疲れと、少しの照れと、そして確かな楽しみ。
学園生活。
俺とリリスの新しい日々。
きっと平穏ではない。
いや、絶対に平穏ではない。
それでも、今日一緒に選んだ制服や鞄、筆記具を思い出すと、自然と口元が緩んでしまう。
その夜。
屋敷に戻った俺を、父上が待っていた。
「どうだった、学園準備は」
「無事に終わりました」
「リリス嬢は?」
「頑張っていました」
「距離は?」
「外出時のほどほどを確認しました」
「また新基準か」
「はい」
「手は?」
「馬車まで繋ぎました」
「ほう」
父上がにやりと笑う。
「青春だな」
「からかわないでください」
「いや、本当にそう思っている」
「……」
「アルフレッド」
父上の声が少し穏やかになった。
「学園では色々あるだろう」
「はい」
「噂も、視線も、面倒な者もいる」
「分かっています」
「だが、お前なら大丈夫だ」
「そうでしょうか」
「ああ」
父上は笑った。
「お前は、相手をちゃんと見ようとする。それは強さだ」
「……はい」
「リリス嬢を大切にな」
「はい」
「ただし、ツッコミで喉を痛めるなよ」
「台無しです」
父上は笑った。
俺も少し笑った。
そして翌朝。
やはりフルーラ公爵家から書状が届いた。
差出人はガロウ公爵。
内容はこうだった。
『娘が制服を見つめながら「毎日アルに会えます」と呟いている。あと、外套を大きめに作ろうとしている。説明しろ。 ガロウ』
俺は書状を読んで、静かに天井を見上げた。
父上は爆笑した。
リーマスは「備えは大切でございます」と頷いた。
ライズは親指を立てた。
そして俺は、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
学園準備でも!!
距離感が近すぎます!!




