第5話 公爵令嬢様、研究対象が俺になっている
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
突然だが、皆さんは「距離感」というものをどう考えているだろうか。
人と人との間にある、見えない線。
近すぎれば失礼。
遠すぎれば他人行儀。
相手との関係性、場所、状況、身分、周囲の目。
そういったものを総合して、ちょうどよい距離を保つ。
それが礼儀であり、思いやりであり、貴族社会では特に重要な作法である。
……などと、もっともらしく語ってみたが。
現在、その距離感について、俺の婚約者がとんでもない方向に突き進んでいる。
婚約者。
アマリリス・フルーラ公爵令嬢。
通称、リリス。
公爵令嬢としては完璧。
だが、俺の前では天然で、泣き虫で、そして距離が近い。
そのリリスは今、「アルのほどほど」なる謎の基準を作り出し、日夜研究しているらしい。
研究するな。
いや、距離感を学ぼうとしてくれるのは嬉しい。
嬉しいのだが、なぜ俺専用の基準になるのか。
そしてなぜ椅子で測るのか。
さらに言えば、心の椅子とは何なのか。
俺にも分からない。
分からないものを、フルーラ公爵家の皆さんに説明しろと言われても困る。
実際、今朝もガロウ公爵から書状が届いた。
『娘が庭園の椅子を並べ、「これはアルのほどほどではありません」と言い出した。説明しろ。 ガロウ』
知らん!!
俺が説明してほしい!!
しかも二日前にも来た。
『娘が「椅子四分の一遠くします」と言って廊下の床に印をつけている。説明しろ。 ガロウ』
知らん!!
床に印!?
公爵家の廊下に!?
ミラさん止めて!!
いや、きっと止めたのだろう。
止めたうえでこうなっているのだろう。
苦労が見える。
そして本日。
俺は父上の執務室に呼ばれていた。
いつもの執務室。
重厚な机。
整った本棚。
窓から入る午前の光。
そして机の上には、フルーラ公爵家から届いた書状が三通。
多い。
多いんだよ。
「アルフレッド」
父上が書状を一通持ち上げながら、楽しそうに言った。
「大変だな」
「他人事みたいに言わないでください」
「いや、実に興味深い」
「興味深がらないでください」
「リリス嬢は、お前との距離を真剣に考えているのだろう」
「それは分かります」
「可愛いじゃないか」
「可愛いですけど」
「おや、否定しないのだな」
「……」
しまった。
自然に認めてしまった。
父上がにやりと笑う。
リーマスも横で静かに目を細める。
後ろのライズは気配だけで親指を立てている。
見なくても分かる。
「ライズ」
「はい」
「親指を立てているな?」
「まだでございます」
「まだ?」
「若様が完全に認めた瞬間に立てる予定でした」
「予定を組むな」
俺は深くため息をついた。
この屋敷、最近俺の婚約話で遊びすぎではないか。
いや、祝ってくれているのは分かる。
分かるが、からかう割合が多い。
「それで、父上。今日は何の話ですか?」
「うむ」
父上は書状を机に置き、指を組んだ。
「リリス嬢を、こちらへ招く」
「こちらへ?」
「ああ。前回はお前がフルーラ家へ行っただろう。次はリリス嬢がシェルザート家へ来る番だ」
「なるほど」
それは自然だ。
婚約者同士、双方の家を行き来するのは礼儀でもある。
リリスは以前、顔合わせで我が家に来ているが、あれは正式な婚約前。
今回は婚約後の訪問。
意味合いが少し違う。
「日程は?」
「明後日だ」
「早い」
「ガロウが早めに行かせたがった」
「なぜですか?」
「娘の『アルのほどほど』研究を、実地で確認したいらしい」
「うちを実験場にしないでください」
「すでにガロウは諦め気味だ」
「公爵様……」
俺は少しだけ同情した。
娘が可愛くて仕方ない父親。
けれど、その娘が婚約者の距離感を研究し始めた。
止めたい。
でも泣かせたくない。
最終的に、婚約者本人に任せるしかない。
うん。
つらいな。
「なお、ガロウも来る」
「でしょうね」
「ミラ殿も同行する」
「安心しました」
「それと、リリス嬢から手紙も届いている」
父上は淡い青の封筒を差し出した。
俺は受け取る。
もう見慣れた封蝋。
花の香り。
胸が少し落ち着かなくなる。
父上がにやにやする前に、俺は素早く封筒を胸元にしまった。
「後で読みます」
「ここで読んでもいいぞ」
「読みません」
「つまらん」
「父上を楽しませるための手紙ではありません」
「そうか。婚約者との甘い手紙か」
「父上」
「分かった分かった」
父上は笑いながら手を振った。
まったく分かっていない顔だった。
執務室を出た俺は、自室へ戻るなり手紙を開いた。
ライズは壁際に控えている。
見ないと言っているが、気配がものすごくこちらへ向いている。
無視だ。
『アルへ』
いつもの書き出し。
それだけで少し頬が緩みそうになる。
いや、緩んでいない。
たぶん。
『明後日、シェルザート家へ伺えることになりました』
丁寧な文字。
『またアルの温室を見られること、とても楽しみにしています』
そういえば、初めて二人で話したのは我が家の温室だった。
ブルーローズ。
リリスと呼んでほしいと言われた場所。
思い出すと、胸の奥がくすぐったくなる。
『今回は、きちんと距離感を守ります』
お。
来た。
『ミラと相談し、まずは普通の婚約者らしい距離を練習しました』
普通の婚約者らしい距離。
それは誰が決めるんだ?
いや、ミラさんならまともだ。
きっと大丈夫。
『ですが、普通の距離だと少し寂しくなりました』
だめそう。
『ですので、アルのほどほどを基準にしたいと思います』
やっぱりそうなるのか。
『アルのほどほどは、前回のお茶会の時の距離です』
あれか。
テーブル越しに、椅子が少し近かったあれ。
『ただ、シェルザート家では初めての実地確認になりますので、少しだけ誤差が出るかもしれません』
誤差。
何の?
距離の?
人体同士の?
『誤差が出たら、アルが教えてください』
丸投げされた。
『アルに近いと言われるのは少し恥ずかしいですが、少し嬉しいです』
嬉しいのか。
近いと言われるのが?
いや、たぶん俺に気づいてもらえるのが嬉しいのだろう。
可愛い。
だが厄介。
『明後日、走らず、泣かず、近づきすぎず、頑張ります』
目標が多い。
最後に綺麗な署名。
『リリス』
俺は手紙を机に置き、しばらく沈黙した。
その内容は、努力に満ちていた。
走らない。
泣かない。
近づきすぎない。
リリスなりに頑張ろうとしている。
それは本当に可愛いし、嬉しい。
だが。
不安しかない。
「若様」
ライズが静かに口を開いた。
「アマリリス様は、何と?」
「明後日、実地確認をするらしい」
「実地確認」
「アルのほどほどを」
「左様でございますか」
「なぜそんなに落ち着いている」
「予想の範囲内でございましたので」
「お前の予想範囲、広すぎないか?」
「アマリリス様ですので」
「納得できるようで納得したくない」
俺は便箋を丁寧に畳んだ。
返事を書くべきだろう。
しかし何を書けばいい。
実地確認、頑張りましょう?
いや、変だ。
距離感は普通にしましょう?
それだとリリスがしょんぼりするかもしれない。
無理せず来てください。
これが一番か。
俺は便箋を取り出し、筆を持った。
『リリスへ』
もうこの書き出しに迷いはない。
『明後日、来てくれるのを楽しみにしています。温室のブルーローズも、リリスにまた見てもらえるのを喜ぶと思います』
少しだけ冗談を入れる。
だが、これを書くと本当にリリスが薔薇に話しかけるかもしれない。
どうしよう。
いや、もう遅い。
書いた。
『距離感については、無理に完璧にしなくて大丈夫です。リリスが頑張っていることは、ちゃんと分かっています』
うん。
これだ。
『近すぎたら、ちゃんと教えます。でも、リリスがそばにいること自体は嫌ではありません』
書いた。
書いてしまった。
顔が熱くなる。
だが、本心だ。
俺は筆を置き、しばらく便箋を見た。
ライズが横から覗こうとしている気配がする。
「見るな」
「失礼いたしました」
「覗こうとしたな?」
「気配だけで気づかれるとは、若様も成長なさいました」
「お前のせいだ」
その日の午後、屋敷ではリリスを迎える準備が始まった。
使用人たちはすでに慣れたもので、「アマリリス様がいらっしゃる」と聞いた瞬間、空気が一段階明るくなった。
玄関ホールの花が替えられ、温室の椅子とテーブルが磨かれ、ブルーローズの周囲も整えられる。
庭師の一人が真剣な顔で薔薇の葉を確認していた。
「若様、アマリリス様はこの花をとても気に入ってくださったとか」
「ああ」
「では、今回はさらに美しく見えるよう整えておきます」
「頼む」
「薔薇にも言い聞かせておきます」
「言い聞かせる?」
「公爵令嬢様の前で、しっかり咲くようにと」
「薔薇にまで緊張を強いるな」
庭師は真面目だった。
この屋敷、やはり少し変だ。
いや、俺も慣れてきてしまっている。
まずい。
夕方には、料理長が俺のところへやって来た。
恰幅のよい中年男性で、普段は厨房に籠もっているが、こういう時は妙に張り切る。
「若様」
「どうした?」
「アマリリス様のお好みを伺いたく」
「甘いものはお好きだと思う」
「承知しました」
「ただ、甘すぎるものはどうか分からない」
「では、上品な甘さで」
「頼む」
「それと、形はどういたしましょう」
「形?」
「ブルーローズ型、ハート型、または椅子型が候補にございます」
「椅子型はやめろ!!」
料理長は不思議そうな顔をした。
「椅子型は駄目ですか?」
「今一番出してはいけない形だ」
「では、ハート型で」
「それもほどほどに」
「では、心の椅子型で」
「概念を焼き菓子にするな!!」
なぜ料理長まで心の椅子を知っている。
いや、ライズか?
父上か?
リーマスか?
全員ありえる。
「普通の菓子でお願いします」
「普通の」
「はい」
「若様、普通とは難しいものでございます」
「料理長まで哲学を始めないでください」
「承知しました。では、普通に大変美味しいものを作ります」
「お願いします」
俺は疲れた。
リリスが来る前から、すでにツッコミが追いつかない。
そして明後日。
ついにリリス訪問の日が来た。
朝から屋敷は浮き足立っていた。
使用人たちは妙ににこにこしている。
母上は朝から俺の服装を確認し、「今日は落ち着いてね」と言った。
落ち着きたいのは山々である。
父上は「今日もガロウが面白そうだ」と言っていた。
父上、本当に友人を何だと思っているのか。
リーマスは「本日の茶会には、程よい椅子の配置を用意いたしました」と報告してきた。
程よい椅子の配置。
もう言葉だけで不安だ。
玄関ホールで待っていると、やがてフルーラ公爵家の馬車が到着した。
白と金の装飾が美しい馬車。
扉が開き、まずガロウ公爵が降りてきた。
相変わらず大きい。
玄関前の空気が少し引き締まる。
次にミラが降り、最後にリリスが姿を見せた。
淡い水色のドレス。
金の髪には、俺が贈ったブルーローズの髪飾り。
今日もよく似合っている。
彼女は俺を見ると、ぱっと顔を明るくした。
そして。
足が一瞬前に出た。
止まった。
すごい。
止まった。
前回より成長している。
リリスはその場で深呼吸し、ゆっくり歩いてきた。
歩幅は小さいが、前回より自然だ。
いや、普通よりは少しぎこちない。
だが頑張っている。
「アル」
「リリス。ようこそ、シェルザート家へ」
「お招きありがとうございます」
リリスは完璧な礼をした。
そして顔を上げる。
目がきらきらしている。
「走りませんでした」
「はい。見ていました。とても立派でした」
「ありがとうございます」
リリスの頬が赤くなる。
だが泣かない。
頑張っている。
ガロウ公爵が後ろで微妙な顔をしている。
娘を褒められて嬉しい。
でも褒めているのが俺。
複雑。
たぶんそんな顔だ。
「フルーラ公爵閣下、本日はようこそお越しくださいました」
父上が前へ出る。
「アスフ、堅苦しい」
「客人だからな」
「お前にそうされると気持ち悪い」
「またそれか」
開幕から友人同士の空気になる二人。
使用人たちは慣れているのか表情を崩さない。
俺も慣れてきた。
慣れたくなかった。
「ガロウ、今日はゆっくりしていけ」
「娘を見届ける」
「茶でも飲め」
「娘を見届ける」
「怖いな」
「父だ」
「便利な言葉だな」
父上が笑う。
ガロウ公爵は腕を組む。
リリスは少し困った顔をする。
「お父様」
「なんだ、リリス」
「今日は、私はアルのほどほどを確認しに来ました」
「……ああ」
ガロウ公爵の顔が固まった。
父上の肩が震えた。
リーマスが目を細めた。
ライズは背後で親指を立てた。
やめろ。
玄関で立てるな。
「ですので、お父様はあまり心配しないでください」
「分かっている」
「本当ですか?」
「分かっている」
「庭師に紛れたりしませんか?」
「……しない」
間があった。
する気だったな?
絶対する気だったな?
父上が笑いを堪えている。
ガロウ公爵が横目で睨む。
もうすでに騒がしい。
この先が思いやられる。
まずは応接室で簡単な挨拶を済ませ、その後、俺とリリスは温室へ向かうことになった。
もちろん二人きりではない。
リリスにはミラ。
俺にはライズ。
少し離れた場所には、父上とガロウ公爵。
なぜ父親たちまで来る。
「父上」
「なんだ?」
「温室での茶会は、俺とリリスが話す場では?」
「ああ」
「ではなぜ父上たちも?」
「見守りだ」
「近い見守りです」
「気にするな」
気にする。
めちゃくちゃ気にする。
ガロウ公爵は腕を組んだまま言った。
「私は壁になる」
「壁?」
「必要以上に近づきすぎた場合、止める」
「お父様!」
「リリス、学びには見守りが必要だ」
「でも、アルのほどほどはアルと確認します」
「……」
ガロウ公爵が少し傷ついた顔をした。
リリスは慌てる。
「あ、ち、違います。お父様が嫌なのではなくて」
「分かっている」
「お父様も大切です」
「……そうか」
回復が早い。
娘に大切と言われた瞬間、ガロウ公爵の表情が少し柔らかくなった。
父上が小声で俺に言う。
「簡単だな」
「父上、聞こえます」
「聞こえるように言った」
「やめてください」
温室に入ると、リリスは小さく息を漏らした。
「やっぱり、綺麗です」
青い薔薇が静かに咲いていた。
陽光を受けて、花弁が柔らかく光っている。
リリスは一歩近づき、薔薇を見つめた。
「また会えましたね」
薔薇に話しかけた。
やっぱり話しかけた。
庭師が遠くで感動したように頷いている。
やめて。
薔薇と会話成立したみたいな空気を出さないで。
「リリス」
「はい」
「薔薇に挨拶を?」
「はい。前回、褒めてあげた方がいいかもしれないと」
「ものの例えと言った気がします」
「でも、綺麗なので」
「それはそうです」
リリスは薔薇へ微笑んだ。
「今日もとても綺麗です」
その姿は、正直に言えば、とても絵になっていた。
青い薔薇。
金の髪。
水色のドレス。
柔らかな光。
まるで絵画の中の妖精のようだ。
ただし、薔薇に話しかけている。
絵画の題名はたぶん『薔薇と会話する公爵令嬢』である。
俺は笑いを堪えながら、用意された席へ案内した。
テーブルの配置は、前回と同じように向かい合う形。
ただし、椅子の距離が少し広めに取られている。
リーマスの「程よい椅子の配置」だろう。
リリスがそれをじっと見た。
真剣な目だった。
「アル」
「はい」
「椅子が遠いです」
「着席前から?」
「はい」
「まだ座っていませんよ?」
「見れば分かります」
距離感への感度が上がっている。
方向性は不安だが、成長しているのかもしれない。
「まずは座りましょう」
「はい」
リリスが座る。
俺も向かいに座る。
ミラとライズは少し離れた位置へ。
父上とガロウ公爵は、なぜか温室の端に置かれた椅子へ座った。
見る気満々だ。
やめろ。
お茶が注がれ、菓子が並ぶ。
料理長はちゃんと普通の菓子を用意してくれた。
ブルーローズ型の小さな焼き菓子。
普通か?
まあ、椅子型ではないからいい。
「リリス、どうぞ」
「ありがとうございます」
リリスは焼き菓子を手に取り、口へ運ぶ。
目が輝いた。
「美味しいです」
「よかった」
「優しい甘さです」
「料理長も喜びます」
「アルはこれが好きですか?」
「はい。好きです」
「では、私も好きです」
「その流れ、前も聞きました」
「何度でも言います」
「強い」
リリスはにこにこしている。
距離は確かにいつもより遠い。
テーブルを挟んで、普通の範囲。
リリスは頑張っている。
だが、落ち着かないのか、時々指先がそわそわしている。
俺の方を見て、椅子を見る。
また俺を見る。
椅子を見る。
「リリス」
「はい」
「椅子、気になりますか?」
「……少し」
「動かしてもいいですよ」
「よろしいのですか?」
「近すぎなければ」
リリスの顔が明るくなった。
そして、両手で椅子の端を持つ。
ぎっ。
ほんの少し近づいた。
そこで止まる。
俺を見る。
「どうでしょう」
「まだ大丈夫です」
「では、もう少し」
ぎっ。
「どうでしょう」
「大丈夫です」
「では、もう少し」
ぎっ。
「リリス」
「はい」
「今、少しずつ攻めていませんか?」
「攻めて?」
「距離を詰めています」
「実地確認です」
「言い方」
リリスは真剣だった。
テーブルの端でミラが手帳を取り出していた。
待て。
記録する気か?
「ミラ殿?」
俺が声をかけると、ミラは静かに礼をした。
「お嬢様より、アルフレッド様のほどほどを記録するよう命じられております」
「記録するんですか!?」
「はい」
「やめませんか?」
「私もそう申し上げたのですが」
ミラは少しだけ遠い目をした。
「お嬢様が『アルのほどほどは大切です』と」
リリスが胸を張る。
「大切です」
「リリス」
「はい」
「俺は研究対象ではありません」
「研究ではありません」
「では何ですか」
「婚約者理解です」
「急に正しそうな言葉を出す」
「アルを理解したいのです」
「……」
それを言われると弱い。
俺は言葉に詰まった。
リリスは真っ直ぐ俺を見ている。
その瞳には悪意などない。
ただ、本当に俺を知りたい、困らせたくない、でも近くにいたいという気持ちが詰まっている。
だからこそ厄介で。
だからこそ可愛い。
「分かりました」
「では」
「ただし、記録はほどほどに」
「ほどほど」
ミラが手帳に何かを書いた。
「今の『ほどほど』は記録します」
「そこから!?」
ライズが背後で肩を震わせている。
父上は温室の端で笑いを堪えている。
ガロウ公爵は腕を組み、複雑そうな顔をしている。
もうこの茶会、完全に距離感講習会だ。
しばらくして、リリスの椅子は「普通より少し近いが、ぎりぎり問題ない」位置で止まった。
俺の感覚では、それが本日のほどほど。
リリスは嬉しそうに頷いた。
「これが今日のアルのほどほどですね」
「そうですね」
「前回より、少し遠いですか?」
「場所が違いますから」
「場所」
「フルーラ家の庭園と、シェルザート家の温室では雰囲気が違います」
「なるほど」
「それに、今日は父上たちも見ています」
「確かに」
リリスは温室の端を見た。
ガロウ公爵と目が合う。
ガロウ公爵は何事もなかったように視線を逸らした。
見ていたのに。
「お父様が見ていると、少し遠め」
「はい」
「では、お父様がいない時は?」
「……」
「アル?」
「その質問は危険です」
「危険」
「はい」
リリスは真剣に頷いた。
「では、後で聞きます」
「後でも危険です」
「まあ」
本当に分かっているのか不安だ。
だが、リリスは楽しそうだった。
温室の空気も穏やかで、青い薔薇の香りが静かに漂っている。
俺たちはその後、学園の話をした。
もうすぐ俺たちは王立学園に入学する。
貴族の子弟が多く通う学園であり、将来の人脈作りの場でもある。
当然、リリスも俺も通う予定だ。
「学園では、アルと同じ授業を受けられるでしょうか」
「身分や専攻で一部分かれるとは思いますが、共通の講義もあるでしょう」
「隣の席になれるでしょうか」
「そこは先生が決めるのでは」
「先生にお願いすれば」
「駄目です」
「まだ何も言っていません」
「言う前に分かりました」
リリスは少し頬を膨らませた。
「アルは鋭いです」
「リリスが分かりやすいんです」
「そうでしょうか」
「はい」
「では、アルには隠し事ができませんね」
「しないでください」
「はい。しません」
即答だった。
俺は少し笑った。
「ただ、学園では周囲の目も多いです。今より距離感は気をつけましょう」
「はい」
「俺も気をつけます」
「アルも?」
「はい。リリスだけの問題ではありませんから」
そう言うと、リリスは驚いたように目を見開いた。
「私だけでは、ないのですか?」
「婚約者同士の距離ですから。二人で考えるものです」
「……」
リリスは黙った。
そして目を潤ませた。
あ。
泣く。
「リリス」
「嬉しいです」
「はい」
「アルが、二人で考えると言ってくださいました」
「本心です」
「泣いてもいいですか?」
「できれば笑ってください」
リリスは涙を堪えながら笑った。
その笑顔は、やっぱり胸に来る。
ミラが静かにハンカチを構えたが、今回は使わずに済んだ。
成長だ。
たぶん。
その時だった。
温室の扉が開いた。
入ってきたのは、母上だった。
柔らかな笑顔を浮かべ、淡い紫のドレスを揺らしている。
「楽しそうね」
「母上」
俺は立ち上がる。
リリスもすぐに立ち上がり、優雅に礼をした。
「シェルザート伯爵夫人、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、アマリリス様。今日は来てくださってありがとう」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
母上はリリスを見て、にこりと微笑んだ。
「その髪飾り、本当によくお似合いね」
「ありがとうございます。アルが贈ってくださいました」
「ええ。聞いているわ」
母上の目が俺へ向いた。
やめてください。
その優しいからかいの目。
「アルが一生懸命選んでいたもの」
「母上」
「とても似合っていてよかったわね、アル」
「はい」
否定できない。
実際、とても似合っている。
リリスは頬を赤くして俯いた。
母上はそんなリリスを見て、さらに柔らかく微笑む。
「アマリリス様」
「はい」
「アルは少し言葉が足りないところもあるけれど、思っていることはきちんと本当のことよ」
「はい」
「だから、安心してね」
リリスの目がまた潤んだ。
母上、強い。
リリスの涙腺に的確に刺していく。
「ありがとうございます」
リリスは震える声で答えた。
「私、アルのお母様にも認めていただけるよう、頑張ります」
「まあ」
母上は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「もう十分、可愛らしい婚約者様よ」
「……っ」
リリスが限界を迎えた。
ぽろりと涙が落ちる。
「母上、泣きました」
「あら」
「リリス、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。嬉しいです」
ミラがすぐにハンカチを差し出す。
リリスはそれを受け取り、目元を押さえた。
ガロウ公爵が温室の端で立ち上がりかける。
だが母上がにこりと微笑んだ。
「フルーラ公爵様、嬉し涙ですから」
「……分かっている」
ガロウ公爵は座り直した。
母上、強い。
騎士団長を座らせた。
父上が小声で言う。
「我が妻は強いだろう」
「はい」
そこは同意するしかない。
茶会の後半、母上も加わったことで、空気はさらに穏やかになった。
母上はリリスに、シェルザート家のことや、俺の幼い頃の話を語った。
「アルは小さい頃から真面目だったのよ」
「そうなのですね」
「でも、困っている子を見るとすぐに走っていってしまうの」
「アルらしいです」
「一度、庭で転んだ使用人の子を助けようとして、自分も一緒に転んだことがあったわ」
「まあ」
「二人で泥だらけになって帰ってきたの」
「アル、可愛いです」
「やめてください」
母親の前で幼少期の話をされるのは恥ずかしい。
しかもリリスが本気で可愛いと言う。
俺は逃げ場がない。
「アルは昔からお優しいのですね」
「優しいというか、考える前に動くことが多かっただけです」
「素敵です」
「リリス、何でも素敵と言っていませんか?」
「アルのことは、何でも素敵です」
「重い」
「重いですか?」
「少し」
「では、少し軽くします」
「どうやって?」
リリスは真剣に考えた。
「アルのことは、だいたい素敵です」
「雑になった!!」
母上がくすくす笑う。
父上は温室の端で肩を震わせている。
ガロウ公爵は複雑そうに俺を見ている。
ミラは手帳に何かを書いている。
書くな。
何を記録している。
「リリス」
「はい」
「だいたい素敵、は少し傷つきます」
「えっ」
リリスの顔が青くなった。
「ち、違います。アルは全部素敵です。でも重いと言われたので、軽くしようと」
「分かっています。冗談です」
「冗談」
「はい」
「……アルの冗談は、心臓に悪いです」
「すみません」
リリスはほっと息を吐いた。
そして小さく言う。
「私は、アルのことを傷つけたくありません」
その声があまりに真剣だったので、俺は少し黙った。
母上も静かに微笑んでいる。
リリスは続けた。
「近づきすぎて困らせることはあります。でも、嫌な気持ちにはさせたくないのです」
「リリス」
「だから、ちゃんと教えてください。私、覚えます」
胸の奥が温かくなる。
この子は本当に一生懸命だ。
方向性はよく迷子になる。
だが、根っこにはいつも俺への気遣いがある。
だから、俺もちゃんと応えたい。
「はい。俺もちゃんと伝えます」
「約束です」
「約束です」
そう言うと、リリスは嬉しそうに笑った。
その瞬間、温室の空気がふわりと柔らかくなった気がした。
騒がしくて、変で、ツッコミどころだらけ。
でも、確かに少しずつ、俺たちは婚約者になっていっている。
そう感じた。
夕方になり、フルーラ公爵家の馬車が帰る時間になった。
玄関ホールで、リリスは名残惜しそうに俺を見ていた。
「アル」
「はい」
「今日は、アルのほどほどを少し覚えられました」
「それはよかったです」
「でも、まだ難しいです」
「少しずつでいいと思います」
「はい」
リリスは両手を胸の前で握り、真剣に言った。
「次は、学園でのほどほどを考えます」
「もう次の研究が始まっている」
「大切です」
「大切ですが、研究というより練習でお願いします」
「はい。練習します」
リリスは頷いた。
そして、少し迷うように俺の手を見た。
手。
あ。
これは。
「リリス」
「はい」
「今日は、手を繋ぎますか?」
「……よろしいのですか?」
「馬車までなら」
リリスの顔がぱっと明るくなった。
「はい」
俺はそっと手を差し出した。
リリスは嬉しそうにその手を取る。
柔らかい手。
温かい手。
前より少しだけ力は弱い。
ちゃんと気をつけているのが分かる。
「力加減、どうですか?」
「ちょうどいいです」
「覚えます」
「それも覚えるんですね」
「はい。アルの手のほどほどです」
「また新しい基準が」
俺は苦笑した。
でも、手は離さなかった。
玄関から馬車までの短い距離。
使用人たちが微笑ましそうに見ている。
父上がにやにやしている。
母上が優しく笑っている。
ガロウ公爵は何かに耐えるように空を見ている。
ライズは親指を立てている。
ミラは微笑みつつ、たぶん手帳に書く内容を考えている。
見守りが多い。
多すぎる。
だが、リリスは幸せそうに笑っていた。
なら、まあいいか。
馬車の前で手を離す。
リリスは少し寂しそうに手を見たが、すぐに顔を上げた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。来てくれて嬉しかったです」
「また来てもよろしいですか?」
「もちろん」
「次は、走らず、泣かず、近づきすぎず、手の力もほどほどにします」
「目標が増えましたね」
「はい」
「無理はしないでください」
「アルが教えてくれるので、大丈夫です」
そう言って、リリスは笑った。
真っ直ぐな信頼。
その笑顔を向けられると、俺は何も言えなくなる。
「また、リリス」
「はい。また、アル」
馬車の扉が閉まり、ゆっくり動き出す。
リリスは窓から小さく手を振った。
俺も振り返す。
馬車が遠ざかるまで見送ってから、俺は長く息を吐いた。
「アルフレッド」
父上が横に立つ。
「どうだった?」
「疲れました」
「だろうな」
「でも、楽しかったです」
「そうか」
父上は少しだけ優しい顔で笑った。
「なら、よかった」
「はい」
「しかし、アルのほどほどか」
「言わないでください」
「次は手のほどほどだな」
「父上」
「学園のほどほどもあるぞ」
「父上」
「結婚後のほどほども――」
「父上!!」
父上は楽しそうに笑った。
俺は頭を抱えた。
そして翌朝。
予想通り、フルーラ公爵家から書状が届いた。
差出人はガロウ公爵。
内容は短かった。
『娘が「アルの手のほどほど」を忘れないよう、自分の手を握って確認している。説明しろ。 ガロウ』
俺は書状を読み、静かに目を閉じた。
父上は爆笑した。
リーマスは「大変微笑ましいことでございます」と頷いた。
ライズは親指を立てた。
俺は天井を見上げる。
そして、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
研究対象が!!
俺になってるんですけど!?




