第4話 婚約者様、我慢の方向性がおかしい
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
先日、俺は正式に婚約者ができました。
相手は、アマリリス・フルーラ公爵令嬢。
通称、リリス。
王国に四つしかない公爵家のご令嬢であり、金髪碧眼、気品、教養、美貌、家柄、すべてを兼ね備えた完璧な令嬢である。
……表向きは。
いや、誤解しないでほしい。
リリスは本当に完璧なのだ。
社交界での立ち居振る舞いは美しいし、言葉遣いも丁寧で、礼も綺麗。
発表式でも、王家の使者を前にして堂々と自分の意思を示した。
あの姿は、間違いなく公爵令嬢だった。
だが。
俺の前では、少し違う。
照れる。
泣きそうになる。
天然発言をする。
そして、距離が近い。
かなり近い。
婚約発表式の日、彼女は俺の隣にぴったり立ち、隙あらば近づき、最終的にはバルコニーで手を繋いだ。
いや、手を繋いだこと自体はいい。
婚約者だし。
俺も嫌ではなかったし。
むしろ温かかったし。
……今のは忘れてほしい。
問題はその後だ。
発表式が終わり、各家に婚約の知らせが正式に回った翌日から、社交界では噂が一気に広がった。
曰く。
「フルーラ公爵令嬢は、シェルザート伯爵子息にぞっこんらしい」
曰く。
「発表式で自ら『お慕いしております』と宣言したらしい」
曰く。
「婚約者から贈られた髪飾りをつけ、終始隣を離れなかったらしい」
曰く。
「伯爵子息が『近いです』と困っていたらしい」
最後の情報、誰が流した?
いや、たぶん会場にいた誰かだ。
あの場には貴族がたくさんいた。
当然、耳も多い。
噂好きの夫人たちもいた。
俺のツッコミは、どうやらかなり聞こえていたらしい。
おかげで、シェルザート伯爵家にも手紙が届いた。
祝福の手紙。
探りの手紙。
茶会への招待状。
そして、なぜか父上宛てに「ご子息のツッコミが大変印象的でした」という感想まで。
感想を送るな。
舞台役者ではない。
いや、父上とリーマスの再現劇のせいで、我が家はちょっと舞台に近い気もする。
やめよう。
深く考えると負けだ。
そんなわけで、婚約発表から三日後。
俺は朝から父上に呼び出されていた。
場所は例によって執務室。
窓から差し込む朝日が机を照らし、部屋には紙とインクの匂いが漂っている。
父上は机の向こうに座り、手元の書類をめくっていた。
その横にはリーマス。
さらに俺の後ろにはライズ。
うん。
この配置、もう嫌な予感しかしない。
「アルフレッド」
「はい」
「今日はフルーラ公爵家へ行ってもらう」
「はい?」
俺は思わず聞き返した。
フルーラ公爵家へ?
今日?
今?
急では?
「婚約発表後、初めての正式な訪問だ。リリス嬢からも招待が来ている」
「リリスから?」
「うむ」
父上は一通の封書を差し出した。
淡い青の封筒。
フルーラ公爵家の封蝋。
そして、ほんのり花の香り。
あ、これリリスからだ。
もう分かるようになってしまった。
俺は封書を受け取り、父上を見た。
「読んでも?」
「もちろん」
「父上は読んでいませんよね?」
「読んでいない」
「本当に?」
「封は開けていない」
「中身を透かして見たりは?」
「私は何者だ」
「父上なら何かやりそうで」
「失礼な息子だな」
父上は笑っていた。
だが、リーマスが少し目を伏せた。
え?
何?
まさか過去にやったの?
聞かない方がいいな。
俺は封を開け、便箋を広げた。
『アルへ』
はい。
もうここで心臓が少し動く。
慣れたと思ったが、やっぱり慣れていなかった。
『婚約発表式では、隣にいてくださってありがとうございました』
丁寧な書き出し。
『アルがそばにいてくれたので、私は最後まで公爵令嬢として立つことができました』
そう言ってもらえるのは嬉しい。
俺も、リリスが隣にいてくれたから何とか立っていられた。
『ただ、ミラに「お嬢様、少し距離が近すぎました」と言われました』
ミラさん、よく言ってくれた。
『お父様にも「リリス、アルフレッド殿には節度が必要だ」と言われました』
ガロウ公爵も言ってくれた。
あの人、自分は入口から覗いていたけど。
『ですので、私は考えました』
ん?
嫌な予感。
『次にお会いする時は、きちんと我慢します』
おお。
成長だ。
いや、失礼かもしれないが、これは大事だ。
リリスが自分で距離感を考えようとしている。
偉い。
『アルが困らないように、ちゃんと我慢して、婚約者として相応しい振る舞いをいたします』
素晴らしい。
俺は少し感動した。
『ですので、アルに我慢できているところを見ていただきたいです』
ん?
『本日、もしご都合がよろしければ、フルーラ家の庭園でお茶をご一緒できませんか』
なるほど。
正式訪問というより、リリスからのお茶のお誘いか。
『もちろん、近づきすぎません。きちんと、ほどほどを守ります』
ほどほど。
彼女がどのように解釈しているか、少し心配だ。
『ちなみにミラに確認したところ、椅子一つ分の距離が普通だと言われました』
ミラさん、ありがとう。
『ですが、椅子一つ分は遠すぎる気がします』
ミラさん、負けないで。
『なので、半分から始めようと思います』
半分!?
何を半分にした!?
椅子一つ分の半分!?
近い!!
俺は思わず手紙から顔を上げた。
「アルフレッド?」
父上が尋ねる。
「どうした?」
「リリスが、我慢の基準を自分で決めたようです」
「ほう」
「椅子一つ分は遠すぎるので、半分から始めるそうです」
「なるほど」
父上が真面目な顔で頷いた。
「成長だな」
「どこがですか」
「ゼロ距離から半椅子分になった」
「単位がおかしい」
リーマスが静かに口を開く。
「若様、アマリリス様は大変努力されているものと思われます」
「それは分かります」
「努力の方向性に多少の個性があるだけでございます」
「多少ですか?」
「多少でございます」
絶対多少ではない。
俺は再び手紙に目を落とした。
『アルにお会いできるのを楽しみにしております。今日は泣かないように頑張ります。もし泣いてしまったら、できるだけ静かにします』
だから泣かないで。
『リリス』
俺は便箋を丁寧に畳んだ。
胸の中が温かくなると同時に、頭の中でツッコミが準備運動を始めていた。
今日は忙しくなる。
間違いなく。
「父上」
「なんだ」
「行ってきます」
「うむ。しっかり務めてこい」
「はい」
「それと、アルフレッド」
「はい」
「リリス嬢が我慢しているなら、ちゃんと褒めてあげなさい」
「……はい」
「ただし褒めすぎると泣くかもしれん」
「どうすればいいんですか」
「そこはお前の腕の見せどころだ」
「婚約者としての腕ですか?」
「ツッコミ役としての腕だ」
「やっぱりそこなんですね」
父上は楽しそうに笑った。
リーマスも微笑んでいる。
ライズは無言で親指を立てている。
「ライズ」
「はい」
「親指を下ろせ」
「承知いたしました」
こいつ、最近これが定番になっている。
絶対わざとだ。
昼前。
俺は馬車に乗り、フルーラ公爵家の王都別邸へ向かった。
今回は父上は同行しない。
正式な婚約者としての訪問とはいえ、招待状はリリスからのもの。
当然、従者としてライズは同行する。
それから、贈り物として母上が選んだ菓子の詰め合わせも持参することになった。
「婚約者の家を訪れる時は、手土産も大切よ」と母上が言っていた。
そして最後にこう付け加えた。
「アマリリス様が喜びすぎて泣いてしまったら、優しくしてあげてね」
母上まで泣く前提なのはどうなんだ。
馬車の中、俺は窓の外を見ながら息を吐いた。
王都の街並みがゆっくり流れていく。
商人の声。
馬車の車輪。
石畳を歩く人々。
空はよく晴れていた。
こうして外を見ると、世界はいつも通りだ。
なのに、俺の生活だけが急激に変わっている。
リリスと出会ってから、まだ日が浅い。
それなのに、彼女の存在はもう俺の日常の中心に入り込んできていた。
手紙が届くたびに気になり、会える日を楽しみにし、泣かせないように言葉を選ぶ。
少し前の俺なら、こんな自分を想像できなかった。
「若様」
向かいに座るライズが声をかけてきた。
「緊張されていますか?」
「少しな」
「アマリリス様にお会いするのが?」
「それもある」
「フルーラ公爵様にお会いするのが?」
「かなりある」
「本日は公爵様もお屋敷にいらっしゃるそうです」
「知りたくなかった」
「旦那様より、若様に伝えるようにと」
「父上……」
絶対わざとだ。
俺を不安にさせて楽しんでいる。
いや、情報としては必要だ。
必要だが、馬車の中で聞きたくなかった。
ガロウ公爵。
娘を溺愛する騎士団長。
俺を睨む目は怖いが、リリスの前では弱い。
悪い人ではない。
むしろ誠実な人だ。
ただ、圧がすごい。
物理的にも精神的にも。
「ライズ」
「はい」
「もしガロウ公爵が俺を睨んだらどうする?」
「静かに見守ります」
「助けろ」
「公爵様に睨まれても、若様なら耐えられると信じております」
「信じる方向を間違えている」
「必要であれば、親指を立てます」
「立てるな」
会話しているうちに、馬車はフルーラ公爵家別邸へ到着した。
相変わらず立派な門。
広い庭。
整えられた植え込み。
噴水。
白い石造りの屋敷。
何度見ても、伯爵家とは規模が違う。
馬車から降りると、玄関前にはミラが待っていた。
リリス付きの侍女である。
銀髪をきっちりまとめ、落ち着いた微笑みを浮かべている。
「ようこそお越しくださいました、アルフレッド様」
「お招きありがとうございます、ミラ殿」
「お嬢様が、朝から大変楽しみにされております」
「そうですか」
「はい。楽しみにされすぎて、今朝はティーカップを三度ほど持ち替えておられました」
「どういう状態ですか?」
「落ち着かないご様子でした」
可愛い。
いや、本人は大変だったのだろうが。
「ただ」
ミラは少しだけ目を伏せた。
「お嬢様は本日、『我慢』を強く意識されております」
「手紙にも書いてありました」
「はい。私も可能な限り助言はいたしました」
「ありがとうございます」
「ですが、お嬢様の解釈が少々独創的でございまして」
「独創的」
「はい」
嫌な言葉だ。
俺は思わずライズを見た。
ライズは無表情。
だが、たぶん楽しんでいる。
「具体的には?」
「アルフレッド様のお姿を見ても、走ってお迎えしない、と決意されております」
「それはありがたいです」
「その代わり、早歩きならよいのではないかと」
「惜しい」
「廊下で転ぶ危険があるため、私が止めました」
「本当にありがとうございます」
「また、近づきすぎないために、最初は椅子半分の距離を保つと」
「それも聞きました」
「ただし、お嬢様の中での椅子半分が、私どもの認識と少々異なる可能性がございます」
「どういう意味ですか?」
「実際にご覧いただければ」
「怖い」
ミラは微笑んだ。
その微笑みは穏やかだが、どこか達観していた。
この人、苦労している。
間違いなく。
俺は心の中でミラに敬礼した。
案内されたのは、屋敷の奥にある庭園だった。
フルーラ公爵家の庭園は美しい。
白い小道が曲線を描き、左右には色とりどりの花が咲いている。
噴水の水音が涼しげに響き、ところどころに置かれた彫像が陽光を受けて白く輝いていた。
中央の東屋には、すでに茶会の準備が整えられていた。
白いテーブルクロス。
銀のティーポット。
菓子皿。
花を飾った小さな花瓶。
そして、そのそばにリリスが立っていた。
今日のリリスは淡い黄色のドレスを着ていた。
金の髪は柔らかく結われ、俺が贈ったブルーローズの髪飾りが添えられている。
青と黄色。
少し意外な組み合わせなのに、とてもよく似合っていた。
春の光をまとったような姿。
彼女は俺を見ると、一瞬ぱっと顔を輝かせた。
そして。
一歩踏み出した。
止まった。
もう一歩踏み出した。
また止まった。
すごく歩き方がおかしい。
俺は思わず固まった。
リリスは自分の両手を胸の前でぎゅっと握り、こちらへ向かってゆっくり歩いてくる。
いや、ゆっくりというより、歩幅が妙に小さい。
まるで自分の足に「走るな」と命令しているようだった。
その顔は真剣。
とても真剣。
公爵令嬢が全力で我慢している。
可愛い。
だが、歩き方が変。
「アル」
リリスが俺の前に来て、優雅に礼をした。
礼は完璧だった。
その後、顔を上げた彼女は、少し誇らしそうに微笑んだ。
「走りませんでした」
第一声それ!?
「はい。とても立派でした」
俺は反射的に褒めた。
父上の言葉を思い出したからだ。
リリスはぱっと目を輝かせる。
「本当ですか?」
「本当です」
「私、頑張りました」
「見ていました」
「アルが来た瞬間、足が勝手に動こうとしました」
「足が?」
「はい。でも止めました」
「よく止めました」
「はい」
リリスは嬉しそうに頷いた。
その横でミラが小さく息を吐いている。
苦労の気配が濃い。
「本日はお招きありがとうございます、リリス」
「来てくださってありがとうございます、アル」
リリスはまた頬を赤くした。
そして、何かを思い出したように、少し下がった。
下がった。
はずだった。
距離は拳二つ分くらい。
近い。
相変わらず近い。
「リリス」
「はい」
「それが椅子半分ですか?」
「はい」
「椅子、どこの椅子ですか?」
「心の椅子です」
「概念だった!!」
思わず叫んだ。
ミラが目を閉じた。
ライズが後ろで何かを堪えている気配がした。
リリスは不思議そうに首を傾げる。
「違いましたか?」
「普通、距離は実際の椅子で測ります」
「まあ」
「心の椅子だと人によって大きさが変わります」
「アルの心の椅子は大きいですか?」
「急に詩的な質問をしないでください」
「大きいと嬉しいです」
「……たぶん、普通です」
「普通」
リリスは真剣に考え込んだ。
しまった。
また変な方向へいく。
「では、アルの心の椅子に座ってもよろしいでしょうか」
「駄目です」
「なぜですか?」
「距離感の話から心への着席に飛ばないでください」
ミラが小さく咳払いをした。
「お嬢様、まずはお茶を」
「あ、そうでした」
リリスははっとして、東屋へ俺を案内した。
席につく。
テーブルを挟んで向かい合う形。
これなら距離は普通だ。
よかった。
と思ったのも束の間。
リリスが椅子を少し動かした。
ぎっ。
近づいた。
「リリス?」
「はい?」
「椅子を動かしましたよね?」
「はい」
「なぜ?」
「テーブルが少し遠かったので」
「テーブルではなく俺に近づいていませんか?」
「……結果的に」
「結果的に!?」
リリスは照れたように微笑んだ。
「でも、まだテーブルがあります」
「障害物扱いですか」
「いえ、節度です」
「節度とは」
俺は額を押さえた。
だが、彼女は本当に努力している。
これでも彼女なりに、距離を考えているのだ。
東屋の端では、ミラとライズが控えている。
二人とも表情は落ち着いているが、ミラは完全に「申し訳ございません」という気配を出しているし、ライズは「若様、頑張ってください」という気配を出している。
助けろ。
俺は目で訴えたが、ライズは静かに目を伏せた。
裏切り者。
「アル、本日は来てくださって本当に嬉しいです」
リリスが言った。
さっきまでの妙なやり取りとは違い、声は柔らかい。
「婚約発表式のあと、ずっとお会いしたかったのです」
「俺も、会えて嬉しいです」
「……っ」
リリスの目が潤んだ。
早い。
泣くのが早い。
「リリス?」
「だ、大丈夫です。今日は泣かないように頑張ります」
「無理はしなくていいですが」
「でも、泣くとお父様が来ます」
「それは困りますね」
「はい」
二人して真剣に頷いた。
ガロウ公爵が来る。
それだけで場の空気が変わる。
いや、来てもいいのだが、圧が強い。
できれば穏やかにお茶をしたい。
「本日、公爵様は?」
「屋敷におります」
「やはり」
「お父様は、最初は庭園の木の陰から見守ると仰っていました」
「隠れる気だったんですか?」
「はい。でもミラに止められました」
ミラさん、本当にありがとう。
「それで今は?」
「執務室にいるはずです」
「はず」
「お父様は足音を消すのが上手なので」
「騎士団長の技術を娘の茶会に使わないでほしい」
俺は周囲をそっと見た。
木陰。
噴水の裏。
庭園の彫像。
どこかにガロウ公爵が隠れていないか確認する。
いない。
たぶん。
いや、相手は騎士団長だ。
素人の俺に見つけられるとは限らない。
怖い。
この庭園、綺麗なのに油断できない。
「アル、どうされました?」
「いえ、公爵様がどこかにいないかと」
「お父様なら、あちらの窓から見ているかもしれません」
「え?」
リリスが屋敷の二階を指差した。
俺は反射的に見る。
カーテンが揺れた。
今、揺れた。
風か?
風だよな?
いや、窓は閉まっているように見えた。
つまり。
「……見てますね」
「たぶん」
「たぶんではない気がします」
「お父様も心配性なのです」
「分かります」
分かりたくないが、分かる。
大切な娘が婚約者と二人で茶会をしているのだ。
もちろんミラとライズは控えているし、礼儀的には問題ない。
それでも父親としては落ち着かないのだろう。
俺は二階の窓へ向かって、軽く礼をした。
カーテンがさらに揺れた。
絶対いる。
「アル、なぜ礼を?」
「見られているなら挨拶をした方がいいかと」
「アルは礼儀正しいです」
「ありがとうございます」
「そういうところも好きです」
「紅茶を飲みましょう」
急に来た。
急に真っ直ぐ来た。
心臓に悪い。
俺はカップを手に取り、紅茶を飲む。
香りがいい。
フルーラ公爵家の茶葉は上等だ。
ほどよい渋みと花の香りが口に広がる。
「美味しいです」
「よかったです。アルに飲んでいただきたくて、ミラと一緒に選びました」
「リリスが?」
「はい」
「ありがとうございます」
「本当は、私が淹れたかったのですが」
「淹れたかった?」
「はい。でもミラに止められました」
「なぜ?」
リリスは少しだけ視線を逸らした。
「前に練習した時、茶葉を多く入れすぎてしまって」
「濃くなったんですか?」
「お父様が一口飲んで、しばらく黙りました」
「相当ですね」
「そのあと『リリスが淹れた茶だ。美味い』と言って全部飲んでくださいました」
「公爵様……」
「でも、ミラが『公爵様、お顔が青いです』と」
「飲まない方がよかったのでは?」
「お父様は優しいです」
優しいというか、娘に弱すぎる。
ガロウ公爵、戦場ではどれほど強いのか知らないが、リリスの前では完全に敗北している。
「いつか、アルにも私の淹れたお茶を飲んでいただきたいです」
「練習してからにしましょう」
「はい。頑張ります」
「楽しみにしています」
「本当ですか?」
「本当です」
「では、毎日練習します」
「毎日?」
「はい。アルに美味しいと言っていただくために」
リリスは真剣だった。
その真剣さが可愛い。
だが、少し心配でもある。
「無理はしないでください」
「はい」
「茶葉を入れすぎないように」
「はい」
「お父様を実験台にしすぎないように」
「……はい」
「今、間がありましたね?」
「お父様は喜んでくださるので」
「でしょうね」
俺は二階の窓をもう一度見た。
カーテンは動かない。
だが、聞いている気がする。
もし聞こえていたら、ガロウ公爵は「いくらでも飲む」とか思っているのだろう。
父親とはすごい。
茶会はゆっくり進んだ。
庭園には穏やかな風が吹き、花の香りが東屋まで届く。
噴水の音が一定のリズムで耳に心地よい。
鳥が枝に止まり、時折鳴き声を上げる。
リリスは最初こそ距離感がおかしかったが、話しているうちに少し落ち着いてきた。
たぶん、「我慢している自分を見てもらう」という目的があるせいで、いつもより真剣なのだ。
「アル」
「はい」
「私、今、近づきすぎていませんか?」
「……最初よりは落ち着いています」
「最初より」
「はい」
「つまり、まだ少し近いのですね」
「少し」
「分かりました」
リリスは椅子をわずかに後ろへ下げた。
ぎっ。
本当にわずか。
指一本分くらい。
「どうでしょう」
「気持ちは伝わりました」
「距離は?」
「ほぼ変わっていません」
「まあ」
リリスは驚いた顔をした。
いや、今の移動で変わったと思っていたのか。
「難しいです、距離感」
「そうですね」
「公爵令嬢としては、ずっと学んできたはずなのですが」
リリスは少しだけうつむいた。
「アルの前だと、うまくできなくなります」
その声は小さかった。
俺はカップを置いた。
彼女の指が、膝の上でぎゅっと握られている。
いつもの天然発言とは違う。
少し不安そうな顔。
「私、変でしょうか」
「え?」
「ミラにも、お父様にも、近すぎると言われました。アルにも、近いと言われます」
「……」
「私、ちゃんと婚約者らしくしたいのです。でも、アルを見ると嬉しくなって、そばに行きたくなってしまいます」
リリスの目が少し潤んでいた。
笑い話のように見えて、本人は本気で悩んでいるのだ。
距離が近い。
天然。
泣き虫。
そう言葉にすれば軽いが、リリスにとっては、好きな相手を困らせたくないという悩みでもある。
俺は少し考え、ゆっくり口を開いた。
「リリス」
「はい」
「俺は、リリスが近くに来るのが嫌なわけではありません」
「……本当ですか?」
「本当です」
「でも、近いと」
「近いです」
「……」
「そこは事実です」
リリスがしゅんとした。
しまった。
言い方。
俺は慌てて続ける。
「でも、嫌ではありません。ただ、場所や状況によっては、少し気をつけた方がいいという話です」
「場所や状況」
「はい。たとえば、社交の場では周りの目があります」
「はい」
「でも、こうして茶会で話している時に少し近いくらいなら、俺は困りません」
「本当ですか?」
「本当です」
「泣きそうです」
「泣かないでください」
「嬉しくて」
「嬉しいなら笑ってください」
俺がそう言うと、リリスは目元を潤ませたまま、ふにゃりと笑った。
その笑顔があまりにも柔らかくて、俺は一瞬言葉を失った。
可愛い。
また語彙が死んだ。
「アル」
「はい」
「では、今は少し近くてもいいですか?」
「ほどほどなら」
「ほどほど」
リリスはまた真剣に考えた。
「では、今の距離はほどほどですか?」
俺は彼女との距離を確認した。
テーブル越し。
椅子は少し近い。
でも、まあ。
許容範囲だ。
「はい。ほどほどです」
「本当ですか?」
「本当です」
「では、覚えます」
「何をですか」
「これが、アルのほどほど」
「俺専用の基準を作らないでください」
「だめですか?」
「……だめではないですが」
「では、覚えます」
リリスはとても嬉しそうだった。
この子の中に「アルのほどほど」という謎基準が誕生してしまった。
大丈夫か?
後で変な方向に発展しないか?
少し心配だ。
しかし、彼女が安心したようなのでよしとしよう。
たぶん。
茶会の途中、ミラが菓子を運んできた。
小さな焼き菓子に、果物のタルト。
そして、うちから持参した菓子も皿に並べられる。
「こちらはシェルザート伯爵夫人よりお預かりしました」
ライズが説明する。
「母上が、リリスにと」
「まあ」
リリスの顔が明るくなる。
「アルのお母様が、私に?」
「はい。口に合えば嬉しいと申しておりました」
「嬉しいです」
リリスは菓子をひとつ手に取り、丁寧に口へ運んだ。
その動作は上品だった。
だが、食べた瞬間、目が輝いた。
「美味しいです」
「よかった」
「とても優しい味がします」
「母上が好きな菓子なんです」
「アルもお好きですか?」
「はい。子供の頃からよく食べています」
「では、私も好きです」
「判断が早い」
「アルが好きなものを、私も好きになりたいので」
ズキューン。
また来た。
何度聞いても慣れない。
「リリス」
「はい」
「そういうことを真顔で言われると、こちらが困ります」
「困りますか?」
「照れます」
「……照れる」
リリスの顔が赤くなった。
「アルが照れるのは、嬉しいです」
「なぜ」
「私の言葉で、アルの心が動いた気がするので」
「表現が綺麗すぎてツッコミづらい」
「ツッコミ?」
「あ、いえ、こちらの話です」
リリスは首を傾げた。
その時、庭園の向こうから複数の声が聞こえてきた。
足音もある。
誰かが近づいてくる。
ミラがすぐに反応し、視線を向けた。
やがて現れたのは、三人の令嬢だった。
年はリリスと同じくらいか、少し上。
華やかなドレスを着ており、いずれも貴族令嬢らしい雰囲気をまとっている。
リリスの知人だろうか。
「アマリリス様」
先頭の令嬢が優雅に礼をした。
「本日はご機嫌麗しく」
「ご機嫌よう、セシリア様、マリアンヌ様、エレナ様」
リリスはすっと公爵令嬢の顔になった。
姿勢が伸びる。
声が落ち着く。
先ほどまで「アルのほどほど」を真剣に覚えていた子とは思えない。
やはりすごい。
切り替えが見事だ。
俺も立ち上がり、礼をする。
「アルフレッド・シェルザートです」
「まあ、こちらが噂の」
「アマリリス様の婚約者様ですわね」
「発表式以来ですわ、アルフレッド様」
最後の令嬢は、婚約発表式で挨拶したエレナ嬢だった。
薄桃色のドレスを着た柔らかな雰囲気の令嬢。
彼女はにこやかに笑っている。
リリスの笑顔が、ほんの少し固まった。
俺は見逃さなかった。
あ。
これは。
「本日は、偶然こちらへ?」
リリスが尋ねる。
声は優雅。
だが、微妙に圧がある。
セシリア嬢が微笑んだ。
「フルーラ公爵夫人にご挨拶へ伺いましたの。庭園を拝見してもよいとのことで、歩いておりましたら、楽しそうなお声が聞こえましたので」
つまり、通りがかりか。
本当に偶然かどうかは分からないが、貴族社会ではこういうこともあるのだろう。
「お邪魔でしたかしら?」
マリアンヌ嬢が口元に扇を当てて尋ねる。
リリスは完璧な微笑みで答えた。
「いいえ。皆さまにお会いできて嬉しいです」
言葉は完璧。
だが、俺には分かる。
リリスの椅子が、少しだけこちらに寄った。
ぎっ。
今、動かしたよな?
テーブルの下で。
リリス?
「アマリリス様、髪飾り、本当にお似合いですわ」
エレナ嬢が言った。
「婚約者様からの贈り物でしたわよね」
「はい」
リリスの表情がふわりと柔らかくなる。
「アルが、私に似合うと思って選んでくださいました」
「まあ、素敵」
「アルフレッド様はお目が高いのですね」
「いえ、リリスに似合うものを考えただけです」
俺がそう答えると、令嬢たちが一斉に目を輝かせた。
しまった。
何か刺さったらしい。
リリスも赤くなっている。
だが、その赤くなった顔のまま、椅子がさらに近づいた。
ぎっ。
「リリス」
俺は小声で言った。
「椅子」
「はい?」
「動いています」
「……少しだけです」
「我慢は?」
「しています」
「これで?」
「はい。立ち上がってアルの隣に行っていません」
「基準がそこ!?」
令嬢たちがくすくす笑い始めた。
聞こえていた。
完全に聞こえていた。
セシリア嬢が楽しそうに言う。
「本当に仲がよろしいのですね」
「はい」
リリスが即答した。
早い。
迷いがない。
エレナ嬢が微笑む。
「アマリリス様がこれほど素直にお気持ちを出されるなんて、珍しいですわ」
「そうでしょうか」
「ええ。以前はもっと、完璧なご令嬢という印象でした」
「今も完璧です」
俺は思わず言った。
リリスが驚いたようにこちらを見る。
令嬢たちも少し目を丸くした。
俺は続けた。
「リリスは公爵令嬢として、とても立派です。ただ、俺の前では少しだけ素直な顔を見せてくれる。それだけだと思います」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
だが本心だった。
リリスは完璧な令嬢ではない、という言い方は違う気がした。
彼女は完璧を努力して身につけている。
そのうえで、俺の前では少しだけ力を抜いてくれる。
それは欠点ではなく、信頼の形だと思う。
「アル……」
リリスの声が震えた。
まずい。
泣く。
これは泣く。
ミラが即座にハンカチを構えた。
ライズもなぜか親指を立てかけた。
立てるな。
リリスは目を潤ませながら、それでも必死に笑った。
「泣きません」
「はい。偉いです」
「褒められました」
「泣きそうですね」
「はい」
「深呼吸しましょう」
「はい」
リリスはすうっと息を吸い、ゆっくり吐いた。
その様子を見て、令嬢たちが完全に微笑ましいものを見る顔になっていた。
俺は内心で頭を抱える。
また噂になる。
絶対なる。
『フルーラ公爵令嬢、婚約者に褒められて泣きかける』
やめてくれ。
いや、可愛いけど。
「アマリリス様」
マリアンヌ嬢が言った。
「アルフレッド様は、本当に素敵な方ですのね」
リリスの笑顔がぴたりと止まった。
あ。
まただ。
リリスは微笑んだ。
とても美しい微笑みだった。
「はい。アルは素敵な方です」
「ええ」
「優しくて、誠実で、礼儀正しくて、私をリリスと呼んでくださいます」
「まあ」
「ですが」
リリスが一拍置いた。
空気が少し冷えた。
「アルは、私の婚約者です」
「出た!!」
また言った。
思わず声が出た。
令嬢たちが一瞬固まり、その後、堪えきれないように笑い出した。
セシリア嬢は扇で口元を隠し、エレナ嬢は肩を震わせている。
マリアンヌ嬢も目を細めて笑っていた。
リリスは不思議そうに首を傾げる。
「アル?」
「リリス、その言葉、最近よく出ますね」
「大事なことですので」
「二回言うやつですか」
「必要なら三回でも」
「増やさないでください」
リリスは真剣だった。
真剣だからこそ面白い。
令嬢たちも、最初の探るような雰囲気ではなく、すっかり楽しそうになっていた。
「アマリリス様、ご安心くださいませ」
エレナ嬢がにこやかに言う。
「私たちは、アルフレッド様を取ったりいたしませんわ」
「本当ですか?」
「本当ですわ」
「約束ですか?」
「え、ええ」
「では、よかったです」
リリスはほっとしたように微笑んだ。
エレナ嬢が少し頬を赤くする。
たぶん、リリスの素直さにやられたのだろう。
分かる。
真正面から来ると破壊力がある。
その後、令嬢たちは少しだけ茶会に加わった。
会話は主に婚約発表式の話、髪飾りの話、そして俺とリリスの出会いについてだった。
「アルフレッド様は、いつからアマリリス様を意識されていましたの?」
セシリア嬢に尋ねられ、俺は答えに困った。
「顔合わせの日から、でしょうか」
「まあ、では一目で?」
「い、いえ、そういうわけでは」
「アルは、私を見て綺麗だと言ってくださいました」
「リリス!?」
「事実です」
「事実ですが!」
「それから、可愛らしいとも」
「追加しないでください!」
令嬢たちは楽しそうに笑った。
ミラは遠くを見ていた。
ライズは無表情だが、絶対楽しんでいる。
俺は何度目か分からないため息を吐いた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
リリスが嬉しそうに話すからだ。
自分が大切にされていると感じているようで、それが俺にも伝わってくる。
なら、多少恥ずかしくてもいい。
いや、多少ではないが。
その時だった。
庭園の奥から、低い咳払いが聞こえた。
「……楽しそうだな」
全員が振り返る。
そこに、ガロウ公爵が立っていた。
大きい。
圧がある。
そして、なぜか庭師の帽子を持っていた。
何してたんですか?
いや、聞かなくても分かる。
隠れていたな?
庭師に紛れていたな?
「お父様」
リリスが驚いたように言う。
「執務室ではなかったのですか?」
「少し庭を見ていた」
「庭師の帽子を持って?」
「……落ちていた」
嘘が下手!!
騎士団長、嘘が下手!!
ミラが目を閉じた。
令嬢たちは礼をしながらも、明らかに笑いを堪えている。
俺は立ち上がって礼をした。
「フルーラ公爵閣下。本日はお招きいただきありがとうございます」
「うむ」
ガロウ公爵は俺を見た。
じっと見た。
そしてリリスを見た。
リリスの椅子が俺に近いことに気づいたらしい。
眉が動いた。
「リリス」
「はい」
「椅子が近いな」
「我慢しています」
「そうか」
「はい。立ち上がってアルの隣には行っていません」
「そうか」
ガロウ公爵は少し遠くを見る目をした。
娘の努力を褒めるべきか、距離を注意すべきか迷っている顔だ。
分かる。
俺も同じ気持ちだ。
「アルフレッド」
「はい」
「娘は迷惑をかけていないか」
「迷惑ではありません」
俺はすぐに答えた。
リリスがこちらを見る。
ガロウ公爵も少し目を細める。
「少し距離感について一緒に学んでいるところです」
「そうか」
「はい」
「……手間をかける」
「いえ」
ガロウ公爵は不器用な人だ。
言葉は少ないし、顔は怖い。
だが、娘を大切にしていることはよく分かる。
そしてたぶん、俺にも少しだけ歩み寄ろうとしている。
俺はそう感じた。
「お父様」
リリスがそっと声をかけた。
「私はアルとお茶をしています」
「ああ」
「とても楽しいです」
「そうか」
「ですから、心配しすぎないでください」
「……分かっている」
ガロウ公爵は咳払いをした。
「私はただ、庭を見に来ただけだ」
「帽子を持って?」
「……落ちていた」
「お父様」
「落ちていた」
二回言った。
リリスが少し困った顔をする。
俺は必死に笑いを堪えた。
令嬢たちはもう限界に近そうだった。
ガロウ公爵はそれに気づいたのか、帽子を近くの使用人に渡す。
「では、私は戻る」
「はい、お父様」
「アルフレッド」
「はい」
「リリスを頼む」
「はい」
「近すぎたら注意していい」
「よろしいのですか?」
「よい」
「お父様!?」
リリスが驚いた。
ガロウ公爵は真顔で言った。
「リリス。お前はアルフレッド殿の言葉なら聞くだろう」
「……聞きます」
「なら、学びなさい」
「はい」
その声は少し寂しそうだった。
ガロウ公爵はそれを見て、一瞬顔を緩めかけたが、すぐに戻した。
「ただし、泣かせるな」
「俺ですか!?」
「当然だ」
「今、公爵様が注意した流れですよね!?」
「私は父だ」
「理由になっているようでなっていない!」
ガロウ公爵はふんと鼻を鳴らし、去っていった。
背中が大きい。
だが、少しだけ肩が落ちて見えた。
娘に「心配しすぎないで」と言われた父親の背中。
強くて、寂しい背中だった。
「お父様、少し寂しそうでした」
リリスが小さく呟いた。
「そうですね」
「あとで、お茶を持っていきます」
「練習中のお茶ですか?」
「はい」
「今日は普通のお茶にしましょう」
「そうします」
ガロウ公爵の胃のためにも。
俺は心の中でそう付け加えた。
令嬢たちはその後しばらくして退席した。
去り際、エレナ嬢が俺にこっそり言った。
「アルフレッド様、アマリリス様をどうかよろしくお願いいたします。あの方があれほど自然に笑うのを、私は初めて見ました」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「そうなのですか?」
「ええ。いつも美しく、完璧で、少し遠い方でした。でも今日は、とても可愛らしいですわ」
「……そうですね」
「それはきっと、アルフレッド様のおかげです」
「俺は何も」
「そばにいるだけで、変わることもあります」
エレナ嬢は微笑み、礼をして去っていった。
俺はその背中を見送りながら、彼女の言葉を考えていた。
そばにいるだけで、変わることもある。
リリスにとって、俺がそういう存在になれているのなら。
それは、とても嬉しいことだ。
茶会が終わりに近づく頃、庭園には夕方の光が差し始めていた。
花の色が少し濃くなり、風が涼しくなる。
リリスはカップを置き、少し緊張した顔で俺を見た。
「アル」
「はい」
「今日は、どうでしたか?」
「どう、とは?」
「私、我慢できていましたか?」
真剣な質問だった。
俺は今日のリリスを思い返す。
走らなかった。
椅子は近づいた。
心の椅子という謎概念が出た。
他の令嬢に「アルは私の婚約者です」と宣言した。
泣きそうになったが耐えた。
うん。
完璧ではない。
だが、彼女なりに頑張っていた。
「はい。頑張っていました」
「本当ですか?」
「本当です」
「近すぎませんでしたか?」
「少し近かったです」
「……」
「でも、前よりちゃんと考えていました」
「はい」
「それが分かりました」
リリスの表情がゆっくり明るくなる。
「では、褒めてくださいますか?」
「え?」
「頑張ったので」
自分で言うのか。
いや、可愛いけど。
俺は少し考え、優しく言った。
「リリス、今日はよく頑張りました」
「……っ」
「走らずに待てましたし、泣きそうになっても深呼吸できました」
「はい」
「距離感も、ちゃんと意識していました」
「はい」
「とても偉かったです」
リリスの目に涙が浮かんだ。
あ。
これは。
「泣きます」
「宣言しないでください」
「嬉しくて」
「静かにですか?」
「……はい」
リリスはハンカチで目元を押さえた。
ぽろりと涙が落ちる。
静かだった。
本当に静かに泣いている。
俺は困った。
困ったが、嫌ではなかった。
泣かせたくはない。
でも、嬉しくて泣く彼女を否定したくもない。
「リリス」
「はい」
「泣いてもいいですが、悲しい涙じゃないなら、俺は安心します」
「悲しくないです」
「はい」
「アルに褒められて、嬉しいだけです」
「それならよかった」
俺はそっとハンカチを差し出した。
リリスは自分のハンカチを持っていたが、俺の方を見る。
「使っても?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
彼女は俺のハンカチで目元を押さえた。
その瞬間、ミラが少しだけ表情を動かした。
ライズが遠くで親指を立てた。
もう注意する気力もない。
リリスは涙を拭き、ハンカチを大切そうに両手で持った。
「洗ってお返しします」
「いえ、そのままでも」
「よろしいのですか?」
「はい」
「では、宝物にします」
「洗って返してください」
重い!!
ハンカチを宝物にしないで!!
リリスは少し残念そうにした。
「だめですか?」
「ハンカチは使うものです」
「でも、アルが貸してくださったものです」
「また貸しますから」
「本当ですか?」
「泣いた時は」
「では、また泣いてもいいのですね」
「泣く前提にしないでください」
リリスはくすっと笑った。
涙の後の笑顔。
それは、今日一番柔らかかった。
その後、俺はフルーラ家を辞した。
玄関までリリスが見送りに来てくれた。
もちろん、ミラも一緒だ。
ガロウ公爵もなぜか玄関ホールの柱の近くにいた。
柱に隠れているつもりなのかもしれないが、体が大きすぎて隠れていない。
俺は見なかったことにした。
「アル」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったです」
「また、お茶をご一緒してください」
「もちろん」
「次は、もう少し上手に我慢します」
「無理はしないでください」
「はい。でも、頑張ります」
リリスは少しだけ近づいた。
そして、小さな声で言った。
「今日の距離は、アルのほどほどです」
「その基準、覚えたんですね」
「はい」
「社交の場では少し遠めでお願いします」
「では、社交の場では、アルのほどほどより椅子四分の一遠くします」
「細かい」
「頑張ります」
真剣だった。
本当に真剣。
俺は笑いそうになりながらも、頷いた。
「はい。お願いします」
「はい」
リリスは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
彼女は少しずつ距離を学んでいる。
ただし、単位がおかしい。
心の椅子とか、アルのほどほどとか、椅子四分の一とか。
貴族の作法書には絶対載っていない基準だ。
でも、それでもいいのかもしれない。
俺たちは婚約者になったばかりだ。
何もかも完璧にできる必要はない。
少しずつ、二人で決めていけばいい。
そのたびに俺はツッコミを入れることになるのだろうが。
「アル」
「はい」
「最後に、ひとつだけ」
「何でしょう」
「今日は、手を繋ぎません」
「え?」
「我慢します」
リリスは胸の前で両手を握りしめ、必死な顔で言った。
いや。
言われると逆に意識する。
手を繋がない宣言。
そんなものが存在するのか。
「リリス」
「はい」
「わざわざ宣言しなくても」
「宣言しないと、手が勝手に動きそうなので」
「手も勝手に動くんですか」
「はい」
「足も手も大変ですね」
「大変です」
リリスは真剣に頷いた。
俺は笑ってしまった。
するとリリスもつられて笑う。
玄関ホールに、穏やかな笑い声が広がった。
柱の陰で、ガロウ公爵が何かに耐えるように壁を見ていた。
ミラは微笑んでいる。
ライズはまた親指を立てている。
もういい。
立てたいなら立てていろ。
「では、また」
「はい。また、アル」
俺は馬車に乗り込んだ。
扉が閉まり、馬車が動き出す。
窓の外で、リリスが小さく手を振っている。
俺も手を振り返した。
その瞬間、リリスの顔がぱっと明るくなった。
可愛い。
やっぱり可愛い。
馬車が門を出て、フルーラ家の屋敷が少しずつ遠ざかる。
俺は座席に深く腰を下ろし、長く息を吐いた。
「若様」
ライズが向かいから声をかける。
「本日もお疲れ様でございました」
「ああ」
「アマリリス様、大変努力されておりましたね」
「そうだな」
「距離感は独創的でしたが」
「そうだな」
「心の椅子」
「思い出させるな」
「アルのほどほど」
「やめろ」
「椅子四分の一」
「ライズ」
「はい」
「楽しんでいるな?」
「少々」
「認めたな」
「本日は隠しきれませんでした」
俺は呆れて笑った。
窓の外には夕焼けが広がっている。
今日も騒がしかった。
リリスはやっぱり近かった。
ガロウ公爵は庭師に紛れていた。
令嬢たちには笑われた。
ライズは相変わらず親指を立てた。
だけど。
リリスは頑張っていた。
俺に近づきたい気持ちを、ちゃんと自分で考えようとしていた。
それが嬉しかった。
俺の中に、また一つ彼女への気持ちが積み重なった気がした。
そしてその夜。
屋敷に帰った俺を待っていたのは、父上だった。
玄関ホールで腕を組み、にやにやしている。
「おかえり、アルフレッド」
「ただいま戻りました、父上」
「どうだった?」
「楽しかったです」
「ほう」
「リリスは頑張っていました」
「距離は?」
「近かったです」
「だろうな」
「ただ、本人なりに我慢していました」
「うむ。よいことだ」
「心の椅子という概念が出ました」
「何だそれは」
「俺にも分かりません」
父上は少し黙ったあと、腹を抱えて笑い出した。
リーマスが後ろで静かに頷いている。
「アマリリス様は実に個性的でございますね」
「個性的で済みますか?」
「若様と大変相性がよろしいかと」
「どのあたりが?」
「若様のツッコミが休む暇もないところでございます」
「それは相性なんですか?」
「はい」
違う気がする。
だが、否定しきれない。
俺は疲れた身体で階段を上がりながら、今日のリリスの笑顔を思い出した。
泣きそうになりながら笑う顔。
我慢していると誇らしげに言う顔。
俺の「ほどほど」を覚えると真剣に頷く顔。
手を繋がないと宣言して、手が勝手に動きそうだと言う顔。
どれもこれも、忘れがたい。
自室に戻り、上着を脱いだ俺は、机の引き出しを開けた。
そこには、リリスからの手紙が大切にしまってある。
俺は今日の出来事を思い返しながら、新しい便箋を取り出した。
『リリスへ』
書き出しは、もう迷わない。
『今日は招いてくれてありがとう。リリスが一生懸命に距離感を考えてくれていること、とても嬉しかったです』
筆が進む。
『ただ、心の椅子は少し難しかったです』
書いてから笑ってしまった。
『次に会う時は、また二人でほどほどを考えましょう』
俺は少し迷い、最後に一文を加えた。
『今日の笑顔も、とても可愛かったです』
書いた瞬間、顔が熱くなった。
でも消さなかった。
思っていることだから。
そして、どうせリリスは喜ぶ。
たぶん泣く。
……またガロウ公爵から「責任を取れ」と来るかもしれない。
俺は便箋を見つめ、深く息を吐いた。
まあ、その時はその時だ。
俺はもう、少しずつ慣れてきている。
公爵令嬢様は、今日も距離感が近い。
でも、その近さを何とかしようと頑張っている。
だから俺も、ツッコミながら付き合っていこう。
そう思った。
翌朝。
フルーラ公爵家から届いた書状には、こう書かれていた。
『娘が「アルのほどほど」と呟きながら椅子を測っている。説明しろ。 ガロウ』
俺は書状を読んで、静かに天井を見上げた。
父上はまた腹を抱えて笑った。
リーマスは満足そうに頷いた。
ライズは親指を立てた。
そして俺は、心の底から叫んだ。
だから!!
公爵令嬢様!!
我慢の方向性がおかしいんです!!




