第3話 公爵令嬢様、発表前から近すぎます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
ただいま俺は、自室の机の前に座っております。
目の前には、父上から渡された紙が一枚。
そしてその紙の上には、非常に達筆な文字でこう書かれている。
『婚約発表式 予定確認』
……はい。
来ました。
ついに来ました。
俺とアマリリス・フルーラ公爵令嬢――いや、リリスとの婚約が、正式に発表されることになりました。
早い。
いや、本当に早い。
初顔合わせからまだ数日しか経っていない。
数日である。
普通、婚約とはもっとこう、水面下で調整して、家同士で探り合って、本人同士の相性を慎重に見て、社交界の空気を読み、王家との兼ね合いを整え、しばらく時間をかけて進めるものではないのか。
少なくとも俺はそう思っていた。
だが現実は違った。
顔合わせ。
温室。
リリスと呼ぶ。
アルと呼ばれる。
手紙。
リリスが手紙を抱きしめて離さない。
ガロウ公爵から「責任を取れ」という書状。
そして婚約発表。
展開が馬車より速い。
いや、早馬より速い。
もはや魔法で飛んでいる。
俺の人生、急加速しすぎでは?
少しは車輪を点検した方がいい。
外れそうだぞ。
「若様、お茶をお持ちしました」
扉を叩く音のあと、ライズが入ってきた。
相変わらず完璧な所作で盆を運び、机の端に紅茶を置く。
湯気がふわりと立ち上がり、淡い香りが部屋に広がった。
俺は紙から視線を上げる。
「ライズ」
「はい」
「これを見ろ」
「婚約発表式の予定表でございますね」
「そうだ」
「おめでとうございます」
「まだ心が追いついていない」
「数日経ちましたが」
「数日で追いつく内容ではない」
「なるほど」
ライズは頷いた。
だが顔はいつも通り落ち着いている。
俺が混乱している横で、こいつだけ平然としているのは納得がいかない。
「お前は驚かないのか?」
「何にでしょうか」
「この速さに」
「旦那様とフルーラ公爵様の動きを考えれば、むしろ予定通りかと」
「予定通りなの!?」
「はい」
「俺だけ知らなかったのか?」
「若様が知った時点で、物事はすでに大きく動いておりました」
「俺の人生なのに、俺が最後尾にいる気がする」
「貴族の婚約とは、そのような側面もございます」
「嫌な現実を落ち着いた声で言うな」
ライズは静かに目を伏せた。
こいつ、絶対わざとだ。
俺はため息をつき、予定表をもう一度見る。
発表式は王都にあるフルーラ公爵家の別邸で行われる。
招待されるのは、王家の使者、四公爵家の関係者、有力侯爵家、父上と親交のある伯爵家、そして両家の縁者。
規模は「小規模」と書かれている。
小規模?
この顔ぶれで?
俺の知っている小規模とは違う。
貴族社会の小規模、信用できない。
「若様」
「なんだ」
「当日は多くの視線が若様に集まるかと」
「知っている」
「特に、なぜ公爵令嬢が伯爵家の子息を選んだのか、という点に注目が集まります」
「知っている」
「また、第一王子殿下との縁談が流れた件についても、噂が出るでしょう」
「知っている」
「さらに、アマリリス様が若様をどのように見ておられるかも、皆様気にされるかと」
「それも知っている」
「つまり、若様は当日、社交界全体から品定めされます」
「言い方!!」
俺は椅子の背もたれに沈み込んだ。
分かっている。
分かっているのだ。
リリスは公爵令嬢。
俺は伯爵家の長男。
身分差がある。
もちろん伯爵家も貴族としては低くない。
だが、公爵家とは格が違う。
王家との縁談を蹴って、伯爵家と結ぶ。
その理由を、社交界は知りたがる。
俺が何者なのか。
リリスにふさわしいのか。
シェルザート伯爵家は何を狙っているのか。
フルーラ公爵家はなぜ許したのか。
噂好きの貴族たちからすれば、絶好の話題だろう。
考えただけで胃が痛い。
「ライズ」
「はい」
「俺、当日倒れないかな」
「気合いでお立ちください」
「優しくない」
「倒れた場合、アマリリス様が泣かれる可能性がございます」
「立つ」
「賢明なご判断です」
それを言われると立つしかない。
リリスが泣くのは困る。
いや、あの子は泣き顔も可愛い気がするが、だからといって泣かせたいわけではない。
むしろ泣かせたらガロウ公爵に殺される。
物理的に。
たぶん。
いや、斬られるまではいかないかもしれない。
でも片手でひょいっとはされる。
ひょいっと。
「ところで」
ライズが少しだけ首を傾げた。
「アマリリス様への贈り物ですが、本日完成予定とのことです」
「ブルーローズの髪飾りか」
「はい」
「そうか」
俺は少し姿勢を正した。
リリスのために選んだ髪飾り。
ブルーローズを模したもの。
手紙も添える。
それが今日、公爵家へ届けられる予定だった。
胸が少し落ち着かなくなる。
「若様」
「なんだ」
「楽しみですか?」
「……まあ」
「アマリリス様の反応が?」
「……まあ」
「左様でございますか」
ライズが満足そうに頷く。
「お前、最近俺で遊んでないか?」
「とんでもございません」
「ならその顔をやめろ」
「失礼いたしました」
ライズはまた無表情になった。
早い。
だがもう騙されない。
こいつは俺の動揺を観察している。
間違いない。
午前の稽古を終えたあと、俺は父上に呼ばれて執務室へ向かった。
執務室の扉を開けると、父上は机に肘をつき、楽しそうに何かの書状を眺めていた。
リーマスも横に控えている。
嫌な予感がした。
最近、父上とリーマスが揃っているだけで嫌な予感がする。
末期である。
「父上、お呼びでしょうか」
「ああ、アルフレッド。来たか」
「はい」
「まずはこれを見ろ」
父上が差し出したのは、一通の書状だった。
封蝋はフルーラ公爵家のもの。
俺は受け取り、恐る恐る開く。
そこには、短くこう書かれていた。
『髪飾りが届いた。娘が泣いた。責任を取れ。 ガロウ』
俺は沈黙した。
父上は腹を抱えて笑い出した。
リーマスは穏やかに頷いた。
「若様の贈り物に、アマリリス様は大変感動されたようでございますね」
「泣いたって書いてありますけど!?」
「嬉し泣きでございましょう」
「だとしても、ガロウ公爵の書状が毎回怖いんですよ!」
責任を取れ。
まただ。
前回もそうだった。
リリスが俺の手紙を抱きしめて離さなかった時も、「責任を取れ」と来た。
今回もだ。
このままだと、リリスがくしゃみをしても責任を取れと言われるのでは?
いや、それはないか。
……ないよな?
「それと」
父上は笑いを収めながら、もう一通の封書を取り出した。
「これはリリス嬢からだ」
「え」
俺の心臓が跳ねた。
また手紙。
リリスから。
父上はにやにやしながら差し出してくる。
「ここで読むか?」
「読みません」
「なぜだ」
「父上がいるからです」
「私はお前の父親だぞ」
「だからです」
「つれないな」
俺は封書を受け取ると、胸元にしまった。
あとで自室で読む。
絶対に父上の前では読まない。
絶対にだ。
「発表式の件だが」
父上は表情を少し真面目にした。
「フルーラ公爵家から正式な招待状が各家に送られた。王家にも話は通っている」
「王家はどう反応を?」
「表向きは祝意を示している」
「表向きは」
「第一王子との縁談が正式なものではなかったからな。王家としても強く反対はできない」
「裏では?」
「多少の不満はあるだろう」
父上は淡々と言った。
俺の胃がまた痛くなる。
「第一王子殿下は、どのような方なのですか?」
「お前も何度か見たことはあるだろう。社交の場で」
「遠目に、ですが」
「才はある。見た目もよく、王族としての教育も受けている。ただ……」
「ただ?」
「少々、自分に向けられる好意に慣れすぎている」
父上の言い方は柔らかかった。
だが意味は分かる。
第一王子は、周囲から好かれて当然、選ばれて当然という環境で育っている。
公爵令嬢から断られることなど、想定していなかったのかもしれない。
「発表式に第一王子殿下は?」
「来ない」
「そうですか」
「だが、王家の使者は来る。王妃付きの侍従官だ」
「重いですね」
「重いな」
父上はあっさり頷いた。
「まあ、心配しすぎるな。ガロウが前面に立つ。うちも筋を通す。お前は堂々としていればいい」
「それが難しいんです」
「なら、リリス嬢を見ていろ」
「リリスを?」
「あの子は、お前が不安そうにしていれば気づく。逆に、お前が落ち着いていれば安心する」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
父上は静かに笑った。
「お前はもう、あの子の婚約者になるんだ。社交界にどう見られるかだけではなく、リリス嬢をどう安心させるかも考えなさい」
その言葉に、俺は少し黙った。
社交界。
王家。
公爵家。
父上たちの期待。
そういうものばかり考えていた。
でも、発表式の主役は俺だけではない。
リリスもだ。
王家との縁談を断り、自分の意思で俺を選んだ彼女もまた、多くの視線に晒される。
外では完璧な公爵令嬢として立つだろう。
でも、彼女は泣き虫で、照れ屋で、少し天然だ。
強く見えても、不安がないわけではないはずだ。
俺が動揺してばかりいたら、彼女も不安になるかもしれない。
「分かりました」
俺は頷いた。
「できる限り、堂々としてみます」
「うむ」
「ただし、リリスが何か予想外のことをしたら、たぶんツッコミます」
「それは仕方ない」
「仕方ないんですか」
「むしろ期待している」
「期待しないでください」
父上は笑った。
リーマスも静かに微笑んでいた。
午後、自室に戻った俺は、リリスからの手紙を開いた。
封筒からは、またほんのりと花の香りがした。
綺麗な文字が並んでいる。
『アルへ』
もうこの書き出しにも少し慣れてきた。
慣れてきた自分が怖い。
『髪飾り、受け取りました』
俺は自然と背筋を伸ばした。
『とても綺麗で、見た瞬間に涙が出てしまいました。お父様がものすごく慌てて、屋敷中が少し騒がしくなりました』
ガロウ公爵……。
想像できる。
娘が泣く。
騎士団長が慌てる。
使用人が走る。
医師を呼ぶかどうか揉める。
いや、そこまではないか?
あるかもしれない。
『でも、嬉しかっただけです。アルが私の髪に似合うと思って選んでくださったと知って、本当に嬉しかったのです』
俺は自分の手紙の一文を思い出した。
恥ずかしい。
だが、書いてよかった。
『すぐにつけてみました。侍女のミラが、とても似合うと言ってくれました』
ミラ。
昨日、リリスの後ろに控えていた侍女の名前だろう。
『お父様は最初、黙っていました。その後、壁の方を向いて肩を震わせていました。たぶん、泣いていました』
ガロウ公爵!!
また泣いたのか!?
いや、リリスが髪飾りをつけた姿を見たら、泣くか。
泣くな。
俺でも見たい。
……いや、俺が贈ったんだから、なおさら見たい。
『アルにも見ていただきたいです』
見たいです。
俺は思わず心の中で即答した。
『婚約発表式の日につけていきます』
俺は手紙を持つ手に力を込めた。
発表式の日。
リリスは、俺が贈った髪飾りをつけて来る。
それはつまり、周囲に示すということでもある。
この髪飾りは婚約者から贈られたものだと。
俺を選んだのだと。
胸が熱くなると同時に、責任の重さも増した。
『アル、発表式は少し緊張します』
次の一文で、俺の意識が引き戻された。
『私は、皆さまの前ではきちんと公爵令嬢として立ちます。ですが、もし少しだけ不安になったら、アルのそばにいてもよろしいでしょうか』
俺はしばらく、その一文を見つめた。
そばにいてもよろしいでしょうか。
そんなの。
いいに決まっている。
『本当は、ずっと隣にいたいです。でも、近すぎるとアルが困るかもしれないので、我慢します』
いや、もう近い。
手紙の時点で近い。
でも可愛い。
『でも、もしアルがよければ、少しだけ近くにいさせてください』
俺は便箋を机に置き、深く息を吐いた。
リリスはきっと、精一杯遠慮している。
本人なりに、距離感を考えている。
それでも近い。
近いのだが、嫌ではない。
むしろ、安心させてやりたいと思う。
「若様」
ライズが声をかけてきた。
「お返事を書かれますか?」
「……ああ」
「便箋を用意いたします」
「頼む」
ライズはすぐに準備を始めた。
俺はもう一度リリスの手紙を見る。
最後には、こう書かれていた。
『アルにお会いできる日を、指折り数えて待っています。数え間違えて、昨日ミラに笑われました』
数え間違えるな。
いや、可愛いけど。
俺は苦笑しながら筆を取った。
『リリスへ』
今度は、前より迷わなかった。
『髪飾りを喜んでもらえて嬉しいです。発表式の日、リリスがそれをつけている姿を見られるのを楽しみにしています』
書きながら、少し頬が熱くなる。
だが止めない。
『発表式では、俺も緊張すると思います。だから、リリスがそばにいてくれるなら、心強いです』
ここで筆を止めた。
近くにいていい。
そう伝えるなら、はっきり書いた方がいい。
俺は少し考えてから、続けた。
『我慢しすぎなくて大丈夫です。困った時は、俺に声をかけてください』
書いた瞬間、少しだけ不安になった。
我慢しすぎなくて大丈夫。
この一文、リリスにどう解釈されるだろうか。
いや、普通に解釈するはずだ。
たぶん。
きっと。
……大丈夫だよな?
「若様」
「なんだ」
「その一文は、アマリリス様にとって大変嬉しいものになるかと」
「見てるじゃないか!」
「申し訳ございません。若様があまりにも真剣でしたので」
「言い訳になってない」
「ただ、僭越ながら申し上げますと」
「なんだ」
「アマリリス様は、若様の『我慢しすぎなくて大丈夫』というお言葉を、少々広めに解釈される可能性がございます」
「……広めに?」
「はい」
「どのくらい?」
「物理的距離に換算すると、かなり近めかと」
「やっぱり!?」
俺は頭を抱えた。
だが、消す気にはならなかった。
リリスが不安なら、我慢しすぎなくていい。
それは本心だ。
距離感が多少近くなっても、俺がツッコめばいい。
たぶん。
たぶん何とかなる。
数日後。
婚約発表式の日がやってきた。
朝からシェルザート伯爵家は慌ただしかった。
俺は普段より格式の高い礼服を身にまとい、鏡の前に立っていた。
濃紺を基調とした上着。
銀糸の刺繍。
胸元にはシェルザート家の紋章。
いつもより重い。
布も重いが、状況も重い。
ライズが背後で襟元を整える。
「若様、よくお似合いです」
「そうか?」
「はい。アマリリス様もきっと喜ばれるかと」
「そこでリリスを出すな」
「励ましでございます」
「効果はあるが、心臓に悪い」
「では今後も適度に使わせていただきます」
「使うな」
ライズは軽く一礼した。
絶対使う。
この男は絶対使う。
部屋を出ると、廊下に母上が待っていた。
母上は俺を見ると、ふわりと微笑んだ。
「立派よ、アル」
「ありがとうございます、母上」
「緊張している?」
「かなり」
「そう」
母上は俺の手をそっと取った。
「でも、大丈夫。あなたは昨日までと同じあなたよ」
「はい」
「そして今日は、アマリリス様もきっと緊張しているわ」
「……はい」
「なら、二人で支え合えばいいの」
母上の言葉は、いつも穏やかだ。
不思議と心が落ち着く。
「ありがとうございます」
「それと」
「はい」
「アマリリス様が近くに来ても、驚きすぎないようにね」
「母上まで!?」
「ふふ」
母上は笑って去っていった。
落ち着いた心がまた少し揺れた。
やはり全員分かっている。
リリスの距離感が近いことを、皆が察している。
俺だけが当日その中心に立つ。
逃げ場がない。
馬車に乗り、父上とともに王都のフルーラ公爵家別邸へ向かう。
車輪の音が規則正しく響き、窓の外には王都の街並みが流れていく。
石造りの建物。
整えられた街路樹。
商人たちの声。
貴族街へ近づくにつれ、人の流れは落ち着き、建物は大きく、庭は広くなっていった。
フルーラ公爵家別邸は、王都の中心から少し離れた高台にあった。
白い石造りの美しい屋敷。
門から玄関までの道には季節の花が並び、噴水が光を受けてきらめいている。
立派だ。
とても立派だ。
うちも伯爵家としては十分立派な屋敷だと思っていたが、公爵家はやはり規模が違う。
馬車が止まる。
扉が開く。
俺は深く息を吸ってから降りた。
玄関前には、フルーラ公爵家の使用人たちが並んでいた。
その奥に、ガロウ公爵が立っている。
相変わらず大きい。
相変わらず圧がすごい。
隣には昨日……いや、数日前に見た侍女ミラもいる。
そして。
その少し後ろに、リリスがいた。
俺は一瞬、言葉を失った。
淡い青のドレス。
白いレース。
金色の髪は美しく結い上げられ、その髪に、俺が贈ったブルーローズの髪飾りが輝いていた。
青い薔薇が、彼女の金の髪によく映えている。
本当に、よく似合っていた。
想像よりずっと。
リリスは俺に気づくと、ぱっと表情を明るくした。
だがすぐに公爵令嬢らしい微笑みに戻す。
戻した。
戻そうとした。
でも口元が少し緩んでいる。
頑張っている。
可愛い。
「ようこそ、シェルザート伯爵、アルフレッド殿」
ガロウ公爵が低い声で言った。
「本日はお招きいただきありがとうございます、フルーラ公爵」
父上が礼をする。
俺もそれに続く。
「本日はよろしくお願いいたします」
「……うむ」
ガロウ公爵の視線が俺の頭から足先まで動く。
品定めされている。
いや、たぶん違う。
娘の隣に立つ男として問題ないか確認されている。
どちらにしても怖い。
するとリリスが一歩前へ出た。
「アル」
彼女の声は小さいが、はっきりしていた。
周囲の使用人たちが微かに反応した。
ガロウ公爵の眉がぴくりと動いた。
父上はにやりとした。
やめろ。
見守るな。
「リリス」
俺も名前を呼ぶ。
リリスの頬がほんのり赤く染まった。
「お会いできて嬉しいです」
「俺もです。髪飾り、とても似合っています」
「……っ」
リリスの目が潤んだ。
まずい。
泣く?
泣くのか?
入口で?
発表前に?
ガロウ公爵が一歩動きかけた。
ミラがすっとハンカチを用意した。
準備が早い。
慣れている。
だがリリスはぐっと堪えた。
「ありがとうございます。アルにそう言っていただけて、とても嬉しいです」
頑張った。
泣かなかった。
俺は心の中で拍手した。
その瞬間、リリスがすっと俺の隣に来た。
近い。
近いぞ。
肩が触れそうだ。
いや、もう少しで触れる。
俺は一瞬固まった。
リリスは小さな声で囁いた。
「アルが、我慢しすぎなくて大丈夫と書いてくださいましたので」
解釈が早い!!
そして広い!!
「リリス」
「はい」
「近いです」
「……近すぎますか?」
リリスが見上げる。
潤んだ瞳。
不安そうな顔。
この顔はずるい。
「いえ、嫌ではないですが」
「では、このままで」
「判断が早い」
リリスは嬉しそうに微笑んだ。
ガロウ公爵が遠くで拳を握りしめていた。
父上は肩を震わせている。
笑うな。
発表式前だぞ。
少しは厳粛にしろ。
屋敷の中へ案内されると、大広間にはすでに多くの貴族が集まっていた。
きらびやかな衣装。
宝石の輝き。
香水の匂い。
柔らかな音楽。
天井には大きなシャンデリアが吊るされ、光が床に反射している。
公爵家の発表式にふさわしい華やかさだった。
だが、その華やかさの奥で、視線が飛び交っている。
皆、俺たちを見ていた。
特に俺を。
あれがシェルザート伯爵家の子息か。
あの令嬢が選んだ相手か。
王家ではなく伯爵家を。
そんな声が聞こえてきそうだった。
実際、小さな囁きは耳に入ってくる。
「あの方が……」
「思ったより若いわね」
「フルーラ公爵令嬢がご希望されたとか」
「王家はどうお考えなのかしら」
「伯爵家とはいえ、シェルザート家は堅実ですもの」
「でも、公爵家とは格が……」
ざわめき。
笑顔の奥の好奇心。
礼儀正しい目線の裏にある探り。
俺は背筋を伸ばした。
逃げるな。
リリスの隣に立つと決めたのだ。
ここで縮こまれば、彼女に恥をかかせる。
そう思った瞬間、隣のリリスがほんの少し近づいた。
袖が触れる。
彼女は前を向いたまま、小さく言った。
「アル」
「はい」
「緊張していますか?」
「少し」
「私もです」
「そうは見えません」
「頑張っています」
「立派です」
「アルが隣にいるので」
ズキューン。
発表式前に心臓を撃ち抜かないでほしい。
いや、落ち着け。
周囲は見ている。
表情を崩すな。
俺は何とか平静を装った。
すると、貴族の一人が近づいてきた。
年配の侯爵夫人らしき女性だ。
品のある微笑みを浮かべている。
「アマリリス様、本日はおめでとうございます」
「ありがとうございます、ロイゼン侯爵夫人」
「こちらがアルフレッド様ですのね」
「はい。私の大切な方です」
早い!!
紹介の距離感が近い!!
侯爵夫人の目が一瞬きらりと光った。
周囲の数人がぴくりと反応する。
リリス、発表前だ。
まだ正式発表前だ。
いや、もうこの場にいる時点でほぼ発表みたいなものだが、それでも。
俺は軽く礼をした。
「アルフレッド・シェルザートと申します。本日はお目にかかれて光栄です」
「まあ、ご丁寧に。アマリリス様がそこまで仰る理由が少し分かる気がいたしますわ」
「恐れ入ります」
「アマリリス様は、以前からとても熱心に……」
「侯爵夫人」
リリスが少しだけ声を強めた。
笑顔だ。
笑顔だが、なぜか圧がある。
「それ以上は、まだ」
「まあ。失礼いたしました」
侯爵夫人は楽しそうに微笑み、去っていった。
俺は隣のリリスを見る。
「以前から?」
「……」
「リリス?」
「……また今度お話しします」
「二度目です、その返し」
「まだ恥ずかしいので」
リリスは顔を赤くして視線を逸らした。
可愛い。
しかし気になる。
以前から熱心に、とは何だ。
俺のことを?
どこで?
なぜ?
疑問は増えるばかりだ。
その後も、何人もの貴族が挨拶に来た。
皆、表面上は祝福してくれる。
だが、それぞれ違う探りがあった。
ある者はシェルザート家の政治的立場を探る。
ある者はリリスの本心を探る。
ある者は王家の反応を知りたがる。
そしてある者は、単純に恋話として楽しんでいる。
「アルフレッド様は、アマリリス様のどちらに惹かれたのですか?」
若い伯爵令嬢に尋ねられた時、俺は少し返答に困った。
惹かれたところ。
美しいところ。
可愛いところ。
天然なところ。
泣き虫なところ。
距離感が近いところ。
いや、最後はどうなんだ。
俺が迷っていると、リリスが先に答えた。
「アルは、私をリリスと呼んでくださいます」
「まあ」
「それから、綺麗だと言ってくださいました」
「まあ!」
「可愛らしいとも」
「まあ!!」
周囲の令嬢たちの目が輝いた。
やめて。
公開処刑だ。
俺の顔が熱くなる。
「リリス」
「はい?」
「その情報は、今ここで全部出さなくても」
「そうなのですか?」
「そうです」
「でも、嬉しかったので」
「うっ」
言い返せない。
嬉しかったと言われると弱い。
令嬢たちがくすくす笑う。
「お二人、とても仲がよろしいのね」
「素敵ですわ」
「アマリリス様がこんなに嬉しそうなお顔をなさるなんて」
リリスは照れていた。
だが嬉しそうだった。
その表情を見ていると、俺も悪い気はしない。
恥ずかしいけど。
とんでもなく恥ずかしいけど。
しばらくして、会場の空気が変わった。
王家の使者が到着したのだ。
王妃付きの侍従官。
白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた、厳格そうな男性だった。
会場の貴族たちが自然と道を開ける。
ガロウ公爵と父上が前へ出る。
俺とリリスも並んで立った。
リリスの手が、ほんの少し震えていた。
外から見れば分からない程度。
だが、隣にいる俺には分かった。
俺は小さく声をかける。
「リリス」
「はい」
「大丈夫です」
「……はい」
リリスは小さく頷いた。
そして、ほんの少しだけ俺に近づいた。
近い。
でも今はいい。
俺は前を向いた。
侍従官はガロウ公爵へ礼をし、父上へも視線を向けた。
「フルーラ公爵閣下、シェルザート伯爵閣下。本日は王妃陛下より祝意をお預かりしております」
「ありがたく頂戴する」
ガロウ公爵が重々しく答える。
侍従官は続けた。
「アマリリス・フルーラ嬢、アルフレッド・シェルザート殿。此度の縁が、両家のみならず王国の安寧に資するものとなることを願っております」
「ありがとうございます」
リリスが完璧な礼をした。
俺も礼をする。
「身に余るお言葉、光栄に存じます」
侍従官の目が一瞬、俺を鋭く見た。
試されている。
そんな気がした。
「アルフレッド殿」
「はい」
「公爵家の令嬢を支える覚悟はおありか」
会場が静かになった。
いきなり重い質問だ。
だが、逃げてはいけない。
俺はまっすぐ侍従官を見た。
「はい。まだ未熟ではありますが、アマリリス嬢――リリスを大切にし、支えられるよう努めます」
言った瞬間、隣のリリスが小さく息を呑んだ。
侍従官の眉が少し動く。
「リリス、と」
「ご本人より、そう呼ぶことを許されております」
「なるほど」
侍従官はリリスへ視線を向けた。
「アマリリス嬢。ご自身の意思に変わりはありませんか」
「はい」
リリスの声は澄んでいた。
「私は、アルフレッド・シェルザート様をお慕いしております」
会場がざわついた。
お慕い。
今、お慕いと。
俺の脳内が一瞬止まった。
いや、婚約発表だから間違ってはいない。
むしろ自然な言葉かもしれない。
だが、真正面から言われると破壊力がある。
リリスはさらに続けた。
「アルは、私をきちんと見てくださいます。公爵令嬢としてだけではなく、リリスとして呼んでくださいます」
貴族たちが静まり返る。
リリスの声は震えていなかった。
「私は、そのことがとても嬉しいのです」
俺は彼女の横顔を見た。
頬は少し赤い。
けれど目はまっすぐだった。
さっきまでの天然な近さとは違う。
彼女は今、自分の意思を社交界の前で示している。
強い。
可愛いだけじゃない。
リリスは、ちゃんと強い。
俺は胸の奥が熱くなった。
侍従官はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「承知いたしました。王妃陛下にも、そのようにお伝えしましょう」
会場の空気が少し緩んだ。
ガロウ公爵が深く息を吐く。
父上もわずかに笑った。
これで大きな山は越えた。
そう思った。
思ったのだ。
だが、甘かった。
正式な発表のため、ガロウ公爵が会場中央へ進み出た。
父上も隣に立つ。
俺とリリスはその少し後ろに並ぶ。
楽師たちの音が止まり、会場が静まった。
ガロウ公爵の低い声が響く。
「本日、この場にお集まりいただいた皆に感謝する」
さすが騎士団長。
声が通る。
威厳がある。
普段の娘バカを知らなければ、まさに王国の重鎮だ。
「フルーラ公爵家は、シェルザート伯爵家との縁を結ぶことを決めた。我が娘、アマリリス・フルーラと、シェルザート伯爵家長男アルフレッド・シェルザートの婚約を、ここに正式に発表する」
拍手が起こった。
大広間に広がる祝福の音。
貴族たちは笑顔で手を叩く。
その中に本心がどれほどあるかは分からない。
だが、少なくとも表向きには祝福だ。
俺は深く礼をした。
リリスも優雅に礼をする。
そして顔を上げた時、彼女と目が合った。
リリスは嬉しそうに微笑んだ。
俺も自然と笑った。
この瞬間だけは、周囲の視線も、王家の思惑も、身分差も、少し遠くに感じた。
正式に婚約者になった。
その実感が、胸の奥に静かに落ちてくる。
だが。
その静かな感動は、長くは続かなかった。
拍手が収まった直後、リリスが一歩前に出た。
え?
予定にない動きでは?
ガロウ公爵も父上も一瞬驚いた顔をした。
リリスは会場を見渡し、完璧な淑女の笑みを浮かべた。
「皆さま、本日は私たちのためにお集まりいただき、誠にありがとうございます」
声は美しい。
姿勢も完璧。
会場の貴族たちも微笑ましそうに見ている。
俺は少し嫌な予感がした。
リリスは続けた。
「私は本日、アルと婚約できたことを、心より嬉しく思っております」
おお。
アル呼び。
会場がざわつく。
まあ、ここまではいい。
もう婚約者だ。
愛称で呼んでも、ギリギリ大丈夫。
たぶん。
「アルは、とても優しい方です」
リリスの声が柔らかくなる。
「私が緊張していると、そばにいてくださいます」
うん。
「私が泣きそうになると、困った顔をしながらも、ちゃんと待ってくださいます」
うん?
「私が近くにいても、嫌ではないと言ってくださいました」
会場が明らかに反応した。
ちょっと待て。
リリス?
「そして、我慢しすぎなくて大丈夫とも言ってくださいました」
ライズ!!
お前の予言当たったぞ!!
俺は内心で叫んだ。
周囲の貴族たちは「まあ」とか「おや」とか小さく声を漏らしている。
令嬢たちは目を輝かせている。
年配の夫人たちは扇で口元を隠している。
父上は肩を震わせている。
ガロウ公爵は魂が抜けたような顔をしている。
リリスはにこやかに続けた。
「ですので」
嫌な予感が最大になった。
「私はこれから、婚約者として、アルのそばにたくさんいたいと思います」
拍手?
いや、ざわめき?
会場が不思議な熱に包まれた。
リリスはさらに一歩、俺の方へ戻ってきた。
そして、自然に俺の隣に立つ。
近い。
めちゃくちゃ近い。
肩が触れた。
いや、触れている。
「リリス」
俺は小声で言った。
「はい」
「近いです」
「婚約者ですので」
「理由が強い」
「それに、アルが我慢しすぎなくて大丈夫と」
「ここで回収しないでください」
俺たちの小声のやり取りを、近くの貴族たちが聞いていたらしい。
くすくすと笑いが広がった。
やめて。
いや、もう遅い。
リリスは幸せそうに微笑んでいる。
会場の雰囲気は、最初の探るようなものから、少し柔らかいものに変わっていた。
リリスがあまりにも素直に嬉しさを示したせいで、政治的な緊張が少し削がれたのだ。
これは狙ったのか?
いや、違う。
絶対天然だ。
でも結果的に空気が和らいでいる。
恐ろしい子。
その後、祝福の挨拶が続いた。
リリスは基本的に完璧だった。
微笑み、礼をし、相手の名を呼び、丁寧に応じる。
だが、俺が少し離れようとすると、すっと近づいてくる。
半歩。
また半歩。
気づけば隣。
俺が飲み物を取ろうとすると、リリスも隣にいる。
俺が父上と話そうとすると、リリスも隣にいる。
俺が一歩下がると、リリスも一歩下がる。
影か?
いや、影にしては可愛すぎる。
「リリス」
「はい」
「ずっと隣にいませんか?」
「はい」
「認めるんですね」
「婚約者ですので」
「その言葉、万能ではありませんよ?」
「違うのですか?」
「違います」
「……では、少しだけ離れます」
リリスはほんの少しだけ横にずれた。
拳一つ分。
「どうでしょう」
「誤差です」
「だめですか?」
「だめではないですが」
「では、このままで」
「判断が早い」
近くにいた侯爵夫人たちが楽しそうに笑っていた。
「まあ、本当に仲がよろしいこと」
「アマリリス様があんなに可愛らしい方だったなんて」
「アルフレッド様も大変ね」
大変です。
でも嫌ではありません。
言わないけど。
会場の隅では、ガロウ公爵が腕を組んで立っていた。
目が怖い。
だが、怒っているというより、何かを必死に耐えている顔だ。
隣で父上が話しかけている。
「ガロウ、顔が怖いぞ」
「黙れ」
「祝福の場だ」
「分かっている」
「娘が幸せそうだな」
「分かっている」
「アルフレッドも満更ではなさそうだ」
「黙れと言っている」
聞こえてます。
父上、聞こえてます。
ガロウ公爵の拳が震えている。
怖い。
でも少しだけ可哀想でもある。
大切な娘が婚約者にべったりなのだ。
父親としては複雑だろう。
俺は心の中でそっと手を合わせた。
すみません。
でもリリスが近いのは俺のせいだけではありません。
たぶん。
発表式が進む中、一人の若い貴族令嬢が俺たちに近づいてきた。
薄桃色のドレスを着た、柔らかな雰囲気の令嬢だ。
彼女はリリスに礼をし、俺にも微笑んだ。
「アマリリス様、アルフレッド様、この度は誠におめでとうございます」
「ありがとうございます、エレナ様」
リリスが答える。
どうやら知り合いらしい。
「アルフレッド様、アマリリス様をどうぞ大切になさってくださいませ」
「もちろんです」
俺が答えると、エレナ嬢はにこりと笑った。
「噂では、アルフレッド様はとても誠実な方だとか。アマリリス様が羨ましいですわ」
社交辞令。
たぶん社交辞令だ。
だが。
隣の空気が少し変わった。
リリスの笑顔はそのまま。
そのままなのに、なぜか温度が下がった気がした。
「あら」
リリスが穏やかに言った。
「エレナ様も、アルのことをご存じなのですか?」
「え? ええ、もちろん。本日の主役でいらっしゃいますもの」
「そうですか」
「はい」
「アルは、私の婚約者です」
「え、ええ。存じております」
「とても優しい方です」
「はい」
「ですので、羨ましいと思っていただけるのは光栄です」
「はい?」
「ですが、アルは私の婚約者です」
「二回言った!!」
思わずツッコんでしまった。
近くの貴族たちが一斉にこちらを見る。
しまった。
声に出た。
エレナ嬢はきょとんとしている。
リリスは俺を見上げた。
「アル?」
「リリス、今のは少し圧がありました」
「圧?」
「はい」
「私はただ、事実をお伝えしただけです」
「事実の伝え方が強いんです」
「そうなのですか?」
「そうです」
リリスは少し考え、それからエレナ嬢へ向き直った。
「申し訳ありません、エレナ様。少し強く言ってしまったようです」
「あ、いえ。大丈夫ですわ」
「アルが素敵なので、不安になりました」
直球!!
エレナ嬢の顔が赤くなった。
周囲の令嬢たちは口元を押さえている。
俺も顔が熱い。
リリスは本当に素直すぎる。
素直すぎて、逆に周囲が照れる。
「アマリリス様は、本当にアルフレッド様を大切に思っていらっしゃるのですね」
エレナ嬢が微笑んだ。
リリスは嬉しそうに頷いた。
「はい」
その一言に迷いはなかった。
俺は胸が温かくなる。
同時に、これから大変だなとも思った。
リリスは天然で、泣き虫で、そして少し重い。
だが、その重さは真っ直ぐな好意から来ている。
それを雑に扱ってはいけない。
俺はちゃんと向き合わなければならない。
そう思った。
式の終盤。
俺は少しだけ会場の外に出た。
長時間の挨拶と視線で、さすがに疲れていた。
バルコニーに出ると、夕方の風が頬を撫でる。
外の庭は静かで、噴水の音が遠くに聞こえる。
空は淡い橙色に染まっていた。
俺は手すりに軽く手を置き、深く息を吐く。
緊張した。
だが、大きな失敗はなかったはずだ。
たぶん。
いや、リリスの距離感発言はあった。
俺のツッコミも響いた。
でも会場は笑っていた。
険悪な空気にはならなかった。
むしろ、リリスの素直さが社交界の警戒を少しほどいたようにも見える。
結果よければ、いいのか?
いいのかもしれない。
「アル」
背後から声がした。
振り返ると、リリスが立っていた。
青いドレス。
金の髪。
ブルーローズの髪飾り。
夕焼けの中で、彼女は少し幻想的に見えた。
「リリス。疲れていませんか?」
「少し。でも、大丈夫です」
「そうですか」
リリスは俺の隣に立った。
今度は少しだけ距離がある。
拳二つ分くらい。
頑張っている。
「今日は、ありがとうございました」
「俺は何も」
「隣にいてくださいました」
「婚約者ですから」
俺がそう言うと、リリスはぱっとこちらを見た。
「今、アルも言いました」
「何をですか」
「婚約者ですから、と」
「あ」
しまった。
自分で言った。
リリスの目がきらきらしている。
「婚約者ですから、私は近くにいてもよいのですね」
「拡大解釈が早い」
「だめですか?」
「……ほどほどなら」
「ほどほど」
リリスは真剣な顔で考え込んだ。
何を考えているのだろう。
少し怖い。
「アル」
「はい」
「ほどほどとは、どのくらいですか?」
「難しい質問ですね」
「手を繋ぐのは、ほどほどですか?」
「えっ」
俺は固まった。
リリスは真剣だった。
本当に真剣に、距離感の基準を確認している。
夕方のバルコニー。
婚約発表の日。
人目は少ない。
リリスは少し不安そうに俺を見ている。
俺は自分の手を見た。
そして、リリスの手を見る。
白く細い指。
少しだけ震えている。
今日一日、彼女は頑張った。
公爵令嬢として立ち、社交界の視線を受け、自分の意思を示した。
俺も緊張したが、リリスも緊張していたはずだ。
なら。
少しだけなら。
「……ほどほど、だと思います」
俺がそう言うと、リリスの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「はい。ただし、人前では控えめに」
「はい」
リリスはそっと手を差し出した。
俺は少し迷い、それからその手を取った。
柔らかい。
温かい。
リリスの手が、ぎゅっと俺の手を握る。
強い。
意外と強い。
「リリス?」
「すみません。嬉しくて」
「力、少し強いです」
「ご、ごめんなさい」
リリスは慌てて力を緩めた。
そして、恥ずかしそうに笑った。
「アルの手、温かいです」
「リリスの手も温かいです」
「……はい」
沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、気まずくなかった。
夕焼けの光。
庭の噴水の音。
遠くから聞こえる会場のざわめき。
隣にいるリリス。
繋いだ手。
胸の奥が静かに満たされていく。
俺はふと思った。
ああ。
大変だけど。
ツッコミは追いつかないけど。
この子の隣は、悪くない。
むしろ、かなり良い。
「アル」
「はい」
「私、今日、ちゃんとできていましたか?」
「はい。とても立派でした」
「本当ですか?」
「本当です」
「公爵令嬢としても?」
「はい」
「婚約者としても?」
「……はい」
俺が頷くと、リリスはほっとしたように微笑んだ。
「よかった」
その声が、少し震えていた。
やはり不安だったのだ。
俺は繋いだ手を少しだけ握り返した。
「俺も、リリスが隣にいてくれて心強かったです」
「……っ」
リリスの目が潤んだ。
まずい。
泣くか?
「泣きそうです」
「早い」
「嬉しくて」
「嬉し泣きでも、ガロウ公爵が飛んできます」
「お父様なら、たぶんもう見ています」
「え?」
俺は反射的に振り返った。
バルコニーの入口。
カーテンの隙間。
そこに、ガロウ公爵の影が見えた。
怖っ!!
いる!!
やっぱりいる!!
「公爵様!?」
俺が声を上げると、ガロウ公爵はゆっくり姿を現した。
顔が険しい。
だが、目元が少し赤い。
泣いた?
泣いてた?
「……リリス」
「はい、お父様」
「寒くないか」
「大丈夫です」
「そうか」
ガロウ公爵は俺たちの繋いだ手を見た。
沈黙。
長い沈黙。
俺は手を離すべきか迷った。
だが、リリスが離さない。
むしろ少し強く握った。
公爵様、これは俺だけの意思ではありません。
俺は目で訴えた。
伝わったかは分からない。
ガロウ公爵は深く息を吐いた。
「……アルフレッド」
「はい」
「娘の手は温かいか」
「え?」
「温かいかと聞いている」
「は、はい。温かいです」
「そうか」
ガロウ公爵は少しだけ遠くを見る目をした。
「昔は、私の指を握っていたのにな」
「お父様」
リリスが少し困った顔をする。
ガロウ公爵はすぐに咳払いをした。
「何でもない」
父親。
完全に父親だった。
騎士団長でも公爵でもなく、娘の成長に揺れる父親。
俺は少しだけ申し訳なくなった。
「フルーラ公爵」
「なんだ」
「リリスを、大切にします」
俺は自然とそう言っていた。
ガロウ公爵は俺を見る。
その目は鋭い。
だが、昨日までのような殺気だけではなかった。
しばらくして、彼は短く答えた。
「当然だ」
「はい」
「泣かせるな」
「努力します」
「努力では足りん」
「全力で」
「よし」
よしなんだ。
基準はまだ物騒だが、少しだけ認めてもらえた気がした。
リリスは嬉しそうに俺たちを見ている。
すると、背後から父上の声がした。
「ガロウ、邪魔をするな」
「お前こそ来るな」
「親同士の見守りだ」
「見守りなら黙っていろ」
「お前もな」
二人揃っていた。
なんでだ。
親が多い。
見守りが多い。
この恋愛、常に観客がいる。
俺は思わず叫んだ。
「だから皆さん、距離感!!」
リリスが隣で首を傾げた。
「アル、私は近すぎますか?」
「今はリリスだけに言ったわけではありません!」
父上が笑い、ガロウ公爵が鼻を鳴らした。
リリスは少し考えてから、俺の手をもう一度ぎゅっと握った。
「では、私はこのままで」
「判断が早い!」
夕焼けのバルコニーに、俺のツッコミが響いた。
たぶん会場にも少し聞こえた。
あとで何人かの夫人に「仲がよろしいのね」と言われる未来が見えた。
だが、もういい。
今日は正式な婚約発表の日。
俺とリリスが婚約者になった日。
周囲は騒がしく、父親たちは面倒で、社交界は興味津々で、リリスは距離感が近い。
それでも。
隣で嬉しそうに笑うリリスを見ていると、俺はやっぱり思ってしまうのだ。
悪くない。
全然、悪くない。
ただし。
ひとつだけ、声を大にして言いたい。
公爵令嬢様。
距離感が近すぎます。
そして俺のツッコミは、今日も追いつかない。




