第2話 伯爵家、朝からうるさい
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、公爵令嬢との顔合わせを終えました。
ええ。
そうです。
あの、フルーラ公爵家のご令嬢。
アマリリス・フルーラ嬢。
いや、今はもう本人から「リリス」と呼ぶように言われているので、リリスと呼ばせてもらうが。
そのリリスと顔合わせをした。
したのだが。
まず結論から言おう。
俺の平穏な日常は死んだ。
享年十五歳。
短い付き合いだった。
いい奴だったよ、平穏。
俺はお前のこと、嫌いじゃなかった。
むしろ大好きだった。
朝起きて、剣の稽古をして、勉強して、父上に呼ばれて領地経営の話を少し聞き、母上に茶会の作法を確認され、ライズに「若様、姿勢が少々崩れております」と注意される。
そんな普通の日々。
普通か?
いや、貴族としては普通だ。
少なくとも昨日みたいに、騎士団長から殺気を向けられることはなかった。
父上が甲高い声で公爵令嬢を演じることもなかった。
リーマスが床に膝をついて「アマリリス……!」と叫ぶこともなかった。
いや、あれは一昨日か。
もう日付感覚がおかしい。
とにかく。
俺の世界は変わった。
そして、その変化は翌朝から容赦なく始まった。
「若様、お目覚めでしょうか」
扉の向こうから、ライズの声がした。
いつも通りの穏やかな声。
俺は寝台の上で目を開け、天井を見上げた。
朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。
見慣れた自室。
木製の机。
本棚。
壁に掛けた稽古用の剣。
窓辺の小さな花瓶。
いつもと何も変わらないはずなのに、なぜか部屋全体が少し騒がしい気がした。
いや、部屋が騒がしいわけではない。
屋敷が騒がしい。
遠くの廊下から、使用人たちの足音がいつもより多く聞こえる。
誰かが小声で話している。
何かが運ばれている気配もある。
俺は嫌な予感を覚えながら身体を起こした。
「起きている。入っていい」
「失礼いたします」
ライズが扉を開けて入ってきた。
いつも通り、隙のない身なり。
茶色の髪は整い、黒い執事服には皺ひとつない。
その手には洗顔用の水とタオル。
完璧な従者である。
ただし。
顔が少しにやけていた。
「ライズ」
「はい」
「その顔はなんだ」
「どの顔でしょう」
「今、完全に面白がっている顔をしている」
「そのようなことはございません」
「嘘をつけ。口元が勝っている」
「失礼いたしました」
ライズはすっと表情を戻した。
早い。
訓練された無表情だ。
だが俺は見逃さない。
昨日の温室で無言の親指を立てていた男を、俺は信じすぎてはいけない。
「それで、朝から屋敷が騒がしい気がするんだが」
「はい」
「はい?」
「騒がしいですね」
「認めるのか」
「事実ですので」
「理由は?」
ライズは水差しを机に置き、俺の方へ向き直った。
そして、ごく自然な口調で言った。
「若様とアマリリス様の婚約が、屋敷内でほぼ確定事項として扱われ始めたためです」
「早い!!」
思わず叫んだ。
朝から喉に悪い。
「まだ正式決定してないよな!?」
「書面上は、まだです」
「書面上はって何!?」
「旦那様とフルーラ公爵様が昨日のうちに大筋で合意されたそうです」
「昨日のうちに!?」
「はい」
「俺が温室でリリスと話している間に!?」
「おそらく」
「おじさん同士の話が早すぎる!」
俺は寝台の上で頭を抱えた。
あの間にそんなことが進んでいたのか。
確かに父上は「色々と話すことがある」と言っていた。
言っていたが。
まさかほぼ婚約確定まで持っていくとは。
いや、貴族の縁談は家同士の話でもある。
本人同士が嫌がっていないなら、親が進めるのは当然かもしれない。
だが早い。
展開が早い。
昨日の午前に初めてまともに話して、夕方には大筋合意?
速達でもそんなに早くないぞ。
「若様」
「なんだ」
「おめでとうございます」
「まだ受け止め切れてないんだよ!」
「しかし昨日、玄関でアマリリス様に手を振っておられました」
「見てたのか」
「もちろんでございます」
「もちろんじゃない」
「それはそれは、柔らかな笑顔で」
「やめろ」
「アマリリス様も大変お可愛らしく」
「やめろと言っている」
「旦那様と奥様とリーマス殿と使用人一同が温かく見守っておりました」
「多すぎる!!」
俺は頭を抱え直した。
そんなに見られていたのか。
玄関ホールでリリスと別れた時、確かに周囲に人はいた。
だが、まさか一同で観察されていたとは思わなかった。
いや、屋敷の玄関だから人がいるのは当然だ。
当然なのだが、温かく見守るな。
俺は見世物ではない。
「ちなみに」
ライズが続けた。
「料理長は今朝、若様の朝食に祝いの意を込めたいと申しておりました」
「朝食に祝いの意?」
「はい」
「何をする気だ」
「卵料理にブルーローズの形を模した飾りを添えるそうです」
「重い」
「パンにも花の焼き印を」
「重い」
「スープにはハート型の野菜を」
「やめさせろ!!」
「すでに厨房は盛り上がっております」
「止めろよ従者!!」
「申し訳ございません。私一人では勢いを止められませんでした」
「勢いって何!?」
ライズは真顔で頭を下げた。
絶対止める気なかっただろ。
むしろ見て楽しんだだろ。
俺は深く息を吐き、顔を洗った。
冷たい水が肌を撫で、少しだけ頭が冴える。
よし。
落ち着け。
朝から騒がしいだけだ。
まだ大丈夫。
婚約話が進んでいるだけだ。
いや、大丈夫じゃないな。
だが、俺が騒いでも仕方ない。
まずは朝食だ。
そう思い、着替えを済ませて食堂へ向かった。
廊下を歩くと、使用人たちが俺を見るたびに妙に微笑ましそうな顔をした。
「おはようございます、若様」
「ああ、おはよう」
「おめでとうございます」
「まだ早い」
「おはようございます、若様」
「おはよう」
「昨夜は眠れましたか?」
「普通に寝た」
「まあ」
「なぜ驚く」
「おはようございます、若様」
「おはよう」
「アマリリス様は本当にお美しい方でしたね」
「ああ、そうだな」
「若様のお顔、赤くなっております」
「なってない」
なんだこれ。
廊下を歩くだけで精神が削られる。
屋敷の使用人たちは普段から俺に好意的だが、今日は何か違う。
完全に親戚のおばちゃん目線だ。
いや、使用人におばちゃんとか言うな。
失礼だ。
だが空気がそうなのだ。
俺が少しでも反応すると、皆がにこにこする。
やめてくれ。
照れる。
食堂に入ると、父上と母上がすでに席についていた。
父上は朝から妙に機嫌がよさそうだ。
母上は穏やかな笑顔で俺を見た。
「おはよう、アル」
「おはようございます、父上、母上」
「よく眠れたか?」
「はい」
「そうかそうか」
父上がにやにやする。
その顔やめろ。
「アル」
母上が柔らかく声をかけた。
「昨日のアマリリス様、とても可愛らしい方だったわね」
「……はい」
「温室で楽しくお話できた?」
「はい。とても話しやすい方でした」
「まあ」
母上が嬉しそうに微笑む。
その笑顔は穏やかで、からかうようなものではない。
少し安心した。
やはり母上は屋敷で一番まともだ。
「それで、アル」
「はい」
「もう愛称で呼んでいるのね」
「母上も見てたんですか!?」
まともではなかった。
いや、母上は悪くない。
でも見ていた。
しっかり見ていた。
「だって、アマリリス様がとても嬉しそうだったのだもの」
「それは……本人からそう呼んでほしいと言われまして」
「そう。よかったわね」
「はい」
「アルも呼んでほしかったのでしょう?」
「……」
「沈黙は肯定ね」
「母上」
やめてください。
母親に恋愛方面を突かれるのは、父上にからかわれるより恥ずかしい。
父上は茶を飲みながら笑っていた。
「いやあ、昨日の温室はよかったな」
「父上」
「ガロウが途中から入口で彫像になっていたのも面白かった」
「面白がらないでください」
「あいつ、娘が『まだ帰りません』と言った瞬間、本当に魂が抜けかけていたぞ」
「見てました」
「昔、魔獣の群れに囲まれてもあそこまで動揺しなかった男がな」
「娘ってすごいですね」
「すごいぞ。私もお前が娘だったら危なかった」
「何がですか」
「たぶん今より甘やかしていた」
「俺が息子でよかったです」
「そうか?」
「はい」
そこへ料理が運ばれてきた。
そして俺は固まった。
皿の上に、見事な花形の卵料理。
パンには薔薇の焼き印。
スープにはハート型の人参。
さらに小皿の上には、なぜか二つ並んだ小さな焼き菓子。
片方には「A」。
もう片方には「L」。
……いや。
リリスのLか?
アルフレッドのAか?
合わせてAL?
いや、俺もアルだからALじゃないか。
ややこしい。
「料理長を呼べ」
「アル、落ち着きなさい」
母上がくすくす笑っている。
父上は楽しそうにパンを割った。
「よくできているじゃないか」
「父上、止めてくださいよ」
「なぜだ? 祝いの席は華やかな方がいい」
「まだ朝食です」
「朝から祝えば一日幸せだ」
「雑な名言を作らないでください」
俺はスプーンを手に取り、ハート型の人参を見つめた。
食べづらい。
非常に食べづらい。
食材に罪はない。
だが、意図が重い。
俺が複雑な気持ちでスープを口に運ぶと、普通に美味しかった。
悔しい。
美味しいから文句が言いづらい。
「それで、父上」
「なんだ?」
「婚約の話ですが」
「ああ。昨日、ガロウと大筋で合意した」
「ライズから聞きました」
「早いだろう?」
「自覚があるなら少しは手加減してください」
「手加減してこれだ」
「嘘ですよね?」
「半分は」
「もう半分は?」
「ガロウが早く決めたがった」
「なぜですか」
父上は少しだけ表情を引き締めた。
茶化す気配が薄れる。
俺も姿勢を正した。
「王家からの縁談話があるからだ」
「第一王子との、ですか」
「そうだ」
空気が少し変わった。
食堂の窓から差し込む朝日が明るいのに、会話の内容だけが少し重くなる。
第一王子。
つまり王位継承権を持つ人物。
公爵令嬢であるリリスがその婚約者候補になるのは、自然な流れだ。
王家と公爵家の結びつき。
政治的にも大きな意味がある。
それを断って、伯爵家の俺と婚約する。
そんなことになれば、当然周囲はざわつく。
いや、ざわつくどころではない。
嵐になるかもしれない。
「アマリリス嬢……リリスの意思は固いらしい」
父上が静かに言った。
「ガロウも最初は反対した。王家からの話を簡単に断れるものではないからな」
「それはそうでしょうね」
「だが、リリス嬢は譲らなかった」
「……」
「昨日、お前と会って話して、それでも気持ちが変わらないなら進める。そういう条件だったそうだ」
「俺と会って、ですか」
「ああ」
昨日のリリスを思い出す。
温室で見せた笑顔。
頬を赤くして「リリスとお呼びください」と言った声。
俺を「アル」と呼ぶために必死になっていた姿。
あの子が、王家との縁談を断ってまで俺を望んでいる。
そう考えると、胸の奥に重みが生まれた。
嬉しさもある。
戸惑いもある。
そして責任も。
「アル」
母上が穏やかに言った。
「無理に背伸びしなくていいのよ」
「母上」
「あなたは公爵令嬢の婚約者になるかもしれない。でも、それで急に別人になる必要はないわ」
「……はい」
「昨日のアマリリス様は、あなたと話している時、とても自然に笑っていた。きっと、あなたがあなたのままだったからよ」
母上の言葉は、ゆっくりと胸に染み込んだ。
そうだ。
俺は公爵家に釣り合う人間になれるのかと考えていた。
いや、今も考えている。
でも、リリスが望んだのは、たぶん肩書きではない。
俺自身。
……だといい。
いや、まだ理由を聞いていないから断言はできないが。
「まあ」
父上が再びにやりと笑った。
「お前はそのままでいい。むしろ、そのツッコミ力は貴重だ」
「そこで台無しにします?」
「リリス嬢は少々天然の気があるようだからな」
「父上も気づきましたか」
「薔薇に話しかけようとしたと聞いた」
「誰から!?」
俺は思わずライズを見た。
食堂の壁際に控えていたライズが、静かに目を逸らした。
「ライズ!!」
「申し訳ございません。大変微笑ましい出来事でしたので」
「報告するな!」
「旦那様より、若様とアマリリス様の温室での様子を可能な範囲で報告するよう命じられておりました」
「父上!!」
「必要な情報収集だ」
「完全に覗き見の共有でしょうが!」
「人聞きが悪い。保護者としての確認だ」
「保護者が多すぎるんですよ!」
父上、母上、リーマス、ライズ、使用人一同。
そして向こうにはガロウ公爵と侍女。
俺とリリスの間に、見守り隊が多すぎる。
恋愛というものは、もう少し静かに始まるものではないのか?
いや、俺は恋愛経験があるわけではないから知らない。
でも少なくとも、全方位から見守られるものではないと思う。
朝食後、俺は父上に執務室へ呼ばれた。
昨日と同じ部屋。
だが、今回は父上だけでなくリーマスも控えている。
嫌な予感がする。
非常に嫌な予感がする。
「アルフレッド」
「はい」
「これから婚約に向けていくつか確認することがある」
「承知しました」
「まず、リリス嬢への贈り物だ」
「贈り物?」
「ああ。顔合わせ後、正式な婚約までの間に、こちらから気持ちを示すものを贈るのが望ましい」
「なるほど」
それは分かる。
貴族の礼儀としても大切だろう。
「何がいいでしょうか」
「普通なら花、宝石、髪飾り、菓子あたりだな」
「リリスは花が好きそうでした」
「うむ。昨日もブルーローズを気に入っていたそうだな」
「はい」
「では、ブルーローズを贈るか?」
「それが自然でしょうか」
俺がそう言うと、父上は腕を組んだ。
リーマスも目を閉じて頷いている。
なんだ。
妙に真剣だ。
「ただし、問題がある」
「問題?」
「青い薔薇は希少だ。切り花にすれば数日は美しいが、長くは持たない」
「確かに」
「そこで、鉢植えで贈る案もある」
「いいですね」
「だが、公爵家へ送るには管理方法も添える必要がある。水やり、日照、温度、土の状態」
「なるほど」
「リリス嬢が自ら世話をしたがる可能性もある」
「ありそうですね」
「その場合、水をやりすぎる可能性がある」
「俺と同じ失敗を?」
「あるいは褒めすぎる可能性がある」
「薔薇を?」
「うむ」
沈黙。
俺は父上を見た。
父上も俺を見た。
リーマスは真顔だった。
「褒めすぎると何か問題が?」
「庭師が困惑する」
「庭師の心配!?」
「薔薇に毎朝『今日も綺麗ですね』と話しかける公爵令嬢を見た庭師の気持ちを考えろ」
「微笑ましいでしょう」
「ガロウが泣く」
「でしょうね!」
容易に想像できた。
ブルーローズに話しかけるリリス。
その姿を見て「うちの娘は天使か」と号泣する騎士団長。
周囲で困る使用人たち。
だめだ。
想像だけで濃い。
「では、髪飾りはどうでしょう」
リーマスが静かに口を開いた。
「ブルーローズを模した髪飾りであれば、昨日の温室の思い出にも繋がります」
「いいな」
父上が頷く。
「アルフレッド、お前はどう思う?」
「とても良いと思います」
俺も素直に頷いた。
リリスの金色の髪に、青い薔薇の髪飾り。
きっと似合う。
想像しただけで、少し頬が熱くなる。
父上がにやりとした。
「想像したな?」
「してません」
「嘘が下手だ」
「父上」
「リーマス」
「はい」
「若様は今、アマリリス様の金髪に青い髪飾りが映える姿を想像されました」
「細かく解説するな!!」
リーマスが穏やかに頷いた。
「大変よろしいかと」
「何がですか」
「恋は想像から始まります」
「家令が何を言ってるんだ!」
俺は椅子に沈み込んだ。
この屋敷、味方がいない。
いや、味方はいる。
いるのだが、全員が俺をからかう方向で団結している。
「とにかく」
父上は楽しそうに話を戻した。
「贈り物はブルーローズの髪飾りで進めよう。職人にはこちらから依頼する」
「はい」
「そして手紙だ」
「手紙?」
「贈り物に添える文だ。お前が書け」
「俺が?」
「当然だろう」
それはそうだ。
贈り物に添えるなら、俺自身の言葉で書くべきだ。
だが、手紙。
リリスへの手紙。
何を書けばいい?
昨日のお礼。
また会いたいということ。
ブルーローズの髪飾りを選んだ理由。
いや、書けばいいのは分かる。
分かるが、いざ考えると急に難しい。
「文案はリーマスが確認する」
「承知いたしました」
「父上も見ますか?」
「もちろん」
「できれば見ないでください」
「なぜだ」
「恥ずかしいからです」
「婚約者への手紙だぞ。恥ずかしがってどうする」
「恥ずかしいものは恥ずかしいんです」
父上は肩をすくめた。
「まあいい。最終確認はリーマスに任せよう」
「ありがとうございます」
「ただし面白かったら私にも見せろ」
「見せません」
「つまらん」
つまらなくて結構だ。
俺は心の中でそう呟いた。
その日の午前中は、手紙を書く時間になった。
自室の机に向かい、白い便箋を前にする。
窓の外では庭師たちが作業をしていた。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が聞こえる。
静かな時間。
本来なら集中しやすいはずだ。
だが、俺の筆はなかなか進まなかった。
リリスへ。
いや、最初は「アマリリス様」か?
でも本人からリリスと呼んでほしいと言われた。
手紙でもリリスでいいのか?
いや、親しい呼び名を使う方が喜ぶかもしれない。
でも贈り物に添える正式な文なら、礼儀としてはアマリリス様?
いやいや、昨日「リリスです」と言われた。
あの涙目を思い出せ。
リリスと書かなかったら、彼女はしょんぼりするかもしれない。
……しょんぼりするリリス。
可愛い。
いや、違う。
今は手紙だ。
俺は深呼吸し、筆を取った。
『リリスへ』
書いた。
書いてしまった。
たった四文字なのに、妙に心臓がうるさい。
俺は周囲を見回した。
誰もいない。
いや、ライズは壁際に控えている。
「ライズ」
「はい」
「見るな」
「まだ何も見ておりません」
「今後も見るな」
「承知いたしました」
ライズは一歩下がった。
だが、気配が面白がっている。
気配で分かるようになってきた。
嫌な成長だ。
俺は続きを書き始めた。
『昨日は、当家にお越しいただきありがとうございました。温室で共に過ごした時間は、私にとってとても楽しいものでした』
堅いか?
堅いな。
でも最初はこれでいい。
『ブルーローズを見て、心が安らぐと言ってくださったことを嬉しく思います』
ここまでは自然だ。
問題は次。
髪飾りのことを書かなければならない。
『昨日の思い出として、ブルーローズを模した髪飾りを贈らせていただきます』
うん。
悪くない。
いや、少し事務的か?
もっと気持ちを込めるべきか。
俺は筆を止めた。
リリスの笑顔を思い出す。
青い薔薇を見つめていた横顔。
俺の名前を呼ぶ時の頬の赤さ。
最後に「約束です」と囁いた声。
胸が温かくなる。
俺は少し迷ってから、続きを書いた。
『リリスの金色の髪に、きっとよく似合うと思いました』
書いた瞬間、顔が熱くなった。
これは。
これはどうなんだ。
かなり直接的では?
いや、でも本心だ。
母上も言っていた。
俺は俺のままでいい。
思っていないことは書かない。
思っていることなら、書いてもいいはずだ。
「若様」
「見るなと言った」
「見ておりません。ただ、耳まで赤くなっております」
「報告するな」
「承知いたしました」
俺は便箋を隠すように腕を置いた。
ライズは真顔だ。
でも面白がっている。
絶対に。
それから何度も書き直し、ようやく手紙を仕上げた。
完成した文は、短すぎず長すぎず。
礼儀を保ちつつも、少しだけ本心を混ぜたものになった。
リーマスに確認してもらうと、彼は静かに目を通し、深く頷いた。
「大変よろしいかと」
「本当ですか?」
「はい。若様らしい誠実な文でございます」
「よかった」
「特に『リリスの金色の髪に、きっとよく似合うと思いました』の一文が」
「そこを声に出さないでください」
「失礼いたしました」
リーマスは微笑んだ。
絶対わざとだ。
その後、職人への依頼が出され、贈り物の準備が進められることになった。
ただし、完成には数日かかる。
それまでは、手紙だけを先に届けるかどうかという話になったが、父上は「贈り物と共に届けた方がいい」と判断した。
俺としても、その方が心臓に優しい。
いや、届いた後の反応を想像すると別の意味で優しくないが。
昼過ぎ。
事件は起きた。
いや、事件というほどではない。
だが俺にとっては十分事件だった。
フルーラ公爵家から使者が来たのである。
応接室に呼ばれた俺は、父上と共にその使者と対面した。
使者はフルーラ公爵家の家令らしき老紳士で、姿勢が美しく、声も落ち着いていた。
「シェルザート伯爵閣下、アルフレッド様。本日は急な訪問にもかかわらず、お時間をいただき感謝申し上げます」
「構わない。ガロウからか?」
「はい。公爵閣下より書状をお預かりしております。また、アマリリスお嬢様より、アルフレッド様へのお手紙も」
「俺に?」
思わず声が裏返りかけた。
リリスから手紙?
昨日会ったばかりなのに?
いや、俺も書いた。
書いたけどまだ送ってない。
先を越された。
父上が横でにやりと笑う。
やめろ。
その顔やめろ。
使者は丁寧に二通の封書を差し出した。
一通は父上へ。
もう一通は俺へ。
俺の封書には、淡い青の封蝋が押されていた。
薔薇の紋。
フルーラ公爵家の印。
そして、封筒からほんのりと花の香りがした。
俺は思わず息を呑んだ。
「開けないのか?」
父上が言った。
「今ここでですか?」
「お前宛てだろう」
「父上の前で読むのはちょっと」
「なぜだ」
「恥ずかしいからです」
「またか」
「またです」
父上は笑ったが、無理に読ませようとはしなかった。
「では、自室で読みなさい。こちらの書状は私が確認しておく」
「はい」
俺は封書を手に、自室へ戻った。
廊下を歩く間、封筒の存在がやけに重かった。
紙一枚のはずなのに。
自室に入ると、ライズが扉を閉める。
俺は机の前に座り、封書を置いた。
開ける。
ただそれだけだ。
それだけなのに、妙に緊張する。
昨日、リリスは俺に「またお会いできますか」と言った。
約束です、と言った。
あの声が耳に残っている。
俺は慎重に封を切った。
中には、綺麗な文字で書かれた便箋が入っていた。
『アルへ』
最初の一文で、俺は固まった。
アルへ。
敬称なし。
昨日はあんなに頑張って呼んでいたのに、手紙ではもう自然に書いている。
いや、自然かどうかは分からない。
もしかしたら何度も練習したのかもしれない。
想像した。
机に向かって、顔を赤くしながら「アルへ」と書くリリス。
だめだ。
可愛い。
読む前から負けている。
俺は続きを読んだ。
『昨日はありがとうございました。温室で見せていただいたブルーローズが、とても綺麗で、今も目を閉じると思い出します』
丁寧な文章だった。
だが、どこか柔らかい。
『それから、アルが私をリリスと呼んでくださったことが、とても嬉しかったです』
俺は手紙を少し遠ざけた。
心臓がうるさい。
落ち着け。
まだ序盤だ。
『帰ってから、お父様に何度も「アルがリリスと呼んでくれました」とお話ししたら、お父様が途中で黙ってしまいました』
ガロウ公爵!!
大丈夫か!?
いや、大丈夫じゃないだろうな。
娘からそんな報告を何度も聞かされたら、そりゃ黙る。
むしろよく耐えた。
『でも、お父様は最後に「リリスが嬉しいなら、それでいい」と言ってくださいました』
いい父親だ。
怖いけど。
『アル、またお会いしたいです』
短い一文。
なのに、そこだけまっすぐ胸に届いた。
俺は無意識に息を止めていた。
『次にお会いした時は、昨日よりも上手にアルと呼べるように練習しておきます』
練習するんだ。
やっぱり練習するんだ。
可愛い。
『それから、昨日アルが他のご令嬢にも可愛いと言うのか少し気になりました』
ん?
『アルは言わないと約束してくださいましたので、信じています』
んん?
『もし言ったら、私は少し泣いてしまうかもしれません』
可愛い。
可愛いけど、少し重い気配がした。
俺は便箋を持つ手に力を込めた。
『でも、アルが困ることはしたくありません。だから、泣く時はできるだけ静かに泣きます』
「いや、泣かないで!?」
思わず声に出た。
壁際のライズがぴくりと反応した。
「若様?」
「なんでもない」
「アマリリス様のお手紙ですか?」
「そうだ」
「泣かないで、とは?」
「聞くな」
「承知いたしました」
ライズは引き下がった。
俺は手紙に視線を戻す。
『アルが好きなものを、いつか教えてください。私も好きになりたいです』
おっと。
今度は真っ直ぐ可愛い。
不意打ちが多い。
『お身体に気をつけてお過ごしください。またお会いできる日を楽しみにしております』
最後に、綺麗な署名。
『リリス』
俺は読み終えた手紙を机に置き、しばらく動けなかった。
部屋の中は静かだ。
窓の外で鳥が鳴いている。
風がカーテンを揺らす。
俺は深く息を吐いた。
リリスからの手紙。
可愛かった。
すごく可愛かった。
だが、ほんの少し、こう、なんというか。
重い。
いや、悪い意味ではない。
たぶん。
たぶん?
俺はもう一度手紙を見た。
『泣く時はできるだけ静かに泣きます』
いや、泣かないでほしい。
俺が他の令嬢に可愛いと言わなければいいだけの話だ。
簡単だ。
簡単なのだが。
これはつまり、今後の言動には気をつけろということだ。
リリスは泣き虫で、天然で、少しだけ独占欲が強い。
昨日の短い時間でも、それは少し感じていた。
でも、手紙で改めて見ると破壊力がある。
「若様」
「なんだ」
「お顔が緩んでおります」
「緩んでない」
「いえ、かなり」
「うるさい」
「アマリリス様からのお手紙は、いかがでしたか?」
「……可愛かった」
言ってしまった。
ライズが一瞬、ものすごく満足そうな顔をした。
「左様でございますか」
「今の父上に言うなよ」
「もちろんでございます」
「本当だな?」
「必要がなければ」
「必要はない」
「では控えます」
信用できない。
その日の夕方。
俺は父上に呼ばれ、再び執務室へ向かった。
今日は何度執務室に呼ばれるのか。
執務室に入ると、父上は机の上に一通の書状を置いていた。
表情は真面目だ。
朝のにやにや顔とは違う。
俺も自然と背筋を伸ばす。
「フルーラ公爵家からの正式な返答だ」
「はい」
「ガロウは、婚約を進める意志を明確に示している」
「……そうですか」
「王家への説明は、フルーラ公爵家が主導する。こちらも伯爵家として正式に返答を出す必要がある」
「はい」
「アルフレッド」
父上はまっすぐ俺を見た。
「お前の意思を確認したい」
部屋の空気が静かになった。
窓の外は夕暮れ。
赤い光が机の端を染めている。
俺は父上の目を見返した。
ここで冗談はない。
父上も茶化さない。
だから俺も、正直に答えなければならない。
「リリスとの婚約を進めてよいか」
父上の声は静かだった。
重い問いだった。
貴族の婚約は、恋愛だけではない。
家と家。
立場。
責任。
社交界。
王家。
多くのものが関わる。
俺は伯爵家の長男であり、いずれ家を継ぐ身だ。
軽い気持ちで頷いていい話ではない。
だが。
昨日、温室で笑ったリリス。
今日、手紙に綴られていた言葉。
また会いたい。
アルと呼びたい。
俺が好きなものを、自分も好きになりたい。
その全部が、胸の中で静かに灯っている。
俺はまだ彼女のことをよく知らない。
なぜ俺を選んだのかも知らない。
でも。
知りたいと思った。
また会いたいと思った。
その気持ちは、嘘ではない。
「はい」
俺は答えた。
「俺は、リリスとの婚約を進めていただいて構いません」
父上はしばらく俺を見ていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かった」
「はい」
「では、そのように返答する」
「お願いします」
父上は少しだけ表情を緩めた。
「いい顔になったな」
「そうですか?」
「ああ。昨日までは混乱していたが、今は自分で決めた顔だ」
「……まだ、混乱はしています」
「それでいい。完全に落ち着いていたら、それはそれで心配だ」
父上は苦笑した。
俺も少し笑う。
真面目な空気が少しだけ和らいだ。
「ただし、覚悟しておけ」
「何をですか」
「ガロウは面倒だぞ」
「でしょうね」
「王家も絡む」
「はい」
「社交界も騒ぐ」
「はい」
「リリス嬢は可愛い」
「はい……はい?」
「そして、おそらくお前への距離感が近い」
「もう分かっています」
「ならばよし」
「よしなんですか?」
「お前のツッコミ力なら何とかなる」
「婚約生活をツッコミ力で乗り切るんですか、俺」
「必要になる」
「嫌な予言ですね」
父上は笑った。
俺も苦笑した。
だが、胸の奥には不思議と不安だけではないものがあった。
楽しみ。
たぶん、それに近い。
夜。
自室に戻った俺は、リリスからの手紙を机の引き出しにしまった。
すぐに取り出せる場所。
なぜそこにしまったのか、自分でも少し恥ずかしい。
だが、大切にしたいと思った。
窓の外には月が出ていた。
白い光が庭を照らしている。
昨日までと同じ夜。
でも、どこか違って見える。
俺は机に向かい、書きかけの手紙をもう一度取り出した。
リリスへ。
そう書かれた便箋。
俺は筆を取り、最後に一文を加えた。
『私も、またリリスに会える日を楽しみにしています』
書き終えた瞬間、少しだけ心が軽くなった。
これでいい。
飾りすぎず、誤魔化さず。
俺の言葉で。
便箋を丁寧に折り、封筒に入れる。
封をする前に、ふと迷った。
昨日、リリスは「約束です」と言った。
俺も約束した。
ならば、もう一言だけ。
俺は小さな紙片を取り出し、そこに短く書いた。
『約束は、ちゃんと覚えています』
それを便箋の中に忍ばせ、封をした。
後で思い返せば、これがいけなかったのかもしれない。
いや、悪い意味ではない。
ただ、リリスの反応を少し甘く見ていた。
翌日、フルーラ公爵家に手紙と贈り物の予定が伝えられた。
そしてそのさらに翌日。
父上のもとに、ガロウ公爵から短い書状が届いた。
内容はこうだった。
『娘が手紙を抱きしめたまま離さない。責任を取れ』
俺はその書状を読んで、しばらく沈黙した。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは静かに頷いた。
ライズは無言で親指を立てた。
だから。
なぜ親指を立てる。
俺は天井を見上げ、深く息を吸った。
そして心の底から思った。
婚約って、こんなにうるさいものだったか?
いや、違う。
たぶんこれは、俺たちだけだ。
そしてこの時、俺はまだ知らなかった。
正式な婚約発表の日。
リリスがあまりにも嬉しすぎて、社交界の重鎮たちの前でとんでもない発言をすることになるなんて。
もちろん、その時も俺は叫ぶことになる。
全力で。
心の底から。
――公爵令嬢様、距離感が近すぎます!!




