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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第1話 伯爵子息、婚約者が決まるらしい


 皆さん、はじめまして!!


 俺はアルフレッド・シェルザート。


 シェルザート伯爵家の長男であり、今年で十五歳になる、どこにでもいるごく普通の伯爵子息である。


 ……いや、普通の伯爵子息ってなんだ?


 自分で言っておいてなんだが、貴族の時点で一般的には普通じゃない気もする。


 だが、そこはまあ置いておこう。


 俺は剣術も勉学もそこそこ頑張り、父上からは「真面目だな」と言われ、母上からは「もう少し肩の力を抜きなさい」と言われ、屋敷の使用人たちからは「若様は比較的まともで助かります」と言われて育ってきた。


 比較的ってなんだ。


 誰と比べている。


 いや、たぶん父上だな。


 それなら仕方ない。


 我が父、アスフ・シェルザート伯爵は、外面だけなら立派な貴族である。


 黒髪を後ろに流し、背筋を伸ばして椅子に座れば、威厳ある伯爵に見えなくもない。


 実際、領地経営の手腕も確かで、国からの信頼も厚い。


 民への目配りも忘れず、困った者を見捨てない。俺が正義感だけは強く育ったのも、間違いなく父上の影響だ。


 ただし。


 ただしである。


 この人、たまにものすごく変なのだ。


 いや、たまにではないかもしれない。


 そこそこの頻度で変だ。


 そして今。


 俺は、その変な父上と向かい合っていた。


 場所はシェルザート伯爵家本邸の執務室。


 午後の日差しが窓から斜めに入り、磨き上げられた床板を淡く照らしている。


 壁には先祖代々の肖像画が並び、重厚な本棚には領地資料や法典、古い歴史書が整然と収められていた。


 空気は静かだ。


 机の上には湯気の立つ紅茶。


 父上は椅子に深く腰かけ、いつになく真剣な顔をしている。


 俺もその向かいに座り、背筋を伸ばしていた。


 そう。


 ここまでは、どこからどう見ても真面目な親子の会話である。


 だが。


「お前の婚約者が決ま……ることになるかもしれん」


 はい?


 今なんと?


 俺は一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。


 婚約者?


 誰の?


 俺の?


 なぜ?


 いつ?


 どこで?


 誰が?


 俺を?


 待ってくれ。


 情報量が多い。


 いや、父上の言葉自体は短かった。


 短かったはずなのに、脳内で勝手に疑問が増殖している。


 俺は何度か瞬きをしてから、慎重に問い返した。


「父上、今なんといいました?」


 父上は少し間を置いた。


 その間が嫌だった。


 できれば「冗談だ」と笑ってほしかった。


 あるいは「すまん、今のは隣家の犬の話だ」とかでもよかった。


 婚約者が決まる犬ってなんだよ。


 自分で考えておいて意味が分からない。


 だが父上は、ひどく落ち着いた声で続けた。


「お前の婚約者が決まることになるかもしれん、と言った」


「はい? 婚約者ですか?」


「うむ」


「俺の?」


「お前の」


「誰の?」


「お前の」


「本当に?」


「本当に」


「……父上のではなく?」


「私にはお前の母がいる」


「ですよね」


 どうしよう。


 逃げ道がない。


 俺はそっと紅茶に手を伸ばした。


 ひと口飲む。


 少し熱い。


 だが、今の俺にはちょうどよかった。


 熱さで現実感が戻る。


 いや、戻らなくてよかった。


 できればこのまま現実逃避したかった。


「お相手は?」


 俺がそう尋ねると、父上は妙に重々しい顔になった。


 なんだその顔。


 怖い。


 まさかどこかの武闘派侯爵家の一人娘とか?


 いや、それならまだ分かる。


 伯爵家と侯爵家の縁談なら、ない話ではない。


 もちろん俺には早い気もするが、貴族社会では珍しくない。


 落ち着け。


 冷静になれ、アルフレッド。


 父上は静かに口を開いた。


「フルーラ公爵令嬢、アマリリス・フルーラ嬢だ」


「は?」


 思わず声が出た。


 淑やかな貴族子息としてはあるまじき反応だった。


 だが許してほしい。


 フルーラ公爵家である。


 このアプル王国に四つしか存在しない公爵家の一つ。


 王家に次ぐ名門。


 その令嬢。


 しかもアマリリス・フルーラ嬢といえば、確か俺と同い年の十五歳。


 王都でも有名な美貌の令嬢であり、幼い頃から王子妃候補として名前が挙がっていたはずだ。


 普通に考えれば、第一王子の婚約者になるような方である。


 それが。


 俺?


 伯爵家の長男?


 いやいやいやいや。


 意味が分からん。


 王子はどうした。


 侯爵家の嫡男たちはどうした。


 公爵家同士の縁談はどこに行った。


 なぜ急に俺のところへ飛んできた。


 恋愛市場でいえば、金貨の山がなぜか銅貨の財布に突っ込まれたようなものである。


 いや、例えが悪い。


 だが俺の混乱は伝わってほしい。


「冗談ですよね?」


「冗談ではない」


「ですよね、父上がそんな大きな冗談を真顔で言うはずが……いや、ありますね」


「どういう意味だ」


「いえ、こちらの話です」


 父上は少し目を細めた。


 俺は視線を逸らした。


 危ない。


 余計なことを言うところだった。


 いや、もう言ったかもしれない。


「なぜ俺と?」


 結局、そこに戻る。


 俺にはアマリリス嬢との深い交流などない。


 以前、王子の婚約者候補と側近候補を決めるためのお茶会で、遠くから見たことはある。


 ただそれだけだ。


 挨拶もしていない。


 会話もしていない。


 目が合ったかどうかすら怪しい。


 その時の印象は、正直に言えば、かなり派手な令嬢だった。


 当時十歳くらいだったはずだが、化粧が濃く、ドレスも宝石も豪華で、俺は遠目に「公爵家ってすごいな」と思った記憶がある。


 だが、それだけだ。


 それだけなのに、なぜ婚約?


 俺が首を傾げていると、父上は紅茶を置き、ゆっくりと頷いた。


「私も詳しくは知らないんだが、どうも御息女本人からの希望らしい」


「本人から?」


「うむ」


「アマリリス嬢が?」


「そうだ」


「俺を?」


「そうだ」


「……人違いでは?」


「私も一度そう思った」


「父上」


「だが、名前も家名も一致している」


「逃げ道が潰された」


 俺は額に手を当てた。


 本人からの希望?


 なぜ?


 俺は彼女に何をした?


 助けた覚えもない。


 落とし物を拾った覚えもない。


 美しい詩を贈った覚えもない。


 むしろ社交の場ではできるだけ目立たないようにしていた。


 俺は基本的に面倒事が苦手なのだ。


 困っている人は放っておけないが、自分から貴族社会の中心に突っ込む趣味はない。


 公爵令嬢との婚約など、完全に中心である。


 中心どころか渦の中だ。


 飲み込まれる。


「実はな」


 父上が言った。


「私とフルーラ公爵は学生の頃から親交があってな」


「初耳です」


「言っていなかったか?」


「聞いた記憶がありません」


「そうか。まあ、ガロウとは昔からの友人だ」


 ガロウ。


 フルーラ公爵、ガロウ・フルーラ。


 現騎士団長。


 金髪に鋭い眼光、熊のような体格を持つ王国最強格の騎士。


 民からの信頼も厚く、戦場では鬼神のごとき働きを見せるという。


 そんな人と父上が友人?


 いや、父上も若い頃は剣が強かったと聞くが、それでも意外だ。


「そのガロウから話を聞いたんだが……」


 父上はそこで、なぜかコホンと咳払いをした。


 嫌な予感がした。


 非常に嫌な予感がした。


 父上は椅子からゆっくり立ち上がった。


「父上?」


「リーマス」


「はい」


 部屋の隅に控えていた家令、リーマスが一歩前に出た。


 銀髪をきっちり撫でつけ、背筋を伸ばした老紳士である。


 普段は完璧な家令。


 屋敷の管理も、使用人の教育も、来客対応も隙がない。


 だが、父上と組むとたまにおかしくなる。


 いや、今まさにその気配がある。


「第二幕だ」


「承知いたしました」


「何を承知した!?」


 俺のツッコミは誰にも届かなかった。


 父上は胸の前で両手を握り、妙に身体をくねらせた。


 やめろ。


 その動きはやめろ。


 威厳ある伯爵の姿が音を立てて崩れていく。


 そして父上は、甲高い声を出した。


「お父様、私、シェルザート伯爵家のアルフレッド様と婚約します!!」


 沈黙。


 俺は言葉を失った。


 何を見せられているんだ、俺は。


 父上?


 父上ですよね?


 俺の父親ですよね?


 なぜ十五歳の公爵令嬢を演じているのですか?


 しかも無駄に身体の動きが細かい。


 練習したのか?


 したんだな?


 後ろでリーマスが一歩前に出た。


 そして低く太い声で叫ぶ。


「アマリリス!? 何を言っているんだ、いきなり!?」


 始まった。


 本当に始まった。


 どうやら父上とリーマスは、フルーラ公爵家で行われたやり取りを再現しているらしい。


 なぜ?


 普通に説明すればいいだろ。


 なぜ演劇形式?


 しかも、妙に息が合っている。


 リーマスの驚き方も上手い。


 いや、上手くなくていい。


「だから、アルフレッド様と婚約したいの!!」


 父上がまた甲高い声を出す。


 やめてくれ。


 声が高い。


 動きがきつい。


 父親のそういう姿は見たくなかった。


 十五年生きてきて、今日一番の衝撃が婚約話ではなく父上の女声なのはおかしいだろ。


「お前にはまだ婚約など早い! それに王家から第一王子との縁談も来ている!」


 リーマスが床を踏み鳴らす。


 迫真である。


「嫌です!! 私はアルフレッド様と婚約します!! 駄目なら、お父様なんて大っ嫌い!!」


「アマリリス……!」


 リーマスが床に膝をついた。


 項垂れた。


 手を伸ばした。


 完璧に娘に嫌われた父親だった。


 いや、家令だよね?


 あなた家令だよね?


 なぜそんなに感情を込める?


 父上はくるりとこちらを向いた。


 満面の笑みだった。


「とまあ、こんなやり取りがあったらしい」


「はぁ」


 俺はとりあえず曖昧に返した。


 それ以外にできることがなかった。


 父上の演技が気持ち悪すぎて、婚約話の衝撃が少し薄れた。


 もしかしてそれが狙いか?


 いや、違うな。


 この人たちは絶対楽しんでいる。


「父上」


「なんだ?」


「詳しく知らないと言いませんでした?」


「うむ」


「めちゃくちゃ詳しいじゃないですか」


「ガロウが泣きながら語った」


「泣いたんですか、騎士団長」


「泣いた」


「国、大丈夫ですか?」


「娘の話になると駄目だな、あいつは」


 父上はしみじみと頷いた。


 それはたぶん人のことを言えない。


 今、父上もだいぶ駄目だった。


 リーマスが静かに立ち上がり、服の乱れを整えた。


 そして何事もなかったかのように父上の後ろへ戻る。


 満足そうな顔をしている。


 やっぱり練習しただろ。


「というわけで」


 父上は何事もなかったように椅子へ戻った。


 戻るな。


 さっきの姿をなかったことにするな。


「明日、アマリリス嬢とお前の顔合わせを行うことになった。場所は我が家だ。準備をしておくように」


「明日!?」


「うむ」


「急すぎませんか!?」


「貴族の縁談など、決まる時は早い」


「心の準備が追いつきません」


「頑張れ」


「軽い!」


 父上は紅茶を飲んだ。


 完全に話は終わったという顔だった。


 俺は椅子に座ったまま、しばらく天井を見上げた。


 婚約者。


 公爵令嬢。


 本人からの希望。


 明日顔合わせ。


 父上の甲高い声。


 リーマスの迫真の演技。


 情報が多い。


 多すぎる。


 俺の人生は今日、何かがおかしくなった。


 いや、もともと我が家は少しおかしかったのかもしれない。


 ただ、俺が見ないふりをしていただけで。


 翌日。


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 はい、というわけで本日は、私アルフレッドとアマリリス・フルーラ公爵令嬢との顔合わせの日となりました!!


 ……いや、テンションを上げないとやっていられない。


 朝から屋敷の空気は妙にそわそわしていた。


 使用人たちはいつも以上に動きが速く、廊下の花瓶はすべて新しい花に替えられ、玄関ホールの床は鏡のように磨かれていた。


 料理長は厨房で「公爵家だぞ! 塩一粒にも魂を込めろ!」と叫んでいたらしい。


 塩に魂を込めるな。


 いや、美味しくなるならいいけど。


 母上は朝から俺の服装を確認し、襟元を直し、髪を整え、最後ににっこり笑った。


「アル、失礼のないようにね」


「はい、母上」


「でも、緊張しすぎないように」


「はい」


「相手は公爵令嬢だけれど、女の子でもあるのだから」


「……はい」


 母上の言葉は穏やかだった。


 その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。


 そうだ。


 相手は公爵令嬢である前に、一人の令嬢なのだ。


 俺が必要以上に身構えれば、相手にも失礼になる。


 ちゃんと挨拶をして、ちゃんと話をして、ちゃんと相手を見る。


 それだけだ。


 そう思った。


 思ったのだが。


 応接室に入った瞬間、その覚悟は少し揺らいだ。


 場所は我が家の応接室。


 俺の隣には父上ことアスフ・シェルザート伯爵が座り、テーブルを挟んだ反対側のソファには二人の人物が座っていた。


 一人は金の髪を短く切り揃えた、筋肉もりもりの男性。


 まるで軍馬を素手で止められそうな体格。


 肩幅が広い。


 腕が太い。


 首も太い。


 存在感が強すぎる。


 この方こそ、フルーラ公爵家当主にして王国騎士団長、ガロウ・フルーラ公爵様である。


 怖い。


 まず感想がそれだった。


 そして、その隣に座っている令嬢。


 彼女を見た瞬間、俺は一瞬だけ息を忘れた。


 光を集めたような金の髪。


 長く美しい髪は後ろに流され、青いリボンで柔らかくまとめられている。


 碧色の瞳は澄んだ湖面のようで、見る者の心を静かに映し返すようだった。


 陶磁器のように白い肌。


 淡い青のドレスは派手すぎず、それでいて彼女の気品を引き立てている。


 背筋を伸ばし、膝にそっと手を重ねて座る姿は、まさに公爵令嬢。


 完璧。


 優雅。


 上品。


 そして。


 え?


 めちゃくちゃかわいいんですけど?


 前に見た時は、言い方は悪いが、十歳なのに化粧を厚塗りして、全体的に派手というか、少し近寄りがたい印象だった。


 だが、今の彼女は違う。


 清楚で、柔らかくて、でもどこか眩しい。


 笑顔を向けられた瞬間、胸の奥が変な音を立てた。


 いや待て。


 落ち着け俺。


 顔合わせだ。


 婚約が決まったわけではない。


 まだ決まるかもしれない段階だ。


 いや、本人希望ならだいぶ決まりそうだけど。


 落ち着け。


 俺がそんなことを考えていると、隣で父上が口を開いた。


「フルーラ公爵閣下、本日は当家にお越しくださりありがとうございます」


「アスフ、堅苦しいのやめろ。気持ち悪い」


 初手それ?


 公爵様?


 初手で伯爵に気持ち悪い?


 いや、二人は友人らしいからいいのか?


 いいのか?


 貴族社会的にはたぶん駄目では?


 父上は苦笑した。


「ガロウ、気持ち悪いとはなんだ。これが普通の対応だよ」


「いいからやめろ。鳥肌が立つ」


「失礼な」


「お前に改まられると、何か企んでいるようにしか見えん」


「友人への信頼が低いな」


「学生時代を忘れたとは言わせんぞ」


「……若気の至りだ」


 何をしたんだ父上。


 気になる。


 ものすごく気になる。


 だが聞いてはいけない気がする。


 俺の知らない父上がこれ以上増えると困る。


 父上はアマリリス嬢に視線を向けた。


「アマリリス嬢、貴女もそれでよろしいですか?」


「はい、シェルザート伯爵様。私も、その方が嬉しいです」


 声まで綺麗だった。


 鈴の音のように澄んでいる。


 しかも受け答えが完璧。


 公爵令嬢ってすごい。


「わかりました。アルフレッド、お前もいいね?」


「承知いたしました、父上」


「宜しい」


 父上は満足そうに頷き、それからガロウ公爵へ視線を戻した。


「しかしガロウ、アマリリス嬢は美人だね。君が自慢するのも分かるよ」


「そうだろう、そうだろう」


 ガロウ公爵の顔が一瞬で緩んだ。


 怖い騎士団長の顔が、娘を褒められた父親の顔になった。


 熊が蜂蜜を見つけたみたいな顔だ。


 いや、熊に失礼かもしれない。


 見た目が熊みたいな人がデレデレしながら頷くのは、なかなか迫力がある。


 迫力の方向性がおかしい。


「うちのリリスは世界一だからな」


「お父様」


 アマリリス嬢が少し頬を赤らめ、困ったように父親を見た。


 その仕草も上品だった。


 完璧である。


「でもいいのかい? こんなにかわいい御息女をうちのに貰って」


 父上が軽く言った。


 その瞬間。


 部屋の空気が変わった。


 さっきまで穏やかだった応接室が、一気に冬山になった気がした。


 いや、本当に寒くなってない?


 俺は思わず背筋を伸ばした。


 ガロウ公爵の笑顔が消えていた。


 ただ無言で、俺を見ている。


 見ているというより、睨んでいる。


 親の敵を見る目だ。


 俺、まだ何もしてませんけど!?


 婚約話も今知った側なんですけど!?


 むしろ俺も被害者寄りなんですけど!?


「…………」


「…………」


 沈黙が落ちた。


 重い。


 殺気って本当に空気に重さが出るんだな。


 勉強になった。


 知りたくなかった。


「……お父様?」


 アマリリス嬢が小さく声をかけた。


 その瞬間、ガロウ公爵の目元がぴくりと動いた。


「……仕方あるまい」


 低い声。


 地鳴りみたいだった。


「私のかわいいリリスの願いだ」


 言葉は諦めている。


 だが目は諦めていない。


 俺を見ている。


 まだ見ている。


 アマリリス嬢?


 その視線も止めてくれませんか?


 俺、今、心の中で正座してます。


「ふふ、騎士団長も娘には勝てないか」


「うるさい!」


 父上が笑い、ガロウ公爵が怒鳴る。


 応接室の空気が少しだけ緩んだ。


 俺もようやく息を吐く。


 危なかった。


 何が危なかったかは分からないが、とにかく危なかった。


「さて」


 父上が手を叩いた。


「おじさん同士はこれから色々と話すことがある。君たち若者は若者同士で楽しみなさい」


 嫌な言い方だな。


 若者同士で楽しみなさいってなんだ。


 顔合わせでそんな軽い感じある?


「アルフレッド、アマリリス嬢に屋敷を案内して差し上げて」


「わかりました」


 俺は立ち上がり、アマリリス嬢へ向き直った。


「アマリリス嬢、よろしいでしょうか?」


「はい。アルフレッド様、よろしくお願いいたします」


 彼女は優雅に立ち上がり、軽く礼をした。


 完璧だ。


 俺も礼を返す。


 そして俺たちは応接室を出た。


 背中にガロウ公爵の視線が刺さっていた。


 痛い。


 物理的に痛い気がする。


 廊下に出ると、応接室より少し空気が軽かった。


 外から差し込む陽の光が白い壁を照らし、窓辺に置かれた花が淡く揺れている。


 俺はアマリリス嬢を連れて、屋敷の奥にある温室へ向かうことにした。


 我が家の温室では、シェルザート家が誇る青い薔薇、通称ブルーローズを育てている。


 貴族の来客にはよく見せる場所だ。


 なぜそこへ向かうのか。


 もちろん自慢の花を見せるためである。


 ……というのは建前で、ぶっちゃけ何を話せばいいか分からなかったからだ。


 花でも見てもらおう。


 花は偉大だ。


 沈黙を埋めてくれる。


 しかも温室にはあらかじめお茶の準備もしてある。


 今日の顔合わせに備えて、父上が手配していたらしい。


 父上、こういうところは本当に抜かりない。


 変な演劇さえしなければ尊敬できる。


 いや、尊敬はしている。


 しているが、昨日のあれは忘れられない。


 廊下を歩く間、俺の後ろには専属の執事兼従者であるライズが控えていた。


 年は俺より五つ上。


 茶色の髪を短く整え、いつも落ち着いた顔をしている。


 剣も使え、礼儀作法も完璧で、俺が最も信頼している従者だ。


 ただし、時々俺を面白がる。


 今日は頼むぞ。


 本当に頼むぞ。


 アマリリス嬢の後ろには、彼女の侍女が一人控えていた。


 銀髪の落ち着いた女性で、表情は柔らかいが、目だけは鋭い。


 おそらく優秀な侍女なのだろう。


 公爵令嬢が移動するのだから当然だ。


 いくら婚約者候補になったからといって、二人きりで過ごすわけにはいかない。


 貴族の礼儀としても、噂の管理としても、従者や侍女の同席は必要だ。


 温室へ着くと、扉を開いた瞬間に湿った温かな空気が頬を撫でた。


 外とは違う、花と土と水の匂い。


 天井の硝子越しに陽光が降り注ぎ、温室内を淡く照らしている。


 緑の葉が重なり合い、その奥で青い薔薇が静かに咲いていた。


 深い青。


 ただ鮮やかなだけではない。


 夜明け前の空のような、少しだけ紫を含んだ落ち着いた色。


 花弁の先に光が乗り、見る角度によって表情を変える。


「わぁ……」


 アマリリス嬢が、小さく息を漏らした。


 その声が、妙に素直で可愛らしかった。


 先ほどまでの完璧な公爵令嬢とは少し違う。


 ほんの少しだけ、感情がこぼれたような声。


 俺は胸の奥がくすぐったくなった。


 用意されていたテーブルに案内し、椅子を引く。


 アマリリス嬢が座り、俺も向かいに腰かけた。


 ライズは手早くお茶の準備を終えると、アマリリス嬢の侍女と共に少し離れた場所へ下がった。


 近すぎず、遠すぎず。


 声をかければ届く距離。


 だが会話の邪魔にはならない距離。


 さすがである。


「アマリリス嬢、あそこに見えるのが我が家が誇る青い薔薇、ブルーローズです」


「あれがそうなのですね。とても落ち着きのある色で……心が安らぎますわ」


 アマリリス嬢は薔薇を見つめながら、柔らかく微笑んだ。


 その横顔に、俺はまた見惚れた。


 ブルーローズを背景にした彼女は、とても幻想的だった。


 太陽の光を反射してきらきらと輝く金色の髪。


 透き通るような白い肌。


 そしてブルーローズとはまた違う、晴れた空を思わせる碧色の瞳。


 ここに住む妖精です、と言われたら納得してしまいそうだった。


 いや、納得する。


 むしろ「でしょうね」と言う。


 俺は完全に言葉を失っていた。


「アルフレッド様?」


「……あっ、すみません」


「どうかされました?」


「い、いえ」


 しまった。


 見すぎた。


 完全に見すぎた。


 失礼だったかもしれない。


 何か言わなければ。


 何か自然な言葉を。


 そう思った俺の口から出た言葉は、あまりにも素直すぎた。


「あまりにも綺麗だったもので」


「……」


「……」


 沈黙。


 しまったああああああ!!


 何を言っているんだ俺は!!


 初対面に近い公爵令嬢へ向かって、いきなり綺麗だったもので?


 軽薄か?


 いや、違う。


 本心だ。


 本心だけど、言い方というものがあるだろ。


 俺は心の中で頭を抱えた。


 アマリリス嬢はうつむいてしまった。


 肩が小さく震えている。


 怒った?


 怒らせた?


 話を聞いていなかった上に、急に変なことを言ったから?


 どうしよう。


 公爵令嬢を泣かせたら俺の人生終わるのでは?


 いや、まだ泣いているとは限らない。


 でも肩が震えている。


 待て。


 ガロウ公爵の顔が脳裏に浮かんだ。


 終わった。


 騎士団長に片手でひょいっとされる。


 ひょいっと。


 俺は恐る恐る声をかけた。


「あ、アマリリス嬢?」


「リリスと」


「はい?」


 小さな声だった。


 だが、確かに聞こえた。


 アマリリス嬢はゆっくり顔を上げた。


 頬が真っ赤だった。


 目元はうるんでいる。


 怒っているようには見えない。


 むしろ、恥ずかしそうに、でも必死に何かを伝えようとしている。


「リリスとお呼びください」


 なにこの子。


 かわいいんですけど!?


 いや待て。


 落ち着け。


 今は冷静に返事をしろ。


 公爵令嬢を愛称で呼ぶということは、かなり距離が近い。


 だが本人が望んでいる。


 ここで断るのは失礼かもしれない。


 いや、そもそも顔が赤い。


 涙目。


 下から見上げる形。


 破壊力が高い。


 高すぎる。


「り、リリス嬢?」


「リリスです」


「え?」


「リリス、です」


 ちょっと強めに言われた。


 でも声が震えている。


 必死だ。


 可愛い。


 いや、可愛いしか出てこない。


 語彙が死んだ。


「リリス」


「はい!」


 俺がそう呼ぶと、彼女はぱっと笑った。


 まるで大輪の花が咲いたような笑顔だった。


 ブルーローズより眩しかった。


 やだ。


 この子、本当にかわいい。


 どうしよう。


 俺は何をどうすればいい?


 とりあえず呼び返してもらうべきか?


 いや、自然な流れだよな?


 うん。


 自然な流れだ。


「じゃ、じゃあ俺のことはアルと呼んでください」


「はい! アル様!」


 そっちは敬称をつけるのかよっ!?


 いや、可愛いけど!


 可愛いけど違う!


「あ、いや、アルでお願いします」


「は、はい」


 リリスは両手を胸の前でぎゅっと握った。


 そして深呼吸をした。


 そんなに気合いが必要?


 俺の名前を呼ぶだけだよ?


 いや、待て。


 頑張っている。


 見守ろう。


 頑張れリリス。


 あと二文字だ。


「あ、あ……」


 頑張れ。


「あ、アル……」


 ズキューン!!


 心臓を撃ち抜かれた。


 なに今の。


 破壊兵器?


 公爵家はこんな兵器を保有しているの?


 王国法に触れない?


「はい、よろしく、リリス」


 俺は内心の動揺を必死に隠しながら返した。


 リリスはまた頬を赤くし、それでも嬉しそうに微笑んだ。


「ふふ。こちらこそ、よろしくお願いします。アル」


 少し離れた場所で、ライズが無言で親指を立てた。


 やめろ。


 何を応援している。


 アマリリス嬢の侍女はハンカチで目元を押さえていた。


 なんで泣いているんですか!?


 まだ顔合わせですよ!?


 結婚式ではありませんよ!?


 俺はツッコミたかったが、さすがに声には出せなかった。


 リリスが不思議そうに首を傾げる。


「アル?」


「いえ、なんでもありません」


「そうですか?」


「はい」


 危ない。


 後ろの二人に気を取られてはいけない。


 目の前に集中しろ。


 リリスはカップに手を伸ばし、紅茶をひと口飲んだ。


 その動作はやはり優雅だった。


 指先の動きまで綺麗で、育ちの良さがにじんでいる。


 だが、先ほどの「リリスです」と頬を赤くして訴えた姿を見た後では、その完璧さの裏に少し違う顔があるのだと分かってしまう。


 それが、妙に嬉しかった。


「ブルーローズは、とても綺麗ですね」


「ありがとうございます。我が家の庭師たちが大切に育てています」


「アルも、お花はお好きなのですか?」


「見るのは好きです。ただ、育てる方はあまり得意ではありませんね」


「そうなのですか?」


「昔、母上に頼まれて花壇の世話をしたことがあるのですが、水をやりすぎて怒られました」


「まあ」


「花は水をあげれば喜ぶと思っていたんです」


「ふふ」


 リリスが笑った。


 小さく、柔らかく。


 その笑い方はとても自然だった。


 俺は少し安心した。


 会話が続いている。


 変な空気にはなっていない。


 むしろ、思ったより話しやすい。


 完璧な公爵令嬢という印象が強かったが、実際に話してみると、彼女は丁寧で、素直で、よく笑う。


 しかも、時々少しだけ反応が幼い。


 それがまた可愛い。


「リリスは花が好きなのですか?」


「はい。特に、優しい色のお花が好きです」


「では、青い薔薇は少し珍しいかもしれませんね」


「はい。ですが……」


 リリスはブルーローズへ視線を向けた。


「この薔薇は、とても静かで、優しいです」


「静かで優しい?」


「はい。青い色なのに、冷たくないのです。見ていると、胸の中が落ち着きます」


 詩的な表現だった。


 だが不思議と、すっと耳に入ってくる。


 リリスは見たものを丁寧に感じ取る人なのかもしれない。


 俺は彼女の横顔を見ながら、自然と頷いた。


「そう言っていただけると、我が家の薔薇も喜びます」


「薔薇も喜ぶのですか?」


「たぶん」


「まあ」


 リリスは目を丸くした。


 冗談だったのだが、ものすごく真剣に受け止められた気がする。


「では、褒めてあげた方がいいでしょうか?」


「え?」


 リリスは椅子から立ち上がりかけた。


「薔薇に」


「待ってください」


「はい?」


「今のは、たぶん、ものの例えです」


「まあ」


 リリスは少しだけ恥ずかしそうに座り直した。


 天然だ。


 この子、天然だ。


 外面は完璧なのに、中身が少しふわふわしている。


 可愛い。


 だが危ない。


 放っておくと本当に薔薇を褒めに行きそうだった。


「……笑いましたか?」


「いえ」


「今、少し笑いました」


「気のせいです」


「アル」


「少しだけです」


「もう」


 リリスは頬を膨らませた。


 公爵令嬢が頬を膨らませた。


 いいのか。


 そんな顔を俺に見せていいのか。


 可愛い。


 やばい。


 俺の中の冷静な貴族子息がどんどん壊れていく。


「すみません。でも、可愛らしいなと思って」


「……っ」


 また沈黙。


 しまった。


 二度目だ。


 なぜ俺は学ばない。


 リリスはまた顔を赤くした。


 今度は両手でカップを持ったまま、視線を下げている。


 肩が小さく震えている。


 まずい。


 今度こそ怒ったか?


「リリス?」


「……アルは」


「はい」


「そういうことを、誰にでも仰るのですか?」


「いえ?」


「本当ですか?」


「本当です」


「他のご令嬢にも?」


「言いません」


「本当に?」


「本当に」


「絶対に?」


「絶対に」


 なぜ尋問みたいになっている?


 リリスはじっと俺を見つめていた。


 碧色の瞳が潤んでいる。


 少し不安そうで、少し必死で。


 俺はその表情を見て、胸がきゅっとした。


 もしかして彼女は、自信がないのだろうか。


 これほど綺麗で、公爵令嬢として完璧に見えるのに。


「リリス」


「はい」


「俺は、思っていないことは言いません」


「……はい」


「だから、先ほど綺麗だと言ったのも、今可愛らしいと言ったのも、本心です」


「……」


「もちろん、軽々しく言ったつもりもありません」


 俺がそう言うと、リリスは目を潤ませたまま、ゆっくり頷いた。


「……嬉しいです」


 小さな声だった。


 消え入りそうな声。


 だが、確かに届いた。


 その瞬間、俺の胸の中に温かいものが広がった。


 笑わせたい。


 安心させたい。


 そんな気持ちが自然に湧いてきた。


 俺は少しだけ冗談めかして言った。


「ただ、あまり言いすぎると、ガロウ公爵に斬られそうなので気をつけます」


「お父様は斬りません」


「本当ですか?」


「たぶん」


「たぶん!?」


 リリスはくすっと笑った。


 俺もつられて笑う。


 温室の空気が、ゆっくりと柔らかくなっていく。


 青い薔薇の香り。


 硝子越しの陽光。


 紅茶の湯気。


 リリスの笑い声。


 昨日から混乱続きだった俺の心が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。


 そして俺たちは、それからしばらく他愛ない話をした。


 好きな本の話。


 学園に入ったら何を学びたいか。


 剣術は得意か。


 社交の場は疲れるか。


 リリスは公爵令嬢らしく多くのことを学んでいるようだったが、話していると時々妙な方向へずれる。


「ダンスは得意ですか?」


「はい。先生には褒めていただけます」


「それはすごいですね」


「ですが、緊張すると右足と右手が同時に出ます」


「行進ですか?」


「ですから、お父様がよく踏まれます」


「公爵様が?」


「はい。とても悲しそうな顔をされます」


「でしょうね」


 そりゃ騎士団長も悲しむ。


 娘に足を踏まれるのはむしろご褒美かもしれないが、ダンス中なら複雑だろう。


「アルはダンスがお得意ですか?」


「普通です。少なくとも、右足と右手は同時に出ません」


「すごいです」


「褒める基準が低くありませんか?」


「では、今度教えてください」


「俺でよければ」


「はい。アルがいいです」


 ズキューン!!


 本日二度目。


 心臓が持たない。


 この子、無自覚にこういうことを言うタイプだ。


 危険だ。


 非常に危険だ。


 俺が内心で倒れていると、ライズがまた無言で親指を立てた。


 だからやめろ。


 見えてるんだよ。


 リリスの侍女は今度は両手を合わせていた。


 祈るな。


 何を祈っている。


 俺は喉を鳴らして紅茶を飲んだ。


 少し冷めていた。


 それでも美味しかった。


 どれくらい話しただろう。


 最初の緊張はかなり薄れていた。


 リリスも、最初より表情が柔らかい。


 時々照れ、時々笑い、時々不思議なことを言う。


 俺はそのたびに心の中でツッコミを入れ、時々声にも出した。


 気づけば、彼女と話す時間が楽しいと思っていた。


 婚約者候補。


 公爵令嬢。


 王家との縁談を断ってまで俺を選んだらしい少女。


 昨日はただ混乱しかなかった。


 だが今は、少しだけ違う。


 この子のことを、もっと知りたい。


 そう思った。


「アル」


「はい」


「今日は、お会いできて嬉しかったです」


 リリスはまっすぐ俺を見た。


 その瞳には、誤魔化しのない気持ちがあった。


「私、ずっと……」


 そこで彼女は言葉を止めた。


 頬が赤くなる。


 視線が揺れる。


 何かを言おうとして、言えない。


 俺は急かさず待った。


 温室の中に、静かな時間が流れた。


 葉が微かに揺れる音。


 遠くで水が落ちる音。


 硝子に当たる風の音。


 やがてリリスは、小さく息を吸った。


「ずっと、アルにお会いしたかったのです」


「俺に?」


「はい」


「……どこかで、俺は何かしましたか?」


 どうしても気になっていたことを尋ねる。


 彼女が俺を望んだ理由。


 それが分からないままだった。


 リリスは少し考え、それからふわりと微笑んだ。


「それは、また今度お話しします」


「今度?」


「はい。今日は、まだ恥ずかしいので」


 そう言って、彼女は目を伏せた。


 ずるい。


 そんな言い方をされたら、それ以上聞けない。


「わかりました。では、今度聞かせてください」


「はい」


 リリスは嬉しそうに頷いた。


 その時だった。


 温室の入口付近から、ぎしり、と妙な音がした。


 俺は振り返った。


 ガロウ公爵が立っていた。


「ひっ」


 情けない声が出た。


 いつからいた!?


 どこから見ていた!?


 そしてなぜそんなに無言!?


 後ろには父上もいた。


 父上はにやにやしている。


 やめろ。


 その顔やめろ。


 ガロウ公爵はじっと俺を見ていた。


 そして低い声で言った。


「……リリス」


「はい、お父様」


「そろそろ帰るぞ」


「まだ帰りません」


「……」


 騎士団長が固まった。


 王国最強格の男が、娘の一言で固まった。


 リリスはきっぱりと言った。


「まだアルとお話ししています」


「……リリス」


「お父様」


「……」


「……」


 父娘の無言の攻防が始まった。


 怖い。


 いや、主にガロウ公爵が怖い。


 だがリリスも一歩も引かない。


 さすが公爵令嬢。


 いや、そこは引いてもいいのでは?


 最終的に、ガロウ公爵が折れた。


「……あと少しだけだ」


「ありがとうございます、お父様」


 リリスはにっこり笑った。


 ガロウ公爵の顔が緩みかけた。


 だが、すぐに俺を見た。


 また怖い顔になった。


 切り替えが早い。


「アルフレッド」


「はい!」


「娘を泣かせたら、分かっているな?」


 分かりません。


 分かりたくありません。


 でも何となく分かります。


「誠心誠意、大切にいたします」


 俺は反射的に答えた。


 ガロウ公爵はしばらく俺を見つめ、それからふん、と鼻を鳴らした。


「ならいい」


 いいのか。


 今のでいいのか。


 横で父上が満足そうに頷いている。


「よかったな、アルフレッド」


「何がですか」


「認められたぞ」


「今の認められたんですか!?」


「斬られていないからな」


「基準が物騒!」


 リリスがくすくす笑った。


 その笑顔を見た瞬間、まあいいか、と思ってしまった。


 よくない。


 よくないはずだ。


 だが、彼女が笑っているなら悪くない。


 俺はそんな自分の思考に少し驚いた。


 その後、俺たちはもう少しだけ温室で話をした。


 ガロウ公爵は入口付近で腕を組んで立っていた。


 圧がすごかった。


 父上は隣で楽しそうにしていた。


 ライズは相変わらず親指を立てていた。


 侍女はずっと微笑んでいた。


 なんだこの空間。


 婚約者との初顔合わせって、もっと優雅なものではなかったのか?


 俺の知っている貴族の常識が、今日一日で何度も壊されていく。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、少し楽しかった。


 そして夕方。


 フルーラ公爵家の馬車が屋敷の前に用意され、リリスは帰ることになった。


 玄関ホールで別れの挨拶を交わす。


 リリスは俺の前に立ち、両手を前で重ねた。


「アル」


「はい」


「今日は、本当にありがとうございました」


「こちらこそ、楽しかったです」


「私もです」


 リリスは少しだけ視線を下げ、それから小さく言った。


「また、お会いできますか?」


「もちろんです」


 俺が答えると、彼女は嬉しそうに笑った。


 そして一歩近づき、小さな声で囁いた。


「約束です」


「はい、約束です」


 その瞬間。


 背後から、とんでもない圧を感じた。


 ガロウ公爵だ。


 見ている。


 めちゃくちゃ見ている。


 俺は背筋を伸ばした。


 リリスはそんな父親の視線など気にしていないように、ふわりと微笑んだ。


「では、また。アル」


「はい。また、リリス」


 彼女は馬車に乗り込んだ。


 扉が閉まる直前、もう一度こちらを見て小さく手を振る。


 俺も軽く手を振り返した。


 馬車が動き出す。


 車輪の音が少しずつ遠ざかっていく。


 俺はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。


 胸の中に、温かくて、少しくすぐったいものが残っている。


 昨日まで知らなかった感情。


 今日、突然やってきた婚約話。


 最初は混乱しかなかった。


 だが今は。


「……可愛かったな」


 ぽつりと呟いてしまった。


 その瞬間、隣にいた父上がにやりと笑った。


「ほう?」


「……父上」


「可愛かったか」


「聞かなかったことにしてください」


「無理だな」


「ですよね」


 父上は愉快そうに笑った。


 その後ろでリーマスが静かに頷いている。


 ライズも頷いている。


 やめろ。


 全員で頷くな。


「アルフレッド」


 父上が言った。


「何ですか」


「明日から忙しくなるぞ」


「でしょうね」


「婚約に向けた話し合い、王家への説明、社交界への対応、学園入学の準備……そして、ガロウの威圧に耐える精神力の鍛錬」


「最後だけおかしい」


「大事だ」


「否定できないのが嫌です」


 俺は深く息を吐いた。


 夕焼けが玄関ホールの床を赤く染めている。


 俺の日常は、たぶん今日で大きく変わった。


 公爵令嬢アマリリス・フルーラ。


 完璧で、上品で、美しくて。


 けれど実は少し天然で、照れ屋で、愛称で呼ばれるだけで涙目になる可愛らしい少女。


 彼女がなぜ俺を選んだのかは、まだ分からない。


 けれど。


 また会いたい。


 そう思ったのは、間違いなく本心だった。


 そして俺は、まだ知らなかった。


 この出会いが、俺の平穏な伯爵子息生活を大きく揺るがすことになるなんて。


 いや。


 正確に言おう。


 平穏は今日死んだ。


 犯人は、金髪碧眼の公爵令嬢。


 そして共犯者は、父上とリーマスと、なぜか親指を立てるライズである。


 俺は夕焼けの中、心の底から思った。


 ……明日から、ツッコミが追いつく気がしない。

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