第1話 伯爵子息、婚約者が決まるらしい
皆さん、はじめまして!!
俺はアルフレッド・シェルザート。
シェルザート伯爵家の長男であり、今年で十五歳になる、どこにでもいるごく普通の伯爵子息である。
……いや、普通の伯爵子息ってなんだ?
自分で言っておいてなんだが、貴族の時点で一般的には普通じゃない気もする。
だが、そこはまあ置いておこう。
俺は剣術も勉学もそこそこ頑張り、父上からは「真面目だな」と言われ、母上からは「もう少し肩の力を抜きなさい」と言われ、屋敷の使用人たちからは「若様は比較的まともで助かります」と言われて育ってきた。
比較的ってなんだ。
誰と比べている。
いや、たぶん父上だな。
それなら仕方ない。
我が父、アスフ・シェルザート伯爵は、外面だけなら立派な貴族である。
黒髪を後ろに流し、背筋を伸ばして椅子に座れば、威厳ある伯爵に見えなくもない。
実際、領地経営の手腕も確かで、国からの信頼も厚い。
民への目配りも忘れず、困った者を見捨てない。俺が正義感だけは強く育ったのも、間違いなく父上の影響だ。
ただし。
ただしである。
この人、たまにものすごく変なのだ。
いや、たまにではないかもしれない。
そこそこの頻度で変だ。
そして今。
俺は、その変な父上と向かい合っていた。
場所はシェルザート伯爵家本邸の執務室。
午後の日差しが窓から斜めに入り、磨き上げられた床板を淡く照らしている。
壁には先祖代々の肖像画が並び、重厚な本棚には領地資料や法典、古い歴史書が整然と収められていた。
空気は静かだ。
机の上には湯気の立つ紅茶。
父上は椅子に深く腰かけ、いつになく真剣な顔をしている。
俺もその向かいに座り、背筋を伸ばしていた。
そう。
ここまでは、どこからどう見ても真面目な親子の会話である。
だが。
「お前の婚約者が決ま……ることになるかもしれん」
はい?
今なんと?
俺は一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。
婚約者?
誰の?
俺の?
なぜ?
いつ?
どこで?
誰が?
俺を?
待ってくれ。
情報量が多い。
いや、父上の言葉自体は短かった。
短かったはずなのに、脳内で勝手に疑問が増殖している。
俺は何度か瞬きをしてから、慎重に問い返した。
「父上、今なんといいました?」
父上は少し間を置いた。
その間が嫌だった。
できれば「冗談だ」と笑ってほしかった。
あるいは「すまん、今のは隣家の犬の話だ」とかでもよかった。
婚約者が決まる犬ってなんだよ。
自分で考えておいて意味が分からない。
だが父上は、ひどく落ち着いた声で続けた。
「お前の婚約者が決まることになるかもしれん、と言った」
「はい? 婚約者ですか?」
「うむ」
「俺の?」
「お前の」
「誰の?」
「お前の」
「本当に?」
「本当に」
「……父上のではなく?」
「私にはお前の母がいる」
「ですよね」
どうしよう。
逃げ道がない。
俺はそっと紅茶に手を伸ばした。
ひと口飲む。
少し熱い。
だが、今の俺にはちょうどよかった。
熱さで現実感が戻る。
いや、戻らなくてよかった。
できればこのまま現実逃避したかった。
「お相手は?」
俺がそう尋ねると、父上は妙に重々しい顔になった。
なんだその顔。
怖い。
まさかどこかの武闘派侯爵家の一人娘とか?
いや、それならまだ分かる。
伯爵家と侯爵家の縁談なら、ない話ではない。
もちろん俺には早い気もするが、貴族社会では珍しくない。
落ち着け。
冷静になれ、アルフレッド。
父上は静かに口を開いた。
「フルーラ公爵令嬢、アマリリス・フルーラ嬢だ」
「は?」
思わず声が出た。
淑やかな貴族子息としてはあるまじき反応だった。
だが許してほしい。
フルーラ公爵家である。
このアプル王国に四つしか存在しない公爵家の一つ。
王家に次ぐ名門。
その令嬢。
しかもアマリリス・フルーラ嬢といえば、確か俺と同い年の十五歳。
王都でも有名な美貌の令嬢であり、幼い頃から王子妃候補として名前が挙がっていたはずだ。
普通に考えれば、第一王子の婚約者になるような方である。
それが。
俺?
伯爵家の長男?
いやいやいやいや。
意味が分からん。
王子はどうした。
侯爵家の嫡男たちはどうした。
公爵家同士の縁談はどこに行った。
なぜ急に俺のところへ飛んできた。
恋愛市場でいえば、金貨の山がなぜか銅貨の財布に突っ込まれたようなものである。
いや、例えが悪い。
だが俺の混乱は伝わってほしい。
「冗談ですよね?」
「冗談ではない」
「ですよね、父上がそんな大きな冗談を真顔で言うはずが……いや、ありますね」
「どういう意味だ」
「いえ、こちらの話です」
父上は少し目を細めた。
俺は視線を逸らした。
危ない。
余計なことを言うところだった。
いや、もう言ったかもしれない。
「なぜ俺と?」
結局、そこに戻る。
俺にはアマリリス嬢との深い交流などない。
以前、王子の婚約者候補と側近候補を決めるためのお茶会で、遠くから見たことはある。
ただそれだけだ。
挨拶もしていない。
会話もしていない。
目が合ったかどうかすら怪しい。
その時の印象は、正直に言えば、かなり派手な令嬢だった。
当時十歳くらいだったはずだが、化粧が濃く、ドレスも宝石も豪華で、俺は遠目に「公爵家ってすごいな」と思った記憶がある。
だが、それだけだ。
それだけなのに、なぜ婚約?
俺が首を傾げていると、父上は紅茶を置き、ゆっくりと頷いた。
「私も詳しくは知らないんだが、どうも御息女本人からの希望らしい」
「本人から?」
「うむ」
「アマリリス嬢が?」
「そうだ」
「俺を?」
「そうだ」
「……人違いでは?」
「私も一度そう思った」
「父上」
「だが、名前も家名も一致している」
「逃げ道が潰された」
俺は額に手を当てた。
本人からの希望?
なぜ?
俺は彼女に何をした?
助けた覚えもない。
落とし物を拾った覚えもない。
美しい詩を贈った覚えもない。
むしろ社交の場ではできるだけ目立たないようにしていた。
俺は基本的に面倒事が苦手なのだ。
困っている人は放っておけないが、自分から貴族社会の中心に突っ込む趣味はない。
公爵令嬢との婚約など、完全に中心である。
中心どころか渦の中だ。
飲み込まれる。
「実はな」
父上が言った。
「私とフルーラ公爵は学生の頃から親交があってな」
「初耳です」
「言っていなかったか?」
「聞いた記憶がありません」
「そうか。まあ、ガロウとは昔からの友人だ」
ガロウ。
フルーラ公爵、ガロウ・フルーラ。
現騎士団長。
金髪に鋭い眼光、熊のような体格を持つ王国最強格の騎士。
民からの信頼も厚く、戦場では鬼神のごとき働きを見せるという。
そんな人と父上が友人?
いや、父上も若い頃は剣が強かったと聞くが、それでも意外だ。
「そのガロウから話を聞いたんだが……」
父上はそこで、なぜかコホンと咳払いをした。
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
父上は椅子からゆっくり立ち上がった。
「父上?」
「リーマス」
「はい」
部屋の隅に控えていた家令、リーマスが一歩前に出た。
銀髪をきっちり撫でつけ、背筋を伸ばした老紳士である。
普段は完璧な家令。
屋敷の管理も、使用人の教育も、来客対応も隙がない。
だが、父上と組むとたまにおかしくなる。
いや、今まさにその気配がある。
「第二幕だ」
「承知いたしました」
「何を承知した!?」
俺のツッコミは誰にも届かなかった。
父上は胸の前で両手を握り、妙に身体をくねらせた。
やめろ。
その動きはやめろ。
威厳ある伯爵の姿が音を立てて崩れていく。
そして父上は、甲高い声を出した。
「お父様、私、シェルザート伯爵家のアルフレッド様と婚約します!!」
沈黙。
俺は言葉を失った。
何を見せられているんだ、俺は。
父上?
父上ですよね?
俺の父親ですよね?
なぜ十五歳の公爵令嬢を演じているのですか?
しかも無駄に身体の動きが細かい。
練習したのか?
したんだな?
後ろでリーマスが一歩前に出た。
そして低く太い声で叫ぶ。
「アマリリス!? 何を言っているんだ、いきなり!?」
始まった。
本当に始まった。
どうやら父上とリーマスは、フルーラ公爵家で行われたやり取りを再現しているらしい。
なぜ?
普通に説明すればいいだろ。
なぜ演劇形式?
しかも、妙に息が合っている。
リーマスの驚き方も上手い。
いや、上手くなくていい。
「だから、アルフレッド様と婚約したいの!!」
父上がまた甲高い声を出す。
やめてくれ。
声が高い。
動きがきつい。
父親のそういう姿は見たくなかった。
十五年生きてきて、今日一番の衝撃が婚約話ではなく父上の女声なのはおかしいだろ。
「お前にはまだ婚約など早い! それに王家から第一王子との縁談も来ている!」
リーマスが床を踏み鳴らす。
迫真である。
「嫌です!! 私はアルフレッド様と婚約します!! 駄目なら、お父様なんて大っ嫌い!!」
「アマリリス……!」
リーマスが床に膝をついた。
項垂れた。
手を伸ばした。
完璧に娘に嫌われた父親だった。
いや、家令だよね?
あなた家令だよね?
なぜそんなに感情を込める?
父上はくるりとこちらを向いた。
満面の笑みだった。
「とまあ、こんなやり取りがあったらしい」
「はぁ」
俺はとりあえず曖昧に返した。
それ以外にできることがなかった。
父上の演技が気持ち悪すぎて、婚約話の衝撃が少し薄れた。
もしかしてそれが狙いか?
いや、違うな。
この人たちは絶対楽しんでいる。
「父上」
「なんだ?」
「詳しく知らないと言いませんでした?」
「うむ」
「めちゃくちゃ詳しいじゃないですか」
「ガロウが泣きながら語った」
「泣いたんですか、騎士団長」
「泣いた」
「国、大丈夫ですか?」
「娘の話になると駄目だな、あいつは」
父上はしみじみと頷いた。
それはたぶん人のことを言えない。
今、父上もだいぶ駄目だった。
リーマスが静かに立ち上がり、服の乱れを整えた。
そして何事もなかったかのように父上の後ろへ戻る。
満足そうな顔をしている。
やっぱり練習しただろ。
「というわけで」
父上は何事もなかったように椅子へ戻った。
戻るな。
さっきの姿をなかったことにするな。
「明日、アマリリス嬢とお前の顔合わせを行うことになった。場所は我が家だ。準備をしておくように」
「明日!?」
「うむ」
「急すぎませんか!?」
「貴族の縁談など、決まる時は早い」
「心の準備が追いつきません」
「頑張れ」
「軽い!」
父上は紅茶を飲んだ。
完全に話は終わったという顔だった。
俺は椅子に座ったまま、しばらく天井を見上げた。
婚約者。
公爵令嬢。
本人からの希望。
明日顔合わせ。
父上の甲高い声。
リーマスの迫真の演技。
情報が多い。
多すぎる。
俺の人生は今日、何かがおかしくなった。
いや、もともと我が家は少しおかしかったのかもしれない。
ただ、俺が見ないふりをしていただけで。
翌日。
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
はい、というわけで本日は、私アルフレッドとアマリリス・フルーラ公爵令嬢との顔合わせの日となりました!!
……いや、テンションを上げないとやっていられない。
朝から屋敷の空気は妙にそわそわしていた。
使用人たちはいつも以上に動きが速く、廊下の花瓶はすべて新しい花に替えられ、玄関ホールの床は鏡のように磨かれていた。
料理長は厨房で「公爵家だぞ! 塩一粒にも魂を込めろ!」と叫んでいたらしい。
塩に魂を込めるな。
いや、美味しくなるならいいけど。
母上は朝から俺の服装を確認し、襟元を直し、髪を整え、最後ににっこり笑った。
「アル、失礼のないようにね」
「はい、母上」
「でも、緊張しすぎないように」
「はい」
「相手は公爵令嬢だけれど、女の子でもあるのだから」
「……はい」
母上の言葉は穏やかだった。
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
そうだ。
相手は公爵令嬢である前に、一人の令嬢なのだ。
俺が必要以上に身構えれば、相手にも失礼になる。
ちゃんと挨拶をして、ちゃんと話をして、ちゃんと相手を見る。
それだけだ。
そう思った。
思ったのだが。
応接室に入った瞬間、その覚悟は少し揺らいだ。
場所は我が家の応接室。
俺の隣には父上ことアスフ・シェルザート伯爵が座り、テーブルを挟んだ反対側のソファには二人の人物が座っていた。
一人は金の髪を短く切り揃えた、筋肉もりもりの男性。
まるで軍馬を素手で止められそうな体格。
肩幅が広い。
腕が太い。
首も太い。
存在感が強すぎる。
この方こそ、フルーラ公爵家当主にして王国騎士団長、ガロウ・フルーラ公爵様である。
怖い。
まず感想がそれだった。
そして、その隣に座っている令嬢。
彼女を見た瞬間、俺は一瞬だけ息を忘れた。
光を集めたような金の髪。
長く美しい髪は後ろに流され、青いリボンで柔らかくまとめられている。
碧色の瞳は澄んだ湖面のようで、見る者の心を静かに映し返すようだった。
陶磁器のように白い肌。
淡い青のドレスは派手すぎず、それでいて彼女の気品を引き立てている。
背筋を伸ばし、膝にそっと手を重ねて座る姿は、まさに公爵令嬢。
完璧。
優雅。
上品。
そして。
え?
めちゃくちゃかわいいんですけど?
前に見た時は、言い方は悪いが、十歳なのに化粧を厚塗りして、全体的に派手というか、少し近寄りがたい印象だった。
だが、今の彼女は違う。
清楚で、柔らかくて、でもどこか眩しい。
笑顔を向けられた瞬間、胸の奥が変な音を立てた。
いや待て。
落ち着け俺。
顔合わせだ。
婚約が決まったわけではない。
まだ決まるかもしれない段階だ。
いや、本人希望ならだいぶ決まりそうだけど。
落ち着け。
俺がそんなことを考えていると、隣で父上が口を開いた。
「フルーラ公爵閣下、本日は当家にお越しくださりありがとうございます」
「アスフ、堅苦しいのやめろ。気持ち悪い」
初手それ?
公爵様?
初手で伯爵に気持ち悪い?
いや、二人は友人らしいからいいのか?
いいのか?
貴族社会的にはたぶん駄目では?
父上は苦笑した。
「ガロウ、気持ち悪いとはなんだ。これが普通の対応だよ」
「いいからやめろ。鳥肌が立つ」
「失礼な」
「お前に改まられると、何か企んでいるようにしか見えん」
「友人への信頼が低いな」
「学生時代を忘れたとは言わせんぞ」
「……若気の至りだ」
何をしたんだ父上。
気になる。
ものすごく気になる。
だが聞いてはいけない気がする。
俺の知らない父上がこれ以上増えると困る。
父上はアマリリス嬢に視線を向けた。
「アマリリス嬢、貴女もそれでよろしいですか?」
「はい、シェルザート伯爵様。私も、その方が嬉しいです」
声まで綺麗だった。
鈴の音のように澄んでいる。
しかも受け答えが完璧。
公爵令嬢ってすごい。
「わかりました。アルフレッド、お前もいいね?」
「承知いたしました、父上」
「宜しい」
父上は満足そうに頷き、それからガロウ公爵へ視線を戻した。
「しかしガロウ、アマリリス嬢は美人だね。君が自慢するのも分かるよ」
「そうだろう、そうだろう」
ガロウ公爵の顔が一瞬で緩んだ。
怖い騎士団長の顔が、娘を褒められた父親の顔になった。
熊が蜂蜜を見つけたみたいな顔だ。
いや、熊に失礼かもしれない。
見た目が熊みたいな人がデレデレしながら頷くのは、なかなか迫力がある。
迫力の方向性がおかしい。
「うちのリリスは世界一だからな」
「お父様」
アマリリス嬢が少し頬を赤らめ、困ったように父親を見た。
その仕草も上品だった。
完璧である。
「でもいいのかい? こんなにかわいい御息女をうちのに貰って」
父上が軽く言った。
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
さっきまで穏やかだった応接室が、一気に冬山になった気がした。
いや、本当に寒くなってない?
俺は思わず背筋を伸ばした。
ガロウ公爵の笑顔が消えていた。
ただ無言で、俺を見ている。
見ているというより、睨んでいる。
親の敵を見る目だ。
俺、まだ何もしてませんけど!?
婚約話も今知った側なんですけど!?
むしろ俺も被害者寄りなんですけど!?
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。
重い。
殺気って本当に空気に重さが出るんだな。
勉強になった。
知りたくなかった。
「……お父様?」
アマリリス嬢が小さく声をかけた。
その瞬間、ガロウ公爵の目元がぴくりと動いた。
「……仕方あるまい」
低い声。
地鳴りみたいだった。
「私のかわいいリリスの願いだ」
言葉は諦めている。
だが目は諦めていない。
俺を見ている。
まだ見ている。
アマリリス嬢?
その視線も止めてくれませんか?
俺、今、心の中で正座してます。
「ふふ、騎士団長も娘には勝てないか」
「うるさい!」
父上が笑い、ガロウ公爵が怒鳴る。
応接室の空気が少しだけ緩んだ。
俺もようやく息を吐く。
危なかった。
何が危なかったかは分からないが、とにかく危なかった。
「さて」
父上が手を叩いた。
「おじさん同士はこれから色々と話すことがある。君たち若者は若者同士で楽しみなさい」
嫌な言い方だな。
若者同士で楽しみなさいってなんだ。
顔合わせでそんな軽い感じある?
「アルフレッド、アマリリス嬢に屋敷を案内して差し上げて」
「わかりました」
俺は立ち上がり、アマリリス嬢へ向き直った。
「アマリリス嬢、よろしいでしょうか?」
「はい。アルフレッド様、よろしくお願いいたします」
彼女は優雅に立ち上がり、軽く礼をした。
完璧だ。
俺も礼を返す。
そして俺たちは応接室を出た。
背中にガロウ公爵の視線が刺さっていた。
痛い。
物理的に痛い気がする。
廊下に出ると、応接室より少し空気が軽かった。
外から差し込む陽の光が白い壁を照らし、窓辺に置かれた花が淡く揺れている。
俺はアマリリス嬢を連れて、屋敷の奥にある温室へ向かうことにした。
我が家の温室では、シェルザート家が誇る青い薔薇、通称ブルーローズを育てている。
貴族の来客にはよく見せる場所だ。
なぜそこへ向かうのか。
もちろん自慢の花を見せるためである。
……というのは建前で、ぶっちゃけ何を話せばいいか分からなかったからだ。
花でも見てもらおう。
花は偉大だ。
沈黙を埋めてくれる。
しかも温室にはあらかじめお茶の準備もしてある。
今日の顔合わせに備えて、父上が手配していたらしい。
父上、こういうところは本当に抜かりない。
変な演劇さえしなければ尊敬できる。
いや、尊敬はしている。
しているが、昨日のあれは忘れられない。
廊下を歩く間、俺の後ろには専属の執事兼従者であるライズが控えていた。
年は俺より五つ上。
茶色の髪を短く整え、いつも落ち着いた顔をしている。
剣も使え、礼儀作法も完璧で、俺が最も信頼している従者だ。
ただし、時々俺を面白がる。
今日は頼むぞ。
本当に頼むぞ。
アマリリス嬢の後ろには、彼女の侍女が一人控えていた。
銀髪の落ち着いた女性で、表情は柔らかいが、目だけは鋭い。
おそらく優秀な侍女なのだろう。
公爵令嬢が移動するのだから当然だ。
いくら婚約者候補になったからといって、二人きりで過ごすわけにはいかない。
貴族の礼儀としても、噂の管理としても、従者や侍女の同席は必要だ。
温室へ着くと、扉を開いた瞬間に湿った温かな空気が頬を撫でた。
外とは違う、花と土と水の匂い。
天井の硝子越しに陽光が降り注ぎ、温室内を淡く照らしている。
緑の葉が重なり合い、その奥で青い薔薇が静かに咲いていた。
深い青。
ただ鮮やかなだけではない。
夜明け前の空のような、少しだけ紫を含んだ落ち着いた色。
花弁の先に光が乗り、見る角度によって表情を変える。
「わぁ……」
アマリリス嬢が、小さく息を漏らした。
その声が、妙に素直で可愛らしかった。
先ほどまでの完璧な公爵令嬢とは少し違う。
ほんの少しだけ、感情がこぼれたような声。
俺は胸の奥がくすぐったくなった。
用意されていたテーブルに案内し、椅子を引く。
アマリリス嬢が座り、俺も向かいに腰かけた。
ライズは手早くお茶の準備を終えると、アマリリス嬢の侍女と共に少し離れた場所へ下がった。
近すぎず、遠すぎず。
声をかければ届く距離。
だが会話の邪魔にはならない距離。
さすがである。
「アマリリス嬢、あそこに見えるのが我が家が誇る青い薔薇、ブルーローズです」
「あれがそうなのですね。とても落ち着きのある色で……心が安らぎますわ」
アマリリス嬢は薔薇を見つめながら、柔らかく微笑んだ。
その横顔に、俺はまた見惚れた。
ブルーローズを背景にした彼女は、とても幻想的だった。
太陽の光を反射してきらきらと輝く金色の髪。
透き通るような白い肌。
そしてブルーローズとはまた違う、晴れた空を思わせる碧色の瞳。
ここに住む妖精です、と言われたら納得してしまいそうだった。
いや、納得する。
むしろ「でしょうね」と言う。
俺は完全に言葉を失っていた。
「アルフレッド様?」
「……あっ、すみません」
「どうかされました?」
「い、いえ」
しまった。
見すぎた。
完全に見すぎた。
失礼だったかもしれない。
何か言わなければ。
何か自然な言葉を。
そう思った俺の口から出た言葉は、あまりにも素直すぎた。
「あまりにも綺麗だったもので」
「……」
「……」
沈黙。
しまったああああああ!!
何を言っているんだ俺は!!
初対面に近い公爵令嬢へ向かって、いきなり綺麗だったもので?
軽薄か?
いや、違う。
本心だ。
本心だけど、言い方というものがあるだろ。
俺は心の中で頭を抱えた。
アマリリス嬢はうつむいてしまった。
肩が小さく震えている。
怒った?
怒らせた?
話を聞いていなかった上に、急に変なことを言ったから?
どうしよう。
公爵令嬢を泣かせたら俺の人生終わるのでは?
いや、まだ泣いているとは限らない。
でも肩が震えている。
待て。
ガロウ公爵の顔が脳裏に浮かんだ。
終わった。
騎士団長に片手でひょいっとされる。
ひょいっと。
俺は恐る恐る声をかけた。
「あ、アマリリス嬢?」
「リリスと」
「はい?」
小さな声だった。
だが、確かに聞こえた。
アマリリス嬢はゆっくり顔を上げた。
頬が真っ赤だった。
目元はうるんでいる。
怒っているようには見えない。
むしろ、恥ずかしそうに、でも必死に何かを伝えようとしている。
「リリスとお呼びください」
なにこの子。
かわいいんですけど!?
いや待て。
落ち着け。
今は冷静に返事をしろ。
公爵令嬢を愛称で呼ぶということは、かなり距離が近い。
だが本人が望んでいる。
ここで断るのは失礼かもしれない。
いや、そもそも顔が赤い。
涙目。
下から見上げる形。
破壊力が高い。
高すぎる。
「り、リリス嬢?」
「リリスです」
「え?」
「リリス、です」
ちょっと強めに言われた。
でも声が震えている。
必死だ。
可愛い。
いや、可愛いしか出てこない。
語彙が死んだ。
「リリス」
「はい!」
俺がそう呼ぶと、彼女はぱっと笑った。
まるで大輪の花が咲いたような笑顔だった。
ブルーローズより眩しかった。
やだ。
この子、本当にかわいい。
どうしよう。
俺は何をどうすればいい?
とりあえず呼び返してもらうべきか?
いや、自然な流れだよな?
うん。
自然な流れだ。
「じゃ、じゃあ俺のことはアルと呼んでください」
「はい! アル様!」
そっちは敬称をつけるのかよっ!?
いや、可愛いけど!
可愛いけど違う!
「あ、いや、アルでお願いします」
「は、はい」
リリスは両手を胸の前でぎゅっと握った。
そして深呼吸をした。
そんなに気合いが必要?
俺の名前を呼ぶだけだよ?
いや、待て。
頑張っている。
見守ろう。
頑張れリリス。
あと二文字だ。
「あ、あ……」
頑張れ。
「あ、アル……」
ズキューン!!
心臓を撃ち抜かれた。
なに今の。
破壊兵器?
公爵家はこんな兵器を保有しているの?
王国法に触れない?
「はい、よろしく、リリス」
俺は内心の動揺を必死に隠しながら返した。
リリスはまた頬を赤くし、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ。こちらこそ、よろしくお願いします。アル」
少し離れた場所で、ライズが無言で親指を立てた。
やめろ。
何を応援している。
アマリリス嬢の侍女はハンカチで目元を押さえていた。
なんで泣いているんですか!?
まだ顔合わせですよ!?
結婚式ではありませんよ!?
俺はツッコミたかったが、さすがに声には出せなかった。
リリスが不思議そうに首を傾げる。
「アル?」
「いえ、なんでもありません」
「そうですか?」
「はい」
危ない。
後ろの二人に気を取られてはいけない。
目の前に集中しろ。
リリスはカップに手を伸ばし、紅茶をひと口飲んだ。
その動作はやはり優雅だった。
指先の動きまで綺麗で、育ちの良さがにじんでいる。
だが、先ほどの「リリスです」と頬を赤くして訴えた姿を見た後では、その完璧さの裏に少し違う顔があるのだと分かってしまう。
それが、妙に嬉しかった。
「ブルーローズは、とても綺麗ですね」
「ありがとうございます。我が家の庭師たちが大切に育てています」
「アルも、お花はお好きなのですか?」
「見るのは好きです。ただ、育てる方はあまり得意ではありませんね」
「そうなのですか?」
「昔、母上に頼まれて花壇の世話をしたことがあるのですが、水をやりすぎて怒られました」
「まあ」
「花は水をあげれば喜ぶと思っていたんです」
「ふふ」
リリスが笑った。
小さく、柔らかく。
その笑い方はとても自然だった。
俺は少し安心した。
会話が続いている。
変な空気にはなっていない。
むしろ、思ったより話しやすい。
完璧な公爵令嬢という印象が強かったが、実際に話してみると、彼女は丁寧で、素直で、よく笑う。
しかも、時々少しだけ反応が幼い。
それがまた可愛い。
「リリスは花が好きなのですか?」
「はい。特に、優しい色のお花が好きです」
「では、青い薔薇は少し珍しいかもしれませんね」
「はい。ですが……」
リリスはブルーローズへ視線を向けた。
「この薔薇は、とても静かで、優しいです」
「静かで優しい?」
「はい。青い色なのに、冷たくないのです。見ていると、胸の中が落ち着きます」
詩的な表現だった。
だが不思議と、すっと耳に入ってくる。
リリスは見たものを丁寧に感じ取る人なのかもしれない。
俺は彼女の横顔を見ながら、自然と頷いた。
「そう言っていただけると、我が家の薔薇も喜びます」
「薔薇も喜ぶのですか?」
「たぶん」
「まあ」
リリスは目を丸くした。
冗談だったのだが、ものすごく真剣に受け止められた気がする。
「では、褒めてあげた方がいいでしょうか?」
「え?」
リリスは椅子から立ち上がりかけた。
「薔薇に」
「待ってください」
「はい?」
「今のは、たぶん、ものの例えです」
「まあ」
リリスは少しだけ恥ずかしそうに座り直した。
天然だ。
この子、天然だ。
外面は完璧なのに、中身が少しふわふわしている。
可愛い。
だが危ない。
放っておくと本当に薔薇を褒めに行きそうだった。
「……笑いましたか?」
「いえ」
「今、少し笑いました」
「気のせいです」
「アル」
「少しだけです」
「もう」
リリスは頬を膨らませた。
公爵令嬢が頬を膨らませた。
いいのか。
そんな顔を俺に見せていいのか。
可愛い。
やばい。
俺の中の冷静な貴族子息がどんどん壊れていく。
「すみません。でも、可愛らしいなと思って」
「……っ」
また沈黙。
しまった。
二度目だ。
なぜ俺は学ばない。
リリスはまた顔を赤くした。
今度は両手でカップを持ったまま、視線を下げている。
肩が小さく震えている。
まずい。
今度こそ怒ったか?
「リリス?」
「……アルは」
「はい」
「そういうことを、誰にでも仰るのですか?」
「いえ?」
「本当ですか?」
「本当です」
「他のご令嬢にも?」
「言いません」
「本当に?」
「本当に」
「絶対に?」
「絶対に」
なぜ尋問みたいになっている?
リリスはじっと俺を見つめていた。
碧色の瞳が潤んでいる。
少し不安そうで、少し必死で。
俺はその表情を見て、胸がきゅっとした。
もしかして彼女は、自信がないのだろうか。
これほど綺麗で、公爵令嬢として完璧に見えるのに。
「リリス」
「はい」
「俺は、思っていないことは言いません」
「……はい」
「だから、先ほど綺麗だと言ったのも、今可愛らしいと言ったのも、本心です」
「……」
「もちろん、軽々しく言ったつもりもありません」
俺がそう言うと、リリスは目を潤ませたまま、ゆっくり頷いた。
「……嬉しいです」
小さな声だった。
消え入りそうな声。
だが、確かに届いた。
その瞬間、俺の胸の中に温かいものが広がった。
笑わせたい。
安心させたい。
そんな気持ちが自然に湧いてきた。
俺は少しだけ冗談めかして言った。
「ただ、あまり言いすぎると、ガロウ公爵に斬られそうなので気をつけます」
「お父様は斬りません」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん!?」
リリスはくすっと笑った。
俺もつられて笑う。
温室の空気が、ゆっくりと柔らかくなっていく。
青い薔薇の香り。
硝子越しの陽光。
紅茶の湯気。
リリスの笑い声。
昨日から混乱続きだった俺の心が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。
そして俺たちは、それからしばらく他愛ない話をした。
好きな本の話。
学園に入ったら何を学びたいか。
剣術は得意か。
社交の場は疲れるか。
リリスは公爵令嬢らしく多くのことを学んでいるようだったが、話していると時々妙な方向へずれる。
「ダンスは得意ですか?」
「はい。先生には褒めていただけます」
「それはすごいですね」
「ですが、緊張すると右足と右手が同時に出ます」
「行進ですか?」
「ですから、お父様がよく踏まれます」
「公爵様が?」
「はい。とても悲しそうな顔をされます」
「でしょうね」
そりゃ騎士団長も悲しむ。
娘に足を踏まれるのはむしろご褒美かもしれないが、ダンス中なら複雑だろう。
「アルはダンスがお得意ですか?」
「普通です。少なくとも、右足と右手は同時に出ません」
「すごいです」
「褒める基準が低くありませんか?」
「では、今度教えてください」
「俺でよければ」
「はい。アルがいいです」
ズキューン!!
本日二度目。
心臓が持たない。
この子、無自覚にこういうことを言うタイプだ。
危険だ。
非常に危険だ。
俺が内心で倒れていると、ライズがまた無言で親指を立てた。
だからやめろ。
見えてるんだよ。
リリスの侍女は今度は両手を合わせていた。
祈るな。
何を祈っている。
俺は喉を鳴らして紅茶を飲んだ。
少し冷めていた。
それでも美味しかった。
どれくらい話しただろう。
最初の緊張はかなり薄れていた。
リリスも、最初より表情が柔らかい。
時々照れ、時々笑い、時々不思議なことを言う。
俺はそのたびに心の中でツッコミを入れ、時々声にも出した。
気づけば、彼女と話す時間が楽しいと思っていた。
婚約者候補。
公爵令嬢。
王家との縁談を断ってまで俺を選んだらしい少女。
昨日はただ混乱しかなかった。
だが今は、少しだけ違う。
この子のことを、もっと知りたい。
そう思った。
「アル」
「はい」
「今日は、お会いできて嬉しかったです」
リリスはまっすぐ俺を見た。
その瞳には、誤魔化しのない気持ちがあった。
「私、ずっと……」
そこで彼女は言葉を止めた。
頬が赤くなる。
視線が揺れる。
何かを言おうとして、言えない。
俺は急かさず待った。
温室の中に、静かな時間が流れた。
葉が微かに揺れる音。
遠くで水が落ちる音。
硝子に当たる風の音。
やがてリリスは、小さく息を吸った。
「ずっと、アルにお会いしたかったのです」
「俺に?」
「はい」
「……どこかで、俺は何かしましたか?」
どうしても気になっていたことを尋ねる。
彼女が俺を望んだ理由。
それが分からないままだった。
リリスは少し考え、それからふわりと微笑んだ。
「それは、また今度お話しします」
「今度?」
「はい。今日は、まだ恥ずかしいので」
そう言って、彼女は目を伏せた。
ずるい。
そんな言い方をされたら、それ以上聞けない。
「わかりました。では、今度聞かせてください」
「はい」
リリスは嬉しそうに頷いた。
その時だった。
温室の入口付近から、ぎしり、と妙な音がした。
俺は振り返った。
ガロウ公爵が立っていた。
「ひっ」
情けない声が出た。
いつからいた!?
どこから見ていた!?
そしてなぜそんなに無言!?
後ろには父上もいた。
父上はにやにやしている。
やめろ。
その顔やめろ。
ガロウ公爵はじっと俺を見ていた。
そして低い声で言った。
「……リリス」
「はい、お父様」
「そろそろ帰るぞ」
「まだ帰りません」
「……」
騎士団長が固まった。
王国最強格の男が、娘の一言で固まった。
リリスはきっぱりと言った。
「まだアルとお話ししています」
「……リリス」
「お父様」
「……」
「……」
父娘の無言の攻防が始まった。
怖い。
いや、主にガロウ公爵が怖い。
だがリリスも一歩も引かない。
さすが公爵令嬢。
いや、そこは引いてもいいのでは?
最終的に、ガロウ公爵が折れた。
「……あと少しだけだ」
「ありがとうございます、お父様」
リリスはにっこり笑った。
ガロウ公爵の顔が緩みかけた。
だが、すぐに俺を見た。
また怖い顔になった。
切り替えが早い。
「アルフレッド」
「はい!」
「娘を泣かせたら、分かっているな?」
分かりません。
分かりたくありません。
でも何となく分かります。
「誠心誠意、大切にいたします」
俺は反射的に答えた。
ガロウ公爵はしばらく俺を見つめ、それからふん、と鼻を鳴らした。
「ならいい」
いいのか。
今のでいいのか。
横で父上が満足そうに頷いている。
「よかったな、アルフレッド」
「何がですか」
「認められたぞ」
「今の認められたんですか!?」
「斬られていないからな」
「基準が物騒!」
リリスがくすくす笑った。
その笑顔を見た瞬間、まあいいか、と思ってしまった。
よくない。
よくないはずだ。
だが、彼女が笑っているなら悪くない。
俺はそんな自分の思考に少し驚いた。
その後、俺たちはもう少しだけ温室で話をした。
ガロウ公爵は入口付近で腕を組んで立っていた。
圧がすごかった。
父上は隣で楽しそうにしていた。
ライズは相変わらず親指を立てていた。
侍女はずっと微笑んでいた。
なんだこの空間。
婚約者との初顔合わせって、もっと優雅なものではなかったのか?
俺の知っている貴族の常識が、今日一日で何度も壊されていく。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少し楽しかった。
そして夕方。
フルーラ公爵家の馬車が屋敷の前に用意され、リリスは帰ることになった。
玄関ホールで別れの挨拶を交わす。
リリスは俺の前に立ち、両手を前で重ねた。
「アル」
「はい」
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったです」
「私もです」
リリスは少しだけ視線を下げ、それから小さく言った。
「また、お会いできますか?」
「もちろんです」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
そして一歩近づき、小さな声で囁いた。
「約束です」
「はい、約束です」
その瞬間。
背後から、とんでもない圧を感じた。
ガロウ公爵だ。
見ている。
めちゃくちゃ見ている。
俺は背筋を伸ばした。
リリスはそんな父親の視線など気にしていないように、ふわりと微笑んだ。
「では、また。アル」
「はい。また、リリス」
彼女は馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる直前、もう一度こちらを見て小さく手を振る。
俺も軽く手を振り返した。
馬車が動き出す。
車輪の音が少しずつ遠ざかっていく。
俺はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
胸の中に、温かくて、少しくすぐったいものが残っている。
昨日まで知らなかった感情。
今日、突然やってきた婚約話。
最初は混乱しかなかった。
だが今は。
「……可愛かったな」
ぽつりと呟いてしまった。
その瞬間、隣にいた父上がにやりと笑った。
「ほう?」
「……父上」
「可愛かったか」
「聞かなかったことにしてください」
「無理だな」
「ですよね」
父上は愉快そうに笑った。
その後ろでリーマスが静かに頷いている。
ライズも頷いている。
やめろ。
全員で頷くな。
「アルフレッド」
父上が言った。
「何ですか」
「明日から忙しくなるぞ」
「でしょうね」
「婚約に向けた話し合い、王家への説明、社交界への対応、学園入学の準備……そして、ガロウの威圧に耐える精神力の鍛錬」
「最後だけおかしい」
「大事だ」
「否定できないのが嫌です」
俺は深く息を吐いた。
夕焼けが玄関ホールの床を赤く染めている。
俺の日常は、たぶん今日で大きく変わった。
公爵令嬢アマリリス・フルーラ。
完璧で、上品で、美しくて。
けれど実は少し天然で、照れ屋で、愛称で呼ばれるだけで涙目になる可愛らしい少女。
彼女がなぜ俺を選んだのかは、まだ分からない。
けれど。
また会いたい。
そう思ったのは、間違いなく本心だった。
そして俺は、まだ知らなかった。
この出会いが、俺の平穏な伯爵子息生活を大きく揺るがすことになるなんて。
いや。
正確に言おう。
平穏は今日死んだ。
犯人は、金髪碧眼の公爵令嬢。
そして共犯者は、父上とリーマスと、なぜか親指を立てるライズである。
俺は夕焼けの中、心の底から思った。
……明日から、ツッコミが追いつく気がしない。




