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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第71話 公爵令嬢様、途中で帰る練習なのに夜会が終わった気になります


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王城の春の親睦夜会まで、あと二日。


 二日。


 今日が終われば、前日。


 その次が、本番。


 つい先日まで十日後だったはずの夜会が、もう二日後にある。


 十日。


 九日。


 八日。


 そうやって一日ずつ減るたびに、靴を確認した。


 歩き方を直した。


 座る練習をした。


 食べた。


 飲んだ。


 呼び方を変えた。


 列で待った。


 知らない相手の言葉に傷ついて、それでも本人へ確かめた。


 積み重ねてきたことは多い。


 多すぎて、最初に何を練習したのかを思い出すだけでも時間がかかる。


 だが、今日の課題は。


 その積み重ねを、途中で終える可能性についてだった。


 緊急時の退席。


 体調が悪くなった時。


 靴や衣装へ問題が起きた時。


 強い言葉を受け、感情を戻せなくなった時。


 家族に何かあった時。


 会場に留まることが危険、あるいは困難になった時。


 夜会を途中で離れる。


 帰る。


 最後までいられなくても、失敗ではない。


 理屈では分かる。


 昨日まで何度も学んだ。


 我慢は礼ではない。


 痛いなら止まる。


 休むことにも居場所がある。


 できない日があっても、その日全部がなくなるわけではない。


 それでも。


 夜会を途中で帰ると聞いた瞬間。


 俺の頭には。


 深い青のドレスで大広間へ入ったリリスが。


 第一舞踏を踊る前に。


 泣きながら王城を去る姿が浮かんだ。


 そして。


 せっかくここまで準備したのに。


 全部が無駄になる。


 そんな考えが、一瞬だけ胸へ入った。


 違う。


 全部が無駄になるはずがない。


 夜会に着いた。


 挨拶した。


 少し話した。


 乾杯した。


 そこまでできたなら、その時間は残る。


 たとえ入場前に帰ったとしても。


 本番へ向けて家族と選んだドレスも。


 靴を直した日も。


 リリスが自分で選んだブルーローズも。


 俺たちが学んだ言葉も。


 なくならない。


 頭では。


 分かっている。


 だが、胸は簡単ではない。


 途中で帰る。


 その言葉には。


 終わり。


 失敗。


 諦め。


 そんな色がついて見える。


 今日は、その色を塗り直す日なのだろう。


 朝。


 食堂へ入ると。


 机の横に、旅行用の小さな鞄が二つ置かれていた。


 一つは俺のもの。


 もう一つは、どう見てもライズのもの。


「おはようございます」


「おはよう、アル」


「おはよう」


 父上は朝食を取りながら、鞄の中身を書いた一覧を確認している。


 母上は、小さな布袋へ薬草と予備の留め具を入れていた。


「その鞄は?」


 俺が聞く。


 母上が答える。


「王城から途中で帰ることになった場合の確認用よ」


「帰るだけなのに、鞄が?」


「帰るまでにも時間がかかります」


「はい」


「馬車を待つ」


「はい」


「王城側へ事情を伝える」


「はい」


「衣装を整える」


「はい」


「体調に応じて水や薬草を使う」


「はい」


「同行者へ連絡する」


「はい」


「帰宅後の対応も」


「はい」


 俺は鞄を見る。


 水。


 布。


 薬草。


 簡易の靴。


 予備手袋。


 上着。


 書状用紙。


 小さな灯り。


 夜会を楽しむための鞄ではない。


 帰るための鞄。


 見ているだけで、少し胸が冷える。


 父上が俺を見る。


「嫌な顔だな」


「はい」


「帰ることを考えたくないか」


「はい」


「なぜ」


 一拍。


「せっかく、ここまで準備したので」


「はい」


「最後までいたいです」


「当然だ」


「途中で帰れば」


 言葉が止まる。


 何と言えばよい。


「失敗したように思います」


 正直に言う。


 父上はすぐ否定しなかった。


 母上も。


 少しの沈黙。


 食堂の時計。


 食器の触れる小さな音。


 朝の光。


 父上が言う。


「最後までいることを目標にするのはよい」


「はい」


「最後までいることだけを成功にするな」


「はい」


「なぜ?」


「途中までの時間が消えるからです」


「そうだ」


 母上が続ける。


「帰る判断をした方が、その人のためになる場面もあります」


「はい」


「その時に、成功へしがみついて残れば?」


「悪化します」


「はい」


「本人だけではなく、周囲も困ります」


「はい」


「夜会を楽しむために準備してきた」


「はい」


「壊れるためではない」


「はい」


 短い言葉。


 だが重い。


 楽しむため。


 耐えるためではない。


 俺たちは最近まで。


 どう失敗しないか。


 どう泣かないか。


 どう迷惑をかけないか。


 そう考えすぎていた。


 だが、本来は。


 楽しみに行くのだ。


 王城へ。


 家族と。


 友人と。


 婚約者と。


「途中で帰ることを、怖がらない」


 母上が言う。


「はい」


「だからといって、最初から帰ることばかり考えない」


「はい」


「帰る道を知っているから、安心して楽しめる」


「……はい」


 避難経路。


 帰り方。


 助けを求める相手。


 それらを知ることで、ずっと出口を見るのではない。


 出口があると分かっているから、場へいられる。


 父上が言う。


「王城は牢ではない」


「はい」


「退席を申し出れば帰れる」


「はい」


「王族の前から逃げるように消えるのは問題だが、事情を伝え、礼をして退くことは失礼ではない」


「はい」


「何を優先する」


「本人の安全と体調」


「よし」


 母上が問答集を開く。


「では、リリス様が『帰りたい』と仰ったら?」


 俺は即答しかける。


 帰りましょう。


 だが、一拍。


「理由を聞きます」


「はい」


「痛みや体調不良なら、王城係と家族へ伝えます」


「はい」


「感情が大きい場合は?」


「一度、休める場所へ」


「はい」


「そこで戻れる可能性があっても?」


「本人に聞きます」


「はい」


「あなたが決めない」


「はい」


「でも、戻ることを勧めすぎない」


「はい」


「帰ることを急かしもしない」


「はい」


 また難しい。


 帰る。


 残る。


 どちらかを俺が決めるのではない。


 本人が考えられる状態へ戻る。


 そのために、支える。


「アルが帰りたい場合は?」


 母上が聞く。


「俺が?」


「ええ」


 想像していなかった。


 俺が倒れる。


 俺が傷つく。


 俺が感情を戻せない。


 リリスを守ることばかり考えていた。


「……伝えます」


「誰に?」


「リリスと、父上、母上、ライズ」


「言える?」


「努力します」


「努力ではなく?」


 一拍。


「言います」


「よろしい」


 父上が言う。


「お前だけ残り、リリス嬢だけ帰す選択もある」


「はい」


「二人とも帰ることも」


「はい」


「リリス嬢だけ残り、お前が帰ることも」


 胸がざわつく。


 俺だけ帰る。


 リリスを置いて。


「嫌です」


「なぜ」


「リリスの夜会を、俺のせいで終わらせたくありません」


「なら、本人へ聞け」


「はい」


「お前が帰るからといって、相手も帰るべきだと決めるな」


「はい」


「だが、一緒に帰りたいと言われたら?」


「受け取ります」


「止めるか?」


「理由を聞きます」


「よし」


 選択肢は一つではない。


 二人で入ったから。


 二人で最後まで。


 二人で帰る。


 そう固定しない。


 互いに別々の判断をする可能性もある。


 それでも。


 関係は変わらない。


 ライズが鞄を閉じる。


「若様、本日のハンカチは三十六枚でございます」


「昨日の予告通り」


「緊急退席および家族合同最終確認日でございますので」


「帰る練習だけで三十六枚」


「『帰る』という言葉は、アマリリス様にとりまして別離の印象を伴う可能性がございます」


「確実」


「想定される涙は、夜会を途中退席しても失敗ではないと知る救済涙」


「はい」


「若様がご自身の体調不良も伝えると約束された相互保護涙」


「はい」


「どちらか一方だけが帰っても、関係は変わらない確認涙」


「強い」


「家族全員が、最後まで残ることより無事に帰ることを優先すると確認された家族安心涙」


「はい」


「さらに」


「公爵ですね」


「左様でございます」


「今日は何をしますか」


「ガロウ公爵閣下が、ご令嬢の途中退席を阻止するため、王城へ医師団、治癒術師、寝台、簡易浴室、移動式温室を搬入しようとなさる可能性がございます」


「移動式温室!?」


「青い薔薇があれば落ち着かれるのではないかと」


「王城にあります」


「ご自宅の薔薇でなければ、と」


「持っていかなくていいです!!」


「セレスティア様の札候補は?」


「すでに十一枚ございます」


「主なものは?」


「『帰宅は敗北ではない』」


「はい」


「『娘が帰りたい時は扉を塞がない』」


「重要」


「『王城へ寝台を運び込まない』」


「はい」


「『温室は屋敷に置いておく』」


「当然」


「『帰る馬車を騎士団で護送しすぎない』」


「しすぎない、とは」


「通常の護衛人数に留めるという意味かと」


「公爵の通常も多そうです」


「その可能性はございます」


「今日の心の札は?」


 ライズは静かに言った。


「『帰れる場所があるから、安心して楽しめる』でございます」


 胸の中に。


 屋敷が浮かぶ。


 いつもの食堂。


 窓。


 温室。


 家族。


 帰れる。


 夜会が怖くなっても。


 疲れても。


 王城から、ここへ。


 だから行ける。


「受け取る」


「よろしいかと」


 朝食後。


 実際の退席鞄を持って、屋敷の廊下で練習。


 父上が王城係。


 母上が体調不良の同行者役。


 俺とライズ。


 母上が、壁際の椅子に座る。


「少し気分が悪いです」


 演技だと分かっている。


 それでも俺はすぐ近づきかける。


 止まる。


「お話しできますか?」


「はい」


「座ったままで大丈夫です」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「眩暈が」


「いつから?」


「今、少し」


「水は飲めますか?」


「少しなら」


 ライズへ視線。


 水。


 母上が一口。


「休めば戻れそうですか?」


「分かりません」


「では、王城係と父上へ」


 父上役が来る。


「どうしました」


「母上が眩暈を。会話は可能。水は一口飲めました」


「控え室へ移るか」


 母上が答える。


「はい」


 俺は手を出す。


 母上が自分で立つ。


 必要な分だけ。


 支点。


 控え室想定の部屋へ。


 座る。


 待つ。


 五分。


 本当の五分ではない。


 朝は時間がないため、一分。


 母上が言う。


「戻れそうにありません」


 俺は一瞬。


 残念。


 という顔をしたらしい。


 母上が見ていた。


「今、顔に出たわ」


「はい」


「本人は?」


「帰りたいです」


「返答は?」


 一拍。


「分かりました。帰宅の手続きをします」


「よろしい」


「残念だと思っても?」


「思ってよいわ」


「はい」


「でも、本人へ罪悪感を渡さない」


「はい」


 難しい。


 本当は残りたい。


 せっかく来た。


 まだ踊っていない。


 だが、その気持ちを。


『もう少し頑張れませんか』


『せめて第一舞踏まで』


 と相手へ渡せば。


 帰る判断を鈍らせる。


「残念は、自分で持つ」


 母上が言う。


「はい」


「後で話す」


「はい」


「まずは帰る」


「はい」


 次。


 俺が体調不良役。


 椅子へ座る。


 演技。


 だが、少し恥ずかしい。


 父上が相手役。


「どうした」


「気分が悪いです」


「どの程度」


「立てます。でも、集中できません」


「水は」


「飲めます」


「戻るか」


 一拍。


 俺は。


 リリスが残る。


 自分だけ帰る。


 想像して胸が詰まる。


「……帰りたいです」


 言えた。


 父上が頷く。


「よし」


「リリスは?」


「本人に聞け」


「はい」


 母上がリリス役。


「アルフレッド様」


「はい」


「私も帰ります」


 即答。


「でも、夜会は」


「あなたを一人で帰したくありません」


「でも」


 父上が止める。


「今、説得し始めた」


「はい」


「本人の選択だ」


「はい」


「理由は聞いた」


「はい」


「受け取れ」


「……分かりました」


 母上役のリリスが言う。


「一緒に帰ります」


「はい」


「ありがとうございます」


 それだけ。


 別の想定。


 母上が言う。


「私は残ります」


 胸が痛い。


 でも。


「分かりました」


「家族と合流します」


「はい」


「帰宅後、連絡を」


「はい」


「夜会を楽しんでください」


 言う。


 苦しい。


 だが、言う。


 父上が役を解く。


「どうだった」


「寂しいです」


「それでよい」


「はい」


「相手が残ることを、愛情不足にするな」


「はい」


「一緒に帰ることだけを、愛情にもしない」


「はい」


 どちらも。


 あり得る。


 その時の事情。


 その時の気持ち。


 選ぶ。


 学園へ向かう馬車。


 窓の外は、よく晴れていた。


 夜会前の空としては、あまりにも穏やか。


 雲が少ない。


 陽射しは柔らかい。


 道沿いの木々。


 人。


 荷車。


 いつもの朝。


 夜会が三日後でも。


 町はいつも通り。


 俺たちだけが世界の中心ではない。


 今日の授業で。


 帰る練習。


 リリスはどう思うだろう。


 たぶん。


『夜会が終わった気がします』


 と言う。


 俺も、そう思ったから。


 正門前。


 リリスは、いつもの場所にいた。


 制服。


 普段のブルーローズ。


 足元も安定。


 だが、今日はいつも以上に不安そう。


 俺を見つける。


 微笑もうとする。


 少しだけ失敗する。


 歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 俺も。


「ご機嫌よう、リリス」


「ご機嫌よう、アル」


「足の状態を聞いても?」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「違和感は?」


「ありません」


「修正靴は?」


「三十分。廊下四往復。階段十二段。問題ありませんでした」


「受け取りました」


「アルは?」


「同じく三十分。廊下四往復。階段十二段。問題なし」


「よかったです」


 目が潤む。


 一拍。


 戻す。


「今日は」


 リリスが言う。


「途中で帰る練習です」


「はい」


「朝、家でもしました」


「どうでした?」


 リリスは、少し黙る。


 目を伏せる。


「夜会が、終わってしまった気がしました」


 予想通り。


 胸が痛む。


「練習なのに?」


「はい」


「まだ始まっていないのに」


「はい」


「途中で帰ると考えただけで」


「はい」


「深い青のドレスも」


「はい」


「ブルーローズも」


「はい」


「皆さまと練習したことも」


「はい」


「全部、なくなるような」


 涙が落ちる。


 俺はハンカチを渡す。


「俺も同じことを考えました」


 リリスが顔を上げる。


「アルも?」


「はい」


「せっかくここまで準備したのに、と」


「はい」


「でも」


「はい」


「途中で帰っても、準備した日々はなくなりません」


「はい」


「入場できなくても?」


「なくなりません」


「踊れなくても?」


「なくなりません」


「皆さまに見ていただけなくても?」


「なくなりません」


「深い青のドレスが」


「はい」


「屋敷の部屋で終わっても?」


 一拍。


 ここで。


『終わりません』


 と簡単に言うだけでは弱い。


「その日は、屋敷で家族に見てもらえます」


「はい」


「俺も、許されれば」


「はい」


「見に行きます」


 リリスの涙が一気に増える。


「アル」


「はい」


「王城へ行けなくても?」


「はい」


「ドレスを見てくださいますか?」


「見ます」


「ブルーローズも?」


「はい」


「綺麗だと言ってくださいますか?」


「見てから言います」


 リリスが泣きながら笑う。


「正直です」


「でも、似合うと思っています」


「強いです」


「はい」


 ミラが二枚目のハンカチ。


「本日五回目。会場不成立時装い価値継続確認涙でございます」


「長いですね」


「退席確認日でございますので」


 リリスは涙を拭く。


「でも、行きたいです」


「はい」


「最後までいたいです」


「俺も」


「途中で帰りたくありません」


「俺もです」


「言ってよいですか?」


「はい」


「帰ることを受け入れるために、帰りたいふりをしなくてよいです」


「はい」


「最後までいたい」


「はい」


「でも、必要なら帰る」


「はい」


「両方です」


「はい」


 リリスの表情が少し緩む。


「帰れる場所があるから」


「はい」


「安心して楽しめる」


「はい」


「お父様は、移動式温室を持っていくと言いました」


「やはり」


「お母様に止められました」


「当然です」


「でも、青い薔薇の小さな香り袋を作ってくださいました」


「それなら」


「はい」


「控え室で、香りを」


「よいと思います」


 目が潤む。


「アルも使いますか?」


「俺は?」


「緊張した時に」


「貸してください」


「はい」


「でも、リリスが必要な時は?」


「半分ずつ香れる距離へ」


「香りは半分になりません」


「そうでした」


 二人で笑う。


「アル」


「はい」


「私が帰りたいと言ったら」


「はい」


「がっかりしますか?」


「します」


 正直に。


 リリスの瞳が揺れる。


 だが続ける。


「一緒に最後までいたいから」


「はい」


「でも、帰りたいと言ったリリスへ、頑張って残ってとは言いません」


「はい」


「理由を聞きます」


「はい」


「休めるなら休む」


「はい」


「それでも帰りたいなら」


「はい」


「帰ります」


「一緒に?」


「俺が一緒に帰ってよいか、聞きます」


 リリスの涙が落ちる。


「私が、一人で帰っても大丈夫と言ったら?」


「寂しいです」


「はい」


「でも、家族と護衛がいるなら」


「はい」


「俺が残ることも考えます」


 言った。


 胸が痛い。


 リリスも。


「嫌ではありませんか?」


「嫌です」


「でも?」


「リリスが、俺のために夜会を終える必要はないと思うからです」


「アルも」


「はい」


「アルが帰る時、私に残ってほしいと思いますか?」


「その時のリリスに決めてほしいです」


「はい」


「一緒に帰りたいなら」


「はい」


「嬉しいです」


「残りたいなら?」


「寂しいです」


「はい」


「でも、戻ってきたら話してください」


「全部」


「はい」


 リリスが静かに微笑む。


「約束です」


「はい」


「どちらかが先に帰っても」


「はい」


「婚約は終わりません」


「はい」


「夜会も、その人が帰るまでの時間は残ります」


「はい」


「宝物になりますか?」


「なります」


 涙。


「まだ行っていません」


「はい」


「登校します」


「はい」


 俺たちは校門を通る。


 途中。


 ユリウスとエレナ嬢が合流する。


「おはよう」


「ご機嫌よう」


「ご機嫌よう」


 ユリウスが俺たちの目元を見る。


「もう帰る話した?」


「はい」


 リリスが答える。


「まだ行っていないのに、帰りました」


「分かる」


「ユリウス様も?」


「朝の練習で、夜会が終わった気がした」


「どうしました?」


「帰った後の感想まで言った」


「早いですね」


「未来へ走った」


「かなり」


 エレナ嬢が静かに言う。


「私は、帰る判断が遅れる方が怖いですわ」


「エレナ様が?」


 リリスが聞く。


「ええ。私は、自分がまだ大丈夫だと思いすぎるところがあります」


「はい」


「皆さまへ迷惑をかけたくないと」


「はい」


「結果として、限界まで残る可能性があります」


「我慢は礼ではない」


「はい」


「ですから今日は、自分から帰りたいと言う練習が必要です」


 いつも落ち着いているエレナ嬢。


 無理をしなさそうに見える。


 でも、静かに抱える。


 人によって課題が違う。


 ユリウスが言う。


「僕は逆に、少し疲れたら帰りたくなる」


「軽さを半歩」


「帰宅にも?」


「はい」


「じゃあ、休んで戻れるか確認する」


「その通りですわ」


 エレナ嬢が頷く。


「帰る判断を早めすぎない」


「遅らせすぎない」


 リリスが言う。


「半歩です」


「また半歩」


 ユリウスが笑う。


 教室へ入る。


 今日は、家族合同最終確認。


 普段の生徒たちだけではない。


 保護者。


 侍従。


 従者。


 王城側の担当者。


 教室ではなく、学園の大礼堂が使われていた。


 高い天井。


 広い床。


 模擬夜会よりもさらに広い。


 壁際には椅子。


 控え室想定の小区画。


 受付。


 退出口。


 医務区画。


 馬車手配窓口。


 夜会の華やかさより。


 今日は裏側が見える。


 何かあった時。


 どう動くか。


 誰へ言うか。


 どこへ行くか。


 保護者たちの表情も真剣だ。


「本当に帰れるのね」


「途中退席はどこへ?」


「子どもだけで判断させるの?」


「控え室に医師は?」


「馬車は何分?」


 質問。


 不安。


 話し声。


 その中。


 ガロウ公爵がいた。


 大きい。


 目立つ。


 そして。


 腕の中に、札束。


 本当に持ってきた。


 十三枚どころではない。


 もっとある。


「お父様」


 リリスが近づく。


 ガロウ公爵の目が潤む。


「リリス」


「その札は?」


「本日の分だ」


「何枚ですか?」


「二十枚」


「増えています」


「予備を含む」


「本番では?」


「四十枚を予定している」


「多すぎます!!」


 俺のツッコミが大礼堂へ響いた。


 周囲の保護者が振り返る。


 一瞬の静寂。


 ガロウ公爵が俺を見る。


「足りないか?」


「多いと言いました!!」


 周囲から、控えめな笑いが起きる。


 緊張が少し緩んだ。


 セレスティア夫人が、ガロウ公爵の隣にいる。


 穏やかな笑顔。


 手には、新しい札。


『札の枚数で安心しない』


 すでに出ている。


「あなた」


「はい」


「今、二十枚あることへ安心しましたね」


「少し」


「札を使わずに判断することも必要です」


「はい」


 ガロウ公爵が小さくなる。


 騎士団長が。


 レオナルド先輩もいる。


 後ろで、少し遠い目をしている。


「お兄様」


「リリス」


「お父様は、朝から?」


「移動式温室を馬車へ積もうとした」


「本当に」


「母上が止めた」


「寝台は?」


「三台用意した」


「三台!?」


 俺が聞く。


「リリス用」


「はい」


「父上用」


「なぜ公爵も」


「娘の体調不良へ付き添うため」


「はい」


「母上用」


「セレスティア様まで?」


「父上を止めるため」


「なるほど」


 必要かもしれない。


 いや、寝台は必要ない。


 だが役割は分かる。


 シェルザート家からは、父上と母上。


 ライズ。


 リーマス。


 リーマスは、大礼堂を見渡しながら、すでに感極まった顔。


「若様。ここまでの道のりが、走馬灯のように」


「まだ終わっていません」


「承知しております」


「今日も終わりません」


「心得ております」


 怪しい。


 ユリウスの家族。


 エレナ嬢の家族。


 ニールの母と姉。


 クラリス嬢の母。


 家族が集まると、生徒たちの顔が少し変わる。


 安心。


 緊張。


 恥ずかしさ。


 自分の学びを見られる。


 群衆の中で。


 家族の前。


 逃げられない。


 ベイル先生が礼堂前方へ立つ。


 王城側の担当者。


 医務担当者。


 馬車手配担当者。


 全員が並ぶ。


 先生が声を上げた。


「本日は、春の親睦夜会へ向けた家族合同最終確認を行います」


 大礼堂が静まる。


「華やかな入場や舞踏ではなく」


「はい」


「緊急時の退席」


「はい」


「体調不良」


「はい」


「衣装事故」


「はい」


「感情的な負担」


「はい」


「王城側への連絡方法」


「はい」


「そして」


 先生は一拍置く。


「途中で帰ることを、失敗と扱わないための確認です」


 リリスの目が潤む。


 周囲にも。


 親たち。


 子どもたち。


 それぞれ思うことがある。


「誰もが、最後まで参加できるとは限りません」


 先生が続ける。


「体調は変わります」


「はい」


「予定外のことは起こります」


「はい」


「その時」


「はい」


「他家の目」


「はい」


「準備にかけた時間」


「はい」


「費用」


「はい」


「期待」


「はい」


「それらを理由に、本人へ無理をさせないこと」


 保護者側が静かになる。


 厳しい言葉。


 華やかな夜会。


 家の名誉。


 子どもの初舞台。


 見たい。


 最後まで。


 成功してほしい。


 親も期待する。


 その期待が、鎖になることもある。


「保護者の皆さまへ」


 先生が言う。


「お子さまが帰りたいと申し出た場合」


「はい」


「まず、理由を確認してください」


「はい」


「怠けと決めつけない」


「はい」


「恥と捉えない」


「はい」


「他家へ謝罪を迫らない」


「はい」


「同時に」


「はい」


「一時的な緊張だけで、すぐ帰宅へ決めない」


「はい」


「休めるか」


「はい」


「医務担当者の判断」


「はい」


「本人の意思」


「はい」


「家族の状況」


「はい」


「それらを確認する」


 ガロウ公爵が大きく頷く。


 札束が揺れる。


 セレスティア夫人が札を一枚。


『頷きすぎて話を聞き逃さない』


 ガロウ公爵が静かになる。


 周囲に小さな笑い。


 先生は続ける。


「生徒の皆さん」


「はい」


「帰りたい時は」


「はい」


「言う」


「はい」


「限界まで隠さない」


「はい」


「同行者の楽しみを奪うと考えすぎない」


「はい」


「相手が残りたい場合」


「はい」


「愛されていないと決めつけない」


 リリスの瞳が揺れる。


「相手が一緒に帰る場合」


「はい」


「その選択へ罪悪感を押しつけない」


「はい」


「ありがとう、と伝える」


「はい」


 帰る。


 残る。


 どちらも。


 選択。


「では、家族単位で実践します」


 最初は、簡単な体調不良。


 各家で分かれる。


 フルーラ家。


 リリス。


 ガロウ公爵。


 セレスティア夫人。


 レオナルド先輩。


 ミラ。


 俺はシェルザート家側。


 別々に行う。


 だが、視界には入る。


 ガロウ公爵がリリスの正面。


 リリスが体調不良役。


「お父様」


「どうした!?」


 声が大きい。


 礼堂全体が振り返る。


 先生が言う。


「公爵閣下」


「はい」


「まず声量を」


「はい」


 ガロウ公爵が小さくなる。


 リリスが続ける。


「少し、眩暈がします」


 ガロウ公爵が抱き上げようとする。


 セレスティア夫人が札。


『すぐ運ばない』


 公爵の腕が止まる。


「話せるか?」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「水は?」


「飲めます」


「医師を百人」


『人数を増やさない』


「一人」


 修正が早い。


「控え室へ行きたいです」


「分かった」


 ガロウ公爵が手を差し出す。


 リリスが自分で立つ。


 必要な分だけ。


 控え区画へ。


 家族がついていく。


 五分想定。


 実際は一分。


 リリスが言う。


「戻れそうにありません」


 ガロウ公爵の顔が。


 世界の終わり。


 見るだけで分かる。


 目が潤む。


 口が震える。


「でも」


 言いかける。


 セレスティア夫人の札。


『娘の判断を聞く』


 ガロウ公爵が耐える。


「帰りたいか?」


「はい」


 沈黙。


 長い。


 ガロウ公爵の拳。


 札束。


 視線。


 最後まで見たかった。


 深い青のドレス。


 踊る姿。


 娘の夜会。


 全部が顔に出ている。


「……分かった」


 言えた。


 リリスの目から涙が落ちる。


「お父様」


「帰ろう」


「ごめんなさい」


 ガロウ公爵の表情が変わる。


「謝るな」


「でも」


「帰る場所は、父が用意する」


 大礼堂が静かになった。


 周囲の家族たち。


 生徒たち。


 皆、聞いている。


 ガロウ公爵は続ける。


「夜会へ来られたところまで」


「はい」


「今日の時間だ」


「はい」


「帰れば、その後は家族の時間だ」


「はい」


「失敗ではない」


 リリスは完全に泣いた。


 セレスティア夫人も目元を押さえる。


 レオナルド先輩は静かに顔を逸らす。


 ガロウ公爵も泣く。


 かなり。


 先生が言う。


「公爵閣下」


「はい」


「大変よろしい」


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「練習です」


「はい」


「まだ帰りません」


 大礼堂に笑いが起きた。


 ガロウ公爵がリリスを見る。


「まだいるのか」


「おります!!」


 俺のツッコミ。


 さらに笑い。


 重かった空気がほどける。


 次。


 シェルザート家。


 俺が体調不良役。


 父上。


 母上。


 ライズ。


 リーマス。


「少し、気分が悪いです」


 父上が一歩。


 声は落ち着いている。


「話せるか」


「はい」


「水は」


「飲めます」


 ライズが水。


「休めば戻れそうか」


「分かりません」


「控え室へ」


「はい」


 移動。


 椅子。


 母上が俺の額を見る。


「熱はなさそうね」


「はい」


「何が一番つらい?」


「集中できません」


「感情?」


「少し」


「誰かに何か言われた?」


「はい」


「今、話せる?」


「話したくありません」


「分かったわ」


 無理に聞かない。


 休む。


 一分。


「帰りたいです」


 俺が言う。


 父上は頷く。


「分かった」


 母上も。


「リリス様へは?」


「伝えます」


「ご本人に?」


「はい」


「言える?」


「言います」


 ここで、リリスが相手役として呼ばれる。


 制服。


 泣いた後の赤い目。


 でも落ち着いている。


「アルフレッド様」


 公的な場の呼び方。


「はい」


「帰られるのですか?」


「はい」


「一緒に帰っても?」


 来た。


 俺は。


 朝の練習を思い出す。


「理由を聞いても?」


「一人にしたくありません」


「はい」


「私も、今日はもう十分です」


「本当に?」


 聞き方が強い。


 先生が少し見る。


 答えを決めている。


 修正。


「残りたい気持ちはありますか?」


 リリスは考える。


「あります」


 正直。


「でも、アルと帰りたいです」


「後悔しませんか?」


「するかもしれません」


 胸が痛む。


 でも続く。


「はい」


「第一舞踏を踊れなかったことを」


「はい」


「皆さまにドレスを見ていただけなかったことを」


「はい」


「でも、アルを一人で帰したことも、後悔すると思います」


「はい」


「どちらの後悔を選ぶか」


「はい」


「今の私は、アルと帰ります」


 強い。


 俺の目元が熱い。


「受け取ります」


「はい」


「一緒に帰ってください」


「喜んで」


 リリスの涙がまた落ちる。


 大礼堂から、温かな拍手。


 先生が言う。


「よろしい」


「はい」


「アマリリスさんは、帰る選択へ綺麗な理由だけをつけませんでした」


「はい」


「残りたい気持ちも」


「はい」


「後悔の可能性も」


「はい」


「その上で選びました」


「はい」


「シェルザートさん」


「はい」


「説得して残らせませんでした」


「はい」


「相手の選択を受け取りました」


「はい」


「ただし」


「はい」


「本番で毎回一緒に帰る必要はありません」


「はい」


「今日はこの選択」


「はい」


「別の日は別の選択」


「はい」


 固定しない。


 今日の答えを、明日の義務にしない。


 次の想定。


 俺が帰る。


 リリスは残る。


 同じ場面。


「アルフレッド様」


「はい」


「私は、残りたいです」


 胸が痛い。


 しかし。


「分かりました」


「怒りませんか?」


「怒りません」


「寂しいですか?」


「はい」


「私もです」


「はい」


「でも」


「はい」


「エレナ様やお兄様、家族と合流します」


「はい」


「帰宅後、必ず書状を」


「はい」


「夜会を楽しんでください」


 言えた。


 リリスの目から涙。


「アルも、帰ったら休んでください」


「はい」


「私がいないからと、起きて待たないで」


 俺は止まる。


 絶対に起きて待つ。


「努力します」


 リリスの視線。


「寝ます」


「はい」


 大礼堂が笑う。


 ライズが後ろで静かに親指。


「若様、睡眠確約涙が予想されます」


「今言わないでください」


 拍手。


 先生が頷く。


「これも正解です」


 正解は一つではない。


 一緒に帰る。


 残る。


 その時。


 次は。


 衣装破損。


 リリスのドレス裾が大きく裂けた想定。


 実際には練習布。


 ミラが確認。


「応急修繕には二十分」


 リリスが言う。


「戻りたいです」


「痛みは?」


「ありません」


「露出や危険は?」


「控え布で覆えます」


「では、控え室で待つ」


「はい」


 帰らない。


 直して戻る。


 夜会は続く。


 ガロウ公爵が、


「新しいドレスを十着」


 と言いかける。


 札。


『一着を直す』


 公爵が黙る。


 次。


 靴の再発。


 踵の痛み。


 修正。


 履き替え。


 戻れるか。


 本人が選ぶ。


 次。


 強い言葉を受け、リリスが涙を止められない。


 控え室。


 水。


 香り袋。


 ハンカチ。


 家族。


 俺。


 声をかけすぎない。


「戻れそうですか?」


「分かりません」


「帰りたいですか?」


「まだ、決められません」


「分かりました」


 待つ。


 沈黙。


 大礼堂の向こうでは、別の家族が練習。


 人の声。


 足音。


 模擬の音楽。


 控え区画だけ、少し静か。


 リリスが香り袋を握る。


 青い薔薇。


 深呼吸。


 一分。


「少し、戻れました」


「はい」


「大広間へ戻るのは怖いです」


「はい」


「でも」


「はい」


「友人の方々と、壁際でお話ししたいです」


「分かりました」


「踊らなくても?」


「はい」


「夜会へ参加しています」


 昨日までの学び。


 座っていても。


 踊らなくても。


 夜会。


 リリスの涙が落ちる。


「戻ります」


「はい」


「俺も隣へ?」


「最初だけ」


「はい」


「落ち着いたら、アルはご挨拶へ」


「分かりました」


 本人が決める。


 全部一緒でなくていい。


 先生が役を止める。


「大変よろしい」


 周囲から拍手。


 リリスは涙を拭く。


「先生」


「はい」


「退席しなくても、予定を減らしてよいのですね」


「もちろんです」


「第一舞踏を踊らない」


「はい」


「会話だけ」


「はい」


「控え室で休む」


「はい」


「帰るか残るかの二つだけではない」


「はい」


 中間。


 また半歩。


 全員が。


 帰る。


 残る。


 休む。


 予定を減らす。


 相手だけ帰る。


 家族と残る。


 さまざまな想定を行う。


 ニールは、母が帰宅する想定で不安になる。


「僕も帰ります」


 即答。


 姉が聞く。


「本当に?」


「はい」


「夜会は?」


「母が」


「私は護衛と帰れるわ」


「でも」


 ニールは悩む。


 母本人が言う。


「あなたに残ってほしいとは言わない」


「はい」


「帰ってほしいとも」


「はい」


「あなたが決めて」


 ニールは長く考える。


 皆が待つ。


「姉上と残ります」


 言えた。


 母が微笑む。


「分かったわ」


「帰ったら、すぐ書状を」


「はい」


 ニールの目が潤む。


 でも、残る選択。


 クラリス嬢は夜会へ参加しないが。


 家族が外出先から早く帰る想定。


「私が心配だから、皆さまも帰ってきてください」


 言いかける。


 止まる。


「帰宅後に話を聞いてください」


 言い直す。


 自分の不安と。


 相手の時間。


 両方。


 ユリウスは、疲れただけで帰ろうとする役。


 エレナ嬢が聞く。


「休めば戻れそうですか?」


「戻れるかも」


「では、十分だけ」


「はい」


 十分後。


「戻れる」


「帰りますか?」


「戻る」


 軽さを半歩。


 早すぎる判断も止まる。


 家族たちの反応も多い。


 泣く母。


 黙って頷く父。


 子どもへ残れと言いたくて止まる者。


 帰れと言いたくて待つ者。


 誰も完璧ではない。


 先生も。


 王城側も。


 何度も言う。


「予定外は起きます」


「全員が同じ対応ではありません」


「完璧な退席はありません」


「無事に帰れること」


「必要な助けを求められること」


「それで十分です」


 休憩。


 大礼堂の椅子。


 家族ごと。


 俺たちは。


 シェルザート家とフルーラ家で、小さな輪を作る。


 ガロウ公爵。


 セレスティア夫人。


 レオナルド先輩。


 父上。


 母上。


 俺。


 リリス。


 ライズ。


 ミラ。


 リーマス。


 大人数。


 リリスは、二つの家の間に座る。


 以前なら。


 フルーラ家側。


 あるいは俺の隣へ近すぎるほど。


 だが今日は。


 二つの家の輪の中。


 自然。


 ガロウ公爵が水を飲む。


 札束を膝に。


「リリス」


「はい」


「帰りたい時は言え」


「はい」


「父は、止めない」


 声が震える。


「はい」


「たぶん」


 セレスティア夫人が札。


『たぶんを外す』


「止めない」


 言い直した。


 リリスの目から涙。


「ありがとうございます」


「ただ」


 ガロウ公爵が続ける。


「残りたい時も言え」


「はい」


「父が帰る場合も」


「はい」


「お前は残ってよい」


「はい」


「置いていかれたとは思わない」


 ガロウ公爵。


 昨日の列。


 今日の帰宅。


 父親も学んでいる。


「お父様」


「はい」


「お父様が帰る時」


「はい」


「私も一緒に帰りたいと思うかもしれません」


「はい」


「でも、残るかもしれません」


「はい」


「その時は」


「楽しめ」


「はい」


 ガロウ公爵の涙が落ちる。


「父は屋敷で待つ」


「起きて?」


「寝る」


 セレスティア夫人の札。


『待ちすぎない』


 公爵が修正する。


 周囲が笑う。


 父上が俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「お前も同じだ」


「はい」


「リリス嬢が残っても」


「はい」


「屋敷で待ち続けるな」


「寝ます」


「よし」


 母上が言う。


「でも、書状は朝読めるわ」


「はい」


「夜会の話も、翌日聞ける」


「はい」


「その夜に全部聞かなくてもよい」


 場面を急がない。


 感想も。


 振り返りも。


 帰宅後すぐ、疲れた中で全部話さなくていい。


「リリス様」


 母上が呼ぶ。


「はい」


「アルが先に帰った時」


「はい」


「気を遣って夜会を早く終えなくてよいの」


「はい」


「楽しめたなら、楽しかったと言ってください」


「アルが苦しかったのに?」


「同じ夜に、違う感情があってもよいの」


 リリスが静かになる。


 それは。


 難しい。


 俺が具合を悪くして帰る。


 リリスはその後、友人と話し。


 踊り。


 楽しかった。


 俺は苦しかった。


 同じ夜。


 違う感情。


「アル」


 リリスが俺を見る。


「はい」


「私が楽しかったと話しても」


「はい」


「嫌ではありませんか?」


「少し、寂しいかもしれません」


「はい」


「でも、聞きたいです」


「本当に?」


「はい」


「俺が帰った後の夜会も、リリスの時間です」


 涙が落ちる。


「では、全部話します」


「はい」


「アルがいなかったので寂しかったことも」


「はい」


「それでも楽しかったことも」


「はい」


「両方」


「はい」


 リリスは泣きながら笑う。


 ガロウ公爵がその様子を見て、札を握る。


『二人の会話へ入らない』


 自分で見ている。


 成長。


 セレスティア夫人が夫を見る。


 微笑む。


 レオナルド先輩は少し遠い目。


 だが、何も言わない。


 リーマスが目元を押さえる。


 ライズが記録。


 ミラも。


 小さな輪。


 家族。


 二つの家。


 笑い。


 涙。


 幸せ。


 夜会はまだ。


 でも。


 この時間も。


 すでに大切だ。


 午後。


 家族合同の最終確認は続く。


 王城側の担当者が、実際の退席手順を説明。


 受付札。


 家名。


 馬車番号。


 連絡先。


 医務区画。


 控え室。


 王族への退席挨拶は、本人が難しければ家長が代行してよい。


 誰へ伝えるか。


 誰が付き添うか。


 迷子にならないように。


 俺たちは資料へ印をつける。


 リリスの退席担当。


 ガロウ公爵。


 セレスティア夫人。


 レオナルド先輩。


 ミラ。


 必要なら俺。


 俺の退席担当。


 父上。


 母上。


 ライズ。


 必要ならリリス。


「必要なら」


 リリスが文字を見て、少し潤む。


「はい」


「義務ではない」


「はい」


「でも、選べます」


「はい」


 俺たちの名前が。


 互いの欄にある。


 それだけで強い。


 最後に。


 全員が大礼堂中央へ。


 先生が言う。


「本日まで、皆さんは多くの失敗を避ける方法を学びました」


 静かになる。


「靴」


「はい」


「衣装」


「はい」


「挨拶」


「はい」


「舞踏」


「はい」


「飲食」


「はい」


「呼称」


「はい」


「列」


「はい」


「第三者の言葉」


「はい」


「退席」


「はい」


「しかし」


 先生は、大礼堂全体を見渡す。


 生徒。


 家族。


 従者。


 教師。


 王城側。


「夜会の目的は、失敗しないことではありません」


 胸が鳴る。


「楽しむこと」


「はい」


「人と出会うこと」


「はい」


「言葉を交わすこと」


「はい」


「家族や友人と同じ場を過ごすこと」


「はい」


「そして」


 先生の視線が。


 俺たちへ。


「幸せな記憶を持ち帰ることです」


 リリスの涙が、静かに落ちた。


 周囲にも。


 親たち。


 子どもたち。


 笑顔。


 目元を押さえる者。


「失敗は起こるでしょう」


 先生が言う。


「はい」


「予定も変わる」


「はい」


「泣く者も」


「はい」


「言葉を間違える者も」


「はい」


「足を踏む者も」


 俺とリリスが少し顔を見合わせる。


「いるでしょう」


 小さな笑い。


「それでも」


「はい」


「夜会を楽しんでください」


 大礼堂へ。


 拍手が起きた。


 最初は、小さく。


 やがて大きく。


 家族。


 生徒。


 教師。


 皆。


 これまでの練習へ。


 これからの夜会へ。


 祝福するような拍手。


 リリスは泣いている。


 俺も、目元が熱い。


 ガロウ公爵は。


 完全に泣いている。


 札束を持ちながら。


 セレスティア夫人も。


 レオナルド先輩は拍手。


 父上と母上も。


 ライズ。


 ミラ。


 リーマス。


 皆。


 夜会はまだなのに。


 少しだけ。


 ここまで来たことを祝っている。


 拍手が落ち着く。


 先生が言う。


「本日の確認は以上です」


 全員が礼。


「本番まで、あと二日」


 胸が鳴る。


「明日は学園での最終調整のみ」


「はい」


「練習を増やしすぎない」


「はい」


「体を休める」


「はい」


「そして」


「はい」


「楽しみにすること」


 最後。


 それが宿題。


 大礼堂を出る。


 家族たちの声。


「いよいよね」


「泣きそう」


「まだ早い」


「靴、もう一度だけ」


「今日は休ませなさい」


「ドレス楽しみ」


「帰る練習、必要だったわ」


「最後までいられるといいね」


 不安だけではない。


 楽しみ。


 笑顔。


 期待。


 夜会の空気が、少し変わった。


 失敗しないためのものから。


 楽しむためのものへ。


 放課後。


 正門前。


 今日は家族が多い。


 馬車。


 従者。


 保護者。


 混雑。


 俺とリリスは、少し離れた木の下。


 二人。


 でも、家族の視界内。


「アル」


「はい」


「夜会を、楽しんでもよいのですね」


「はい」


「失敗しないことばかり考えていました」


「俺も」


「泣かないこと」


「はい」


「距離を間違えないこと」


「はい」


「ご迷惑をかけないこと」


「はい」


「でも」


「はい」


「楽しみにしてよい」


「はい」


「アルと踊れることを」


「はい」


「深い青のドレスを着ることを」


「はい」


「皆さまに会うことを」


「はい」


「家族と、同じ馬車で向かうことを」


「はい」


 リリスの表情が。


 これまでとは違う。


 涙はある。


 でも、笑顔が先にある。


「今日の宝物名は」


「はい」


「帰る道を知ったから、夜会を楽しみにできた日の宝物です」


「良い名前です」


「あと」


「はい」


「最後までいられなくても、幸せだった時間は残ると知った日の宝物です」


「はい」


「でも」


「はい」


「最後までいたいです」


「俺もです」


 二人で笑う。


「第一舞踏」


「はい」


「踊りたいです」


「はい」


「足を踏んでも?」


「できれば踏まないでください」


「はい」


「泣いても?」


「グラスを置いてから」


「はい」


「距離が近くなったら?」


「一度聞いてください」


「はい」


「俺も近づきたい時は言います」


 リリスの目が大きくなる。


「アルから?」


「はい」


「近づきたいと?」


「必要なら」


「本番で?」


「その時に」


 リリスの涙が落ちる。


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