表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
70/84

第70話 公爵令嬢様、知らない方に話しかけられただけで婚約を試されている気になります



 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王城の春の親睦夜会まで、あと三日。


 三日。


 もう、両手どころか片手でも余る。


 今日。


 明日。


 前日。


 そして本番。


 昨日までは四日あった。


 まだ、一日分だけ余裕があるような気がしていた。


 だが、三日という数字になると、急に夜会が向こうからこちらへ歩いてきたように感じる。


 俺たちが近づいているのではない。


 王城の大広間が。


 磨かれた床が。


 高い天井から降る灯りが。


 見知らぬ貴族たちの視線が。


 深い青のドレスを着たリリスが。


 完成した濃紺の礼装を着た俺が。


 すぐそこまで来ている。


 そんな感覚だ。


 危ない。


 今、未来へ走った。


 戻る。


 今日は今日。


 朝。


 シェルザート家の食堂。


 いつもの席。


 いつもの窓。


 いつもの朝食。


 パン。


 卵。


 温かいスープ。


 父上。


 母上。


 ライズ。


 夜会は三日後。


 今日は、夜会ではない。


 昨日、俺たちは挨拶列と待ち時間を学んだ。


 列で三歩離れる。


 三十秒だけ、別の位置へ案内される。


 それだけでも、思っていたより長かった。


 リリスが先へ進むと、俺だけ残された気がした。


 俺が先へ進むと、リリスは置いていかれたように感じた。


 だが、別れたわけではない。


 同じ列の中。


 同じ場所へ向かっている。


 目が合えば、頷く。


 追いかけない。


 呼ばない。


 戻る合図を乱用しない。


 待つ。


 相手が自分の足で進み、戻ることを信じる。


 たった三十秒。


 だが、あの三十秒は大きかった。


 ガロウ公爵は、娘と三歩離れる可能性を聞いただけで剣帯を締めた。


 セレスティア夫人から、


『列は誘拐ではない』


『三歩で娘を失わない』


『王族の列を騎士団長権限で短縮しない』


 を含む七枚の札を出された。


 最初は二十秒。


 次は二十五秒。


 三回目で、三十秒待てた。


 ずっと泣いていたらしい。


 行動は待てた。


 心は列を何往復もしたらしい。


 いつものことだ。


 そして今日。


 ついに、夜会本番で避けて通れない課題が来る。


 知らない相手。


 予期していない会話。


 噂を聞いて近づいてくる者。


 婚約について探る者。


 家同士の関係を聞く者。


 リリスの距離感を面白がる者。


 俺の家格を値踏みする者。


 好意的な者。


 悪意はないが遠慮もない者。


 そして。


 はっきりと悪意を持って近づいてくる者。


 王城の夜会には、学園の友人だけがいるわけではない。


 家族。


 教師。


 王族。


 知人。


 それ以外。


 俺たちが、相手の性格も意図も知らないまま、言葉を受け取らなければならない場面がある。


 その時。


 すべてに答える必要はない。


 笑って流してよい。


 聞き返してよい。


 家族へ助けを求めてよい。


 会話を終えてよい。


 不快だと感じてもよい。


 怒ってもよい。


 だが。


 その怒りを、すぐ剣にしない。


 言葉を全部胸へ入れない。


 相手の一言を、婚約全体への判定だと思わない。


 今日は、そういう練習らしい。


 正直に言えば。


 俺は、夜会準備の中で今日の授業が一番嫌だ。


 靴。


 ダンス。


 挨拶。


 列。


 乾杯。


 それらは、動きや礼法を学べばいい。


 しかし、人の意図は見えない。


 言葉の奥は、靴底のように簡単には確認できない。


 同じ言葉でも。


 好意で言う者。


 からかって言う者。


 傷つけるために言う者。


 ただ何も考えず言う者。


 すべて違う。


 しかも、俺は。


 リリスへ向けられた言葉には、反応が早い。


 早すぎる。


 以前の俺なら、彼女を守るという名目で、相手の言葉を途中で奪っていたかもしれない。


 リリスが答える前に。


「失礼です」


「その話はやめてください」


「リリスはそんな人ではありません」


 と。


 それが必要な場面もある。


 だが、毎回ではない。


 リリスには、自分で答える力がある。


 嫌だと言う力も。


 分かりませんと言う力も。


 その話は控えたいと伝える力も。


 俺は隣にいる。


 でも、代わりに立つのではない。


 差し出す手は支点。


 言葉も同じ。


 俺の言葉は、リリスの言葉を押しのける剣ではなく、必要な時に使える支点でなければならない。


 朝。


 食堂へ入ると。


 父上は新聞を開いていた。


 母上は、今日の礼法授業で使われるらしい想定問答集を見ている。


 ライズは、俺の鞄へ教科書ではなく、何枚もの小札を入れていた。


「おはようございます」


「おはよう、アル」


「おはよう」


 俺は席へ座る。


 母上が、問答集から顔を上げた。


「今日は難しいわね」


「はい」


「何が一番不安?」


「知らない人から、リリスへ失礼なことを言われることです」


「あなた自身へではなく?」


「俺は、まだ」


「まだ?」


「自分への言葉なら、少しは受け止められると思います」


「本当に?」


 一拍。


「……たぶん」


 父上が新聞を下ろした。


「自分への言葉も軽く見るな」


「はい」


「リリス嬢への言葉だけを危険だと考えると、自分が傷ついていることへ気づけなくなる」


「はい」


「お前が平気なふりをすれば、後で関係へ持ち込む」


「関係へ?」


「苛立ち」


「はい」


「自己否定」


「はい」


「相手に言われた言葉を、リリス嬢の本音ではないかと疑う」


 胸へ刺さった。


 あり得る。


 見知らぬ相手から、


『公爵令嬢に釣り合わない』


 と言われたら。


 その場では笑って流せても。


 夜になって。


 リリスも、本当はそう思っているのでは。


 そう考えてしまうかもしれない。


 父上は続ける。


「言われた言葉を、そのまま相手の考えとして置け」


「はい」


「リリス嬢の考えへ変換するな」


「はい」


「世間の総意にもするな」


「はい」


「一人の言葉は、一人の言葉だ」


 母上が頷く。


「今日の大切なところね」


「はい」


「褒め言葉も同じよ」


「褒め言葉も?」


「一人に褒められたからといって、全員から認められたわけではない」


「はい」


「でも、全員に認められなければ価値がないわけでもない」


「はい」


「一言を大きくしすぎない」


 悪意も。


 好意も。


 一人分。


 一口は一口。


 一曲は一曲。


 一言は一言。


 最近、俺たちは何でも一つ分へ戻している。


 全部にしない。


 未来にしない。


 世界にしない。


 母上は問答集を俺へ差し出した。


「例えば」


「はい」


「『公爵令嬢と伯爵子息では、ずいぶん身分差がおありなのね』」


 来た。


 想像だけで、胸が硬くなる。


「何と答える?」


 俺はすぐに、


『家同士が認めた正式な婚約です』


 と言いかけた。


 だが。


 相手の意図が分からない。


 純粋な疑問かもしれない。


 からかいかもしれない。


 否定かもしれない。


「……どのような意味でしょうか、と聞き返します」


「よろしい」


「意図を確認する」


「ええ」


「それでも失礼な言い方が続いたら?」


「両家で話し合い、正式に結ばれた婚約です、と」


「はい」


「それ以上は?」


「お答えを控えます」


「よろしい」


 父上が言う。


「言い負かそうとするな」


「はい」


「相手が納得するまで説明しない」


「はい」


「お前たちの婚約は、見知らぬ者の承認で成立しているわけではない」


「はい」


 強い。


 胸の奥へ入る。


 次。


 母上が読む。


「『フルーラ公爵令嬢は、ずいぶん婚約者へ近いそうですね』」


「噂になっている」


「可能性は高いわ」


「何と?」


 俺は考える。


「……親しく接していただいております」


 父上が眉を上げる。


「お前だけの話にするのか?」


「あ」


 俺だけが受け取っている。


 リリスが一方的に近いように聞こえる。


 関係は二人のもの。


「互いに、適切な距離を学んでおります」


 母上が微笑む。


「よろしい」


「それでも笑われたら?」


「相手の笑いへ付き合わない」


「はい」


「笑い返す必要もない」


「はい」


「不快なら?」


「その話題は控えていただけますか、と」


「言える?」


「……言います」


「よろしい」


 ライズが鞄を閉じた。


「若様、本日のハンカチは三十五枚でございます」


「予告通り」


「予期せぬ会話および第三者反応確認日でございますので」


「三十五枚」


「言葉は、身体へ直接触れずとも心を揺らします」


「はい」


「想定される涙は、知らない方より婚約を祝福された公的承認涙」


「ありそう」


「身分差へ触れられた不安涙」


「はい」


「距離感をからかわれた羞恥涙」


「確実」


「若様が先回りせず、アマリリス様ご本人の返答を待たれた信頼涙」


「はい」


「アマリリス様が若様へ向けられた失礼な言葉へ、ご自身で意見を述べられた相互擁護涙」


「強い」


「知らない相手の言葉を、お互いの本音へ変換しなかった確認涙」


「かなり大事」


「さらに、ガロウ公爵閣下が、夜会で見知らぬ者からご令嬢へ声をかけられる可能性を知り、全招待客を事前面談しようとされる危険がございます」


「絶対に無理です」


「セレスティア様の札候補は、すでに九枚ございます」


「九枚」


「主なものとして」


 ライズは淡々と読み上げる。


「『全招待客は容疑者ではない』」


「必要」


「『娘へ話しかけることは犯罪ではない』」


「はい」


「『婚約について聞かれても騎士団を展開しない』」


「はい」


「『悪意の判定を父親だけで行わない』」


「重要」


「『一言で家門を断罪しない』」


「公爵も一言を大きくしすぎる」


「左様でございます」


「今日の心の札は?」


 ライズは、いつものように一拍置いた。


「『他人の一言を、二人の真実にしない』でございます」


 俺は息を止めた。


 他人の一言。


 釣り合わない。


 近すぎる。


 重い。


 弱い。


 変だ。


 似合わない。


 その言葉を。


 俺たちの本当へ変えない。


「受け取る」


「よろしいかと」


 朝食後。


 父上と母上を相手に、短い問答練習をした。


 父上が、見知らぬ侯爵役。


「伯爵子息にしては、随分と公爵家へ気に入られたものですな」


 声は穏やか。


 だが、言葉の奥に棘。


 俺の胸が少し熱くなる。


 腹も。


 だが、すぐ返さない。


 一拍。


「ありがたいご縁をいただきました」


「運がよい」


「はい。多くの方に支えていただいております」


 受け流す。


 否定しない。


 自分を下げすぎない。


 父上が続ける。


「ご本人の実力より、家同士の都合では?」


 刺さる。


 かなり。


 俺は、自分で何度も考えてきた。


 公爵家のリリス。


 伯爵家の俺。


 釣り合わない。


 運が良かっただけ。


 家同士の都合。


 その言葉は、俺の中にすでにある。


 だから、他人に言われると強い。


 母上が何も言わず見ている。


 父上も。


 待つ。


 俺が答える。


「両家の話し合いを経た婚約です」


「それだけですかな?」


「それ以上の個人的な事情につきましては、私から申し上げることではございません」


 父上が役を解いた。


「よし」


 俺は息を吐く。


「腹が立ちました」


「当然だ」


「否定したかったです」


「何を?」


「俺にも、リリスに選ばれた理由があると」


「あるだろう」


「はい」


「だが、見知らぬ相手へ証明する必要はない」


「はい」


「証明を始めると、相手が審査する立場になる」


「……はい」


 それは嫌だ。


 俺たちの婚約を、相手が採点する。


 納得したら合格。


 しなければ不合格。


 違う。


 母上が次に、悪意のない夫人役をする。


「まあ、あなたがアルフレッド様? アマリリス様がいつもお近くにいらっしゃるそうね」


 笑顔。


 好奇心。


 少し楽しんでいる。


「そのようなお話が広まっているのですね」


「ええ。腕へ抱きつかれるとか?」


 どこから。


 誰から。


 否定したい。


 恥ずかしい。


 だが、事実もある。


 一拍。


「以前は、互いに距離の取り方を学ぶ機会が多くございました」


「今は?」


「今も学んでおります」


「まあ。では、本当に近かったの?」


 母上の役が上手い。


 踏み込む。


 でも、悪意とまでは言えない。


「その話題は、本人のいないところで詳しく申し上げることではございません」


 母上が微笑む。


「よろしい」


「強すぎませんか?」


「この程度なら」


「はい」


「笑って全部話してしまう方が危険よ」


「はい」


「恥ずかしいから自虐へ変えるのも」


「はい」


 俺は、やりそうだ。


『本当に大変なんです』


『毎日泣かれています』


『距離が近すぎて困ります』


 笑いを取るために。


 だが、それはリリスの信頼を、本人のいない場所で使うことになる。


 気をつける。


 馬車で学園へ向かう。


 空は昨日より明るい。


 薄い雲の隙間から、朝の光。


 俺は窓の外を見ながら、胸の中の言葉を確認する。


 他人の一言を。


 二人の真実にしない。


 でも。


 本当にできるだろうか。


 リリスへ、


『伯爵子息より、もっと相応しい方がいるでしょう』


 と言われたら。


 俺は平静でいられるだろうか。


 リリスが笑って流したとしても。


 その夜。


 その言葉が残らないだろうか。


 もっと相応しい方。


 公爵。


 王族。


 侯爵家の嫡男。


 剣も魔法も優秀で。


 家格も高く。


 堂々としていて。


 俺より。


 危ない。


 すでに一言も言われていないのに、自分で自分を傷つけている。


 戻る。


 馬車。


 朝。


 学園へ向かう道。


 今日は練習。


 本番ではない。


 正門前。


 リリスは、いつもの場所にいた。


 制服。


 ブルーローズ。


 足元は安定。


 俺を見つける。


 微笑む。


 だが、今日は表情に少し硬さがある。


 同じだ。


 リリスも、今日の授業を考えている。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 互いに歩く。


「ご機嫌よう、リリス」


「ご機嫌よう、アル」


「足の状態を聞いても?」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「違和感は?」


「ありません」


「修正靴は?」


「二十五分。廊下四往復。階段十段。問題ありませんでした」


「受け取りました」


「アルは?」


「同じく二十五分。廊下四往復。階段十段。問題なし」


「よかったです」


 一拍。


 リリスの目が潤む。


 だが、泣かない。


 呼吸。


「今日は」


 リリスが言う。


「知らない方との会話ですね」


「はい」


「怖いです」


「俺も」


「アルも?」


「はい」


「何が怖いですか?」


 正直に言うか。


 言う。


「リリスへ、俺より相応しい方がいると言われることです」


 リリスの目が大きくなる。


 そして、すぐに涙が溜まる。


「アル」


「はい」


「その方は、私ではありません」


「はい」


「その方がそう思っても」


「はい」


「私がそう思っていることにはなりません」


「はい」


「私が選んだのは」


 胸が鳴る。


「アルです」


 涙が落ちた。


 リリスの。


 そして、俺も目元が熱い。


「……受け取ります」


「はい」


「今、誰かに言われたわけではありません」


「はい」


「俺が先に想像しました」


「はい」


「すみません」


「謝らないでください」


「でも」


「怖いことを教えてくださって嬉しいです」


 また涙。


「リリスは?」


「はい」


「何が怖いですか?」


 リリスは少し黙る。


 正門を通る生徒たちの声。


 馬車の車輪。


 朝の風。


 ブルーローズが揺れる。


「アルへ」


「はい」


「私が重いと言われることです」


 胸が痛む。


「距離が近すぎる」


「はい」


「泣きすぎる」


「はい」


「面倒な令嬢だと」


「はい」


「アルには、もっと落ち着いた方がよいと」


 リリスの声が、少しずつ小さくなる。


 自分で何度も考えたことなのだろう。


「リリス」


「はい」


「その人は、俺ではありません」


 リリスが顔を上げる。


「はい」


「その人がリリスを重いと思っても」


「はい」


「俺がそう思っていることにはなりません」


「はい」


「俺は」


 一拍。


 正直に。


「困ることはあります」


 リリスの瞳が揺れる。


 だが、続ける。


「距離が近すぎて、心臓が追いつかないことも」


「はい」


「涙が多くて、ハンカチが足りなくなることも」


「はい」


「でも」


「はい」


「それを理由に、別の人がよいとは思いません」


 リリスの涙が一気に落ちた。


「アル」


「はい」


「リリスがよいです」


 完全に泣いた。


 朝の正門前。


 リリスはハンカチで顔を覆う。


 肩が揺れる。


 ミラがすぐに二枚目を用意する。


「本日四回目。他者評価未変換相互選択確認涙でございます」


「長い」


「重要事項でございます」


 俺もハンカチを一枚出す。


 目元へ。


 ライズは何も言わない。


 記録している気配はする。


「アル」


「はい」


「知らない方に、何を言われても」


「はい」


「一度、互いに確認しましょう」


「はい」


「その方の言葉を、私の本音にしないでください」


「はい」


「私も、アルの本音にしません」


「はい」


「約束です」


「はい」


「ただし」


「はい」


「傷ついた時は、傷ついたと言ってください」


「リリスも」


「はい」


「平気なふりをしない」


「はい」


「我慢は礼ではない」


「はい」


 これまでの学び。


 またここへ戻る。


 俺たちは、涙を拭く。


「戻りました」


 リリスが言う。


「はい」


「登校します」


「はい」


 校門を通る。


 少し進むと、ユリウスとエレナ嬢。


「おはよう」


「ご機嫌よう」


「ご機嫌よう」


 ユリウスが俺たちの目元を見る。


「朝から強い話した?」


「はい」


 リリスが答える。


「知らない方の言葉を、互いの本音にしない約束を」


 ユリウスの表情が少し真面目になる。


「大事だね」


「ユリウス様は、何が怖いですか?」


 リリスが聞く。


「僕?」


「はい」


 ユリウスは少し考える。


 いつもの軽い返答がすぐ出ない。


「軽いだけの人だと思われることかな」


 意外。


 いや。


 当然かもしれない。


 彼は自分の軽さを自覚し、何度も半歩を学んできた。


 だが、周囲から見れば。


 冗談。


 移り気。


 真剣ではない。


 そう思われることもある。


「実際、軽いけど」


 ユリウスが言う。


 自虐へ行きかける。


 エレナ嬢が静かに言った。


「軽さだけではありません」


 ユリウスが見る。


「はい?」


「あなたは、場を和らげようとする時もあります」


「うん」


「緊張している方へ、先に声をかけることも」


「はい」


「軽さは一部です」


「……ありがとう」


 ユリウスの声が少し小さい。


 褒められた後も。


 今日は誰も言わない。


 その言葉に少し滞在する。


 短い沈黙。


 ユリウスが息を吐く。


「受け取る」


「はい」


 エレナ嬢が微笑む。


「私は」


 今度は自分から言う。


「冷たいと思われることが怖いです」


「エレナ様が?」


 リリスが驚く。


「落ち着いていると」


「はい」


「感情が薄いように見えることがあります」


 リリスがすぐに首を振りかける。


 でも、一拍置く。


「私は、そう思いません」


「ありがとうございます」


「でも、そう思う方がいても」


「はい」


「私の知るエレナ様が変わるわけではありません」


 エレナ嬢の表情が柔らかくなる。


「受け取ります」


 皆、何かを恐れている。


 見知らぬ者に、一部だけを見て決められること。


 そして、その一部を自分の全部だと思い始めること。


 教室へ入る。


 今日は、いつも以上に人が多い。


 上級生。


 別クラスの生徒。


 教師。


 模擬夜会の時に手伝った者たち。


 全員、知らない相手役を務めるらしい。


 教室の後方には、役割札。


『好意的な年長者』


『好奇心の強い令嬢』


『身分差を気にする貴族』


『噂好き』


『無遠慮な若者』


『悪意のある相手』


『会話を終えない相手』


『助けを必要とする相手』


 多い。


 そして嫌だ。


 生徒たちの反応も様々。


「怖い」


「誰が悪意役?」


「先輩?」


「本気で言わないよね?」


「練習でも嫌だな」


 ニールは、役割札を見ただけで青ざめている。


 クラリス嬢は静かだが、手を握っている。


「大丈夫ですか?」


 リリスが聞く。


「怖いです」


「どの役が?」


「噂好きな方」


「何を聞かれるか」


「はい」


 ニールも言う。


「僕は、何を言われても答えようとしてしまいます」


「全部答えなくていいそうです」


 俺が言う。


「本当に?」


「はい」


「分かりません、でも?」


「はい」


「答えたくありません、でも?」


「言い方は整える必要がありますが」


 リリスが言う。


「『その件については控えさせてください』と」


 ニールが小さく練習する。


「その件については、控えさせてください」


「はい」


「言えました」


「まだ相手がいません」


「練習です」


 少し笑い。


 緊張が緩む。


 一時間目。


 礼法。


 ベイル先生は教室へ入り、普段より多い人員を見渡した。


 黒板へ向かう。


『予期せぬ会話と第三者の言葉』


 先生が振り返る。


「本日は、夜会で想定外の方から声をかけられた場合の対応を確認します」


「はい」


「最初に」


 黒板へ書く。


『すべてに答えなくてよい』


『意図を確認してよい』


『不快なら終えてよい』


『一人の言葉を全員の評価にしない』


『第三者の言葉を、身近な者の本音に変えない』


 最後の二つ。


 今日の中心。


「夜会では、好意的な方ばかりではありません」


 教室が静かになる。


「ただし」


 先生は続ける。


「悪意を疑いすぎても、会話は成立しません」


「はい」


「全員を敵と見なさない」


 ガロウ公爵へ必要。


 俺たちにも。


「相手の言葉を聞く」


「はい」


「分からなければ聞き返す」


「はい」


「答えたくない場合は、丁寧に控える」


「はい」


「一人で対応が難しければ、同伴者や家族へ視線を送る」


「はい」


「同伴者は、本人が答える機会を奪わない」


 俺の胸へ。


「ただし、明確な悪意や危険がある場合は、すぐに会話へ入る」


「はい」


「見守ることと、見捨てることを混同しない」


「はい」


 半歩。


 待つ。


 必要なら入る。


「そして」


 先生の声が少し強くなる。


「言われた言葉を、夜会後まで一人で抱えないこと」


「はい」


「信頼できる者へ話す」


「はい」


「相手の言葉を、事実として固定する前に」


「はい」


「本当にそうかを確認する」


「はい」


 俺とリリスが顔を見合わせる。


 朝の約束。


「では、実践します」


 最初は、好意的な年長者。


 相手役は、別クラスの教師。


 柔らかな笑顔。


 俺とリリスの前へ。


「まあ。あなた方が噂のご婚約者同士ね」


 噂。


 最初から少し引っかかる。


 だが笑顔。


 悪意はない。


 俺たちは礼。


「お初にお目にかかります」


 リリスも。


「お目にかかれて光栄です」


「とても仲がよろしいそうで」


 リリスの目が少し潤む。


 一拍。


「ありがとうございます。互いに多くを学びながら、関係を育てております」


 良い。


 先生役の夫人が笑う。


「素敵ね。若い頃は、近いくらいがよいものよ」


 俺は少し困る。


 褒めている。


 だが、距離の話。


 リリスを見る。


 本人が答える。


「近さだけでなく、相手が安心できる距離も大切だと学んでおります」


「まあ。しっかりなさっているのね」


「ありがとうございます」


 会話が続く。


「夜会を楽しんでくださいな」


「はい」


「ありがとうございます」


 相手が離れる。


 ベイル先生が言う。


「よろしい」


「はい」


「相手は好意的でした」


「はい」


「ですが、アマリリスさんは近さを全面肯定せず、自分たちの学びを伝えました」


「はい」


「シェルザートさん」


「はい」


「なぜ途中で答えませんでした?」


「リリスへ向けられた言葉だったからです」


「はい」


「見守れました」


「はい」


「ただし、困っている様子なら?」


「入ります」


「よろしい」


 リリスの目が潤む。


「褒められた後も?」


「次の会話が来ます」


 先生が答えた。


 教室に笑い。


 次。


 好奇心の強い令嬢。


 上級生が役を務める。


 表情は明るい。


 距離が少し近い。


「アマリリス様。皆さまが仰っているのですけれど、本当にアルフレッド様へ抱きつかれるの?」


 直球。


 教室がざわつく。


 リリスの顔が一瞬で赤くなる。


 俺の体も硬くなる。


 答えたい。


 止めたい。


 だが、リリスを見る。


 目が合う。


 リリスは、まだ助けを求めていない。


 一拍。


「そのような私的な話につきましては、お答えを控えさせてください」


 言えた。


「まあ。否定はなさらないの?」


 さらに踏み込む。


 リリスの指先が、ハンカチへ動きそうになる。


 でも右手のまま。


 戻る合図ではない。


「否定や肯定を、皆さまの楽しみとしてお渡しするつもりはございません」


 教室が静かになる。


 強い。


 だが、丁寧。


 相手役の令嬢が少し驚く。


「ごめんなさい。興味本位でしたわ」


「お気持ちは受け取りました」


「失礼いたしました」


 相手が離れる。


 教室から拍手。


 リリスの涙が落ちる。


「授業は続きます」


 自分で言う。


 先生が頷いた。


「大変よろしい」


「はい」


「私的な情報を、娯楽として提供しない」


「はい」


「シェルザートさん」


「はい」


「よく待ちました」


「かなり危なかったです」


「何と言いたかった?」


「失礼です、と」


「言う必要は?」


「リリスが答えられたので、ありませんでした」


「よろしい」


 次。


 身分差を気にする年長貴族。


 今度は、別の男性教師。


 俺たちへ近づく。


「フルーラ公爵令嬢」


「はい」


「失礼ながら、伯爵家の次男を婚約者へ選ばれた理由を伺っても?」


 教室の空気が変わる。


 さっきより重い。


 リリスの目が、一瞬俺へ。


 俺は答えない。


 リリスへ向けられた質問。


 だが、俺も傷つく。


 胸の奥が硬くなる。


 リリスは一拍置いた。


「どのような意図で、そのご質問を?」


 聞き返した。


 相手役が答える。


「公爵家なら、より家格の高いご縁もあったのではないかと」


 明確。


 リリスの表情が変わる。


 泣きそうではない。


 少し怒っている。


「家格だけを理由に、人を選んではおりません」


「では、何を?」


「その件につきまして、初対面の方へ詳しくお話しするつもりはございません」


「しかし、周囲も不思議に思っておりますよ」


 周囲。


 一人の言葉を全員へ広げる。


 リリスの肩が少し揺れる。


 俺は、入るか。


 まだ。


 リリスの目を見る。


 助けの合図はない。


「周囲の皆さまがどのようにお考えかは、それぞれの方へお尋ねください」


 強い。


「私の婚約者は、私と両家が選び、認めた方です」


 俺の胸が熱くなる。


「それ以上の説明を、必要とは考えておりません」


 相手役が黙る。


 教室も。


 長い沈黙。


 やがて、相手役が礼をする。


「失礼いたしました」


 離れる。


 リリスの目から涙が落ちた。


 怒り。


 安心。


 緊張。


 全部。


 俺は手を出したい。


 でも、授業。


 先生が言う。


「アマリリスさん」


「はい」


「怒りましたか?」


「はい」


「何に?」


「アルを、家格だけで見られたことです」


「はい」


「怒りを否定しませんでした」


「はい」


「しかし、相手を罵りませんでした」


「はい」


「必要な境界を伝えました」


「はい」


「大変よろしい」


 拍手。


 教室全体。


 リリスは涙を拭く。


 俺の目元も熱い。


「シェルザートさん」


「はい」


「今、何を感じました?」


「嬉しかったです」


「はい」


「同時に、自分が守られる側になったことへ戸惑いました」


「よろしい」


「よろしいんですか?」


「支えられることへ慣れなさい」


「はい」


「あなたばかりが守る役ではありません」


 リリスが俺を見る。


「はい」


 小さな声。


 次は逆。


 俺へ向けた質問。


 悪意のある若者役。


 上級生の男子。


 口元に笑い。


「シェルザート殿」


「はい」


「公爵令嬢の涙へ毎日付き合うのは、大変では?」


 教室がざわつく。


 リリスの顔が固まる。


 俺も。


 言葉は、俺へ向けられている。


 リリスが答えようとしない。


 待っている。


 俺の番。


「大変な時はあります」


 教室が静かになる。


 リリスの瞳が揺れる。


 でも、嘘は言わない。


「しかし、それは婚約を後悔する理由ではありません」


「本当に?」


「はい」


「もっと落ち着いた方なら、楽なのでは?」


 胸が熱くなる。


 朝、リリスが怖いと言った言葉。


 来た。


 俺は、一拍置く。


「楽かどうかだけで、人を選んではおりません」


「では、泣きすぎるとは思わない?」


 相手役は続ける。


 教室全体が緊張。


 リリスの目に涙。


 俺は、彼女を見る。


 でも、答えるのは俺。


「涙が多いとは思います」


 正直に。


「はい」


「ですが、それはアマリリス様の一部です」


「一部」


「全部ではありません」


 相手役の笑いが少し消える。


「俺が困ることもあります」


「はい」


「でも、俺はアマリリス様がよいです」


 リリスの涙が一気に落ちる。


 教室もざわめく。


 相手役が黙る。


「それ以上の評価を、あなたへ求めておりません」


 言えた。


 少し強い。


 だが必要。


 相手役は礼。


「失礼しました」


 離れる。


 静か。


 拍手が、少し遅れて起こる。


 大きい。


 リリスはハンカチで顔を覆う。


 先生が言う。


「アマリリスさん」


「はい」


「今は泣いてよいです」


「はい」


「ただし?」


「授業は続きます」


「よろしい」


 教室が少し笑う。


 俺も息を吐く。


 先生が俺を見る。


「シェルザートさん」


「はい」


「自虐へ逃げませんでした」


「はい」


「相手の言葉を全部否定するために、アマリリスさんを理想化もしませんでした」


「はい」


「困ることはある」


「はい」


「しかし、選択は変わらない」


「はい」


「大変よろしい」


 受け取る。


 胸が熱い。


 一拍。


「ありがとうございます」


 褒められた後も、次。


 次は。


 会話を終えない相手。


 役は、別クラスの女性教師。


 最初は穏やか。


「お二人とも、お似合いですわ」


「ありがとうございます」


 リリスも礼。


「どちらから想いを?」


 踏み込む。


「その件につきましては」


「まあ、恥ずかしがらずに」


「私的な話ですので」


「では、初めて手を取ったのは?」


 終わらない。


 俺とリリスは一度、視線を合わせる。


 会話を終える必要。


 俺が言う。


「申し訳ございません。次のご挨拶がございますので、失礼いたします」


「まだ少しだけ」


 相手が止める。


 リリスが続ける。


「お話しできて光栄でした。失礼いたします」


 二人で礼。


 離れる。


 相手は追わない。


 先生が止める。


「よろしい」


「はい」


「相手の許可がなくても、会話を終えてよい場合があります」


「はい」


「ただし、無言で離れない」


「はい」


「理由と礼を」


「はい」


 次は、助けを必要とする相手。


 若い令嬢役の生徒が、不安そうに話しかけてくる。


「すみません。第一控え室は、どちらでしょうか」


 俺たちは知らない。


 本番なら案内図。


 王城係。


「申し訳ありません。私たちも正確な位置を確認できておりません」


 俺が答える。


「一緒に王城係の方へ伺いましょうか」


 リリスが続ける。


「よろしいのですか?」


「はい」


 助ける。


 でも、勝手に案内しない。


 知らないことを知っているふりをしない。


 先生が頷く。


「よろしい」


 知らない相手は、敵だけではない。


 困っている者。


 緊張している者。


 自分たちと同じ初参加者。


 全員を疑わない。


 最後。


 最も難しい想定。


 悪意のある相手が、二人の間へ言葉を置く。


 相手役は、ベイル先生自身。


 俺たちは向かい合う。


 先生は、まずリリスへ。


「アマリリス様」


「はい」


「アルフレッド様は、あなたの涙を面倒だと仰っていましたよ」


 教室が静まり返る。


 俺の胸が凍る。


 言っていない。


 だが。


 リリスは?


 リリスの顔が真っ白になる。


 涙が、すぐに溜まる。


 言葉が、真っ直ぐ恐怖へ刺さった。


 俺は答えたい。


 否定したい。


 今すぐ。


 だが、先生はリリスへ向けている。


 リリスが俺を見る。


 助けを求める目。


 これは。


 入る。


「そのようなことは申し上げておりません」


 俺が答える。


 先生役の相手が言う。


「本当に? 困っているとは聞きましたが」


 困ることはある。


 さっき言った。


 言葉の一部を切り取る。


「困ることがあるとは申しました」


「ほら」


「しかし、面倒だから別の方がよいとは思っておりません」


 先生は、リリスを見る。


「でも、困っているのですって」


 リリスの涙が落ちる。


 だが。


 呼吸。


 一拍。


「私は、アル本人へ確認します」


 言えた。


 先生役が黙る。


 リリスは俺を見る。


「アル」


 今は授業。


 だが、必要な確認。


「はい」


「私を、面倒だと思っていますか?」


 胸が痛い。


 正直に。


「面倒だと思う瞬間はありません」


 違う。


 嘘になりそう。


 戻る。


「……困る瞬間はあります」


 リリスの目が揺れる。


「はい」


「でも、リリス自身を面倒な人だと思ってはいません」


「はい」


「別の人がよいとも思いません」


「はい」


「リリスがよいです」


 涙が一気に落ちる。


「受け取ります」


「はい」


 ベイル先生が役を解く。


 教室は静か。


 誰もすぐ拍手しない。


 言葉が重かったから。


 先生が言う。


「今のように」


「はい」


「第三者が、本人の言葉を歪めて伝えることがあります」


「はい」


「一部だけ」


「はい」


「意味を変えて」


「はい」


「その時、第三者へ答えを求めない」


「はい」


「本人へ確認する」


「はい」


 リリスが涙を拭く。


「シェルザートさん」


「はい」


「否定するために嘘を言いかけましたね」


「はい」


「なぜ戻った?」


「困ることがない、と言えば、後でリリスが信じられなくなると思いました」


「その通りです」


 困ることはある。


 でも、選択は変わらない。


 正直さ。


 理想化しない。


 関係は、無傷だから続くのではない。


 困りながら。


 話しながら。


 直しながら。


 続く。


 先生は次に俺を見る。


 役へ戻る。


「アルフレッド様」


「はい」


「アマリリス様は、ご家族に、あなたでは頼りないと泣いていたそうですよ」


 今度は俺。


 胸へ刺さる。


 頼りない。


 あり得る。


 リリスが不安になることもあるだろう。


 俺は強くない。


 公爵家の重さに慣れていない。


 リリスを見る。


 彼女は、すぐに答えようとする。


 だが、俺が聞く。


「リリス」


「はい」


「俺を、頼りないと思っていますか?」


 リリスは泣きながら、一拍置く。


「頼りないと思う時はあります」


 胸が痛む。


 でも、続く。


「はい」


「アルが一人で抱え込む時」


「はい」


「自分を下げる時」


「はい」


「私の言葉を聞かず、先に決める時」


「はい」


「でも」


「はい」


「だから、婚約者として嫌だとは思いません」


 涙が落ちる。


「一緒に学びたいです」


「はい」


「アルがよいです」


 胸が熱い。


 目元も。


「受け取ります」


 先生が役を解く。


 今度は拍手が起きた。


 ゆっくり。


 教室全体。


 ニールも。


 クラリス嬢も。


 ユリウスも。


 エレナ嬢も。


 皆、何かを受け取っている。


「頼りないと思う時がある」


 先生が言う。


「はい」


「面倒だと感じる瞬間がある」


「はい」


「それでも、関係全体を否定することにはなりません」


「はい」


「第三者は、一部だけを使って二人を分けようとする場合があります」


「はい」


「本人へ確認しなさい」


「はい」


「ただし、確認を尋問にしない」


「はい」


「『本当はそう思っているのだろう』と、答えを決めて聞かない」


「はい」


 俺に必要。


 不安な時ほど。


『本当は俺より他の人がよいのでは』


『無理しているのでは』


 答えを決めて聞いてしまう。


 それは確認ではない。


 自分の不安へ相手を引き込むこと。


「今の授業で、傷ついた者は?」


 先生が全員へ聞く。


 多くの手が上がる。


 俺。


 リリス。


 ユリウス。


 エレナ嬢。


 ニール。


 クラリス嬢。


「よろしい」


「はい?」


 誰かが驚く。


「傷つかなかったふりをしないことが」


 先生は静かに言う。


「本番後も」


「はい」


「言われた言葉を、一人で処理しない」


「はい」


「夜会当日に解決できない場合もあります」


「はい」


「持ち帰ってよい」


「はい」


「家族や友人へ話してよい」


「はい」


「その夜に答えを出さなくてよい」


 場面を急がない。


 夜会も。


 言葉も。


 傷も。


 その場で全部終えなくていい。


 休み時間。


 教室の空気は、いつもより静かだった。


 皆、授業で言われた言葉が少し残っている。


 役だと分かっていても。


 練習だと知っていても。


 刺さる言葉は刺さる。


 リリスは席に座り、ハンカチを両手で握っていた。


 俺は隣へ。


 近すぎない。


 でも、いつもより少し近い。


「リリス」


「はい」


「大丈夫ですか?」


 一度。


 評価しない。


 リリスは少し考える。


「まだ、胸が痛いです」


「はい」


「アルが、面倒だと言ったという言葉が」


「はい」


「役だと分かっています」


「はい」


「でも、怖かったです」


「はい」


「俺も、頼りないと言われた時、怖かったです」


「はい」


「リリスが本当にそう思っている部分もあると聞いて」


「ごめんなさい」


「謝らないでください」


「でも」


「俺も、困ることがあると言いました」


「はい」


「正直でいたいです」


「はい」


「全部大丈夫と言って、後で崩れたくない」


「私も」


 短い沈黙。


 窓の外。


 昼前の光。


 誰かが遠くで笑う声。


 教室の中では、皆が自分の言葉を静かに整理している。


「アル」


「はい」


「頼りないと思う時はあります」


「はい」


「でも」


「はい」


「頼りたいと思う時もあります」


 胸が鳴る。


「はい」


「実際に、頼っています」


「はい」


「一緒にいたいです」


「はい」


「受け取ってください」


「受け取ります」


 俺も言う。


「リリス」


「はい」


「困る時はあります」


「はい」


「でも」


「はい」


「笑ってほしい時も」


「はい」


「泣いてほしくない時も」


「はい」


「泣いていても、隣にいたい時もあります」


 リリスの涙が落ちる。


「どれですか?」


「今は」


 一拍。


「泣いていても、隣にいたいです」


 完全に泣いた。


 だが、静か。


 声は上げない。


 ハンカチ。


 俺も一枚渡す。


「ありがとうございます」


「はい」


 エレナ嬢が、少し離れた席から見ている。


 近づかない。


 今は二人の確認。


 待っている。


 その距離がありがたい。


 しばらくして。


 リリスが涙を拭く。


「戻りました」


「はい」


「皆さまのところへ」


「はい」


 俺たちは立つ。


 ユリウスたちの輪へ。


「大丈夫?」


 ユリウスが聞く。


「まだ少し」


 俺が答える。


 リリスも。


「私もです」


「了解」


 それ以上、深く聞かない。


 エレナ嬢が水を渡す。


 ニールが小さく言う。


「僕も、役で『何もできない次男』と言われて、まだ少し残っています」


「誰に確認しますか?」


 リリスが聞く。


「姉に」


「はい」


「家へ帰ったら」


「よいと思います」


「評価では?」


 ニールが自分で言う。


 皆が少し笑う。


 空気が戻る。


 昼休み。


 食堂。


 今日は、会話がいつもよりゆっくりだった。


 誰も急いで明るくしようとしない。


 傷ついた後、すぐ元気にならなくてもよい。


 スープを飲む。


 パンを食べる。


 水。


 食べられていますか。


 一度だけ。


「リリス、食べられていますか?」


「はい。スープとパン。これから野菜を」


「分かりました」


「アルは?」


「スープと肉。パンをこれから」


「分かりました」


 評価しない。


 昨日の学び。


 今日も続く。


 クラリス嬢が言う。


「知らない方の言葉は、怖いですね」


「はい」


 リリスが答える。


「でも、知らない方だからこそ」


「はい」


「私の全部を知っているわけではありません」


「そうですね」


「一部だけで決められても」


「はい」


「私が全部、そうなるわけではない」


 クラリス嬢が少し笑う。


「私も、暗いと言われることがあります」


「クラリス様が?」


「静かなので」


「はい」


「以前は、そのたびに明るくしなければと思いました」


「今は?」


「静かなまま話せる方もいると分かりました」


 リリスの目が潤む。


「私たちも、その方ですか?」


「はい」


「嬉しいです」


 涙が一粒。


「褒められた後も?」


 クラリス嬢が先に言う。


「昼食は続きます」


 皆が笑う。


 午後の魔法基礎。


 教師は、教壇の前に小さな透明の球をいくつも浮かべていた。


「本日は、他者の言葉と魔力です」


 やはり、今日も何でも魔法になる。


「この球へ、言葉を一つ入れます」


 教師が言う。


「それを受け取った者は、自分の魔力へ混ぜるか、外へ置くかを選びます」


「はい」


 最初の球。


『弱い』


 俺の前へ。


 透明な球の中で、文字が揺れる。


 弱い。


 俺の中にある。


 だから、引き寄せられる。


「すぐ混ぜない」


 教師が言う。


「はい」


「誰の言葉ですか?」


「分かりません」


「事実ですか?」


「一部では」


「全部ですか?」


「いいえ」


「では?」


 俺は球を、手のひらから半歩外へ置く。


「確認するまで、外へ」


「よろしい」


 次。


 リリス。


『重い』


 深い青の魔力が揺れる。


 リリスの目が潤む。


「アマリリスさん」


「はい」


「誰の言葉ですか?」


「分かりません」


「シェルザートさんの本音ですか?」


 リリスは俺を見る。


 俺は答えない。


 今は本人が。


「確認していません」


「では?」


「アルの本音にはしません」


 球を外へ。


「よろしい」


 次。


 ユリウス。


『軽いだけ』


 彼の魔力が強く揺れる。


 だが、一拍。


「軽さはあります」


「はい」


「だけ、ではありません」


 外へ置く。


 エレナ嬢。


『冷たい』


「落ち着いて見えることはあります」


「はい」


「感情がないわけではありません」


 外へ。


 ニール。


『何もできない』


 彼は手を震わせる。


 リリスが口を開きかける。


 でも待つ。


 ニールが自分で言う。


「できないことは多いです」


「はい」


「できることもあります」


「はい」


「姉に確認します」


 教室に小さな笑い。


 でも温かい。


「よろしい」


 最後に教師が言う。


「他者の言葉を、すべて捨てればよいわけではありません」


「はい」


「必要な指摘もある」


「はい」


「しかし、正しいか確認する前に、自分の中心へ置かない」


「はい」


「言葉にも、仮置きの場所を」


 半歩外。


 すぐ心へ入れない。


 捨てもしない。


 確認する。


 放課後。


 レオナルド先輩は、いつもの場所で待っていた。


 今日は腕を組んでいる。


 表情が少し硬い。


「リリス」


「お兄様」


「足は?」


「問題ありません」


「靴は?」


「二十五分。廊下四往復。階段十段。問題なし」


「よい」


 俺も報告。


「同じく問題なし」


「よい」


 次。


「何を言われた」


 レオナルド先輩が聞く。


 リリスは少し迷う。


「私へは、アルより家格の高い方がいたのでは、と」


 レオナルド先輩の目が鋭くなる。


「役だな」


「はい」


「返答は?」


「家格だけで人を選んでいない。両家と私が選び、認めた婚約だと」


「よい」


「お兄様は?」


「何が」


「怒っていますか?」


「役へ少し」


「練習です」


「分かっている」


 でも怒る。


 兄。


「アルフレッド」


「はい」


「君は?」


「リリスより落ち着いた人の方が楽では、と」


 レオナルド先輩の目がさらに鋭くなる。


「返答は?」


「困ることはある。でも、それで別の人がよいとは思わない。リリスがよい、と」


「よい」


 短い。


 だが、リリスの目が潤む。


「他には?」


 俺たちは、最後の歪めた伝言の練習を話す。


 レ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ