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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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69/84

第69話 公爵令嬢様、列で三分待つだけなのに置いていかれた気になります


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王城の春の親睦夜会まで、あと四日。


 五日だった数字が、もう四日になった。


 片手の指を一本折っただけ。


 それだけなのに、胸の奥へ落ちてくる重さが昨日までとは少し違う。


 四日。


 今日。


 明日。


 その次。


 前日。


 そして本番。


 数えられる。


 簡単に。


 簡単に数えられてしまうところまで来た。


 以前なら、ここで頭の中に王城を作り始めていたと思う。


 十八時十五分。


 第一控え廊下。


 完成した礼装。


 深い青のドレス。


 ブルーローズ。


 王城の扉。


 挨拶列。


 乾杯。


 第一舞踏。


 戻る合図。


 終わりまで。


 全部を、今のうちに何度も繰り返そうとしていただろう。


 だが。


 今日は今日。


 明日は明日。


 四日分の緊張を、今朝一度に使わない。


 そう何度も教わってきた。


 それでも、数字が減れば胸は鳴る。


 止めるのではない。


 受け取って。


 一拍置いて。


 朝食を食べる。


 昨日は、王城での呼称と紹介の礼を学んだ。


 公の場では、言葉にも礼装を着せる。


 王族や年長者の前では、


「シェルザート様」


「アマリリス様」


 親しい方々の前では、


「アルフレッド様」


「リリス様」


 二人きりなら、


「アル」


「リリス」


 呼び方が変わっても、関係は変わらない。


 言葉の衣装が変わるだけ。


 俺がアマリリス様と呼んでも、その声が向かう先はリリスだ。


 リリスがアルフレッド様と呼んでも、呼ばれているのは俺だ。


 婚約者として紹介しても、所有するわけではない。


 リリスは、リリス。


 俺は、俺。


 その上で、婚約者。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 俺たちは、近さと礼を同じ場所へ置けるようになっている。


 たぶん。


 まだ本番ではないので、断言はできない。


 そして本日の課題。


 挨拶列。


 待ち時間。


 順番。


 王城では、到着したからといって、すぐに王族へ挨拶できるわけではない。


 先に到着している家。


 主催者側。


 年長者。


 外交使節。


 王族に近い役職の者。


 いくつもの順番がある。


 そのため、並ぶ。


 待つ。


 少し進む。


 また待つ。


 前の者が長く話しても、急かさない。


 後ろが詰まっても、自分の挨拶を焦らない。


 同行者が別の列へ呼ばれても、不安で追いかけない。


 そして。


 俺たちにとって最大の問題。


 列の中では、いつも隣にいられるとは限らない。


 家族単位。


 男女別。


 年齢別。


 紹介順。


 王城側の案内によって、ほんの数歩。


 あるいは数分。


 離れる場面があるらしい。


 数分。


 それだけ。


 だが、リリスにとっては。


 いや。


 俺にとっても。


 視界の中にいるのに隣へ立てない時間は、思っているより長く感じるかもしれない。


 朝。


 食堂へ入ると、父上と母上は、すでに床へ細長い布を置いていた。


 赤。


 金。


 青。


 食堂の床に、三本の線。


 なぜ。


「おはようございます」


「おはよう、アル」


「おはよう」


 父上は、赤い線の端に立っている。


 母上は金。


 ライズは青。


「朝から何をしているんですか?」


「列の練習よ」


 母上が当然のように答えた。


「食堂で?」


「廊下より広いでしょう?」


「食事の前に?」


「食べてからでは、床の布を片づける必要があるもの」


「先に練習するんですか?」


「五分だけ」


 朝の五分。


 最近、我が家には短時間練習が増えた。


 靴。


 呼称。


 乾杯。


 そして列。


 全部を長くやらない。


 必要な分だけ。


「まず、あなたは青い線へ」


「はい」


 俺はライズの後ろへ立つ。


 父上が言う。


「王城の受付から第一控え廊下へ向かう列を想定する」


「はい」


「前が進んだら?」


「進みます」


「どのくらい?」


「前の方との間を空けすぎない程度に」


「詰めすぎるな」


「はい」


「後ろが近づいたら?」


「自分も急ぐ?」


 父上の視線。


「急がない」


「はい」


「後ろの焦りを受け取るな」


「はい」


「前だけを見るな」


「はい?」


「同行者も確認しろ」


 父上は母上を見る。


「ただし、見続けるな」


「難しいですね」


「列だからな」


 それで説明になるのか。


 母上が言う。


「夜会では、あなたの前にリリス様がいる場合もあれば、後ろの場合もあります」


「はい」


「家族の代表が先へ進む間、数歩離れることも」


「はい」


「そのたびに声をかけない」


「はい」


「目が合えば、頷く程度」


「はい」


「戻る合図を乱用しない」


 胸元の青。


 リリスがハンカチを左手へ。


 俺が青へ触れる。


 大切な合図。


 だが、少し離れるたびに使っていたら、何が本当に必要な場面なのか分からなくなる。


「戻る合図は?」


 俺が聞く。


「本当に不安が強くなった時」


「はい」


「離れただけでは使わない」


「はい」


「列が動けば、また近づくこともあります」


「はい」


「待つ」


 今日の課題。


 待つ。


 父上が手を上げる。


「進め」


 ライズが一歩。


 俺も一歩。


「止まれ」


 止まる。


 父上が後ろへ回る。


 少し近い。


 背中へ圧を感じる。


「今、急ぎたくなったか」


「少し」


「なぜ?」


「後ろが近いから」


「王城でもある」


「はい」


「だが、前が止まっているなら進めない」


「はい」


「後ろの都合で、前の者へぶつかるな」


「はい」


 また進む。


 一歩。


 止まる。


 二歩。


 止まる。


 遅い。


 朝食が向こうにある。


 香りがする。


 空腹。


 その状態で列。


 少しだけ苛立つ。


 父上が言う。


「今、顔に出た」


「朝食が」


「王城では?」


「軽食が」


「列の途中で取りに行くか?」


「行きません」


「なら待て」


「はい」


 母上が笑っている。


「アルは待つのが苦手ね」


「普通だと思います」


「普通だから練習するのよ」


「はい」


 次に、母上が俺の隣へ来る。


「私がリリス様役」


「母上が?」


「嫌?」


「そういうわけでは」


「では始めるわ」


 並ぶ。


 俺。


 母上。


 ライズが前。


 父上が王城係。


「シェルザート伯爵家ご子息はこちらへ。フルーラ公爵令嬢は、あちらで確認を」


 父上が言う。


 母上が金の線へ移る。


 二歩。


 三歩。


 距離。


 母上はこちらを見る。


 俺も見る。


「声をかけるな」


 父上。


「はい」


「目が合った」


「はい」


「どうする?」


 俺は小さく頷く。


 母上も頷く。


 それだけ。


「不安は?」


「少し」


「母上相手でも?」


「役として見ていますから」


「よろしい」


 母上が戻る。


 ほんの数秒。


 だが、想像すると。


 深い青のリリス。


 王城の人混み。


 知らない貴族。


 金の灯り。


 音楽。


 その中で別の線へ案内される。


 胸がざわつく。


「アル」


 母上が俺の顔を見る。


「今、先へ行ったわね」


「はい」


「今日は今日」


「はい」


「今は食堂」


「はい」


「私は母上」


「はい」


 戻る。


 食堂。


 朝。


 赤い線。


 金の線。


 青い線。


「本番の不安を、今全部使わない」


「はい」


 父上が言う。


「列で待つ時間は、何もしない時間ではない」


「何をしますか?」


「呼吸」


「はい」


「足の状態」


「はい」


「同行者」


「はい」


「自分の順番」


「はい」


「周囲の会話を盗み聞きしない」


「はい」


「前の者の挨拶を採点しない」


「はい」


「後ろの者と張り合わない」


「はい」


「多いですね」


「暇になると、人は余計なことを考える」


「たしかに」


 母上が微笑む。


「待つ時間にも、居場所があるのよ」


 休むことにも。


 食べることにも。


 待つことにも。


 夜会の一部。


 俺たちは、何かをしていない時間を、すぐ空白だと思ってしまう。


 だが、列で待つ。


 それも夜会。


 朝食の席へ移る。


 やっと。


 パンへ手を伸ばす。


 ライズが鞄を整えながら言う。


「若様、本日のハンカチは三十四枚でございます」


「予告通り」


「挨拶列および待ち時間確認日でございますので」


「待つだけで三十四枚」


「待つ時間は、想像が増えやすくございます」


「それは分かる」


「想定される涙は、列で若様と数歩離れた際の一時的分離不安涙」


「はい」


「目が合い、頷きだけで戻れた信頼確認涙」


「ありそう」


「声をかけず待てた成長涙」


「はい」


「若様が先に呼ばれた際の置いていかれ感情涙」


「確実」


「アマリリス様が先に進まれた際の若様側見送り不安」


「俺も」


「はい」


「列が再び合流した際の再会涙」


「三分でも再会扱い?」


「アマリリス様ですので」


「はい」


「さらに、ガロウ公爵閣下が、列によりご令嬢と離れる可能性を知り、列そのものを廃止しようとされる危険がございます」


「王城の制度です」


「セレスティア様の札候補は確認済みでございます」


「何ですか?」


「『列は誘拐ではない』」


「必要ですね」


「『三歩で娘を失わない』」


「はい」


「『前へ進んでも父親を置いていかない』」


「公爵が置いていかれる側」


「はい」


「『自分の順番を待つ』」


「一番基本」


「さらに」


「まだ?」


「『王族の列を騎士団長権限で短縮しない』」


「絶対に必要です!!」


 ライズは真顔で頷いた。


「本日の心の札は、『離れて見える時間も、同じ列の中』でございます」


 俺はパンを持ったまま止まった。


 離れて見える。


 でも、同じ列。


 同じ目的地。


 同じ夜会。


 一時的に別の位置へいても、別々の場所へ向かっているわけではない。


「受け取る」


「よろしいかと」


 朝食を食べる。


 急がない。


 列の練習で遅れた気がしたが、出発時刻には余裕がある。


 父上は、俺の食べる速度を見て言う。


「待たされた後ほど、急ぐな」


「はい」


「王城でも、列を抜けた後に早口になる者がいる」


「挨拶を?」


「ああ」


「気をつけます」


「待った分を取り戻そうとするな」


 時間にも半歩。


 列にも半歩。


 学園へ向かう馬車。


 外は薄曇り。


 朝の光が柔らかい。


 道端の木々が風に揺れる。


 馬車の車輪は一定の音。


 俺は目を閉じる。


 列。


 待つ。


 進む。


 止まる。


 リリスが別の列へ。


 目が合う。


 頷く。


 声をかけない。


 待つ。


 戻る。


 それだけ。


 だが、想像すると胸が詰まる。


 なぜだろう。


 普段、学園でも別の授業へ行く。


 家へ帰れば別々。


 夜も別の屋敷。


 それなのに、同じ場所で一時的に離れる方が不安になる。


 近くにいるから。


 見えるから。


 手を伸ばせば届きそうなのに、動いてはいけない。


 その距離が、遠く感じる。


 でも。


 待つ。


 近づくことだけが信頼ではない。


 離れたまま、戻ると分かっていること。


 それも信頼。


 正門前。


 リリスは、いつもの場所にいた。


 制服。


 ブルーローズ。


 穏やかな立ち姿。


 足元も問題なさそう。


 だが、勝手に決めない。


 リリスが俺を見つける。


 微笑む。


 今日は、少しだけ緊張した顔。


 歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 俺も。


「ご機嫌よう、リリス」


「ご機嫌よう、アル」


 今は二人の呼び方。


 正門前。


 まだ公的練習前。


「足の状態を聞いても?」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「違和感は?」


「ありません」


「修正靴は?」


「二十分。廊下三往復。階段七段。問題ありませんでした」


「受け取りました」


「アルは?」


「二十分。廊下三往復。階段七段。問題なし」


「よかったです」


 一拍。


 リリスの目が少し潤む。


 だが泣かない。


「今日は、列ですね」


「はい」


 声が少し小さい。


「アル」


「はい」


「王城で、別の列へ行くことがありますか?」


「あるそうです」


「どのくらい?」


「数歩。長くても数分だと思います」


「数分」


「はい」


 リリスは正門の向こうを見る。


 生徒たちが流れていく。


 友人同士。


 一人。


 二人。


 途中で分かれ。


 また別の場所で会う。


 いつもの光景。


「置いていかれた気がすると思います」


 リリスが正直に言う。


「はい」


「アルが先に呼ばれたら」


「はい」


「私だけ残ったように」


「俺も、リリスが先へ行ったら不安です」


「アルも?」


「はい」


「一緒です」


 目が潤む。


「でも」


 俺は続ける。


「離れて見える時間も、同じ列の中だそうです」


「同じ列」


「はい」


「別の場所へ行くわけではない」


「はい」


「少し順番が違うだけ」


「はい」


「俺が先へ行っても、リリスを置いていくわけではありません」


 涙が落ちた。


「アル」


「はい」


「先に進んでも?」


「待っています」


「どこで?」


「案内された場所で」


「勝手に戻ってきませんか?」


「戻りません」


 リリスが少し笑った。


「正直です」


「列を逆走したら怒られます」


「はい」


「でも、見える場所なら」


「はい」


「目が合ったら頷きます」


「はい」


「声はかけません」


「はい」


「戻る合図は、本当に必要な時だけ」


「はい」


「私も」


 リリスが言う。


「アルが残っていても、先へ進みます」


「はい」


「何度も振り返りません」


「一度くらいは?」


「見ます」


「俺も」


「目が合ったら?」


「頷きます」


「はい」


 リリスの涙がもう一粒。


「それで戻れますか?」


「戻れると思います」


「思います?」


「本番で確認します」


 リリスが笑った。


「はい」


 俺はハンカチを渡す。


 ミラが後ろで記録する。


「本日三回目。一時分離相互待機確認涙でございます」


「長いですね」


「待ち時間確認日でございますので」


 リリスは涙を拭く。


「アル」


「はい」


「三分でも、長いと思います」


「はい」


「でも、三分は三分です」


「はい」


「一生ではありません」


「はい」


「置いていかれたわけでも」


「はい」


「成長しましたね」


「褒められました」


「登校は続きます」


「はい」


 俺たちは校門を通る。


 途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


「おはよう」


「ご機嫌よう」


「ご機嫌よう」


 ユリウスは俺たちの表情を見る。


「もう列の話した?」


「はい」


 リリスが答える。


「数分離れても、同じ列の中です」


「うん」


「ユリウス様は、待つのは得意ですか?」


「苦手」


 即答。


「そうなのですか?」


「前が遅いと、別の列へ行きたくなる」


「今日、怒られますね」


 俺が言う。


「たぶん」


 エレナ嬢が静かに言う。


「ユリウス様は、以前、王城の受付で空いている列を探して三回移動し、最初の列が一番早かったことがあります」


「エレナ」


「事実です」


「三回?」


 リリスが驚く。


「結果は?」


「僕が移動するたび、元の列が進んだ」


「落ち着きがありません」


「はい」


 ユリウスが自分で答える。


「軽さを半歩では足りませんね」


「列では、足を止める必要があります」


 エレナ嬢が言う。


「今日の課題は、ユリウス様にも重要ですわ」


「認める」


 素直。


 ニールとクラリス嬢が少し後ろから来る。


 ニールは、すでに不安そう。


「僕、列で前の人に近づきすぎるんです」


「なぜ?」


 俺が聞く。


「後ろの人が近いと」


「押される気が?」


「はい」


「俺も朝、同じでした」


「シェルザート君も?」


「はい」


 ニールの表情が少し緩む。


 自分だけではない。


 クラリス嬢が言う。


「私は、前の方と距離を空けすぎます」


「なぜですか?」


 リリスが聞く。


「近いと、急かしているように思われそうで」


「反対ですね」


「はい」


 詰めすぎるニール。


 空けすぎるクラリス嬢。


 移動しすぎるユリウス。


 離れるのが不安な俺たち。


 皆、列一つで違う課題を持っている。


 教室へ入る。


 今日は机がすべて壁際へ寄せられていた。


 床には、長い布線。


 赤。


 金。


 青。


 緑。


 さらに、番号札。


 受付。


 第一待機位置。


 家族確認。


 王族挨拶。


 退出。


 教室全体が王城の動線になっている。


 生徒たちは、すでに列を見てざわついていた。


「長い」


「どこに並ぶの?」


「色が違う」


「途中で分かれるの?」


「戻れる?」


「前の人が止まったら?」


 ベイル先生はまだ来ていない。


 それでも、生徒たちは自然に練習を始めている。


 ユリウスが空いている赤線へ行こうとする。


 エレナ嬢が袖を軽く掴む。


「まだ説明前です」


「空いてるから」


「今日の課題を思い出してください」


「はい」


 すでに始まっている。


 一時間目。


 礼法。


 ベイル先生は教室へ入り、床の線を確認した。


 全員が静まるまで待つ。


 その待ち時間さえ、今日は授業のように感じた。


 先生は黒板へ向かう。


『王城における挨拶列と待機の礼』


 振り返る。


「本日は、王城到着後の受付、挨拶列、途中待機、同行者と一時的に離れた場合の対応を確認します」


「はい」


「最初に」


 先生は黒板へ書く。


『待つことも夜会の一部』


『前を急かさない』


『後ろに急かされない』


『離れても列を抜けない』


 最後。


 離れても列を抜けない。


 ガロウ公爵に必要。


 俺たちにも。


「王城では、到着時刻が同じ家が重なります」


「はい」


「受付には順番があります」


「はい」


「挨拶にも」


「はい」


「自分たちだけ早く進もうとしない」


「はい」


「逆に、遠慮しすぎて列を止めない」


「はい」


 クラリス嬢が真剣に聞いている。


「前が進めば、一歩進む」


「はい」


「止まれば、止まる」


「はい」


「自分の番になったら、準備が整っていなくても逃げない」


「はい」


「後ろが詰まっていても、挨拶を短くしすぎない」


「はい」


 先生は一拍置く。


「待った時間を、挨拶で取り戻そうとしないこと」


 朝、父上に言われた。


「また、家格や役割によって、同行者と一時的に別の位置へ案内されることがあります」


 教室が少しざわつく。


「数歩です」


「はい」


「数分です」


「はい」


「別れではありません」


 リリスの肩が少し緩む。


「列の中で位置が変わるだけです」


「はい」


「不安だからといって、案内を無視して追いかけない」


「はい」


「何度も名前を呼ばない」


「はい」


「必要なら、視線と頷き」


「はい」


「戻る合図は、本当に必要な場合のみ」


「はい」


 先生の視線が、俺とリリスへ。


「シェルザートさん」


「はい」


「一歩離れるたびに胸元へ触れない」


「はい」


「アマリリスさん」


「はい」


「一歩離れるたびにハンカチを持ち替えない」


「はい」


 教室に小さな笑いが起きる。


 リリスも少し笑う。


「合図を日常動作へしすぎると、本当に必要な時に伝わりません」


「はい」


「では、実践します」


 最初は単純な一列。


 前から。


 ユリウス。


 エレナ嬢。


 俺。


 リリス。


 ニール。


 クラリス嬢。


 先生が受付役。


「進んでください」


 一歩。


 止まる。


 ユリウスが、もう半歩出る。


「ユリウスさん」


「はい」


「前は止まっています」


「はい」


 戻る。


「後ろを見ない」


「はい」


 エレナ嬢は安定。


 俺。


 前が進む。


 一歩。


 止まる。


 後ろのリリスが近い。


 気になる。


 振り返りたい。


 我慢。


 視線は前。


 先生が言う。


「シェルザートさん」


「はい」


「今、後ろを気にしました」


「はい」


「確認は?」


「視界の端で」


「十分です」


「はい」


 リリスの番。


 俺が一歩進む。


 リリスも。


 止まる。


 間が少し広い。


「アマリリスさん」


「はい」


「距離を空けすぎです」


「近づくと、アルを急かすようで」


「シェルザートさんは進めません」


「はい」


「必要な距離へ」


 リリスが半歩。


 近づく。


 俺の背後。


 でも、触れない。


 ちょうどよい。


「よろしい」


 ニールは後ろが気になり、前へ詰めすぎる。


 クラリス嬢は逆に空ける。


 全員、修正。


 何度か繰り返す。


 一歩。


 止まる。


 二歩。


 止まる。


 遅い。


 教室なのに長く感じる。


 先生は、わざと待たせている。


 途中で何も言わない。


 静かな時間。


 足音もない。


 衣擦れ。


 誰かの呼吸。


 窓の外の鳥。


 待つ。


 俺の頭に、夜会が浮かぶ。


 深い青。


 王城。


 列。


 でも、今は教室。


 戻る。


 先生が言う。


「待っている間、何をしましたか?」


 ユリウス。


「別の列を見ました」


「不要です」


「はい」


 エレナ嬢。


「呼吸と姿勢」


「よろしい」


 俺。


「足の状態と、前の距離」


「同行者は?」


「視界の端で」


「よろしい」


 リリス。


「呼吸。ハンカチの位置。アルとの距離」


「アル?」


 先生の視線。


「シェルザートさんとの距離」


「今は学園ですが、練習中です」


「はい」


 少し笑い。


「ニールさん」


「後ろの方が近いことばかり」


「前は?」


「見失いました」


「危険です」


「はい」


「クラリスさん」


「迷惑をかけていないか」


「誰か困っていましたか?」


「いません」


「なら、その考えへ半歩」


「はい」


 待っている間、内側が見える。


 普段なら流れていく不安が、立ち止まると大きくなる。


 だから、呼吸。


 足元。


 目の前。


 次は、分列。


 先生が札を上げる。


『婚約者確認』


 俺とリリスは並ぶ。


 先生役の王城係が言う。


「シェルザート伯爵子息はこちらへ。フルーラ公爵令嬢は、右側の確認列へお願いいたします」


 来た。


 俺は青。


 リリスは金。


 二歩。


 三歩。


 離れる。


 教室。


 分かっている。


 それでも胸が揺れる。


 リリスも、こちらを見る。


 呼びそうになる口。


 閉じる。


 俺は頷く。


 リリスも。


 それだけ。


 先生が、わざと別の生徒を間へ通す。


 視界が一瞬切れる。


 胸が強く鳴る。


 すぐ見える。


 数秒。


 それだけ。


 だが、長い。


 先生がリリスへ質問する。


「お名前を」


「アマリリス・フルーラです」


「同行者は?」


「アルフレッド・シェルザート様です」


「確認いたしました。青の列へお戻りください」


「はい」


 リリスが戻る。


 俺の隣へ。


 目が潤んでいる。


 でも、泣かない。


 先生が言う。


「今、声をかけませんでした」


「はい」


「合図も?」


「使いませんでした」


「なぜ?」


 リリスが答える。


「視線と頷きで、待っていてくださると分かったからです」


「シェルザートさん」


「はい」


「追いかけませんでした」


「はい」


「なぜ?」


「同じ列の中だと分かっていたからです」


「よろしい」


 拍手。


 教室から。


 リリスの目から、一粒落ちた。


「褒められた後も?」


「列は続きます」


 自分で言った。


 教室が笑う。


 先生も少し口元を緩めた。


「では、今度は逆です」


 リリスが先。


 俺が残る。


 王城係役の先生が言う。


「フルーラ公爵令嬢は、先に王族挨拶準備へ。シェルザート伯爵子息は、こちらでお待ちください」


 リリスが進む。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 深い青ではない。


 制服。


 それでも、離れていく背中。


 胸が苦しい。


 置いていかれた。


 ほんの一瞬、そんな感覚。


 だが。


 リリスが振り返る。


 一度だけ。


 目が合う。


 頷く。


 俺も。


 待つ。


 先生が俺へ言う。


「今、何を感じましたか?」


「置いていかれたような」


「実際は?」


「先に案内されただけです」


「あなたは?」


「後から同じ場所へ行きます」


「よろしい」


 リリスが別の位置で待つ。


 俺の順番。


「シェルザート伯爵子息、前へ」


「はい」


 進む。


 リリスの隣へ。


 合流。


 リリスが泣きそう。


 俺も。


 先生がすぐに言う。


「再会ではありません」


 教室が笑う。


「数歩です」


「はい」


「三十秒です」


「はい」


「ですが、どう感じましたか?」


 リリスが答える。


「戻ってきてくださったと」


「シェルザートさんは?」


「待っていてくれたと」


「感情は否定しません」


「はい」


「ただし、そこで抱き合わない」


「しません!!」


 俺の声が大きくなる。


 教室に笑い。


 リリスの顔が真っ赤。


「手も?」


 先生。


「取りません」


「声は?」


「小さく、戻りましたと」


 俺が答える。


 先生が首を傾げる。


「戻ったのは誰ですか?」


「俺です」


「なら?」


「お待たせしました」


「よろしい」


 リリスの返答。


「お帰りなさいは?」


「帰宅ではありません」


「はい」


「何と?」


 リリスは一拍。


「お待ちしておりました」


 強い。


 教室が静かになる。


 俺の胸に来る。


「公的にはよろしい」


 先生が言う。


「ただし、数十秒で大げさになりすぎないように」


「はい」


 ユリウスが小声で、


「三十秒の大恋愛」


 と言った。


「ユリウス様」


「はい」


「軽さを半歩」


「はい」


 次は、前の挨拶が長い場合。


 先生役の上位貴族と、エレナ嬢役の招待客が、わざと長く会話する。


「ご領地では」


「今年の収穫は」


「ご家族は」


 終わらない。


 後ろの列。


 ユリウスが足を動かす。


 ニールが前へ詰める。


 リリスが不安そう。


 俺は、待つ。


 一分。


 二分。


 教室では長い。


 先生は話を続ける。


 俺の頭に別の考えが出る。


 本番でも、前の者が長く話したら。


 リリスが疲れたら。


 足は大丈夫か。


 水は。


 ハンカチは。


 聞きたい。


 だが列。


 声をかけない。


 視線。


 リリスの足元。


 問題なさそう。


 でも、本人へ聞けない。


 信じる。


 しばらくして、リリスがわずかに右足の位置を変える。


 痛い?


 いや。


 姿勢を整えただけかもしれない。


 勝手に決めない。


 先生が会話を終える。


「次の方」


 進む。


 列が動く。


 待ち時間終了。


「シェルザートさん」


「はい」


「何を考えていました?」


「リリスの足の状態を」


「本人に聞けませんでしたね」


「はい」


「どうしましたか?」


「姿勢を見て、緊急ではないと判断しました」


「勝手に問題なしと決めましたか?」


「いいえ。本番なら、列を抜けた後に一度聞きます」


「よろしい」


「アマリリスさん」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「なぜ足を動かした?」


「同じ姿勢が少し疲れたので」


「伝える必要は?」


「緊急ではありませんでした」


「よろしい」


 すべてを即座に共有しなくてもいい。


 あとで。


 順番が来たら。


 それも待つ。


 次は、後ろから急かされる想定。


 ユリウスが後ろ役。


 わざと近づく。


 俺の背中へ圧。


 リリスが俺の前。


 前は止まっている。


 進めない。


 ユリウスが小声で言う。


「前、空いてない?」


「空いていません」


「少し詰められるよ」


「無理です」


「後ろが」


「前が止まっています」


 先生が止める。


「よろしい」


 ユリウスが下がる。


「後ろの焦りを、前へ渡しませんでした」


「はい」


「ただし、強い言い方になりすぎない」


「はい」


「返答は一度」


「はい」


「それ以上続く場合は?」


「王城係へ」


「よろしい」


 リリスの番。


 後ろ役は別の侯爵令嬢。


「もう少し進んでくださらない?」


 リリスが一瞬、前へ出そうになる。


 俺は何も言わない。


 本人が。


 リリスは止まる。


 一拍。


「前の方が止まっていらっしゃいますので、こちらでお待ちいたします」


 言えた。


「でも、後ろが」


「王城係の方へ確認いたしましょうか?」


 相手役が黙る。


 先生が頷く。


「よろしい。相手の焦りを否定せず、自分の位置も守りました」


「はい」


 拍手。


 リリスの目が潤む。


「列は?」


「続きます」


 皆が笑う。


 最後は、挨拶直前の待機。


 前に一組。


 自分たちの番が次。


 緊張が一番高まるところ。


 俺とリリスが並ぶ。


 先生役の王城係が言う。


「次は、シェルザート伯爵家ご子息と、フルーラ公爵令嬢です」


 胸が鳴る。


 本番ではない。


 教室。


 だが、言葉だけで重い。


 リリスの呼吸が浅くなる。


 俺も。


 声はかけない。


 列。


 公的な場。


 目が合う。


 俺は胸元に触れそうになる。


 まだ。


 戻る合図は、本当に必要な時。


 リリスはハンカチを右手に持っている。


 左へは移していない。


 必要ない。


 俺は手を下ろす。


 呼吸。


 一拍。


 二拍。


 先生が言う。


「前の方の挨拶が終わりました」


 俺たちの番。


「どうぞ」


 一歩。


 並ぶ。


 礼。


 名乗る。


 紹介。


 短く。


 落ち着いて。


 先生役の王族へ。


「お招きいただき、光栄に存じます」


 リリスも。


「このたびは、貴重な機会を賜り、ありがとうございます」


 言えた。


 待った後でも急がない。


 声を揃えすぎない。


 それぞれ。


 先生が役を解く。


「よろしい」


 教室から拍手。


 俺もリリスも、少し息を吐く。


「待ち時間の後、早口になりませんでした」


「はい」


「互いを気にしすぎず、自分の言葉を言えました」


「はい」


「合図は?」


「使いませんでした」


「なぜ?」


 リリスが答える。


「必要なほど崩れていなかったからです」


「よろしい」


「使わなかったことも、合図を大切にすることです」


「はい」


 授業の終わり。


 先生は全員を座らせた。


「本日、待つ時間を長く感じた者は?」


 ほとんどが手を挙げる。


 俺も。


 リリスも。


 ユリウスも。


「当然です」


 先生が言う。


「何もしていないように感じる時間ほど、長く感じます」


「はい」


「しかし、待っている間も、皆さんは選択していました」


 呼吸する。


 進まない。


 詰めない。


 列を変えない。


 同行者を信じる。


 後ろの焦りを受け取らない。


「待つとは、何もしないことではありません」


「はい」


「順番を守る」


「はい」


「相手の時間を奪わない」


「はい」


「自分の番が来ると信じる」


「はい」


 最後の言葉が、胸へ残る。


 自分の番が来ると信じる。


 だから、前の人を急かさない。


 列を抜けない。


 置いていかれたと思わない。


「また」


 先生が続ける。


「同行者が先に進んでも、その方があなたを捨てたわけではありません」


 リリスの目が潤む。


「順番が違うだけです」


「はい」


「同じ場所へ向かっています」


「はい」


「離れて見える時間も、同じ列の中」


 ライズと同じ言葉。


 リリスの涙が一粒落ちる。


「アマリリスさん」


「はい」


「今、何を受け取りましたか?」


「アルが先へ進んでも、私を置いていくわけではないことです」


「はい」


「私が先へ進んでも、アルを置いていくわけではありません」


「その通り」


 先生が俺を見る。


「シェルザートさん」


「はい」


「待てますか?」


「待ちます」


「不安でも?」


「はい」


「戻ると分かっていれば?」


「はい」


「よろしい」


 休み時間。


 教室の列は、そのまま残っていた。


 皆、思い思いに練習を続ける。


 ユリウスは、一つの列へ立ち続ける練習。


 エレナ嬢が前。


 十秒。


 二十秒。


 ユリウスの足が動く。


「移動しない」


「はい」


「空いている列を見ない」


「はい」


 ニールは、後ろのクラリス嬢が近づいても前へ詰めすぎない練習。


「近いですか?」


 クラリス嬢が聞く。


「少し」


「下がりますか?」


「いえ。僕が焦っているだけです」


「では、この距離で」


「はい」


 クラリス嬢は、前との距離を詰める練習。


 皆、自分の課題。


 俺とリリスは、窓際へ座る。


「アル」


「はい」


「三十秒でも、長かったです」


「俺も」


「先へ行った時」


「はい」


「振り返って、アルがいたので安心しました」


「はい」


「でも、何度も見ませんでした」


「一度だけでした」


「はい」


「俺も、リリスが待っていてくれて安心しました」


「はい」


「三十秒を再会にしません」


「先生に言われました」


「はい」


 二人で笑う。


「でも」


 リリスが少し声を落とす。


「戻ってきた時、嬉しかったです」


「俺も」


「それは、受け取ってよいですか?」


「一口分くらい」


「三十秒分?」


「はい」


「では、三十秒分の嬉しさです」


「はい」


 涙が一粒。


「今は何の涙ですか?」


「三十秒分です」


「量が分かりません」


「小声版です」


 俺はハンカチを渡す。


 ミラが記録する。


「本日十五回目。短時間合流感情適量涙でございます」


「適量なんですね」


「現時点では」


 エレナ嬢が水を持ってくる。


「列の練習、お疲れさまでした」


「ありがとうございます」


 リリスが受け取る。


「エレナ様は、離れるのが不安ではありませんか?」


「少しは」


「でも、落ち着いていました」


「私は、不安になると足を止めすぎます」


「そうなのですか?」


「ええ。先へ進むべき時も、確認しすぎることがあります」


「皆さま、違いますね」


「はい」


「ユリウス様は動きすぎ」


「私は止まりすぎ」


「ニール様は詰めすぎ」


「クラリス様は空けすぎ」


「私たちは、離れるのが怖い」


 リリスが言う。


「全員、半歩が違いますね」


「その通りですわ」


 同じ礼法。


 でも、必要な半歩は人によって違う。


 昼休み。


 食堂へ向かう廊下も、自然に列になった。


 授業後の生徒たち。


 前が混んでいる。


 進まない。


 ユリウスが横の廊下へ行こうとする。


 エレナ嬢が見る。


「移動しない」


「はい」


 俺たちは笑う。


 リリスは俺の後ろ。


 少し離れている。


 人が間へ入る。


 視界が一瞬切れる。


 胸が鳴る。


 すぐ見える。


 俺は振り返らない。


 角のガラスに映る。


 リリスがいる。


 同じ列。


 食堂へ。


 進む。


 止まる。


 進む。


「授業が続いていますね」


 リリスが後ろから言う。


「声をかけています」


「今は学園の廊下です」


「はい」


「でも、前を見てください」


「はい」


 食堂へ到着。


 席。


 全員座る。


 ユリウスが深く息を吐く。


「列、疲れる」


「移動しなかったからです」


 俺が言う。


「成長した」


「自分で言わないでください」


 リリスが笑う。


「褒められた後も?」


「昼食は続く」


 ユリウスが先に言った。


 皆が笑う。


 食事。


 リリスが俺へ聞く。


「アル、食べられていますか?」


「今日は本番ではありません」


「練習です」


「はい。スープとパン。これから肉を」


「分かりました」


「リリスは?」


「スープ。パン。野菜。最後に菓子を」


「分かりました」


 評価しない。


 でも確認する。


 昨日の学びも続く。


 クラリス嬢が言う。


「昨日の呼び方も、今日の列も、全部つながっていますね」


「どういうことですか?」


 ニールが聞く。


「離れても、関係が変わらないことです」


 クラリス嬢の言葉。


「呼び方が遠くなっても」


「列で離れても」


「待っていても」


「同じ人」


 リリスが静かに受け取る。


「同じ人」


「はい」


 午後の魔法基礎。


 教師は、教室の床へ五つの小さな光を並べた。


 一直線。


「本日は、順番の魔力です」


 やはり何でも魔法になる。


「一人一つ」


「はい」


「前の光が動くまで、自分の光を進めない」


 ユリウスが少し嫌そうな顔。


 教師が見る。


「ユリウスさん」


「はい」


「別の列はありません」


 教室が笑う。


 俺たちは、それぞれ光を出す。


 俺の光。


 リリスの深い青。


 エレナ嬢。


 ユリウス。


 ニール。


 前が動く。


 次。


 止まる。


 待つ。


 俺の魔力は、先へ行きたがる。


 少し震える。


「シェルザートさん」


「はい」


「婚約者の光へ近づこうとしない」


「はい」


 リリスの光は、俺の後ろ。


 離れている。


 だが同じ線。


 教師が言う。


「光が離れても、道は同じです」


「はい」


「前へ進んだ光を、追い越さない」


「はい」


「後ろの光を、引っ張らない」


「はい」


 順番。


 全員、自分で進む。


 最後に、俺の光が先。


 リリスが後ろ。


 俺の光が終点へ。


 待つ。


 リリスの光が来る。


 合流。


 二つが並ぶ。


「今、何をしました?」


 教師が聞く。


「待ちました」


「魔力を戻しましたか?」


「いいえ」


「なぜ?」


「リリスの光が、自分で来ると分かっていたからです」


「よろしい」


 リリスが言う。


「私も、追いかけすぎませんでした」


「よろしい」


「同じ道でした」


「その通りです」


 深い青と俺の光。


 並ぶ。


 触れない。


 でも、同じ終点。


 放課後。


 レオナルド先輩は、いつもの場所で待っていた。


 今日は地面に一本の線を引いている。


「お兄様」


「リリス」


「何を?」


「父上の練習用だ」


「学園で?」


「帰宅後に使う配置を確認している」


「お兄様も参加するんですね」


「ああ」


 足の確認。


「痛みは?」


「ありません」


「靴は?」


「二十分。廊下三往復。階段七段。問題なし」


「よい」


 俺も報告。


「同じく問題なし」


「よい」


 次に列。


「離れたか?」


「はい」


「何歩」


「三歩」


「時間」


「三十秒ほど」


「泣いたか?」


「後で少し」


「その場では?」


「泣きませんでした」


「合図は?」


「使いませんでした」


「なぜ?」


「必要なほど崩れていなかったからです」


「よい」


 レオナルド先輩は俺を見る。


「君は?」


「置いていかれたように感じました」


「実際は?」


「先に案内されただけです」


「待てたか?」


「はい」


「よい」


 短い講評。


「お兄様は、私と離れると不安ですか?」


 リリスが聞く。


 レオナルド先輩は少し考える。


「以前は」


「はい」


「今も少し」


「はい」


「だが、君が戻ることは分かっている」


「はい」


「戻らない場合は?」


「必要な場所へ行っただけだ」


 重い。


 妹が自分の場所へ進む。


 いつでも兄のもとへ戻るとは限らない。


 でも、それは捨てたわけではない。


「お兄様」


「泣くな」


「はい」


 リリスが深呼吸。


 レオナルド先輩は続ける。


「同じ列でも、途中で道が分かれることはある」


「はい」


「その時、無理に同じ列へ戻そうとするな」


 夜会だけではない話に聞こえた。


 学園。


 家族。


 婚約。


 未来。


 皆、同じ場所へ進むわけではない。


 それでも、関係は残る。


「今は、夜会の列だ」


 レオナルド先輩が言う。


「はい」


「先まで行くな」


「はい」


 俺たちが未来へ走りかけたのを止められた。


「父上は?」


 俺が聞く。


 レオナルド先輩はため息をついた。


「朝、列の説明を受けた」


「はい」


「リリスと三歩離れる可能性を聞いた」


「はい」


「剣帯を締めた」


「なぜ!?」


「不測の事態へ備えると」


「列です!!」


「母上が札を出した」


「何ですか?」


 リリスが聞く。


「『列は誘拐ではない』」


「聞きました」


「『三歩で娘を失わない』」


「はい」


「『前へ進んでも父親を置いていかない』」


「はい」


「『自分の順番を待つ』」


「はい」


「『王族の列を騎士団長権限で短縮しない』」


「全部必要です」


「さらに二枚増えた」


「まだ?」


「『列の前後を護衛対象にしない』」


「周囲全員を警戒する気でしたね」


「ああ」


「最後は?」


「『娘が見えなくても三十秒待つ』」


 リリスの目が潤む。


「お父様、待てますか?」


「練習では二十秒で立った」


「足りない」


「母上が座らせた」


「もう一度?」


「二十五秒」


「少し伸びた」


「三回目で三十秒」


「できたんですね」


「ああ」


「泣きましたか?」


「三十秒間ずっと」


「待ててはいます」


 俺は言った。


 レオナルド先輩が頷く。


「行動は」


「心は?」


「難しい」


 いつもの結論。


「新札は?」


「七枚」


「増え続けていますね」


「本番用の札束が必要だ」


「ライズと相談しましょう」


 正門。


 夕方。


 王城の夜会まで、あと四日。


 今日も、一日が終わる。


 列。


 待つ。


 離れる。


 戻る。


 たった三歩。


 たった三十秒。


 それでも、俺たちには大きかった。


 リリスは馬車の前で立ち止まる。


「アル」


「はい」


「今日は、三十秒離れました」


「はい」


「長かったです」


「俺も」


「でも」


「はい」


「置いていかれませんでした」


「はい」


「アルも、私を追いかけませんでした」


「はい」


「私も、戻りました」


「はい」


 リリスは微笑む。


「今日の宝物名は」


「はい」


「離れて見える時間も、同じ列の中だと分かった日の宝物です」


「良い名前です」


「あと」


「はい」


「三十秒、互いに待てた日の宝物です」


「はい」


「本番は、三分かもしれません」


「はい」


「三十秒を六回分です」


「数えない方がいいです」


「はい」


 二人で笑う。


「アル」


「はい」


「先に進んでください」


「はい?」


「王城で、アルが先に呼ばれたら」


「はい」


「私を心配して、順番を譲らないでください」


「分かりました」


「私は待ちます」


「はい」


「アルも」


「リリスが先に呼ばれたら、進んでください」


「はい」


「俺は待ちます」


「はい」


「戻るまで?」


「はい」


「見えなくても?」


 一拍。


「待ちます」


 リリスの涙が落ちた。


「強いです」


「でも必要なので」


「はい」


「ただし」


「はい」


「本当に問題があったら、王城係へ伝えてください」


「アルも」


「はい」


「我慢しすぎない」


「はい」


「待つことと、放置することは違います」


「その通りです」


 また半歩。


 待つ。


 でも、何もしないわけではない。


 異変があれば伝える。


 無事なら信じる。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 馬車が遠ざかる。


 今日は、その馬車が角を曲がるまで見送った。


 見えなくなる。


 でも。


 明日、また来る。


 分かっている。


 待てる。


 屋敷へ戻ると、父上と母上が待っていた。


「列は?」


 父上が聞く。


「三十秒離れました」


「どうだった」


「長かったです」


「待てたか」


「はい」


「追ったか」


「いいえ」


「合図は?」


「使いませんでした」


「よし」


 母上が聞く。


「リリス様は?」


「待てました。戻れました」


「泣いた?」


「後で」


「その場では?」


「一粒も」


「大きな進歩ね」


「はい」


「あなたは?」


「俺も、後で少し」


 母上が微笑む。


「同じね」


「はい」


 父上が言う。


「待つことは、相手へ任せることでもある」


「はい」


「戻る力があると信じる」


「はい」


「だが、戻らなかった時は?」


「確認します」


「よし」


「ただ待ち続けるのではない」


「ああ」


 夕食。


 父上と母上が、昔の王城行事で別々の列へ案内された話をする。


「父上は待てましたか?」


「待った」


「何分?」


「十分ほど」


「長い」


「母上は?」


「別の挨拶へ呼ばれていた」


 母上が言う。


「戻った時、あなたの父上は同じ場所にいたわ」


「声をかけましたか?」


「いいえ」


「なぜ?」


「周囲に人がいたから」


「では?」


「目が合って、頷いた」


 今日と同じ。


「それだけ?」


「それだけで十分だった」


 父上が言う。


「帰りの馬車で話した」


「何を?」


「待った、と」


「母上は?」


「ありがとう、と」


 短い。


 でも、何年も残っている。


 待つことも、関係の記憶になる。


 その夜。


 フルーラ家から、いつもの三通が届いた。


 一通目。


 ガロウ公爵。


『今日は列の練習をした。リリスと三歩離れると聞いた。剣帯を締めた。セレスティアに「列は誘拐ではない」「三歩で娘を失わない」「王族の列を騎士団長権限で短縮しない」ほか四枚の札を出された。最初は二十秒で立った。次は二十五秒。三回目で三十秒待てた。泣いていたが、待った。リリスは戻った。私はその場にいた。成長している。本番では自分の順番を待つ。たぶん。 ガロウ』


 二通目。


 レオナルド先輩。


『挨拶列は、何もしない時間ではない。順番を守り、同行者を信じ、自分の番へ備える時間だ。リリスも君も、三十秒の分離を合図

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