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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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68/83

第68話 公爵令嬢様、公の場で名前を呼ばれないだけで他人になった気がします


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王城の春の親睦夜会まで、あと五日。


 六日あったはずの日々が、もう五日。


 片手の指で数えられるところまで来た。


 親指。


 人差し指。


 中指。


 薬指。


 小指。


 その一つずつが終われば、王城の夜会である。


 こうして指に置き換えると、余計に近い。


 やめよう。


 数えるな。


 今日は今日。


 何度も学んだ。


 未来へ一気に走らない。


 一日分だけ進む。


 一口は一口。


 一曲は一曲。


 髪飾りは髪飾り。


 乾杯は乾杯。


 そして、本日の課題。


 呼称。


 紹介順。


 王城のような公的な場で、相手を何と呼ぶか。


 誰を先に紹介するか。


 婚約者として並んでいても、普段と同じように名前を呼んでよい場面と、そうでない場面がある。


 俺は普段、リリスと呼ぶ。


 彼女は俺をアルと呼ぶ。


 最初から、そうだったわけではない。


 むしろ、最初の頃は距離が近すぎた。


 言葉も。


 身体も。


 感情も。


 公爵令嬢であるアマリリス・フルーラが、伯爵家の次男である俺へ、何の迷いもなく近づいてきた。


 顔が近い。


 腕を取る。


 袖を掴む。


 泣く。


 呼ぶ。


 アル。


 最初は、その呼び名に何度も心臓を止められそうになった。


 今では慣れた。


 いや。


 慣れたと言うと嘘になる。


 毎回少し嬉しい。


 毎回少し照れる。


 ただ、以前ほど外へ出なくなっただけだ。


 だが、王城では。


 王族の前では。


 年長者の前では。


 初対面の貴族たちの前では。


「アル」


「リリス」


 と呼び合うのは、場によっては近すぎる。


 婚約者であることを隠す必要はない。


 親しさを恥じる必要もない。


 しかし、公の場には公の距離がある。


 シェルザート様。


 アマリリス様。


 あるいは。


 シェルザート伯爵子息。


 フルーラ公爵令嬢。


 長い。


 非常に長い。


 夜会中に毎回それで呼んでいたら、会話の半分が呼称で終わるのではないか。


 しかも。


 呼び方を変えただけで、リリスが不安になる可能性がある。


 高い。


 非常に高い。


『アルと呼べないのは、嫌われたからですか?』


 言いそう。


『アマリリス様と呼ばれると、遠くなった気がします』


 絶対に言う。


 そして泣く。


 俺も、リリスからシェルザート様と呼ばれたら、少し寂しい。


 分かっていても。


 礼法だと理解していても。


 普段と違う呼ばれ方をされると、他人のように聞こえる瞬間がある。


 だからこそ、本番前に練習する。


 公の呼び方。


 私的な呼び方。


 使い分ける。


 呼び方が変わっても、関係は変わらない。


 今日は、それを受け取る日らしい。


 朝。


 食堂へ入ると、父上と母上はすでに話していた。


 机の上には、王城での紹介順を書いた一覧。


 さらに、人物名。


 爵位。


 呼称。


 何枚もの紙。


 夜会準備は、もう服や靴だけではなくなっている。


「おはようございます」


「おはよう、アル」


「おはよう」


 俺は席へ座る。


 母上が一覧を一枚、こちらへ向けた。


「今日は呼称の確認ね」


「はい」


「まず、ご自分の正式な名乗りから」


「アルフレッド・シェルザート。シェルザート伯爵家次男です」


「夜会では?」


「シェルザート伯爵家次男、アルフレッド・シェルザートと申します」


「よろしい」


 父上が口を挟む。


「ただし、王族側はすでにお前を知っている」


「はい」


「毎回、最初から全部名乗る必要はない」


「では?」


「紹介者がいる場合は、紹介を受けて礼をする」


「はい」


「自分から割り込んで名乗らない」


「はい」


「聞かれたら答える」


「はい」


 母上が続ける。


「リリス様を紹介する場面もあるわ」


「俺が?」


「ええ。王城で、あなたの知人へリリス様を紹介する場合」


「知っている方ばかりでは?」


「夜会には、王都の貴族だけでなく、地方から来る者もいます」


「なるほど」


「その場合、何と?」


 俺は少し考える。


「婚約者の、アマリリス・フルーラ公爵令嬢です」


 母上が首を傾げる。


「間違いではないわ」


「はい」


「でも、紹介順を考えて」


「紹介順」


「目上の方へ、目下の者を紹介する」


「はい」


「身分だけでなく、年齢や立場もある」


「はい」


「例えば?」


 父上が例を出す。


「お前が、リリス嬢を私の旧友である侯爵へ紹介するとする」


「はい」


「先に?」


「侯爵へリリスを紹介します」


「言葉は?」


「侯爵閣下。婚約者のアマリリス・フルーラ公爵令嬢です」


「家格だけ見れば、公爵令嬢の方が高い」


「はい」


「だが、その侯爵は年長者であり、王城での立場もある」


「はい」


「紹介順は、単純な爵位表ではない」


「難しいですね」


「だから無理に一人で処理しない」


「はい?」


「迷った時は、家族や侍従へ合図しろ」


「全部覚えなくてよい?」


「主要な相手は覚える」


「はい」


「それ以外を、完璧にしようとするな」


「はい」


 最近、何を学んでも最後は同じところへ戻る。


 全部を抱えない。


 一人でやらない。


 分からない時は聞く。


 失敗前に止まる。


 直せるうちに直す。


 母上は次の紙を出す。


『公的呼称』


 王族。


 上位貴族。


 教師。


 友人。


 婚約者。


 家族。


 状況別に並んでいる。


「王族の前では、リリス様を?」


「アマリリス様」


「本人へ直接呼びかける時は?」


「アマリリス様」


「第三者へ説明する時は?」


「フルーラ公爵令嬢、または婚約者のアマリリス様」


「よろしい」


「では、リリスは俺を?」


「シェルザート様、またはアルフレッド様」


 アルフレッド様。


 少しだけ胸が揺れる。


 普段はアル。


 王城ではアルフレッド様。


 長い。


 そして、遠い。


 母上は俺の顔を見た。


「今、寂しいと思った?」


「少し」


「よろしい」


「よろしいんですか?」


「呼称が変わると距離を感じる。その感覚を、なかったことにしない方がいいわ」


「はい」


「でも?」


「関係が変わったわけではない」


「その通り」


 父上が言う。


「呼び方は、場への礼だ」


「はい」


「気持ちの変更ではない」


「はい」


「お前がリリス嬢をアマリリス様と呼んでも、婚約は消えない」


「はい」


「本人が不安になったら?」


「言葉で伝えます」


「何と?」


 一拍。


「今は王城だから、そう呼んでいるだけです」


「それだけでよいか?」


「……夜会が終わったら、またリリスと呼びます」


 母上が微笑んだ。


「よろしい」


 父上も頷く。


「本番中に何度も説明するな」


「はい」


「最初に確認しておけ」


「はい」


 俺もそう思う。


 本番中、呼ぶたびに、


『今は公の場だからです』


 と説明していたら、それこそ不自然だ。


 今日、確認する。


 呼び方が違っても。


 目が合えば分かる。


 声で分かる。


 関係は変わらない。


 ライズは俺の鞄へ資料を入れながら、静かに告げた。


「若様、本日のハンカチは三十三枚でございます」


「予告通り」


「王城呼称および紹介順確認日でございますので」


「呼び方だけで三十三枚」


「言葉は距離へ直結いたします」


「はい」


「想定される涙は、若様より『アマリリス様』と呼ばれた際の公的距離実感涙」


「確実」


「アマリリス様より『アルフレッド様』と呼ばれた若様の寂しさを察した相互距離涙」


「そこまで察するか?」


「おそらく」


「はい」


「王城でアルと呼べない不安涙」


「はい」


「夜会後はリリスと呼ぶと確認された安心涙」


「言う」


「紹介時に『婚約者です』と明言された婚約関係公表涙」


「かなり強い」


「第三者より『お似合いですね』と返された褒め言葉涙」


「褒められた後も夜会は続く」


「はい」


「さらに、ガロウ公爵閣下が、ご令嬢を『婚約者』と紹介される場面を想像し、父としての役目が終わると誤解される可能性がございます」


「終わりません」


「本日の札候補も確認済みでございます」


「何ですか」


「『紹介で父親を辞めない』でございます」


「必要ですね」


「さらに『婚約者と呼ばれても娘は娘』」


「はい」


「『名前を呼ばれなくても関係は消えない』」


「それは俺たちにも必要です」


「左様でございます」


「今日の心の札は?」


 ライズは、いつもより少しだけ柔らかい声で言った。


「『呼び方は距離ではなく、場への衣装』でございます」


 俺は黙った。


 呼び方は、言葉の衣装。


 制服。


 礼装。


 普段着。


 服が変わっても、本人は同じ。


 呼び方も。


 アル。


 アルフレッド様。


 シェルザート様。


 全部、俺。


 リリス。


 アマリリス様。


 フルーラ公爵令嬢。


 全部、彼女。


「受け取る」


「よろしいかと」


 学園へ向かう馬車の中。


 俺は、声に出さず練習した。


 アマリリス様。


 アマリリス様。


 呼び慣れない。


 昔は、そう呼んでいたはずなのに。


 いや。


 最初はフルーラ公爵令嬢。


 長い。


 その後、アマリリス様。


 そして、リリス。


 距離が縮まるたび、呼び方も短くなった。


 だから。


 長い呼び方へ戻ると、距離まで戻ったように感じる。


 だが、戻るのではない。


 使い分けるだけ。


 俺たちは、以前とは違う。


 アマリリス様と呼んでも、心の中ではリリスだと分かっている。


 正門前。


 リリスはいつもの場所にいた。


 制服。


 ブルーローズ。


 足元は、もうほとんど普段通り。


 俺を見つける。


 笑う。


 歩く。


 走らない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 俺も歩く。


 いつもの距離。


「ご機嫌よう、リリス」


「ご機嫌よう、アル」


 自然。


 いつもの呼び方。


 それだけで少し安心する。


 だが、今日は練習日。


「足の状態を聞いても?」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「違和感は?」


「ありません」


「修正靴は?」


「十五分。廊下三往復。階段五段。問題ありませんでした」


「受け取りました」


「アルは?」


「十五分。廊下三往復。階段五段。問題なし」


「よかったです」


 リリスの目が少し潤む。


 だが今日は、それだけでは泣かない。


 深呼吸。


 戻る。


「アル」


「はい」


「今日は、呼び方の練習ですね」


「はい」


 リリスの表情が少し曇る。


 予想通り。


「王城では」


「はい」


「アルと呼べませんか?」


「場面によります」


「はい」


「王族や初対面の方の前では、アルフレッド様か、シェルザート様になると思います」


「アルフレッド様」


 リリスが実際に言った。


 胸が止まりかけた。


 他人行儀。


 でも、声はリリス。


 同じ声。


 同じ目。


「……はい」


「寂しいですか?」


 見抜かれた。


 ライズの予測通り。


「少し」


 正直に答える。


 リリスの目が潤む。


「ごめんなさい」


「謝らないでください」


「でも」


「俺も、アマリリス様と呼びます」


 リリスの瞳が揺れた。


 一瞬。


 本当に、他人を見るような不安が入った。


「アマリリス様」


 もう一度。


 練習。


 リリスの涙が落ちた。


「遠いです」


「はい」


「アルの声なのに」


「はい」


「私を呼んでいるのに」


「はい」


「他の方みたいです」


「……俺も、同じです」


 リリスが顔を上げる。


「アルフレッド様と呼ばれると?」


「はい」


「遠いですか?」


「少し」


「一緒です」


「はい」


 涙が増える。


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは受け取り、目元へ当てる。


「でも」


 俺は続けた。


「呼び方は、場への衣装だそうです」


「衣装」


「はい」


「礼装と同じ?」


「はい。王城では、言葉にも礼装を着せます」


 リリスがハンカチから顔を上げる。


「言葉の礼装」


「でも、中身は変わりません」


「はい」


「アマリリス様と呼んでも、俺が呼んでいるのはリリスです」


 涙が一気に増えた。


「アル」


「はい」


「強いです」


「必要なので」


「もう一度」


「何を?」


「アマリリス様と呼んでも、その中はリリスだと」


 一拍。


「アマリリス様と呼んでも、俺が呼んでいるのはリリスです」


 リリスは完全に泣いた。


 朝の校門。


 登校する生徒たちが、少しだけこちらを見る。


 だが、もう慣れている者も多い。


 また泣いている。


 今日は呼び方らしい。


 そんな空気。


 ミラが新しいハンカチを出す。


「本日四回目。公的呼称内面継続確認涙でございます」


「長い」


「重要事項でございます」


 リリスは涙を拭きながら言う。


「私も」


「はい」


「アルフレッド様と呼んでも」


「はい」


「呼んでいるのは、アルです」


 今度は俺が危ない。


 胸の奥が熱い。


 目元まで来る。


「受け取ります」


「はい」


「夜会が終わったら?」


「またアルと呼びます」


「俺も、リリスと呼びます」


 リリスの涙がまた落ちる。


「約束ですか?」


「はい」


「本番中も、二人きりになったら?」


「場所によります」


「正直です」


「控え室や家族だけの場所なら、普段の呼び方でもよいかもしれません」


「はい」


「でも、人が来る可能性がある場所では、公の呼び方を」


「分かりました」


「嫌いになったわけではありません」


「はい」


「距離を置いたわけでも」


「はい」


「ただ、言葉に礼装を着せる」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


「では」


「はい」


 少し姿勢を整える。


 公爵令嬢として。


「シェルザート様。本日もよろしくお願いいたします」


 胸が痛い。


 でも、綺麗だ。


 公のリリス。


 俺も姿勢を整える。


「こちらこそ、アマリリス様」


 リリスの目が潤む。


 だが、泣かずに礼をする。


「今、どなたを呼びましたか?」


 俺が聞く。


「アルです」


「俺も、リリスです」


 笑う。


 二人とも。


 呼び方は違う。


 でも、朝の空気は変わらない。


 校門を通る。


 途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


「おはよう」


「ご機嫌よう」


「ご機嫌よう」


 ユリウスは俺たちの顔を見る。


「もう練習した?」


「はい」


 リリスが答える。


「シェルザート様と」


 ユリウスの眉が上がる。


 俺の胸も少し痛い。


「アマリリス様と」


 俺も返す。


 ユリウスが二人を交互に見る。


「すごくよそよそしい」


「言わないでください」


「でも必要なんでしょう?」


 エレナ嬢が穏やかに言う。


「はい」


「私も、王城ではユリウス様とお呼びしますわ」


「普段もそうじゃない?」


「人前では」


「二人きりだと?」


 ユリウスが聞く。


 エレナ嬢は一拍置く。


「今は関係ありません」


「はい」


 軽さを半歩で抑えられた。


 リリスが少し笑う。


「エレナ様は、呼び方が変わっても寂しくありませんか?」


「少しは」


「エレナ様も?」


「ええ」


「皆さま同じです」


「そうですわね」


 エレナ嬢が微笑む。


「でも、場に合わせて呼ぶことは、相手を遠ざけることではありません」


「はい」


「むしろ、その方が相手を守ることもあります」


「守る?」


「親しい呼び方を、誰にでも聞かせたいとは限りませんもの」


 俺は少し考える。


 アル。


 リリス。


 俺たちだけの呼び方ではない。


 家族や友人も知っている。


 でも、全王城へ見せる必要はない。


 近い呼び方を、大切に取っておく。


 隠すのではなく。


 守る。


「私的な呼び方を、守る」


 リリスが小さく言う。


「はい」


 エレナ嬢が頷いた。


「近さを見せつけることだけが、親しさではありませんわ」


「受け取ります」


 リリスの目が潤む。


「褒められてはいません」


 俺が言う。


「大切な言葉です」


「はい」


 ユリウスが俺へ小声で言う。


「アルフレッド様」


「やめてください」


「王城用」


「今は学園です」


「使い分けできてるね」


「軽さを半歩」


「はい」


 教室へ入る。


 今日は、机の配置が再び変わっていた。


 前方に、長い入場列を想定した立ち位置。


 中央に紹介を行う場所。


 壁際に、王族役、上位貴族役、同年代役の札が置かれている。


 生徒たちは、名前と爵位を書いたカードを持っていた。


 緊張した声。


 笑い。


 呼び間違い。


 教室全体が、いつも以上に言葉で満ちている。


「侯爵令嬢……様?」


「侯爵令嬢でいいの?」


「本人へはお名前で」


「名前忘れた」


「それが一番失礼」


 ニールは、何枚ものカードを手にして青ざめていた。


「シェルザート君」


「はい」


「全部覚えるんですか?」


「主要な方だけです」


「本当に?」


「父上が、迷ったら侍従へ合図しろと」


「合図」


「全部一人で処理しない」


 ニールの顔が少し明るくなる。


「僕、覚えられなくて」


「顔と名前が一致しない方もいます」


「僕だけでは?」


「ありません」


 リリスも来る。


「バートン様」


「はい」


「私も、地方からいらっしゃる方は全員覚えておりません」


「アマリリス様も?」


「はい」


「公爵家なのに」


「公爵家でも、人は人です」


「……はい」


「分からない時は、家族へ確認します」


「僕も、姉に聞きます」


「よいと思います」


「評価では?」


 ニールが言う。


 皆が少し笑う。


「分かりました」


 リリスが言い直す。


 クラリス嬢は、紹介役の札を見ていた。


「私は夜会へ行きませんが、紹介される側の練習をしてみたいです」


「緊張しますか?」


 リリスが聞く。


「はい。誰かに自分のことを説明されると、自分ではない人の話のように聞こえることがあります」


 なるほど。


 紹介される側にも気持ちがある。


 家格。


 家名。


 続柄。


 それだけで説明されると、自分が役割だけになったように感じる。


 今日の課題は、呼ぶ側だけではない。


 一時間目。


 礼法。


 ベイル先生は教室へ入り、前方の札を確認した。


 それから黒板へ向かう。


『王城における呼称と紹介の礼』


 先生は振り返った。


「本日は、王城での呼称、紹介順、紹介された側の受け方を確認します」


「はい」


「最初に」


 先生は黒板へ書く。


『呼び方は、関係そのものではない』


 俺とリリスが、ほぼ同時に顔を上げた。


「親しい呼び方をしないからといって、関係が悪化したわけではありません」


「はい」


「反対に、親しい呼び方をするからといって、礼を失ってよいわけでもありません」


「はい」


「場に応じて言葉を着替える」


 ライズと同じ。


『呼び方は言葉の衣装』


 先生が続ける。


「公的な場では、本人の希望だけでなく、周囲へ伝わる意味も考えます」


「はい」


「婚約者同士が愛称で呼び合えば、親しさは伝わります」


「はい」


「しかし、王族や年長者の前では、会話の輪を狭める場合もあります」


 会話の輪。


 二人だけの呼び方は、周囲を外へ置くこともある。


「公の場では、周囲も含めた呼び方を」


「はい」


「二人きりの時は、二人の呼び方を」


「はい」


 リリスの目が潤む。


「アマリリスさん」


「はい」


「何を受け取りましたか?」


「公の呼び方は、アルを遠ざけるためではなく、周囲の方も同じ会話へ入れるためのものです」


「よろしい」


「でも」


「はい」


「二人の呼び方も、なくなりません」


「その通りです」


 涙が一粒落ちる。


「泣いても?」


「授業は続きます」


「はい」


 完全に定着したやり取り。


 先生は次に、紹介順を黒板へ書いた。


『目上へ目下を紹介する』


『主催者へ招待客を紹介する』


『既知の者へ未知の者を紹介する』


『家格だけで判断しない』


「紹介順は、状況によります」


 先生が言う。


「爵位の高低だけでなく、年齢、役職、主催者側か招待客側か、王族との関係などが関わります」


 教室が少しざわつく。


 複雑だ。


「すべて暗記しようとしない」


 先生はすぐに言った。


 教室全体が少し安心する。


「主要な相手は覚える」


「はい」


「迷う場面では、侍従や家族へ確認する」


「はい」


「無理に紹介を始めない」


「はい」


「分からないことを隠して、誤った紹介を続ける方が失礼です」


「はい」


 ニールが大きく頷いている。


「また、紹介する際は、相手を肩書だけで終わらせない」


 クラリス嬢が顔を上げた。


「例えば?」


 先生は言う。


「『こちらは伯爵令嬢です』だけでは不十分です」


「はい」


「名前を」


「はい」


「必要なら、どのような関係の方かを」


「はい」


「ただし、本人が望まない個人的情報を勝手に加えない」


 紹介は説明。


 でも、語りすぎない。


 相手を勝手に作らない。


「シェルザートさん」


「はい」


「アマリリスさんを紹介してください」


 来た。


 教室の視線。


 俺は前へ出る。


 リリスも。


 王族役の札の前に、先生が立つ。


「私を、王城で初めて会う侯爵夫人と想定します」


「はい」


「紹介を」


 一拍。


 俺は礼をする。


「侯爵夫人。こちらは、私の婚約者であるアマリリス・フルーラ公爵令嬢です」


 リリスの目が一気に潤む。


 教室も少しざわつく。


 婚約者である。


 その言葉が強い。


 だが、公的な紹介。


 必要な情報。


 先生がリリスを見る。


「アマリリスさん」


「はい」


「紹介を受けて」


 リリスは深呼吸。


 一拍。


 礼。


「お初にお目にかかります。アマリリス・フルーラと申します」


 声が少し震えた。


 だが、崩れない。


 先生役の侯爵夫人が言う。


「まあ。シェルザート様のご婚約者でいらっしゃるのね」


「はい」


 リリスの涙が落ちそう。


「お二人、とてもお似合いですこと」


 来た。


 褒め言葉。


 教室の空気が温かくなる。


 リリスは一拍。


「ありがとうございます」


 俺も。


「恐れ入ります」


 会話は続く。


 先生が言う。


「夜会のご準備は整いましたか?」


 俺たちは答える。


「現在、最終確認を進めております」


 リリスも続ける。


「多くの方のお力をお借りしながら、本番へ向けて整えております」


「よろしい」


 先生が役を解いた。


「シェルザートさん」


「はい」


「必要な情報を簡潔に伝えました」


「はい」


「婚約者、という言葉へ感情を込めすぎず」


「はい」


「しかし、隠しませんでした」


「はい」


「アマリリスさん」


「はい」


「紹介を受けた後、ご自分でも名乗れました」


「はい」


「肩書だけで立たず、本人として礼をしました」


「はい」


「褒められた後も?」


「会話を続けました」


「よろしい」


 拍手。


 教室全体から。


 リリスの涙が落ちる。


「授業は続きます」


 自分で言った。


 先生が少し口元を緩める。


「はい」


 次はリリスが俺を紹介する。


 相手役は、王城で初めて会う伯爵。


 ただし、年長。


 リリスは姿勢を整える。


「伯爵閣下。こちらは、私の婚約者であるアルフレッド・シェルザート伯爵子息です」


 強い。


 かなり強い。


 自分が婚約者と紹介されるより、リリスに言われる方が強い。


 俺の胸が一気に熱くなる。


 教室も反応する。


 小さなざわめき。


 ユリウスは笑いを堪えている。


 エレナ嬢は穏やか。


 俺は一拍。


 礼。


「お初にお目にかかります。アルフレッド・シェルザートと申します」


 先生役の伯爵が言う。


「フルーラ公爵令嬢のご婚約者ですか」


「はい」


「お噂は伺っております」


 何の噂だ。


 距離感か。


 半歩か。


 ガロウ公爵か。


 全部か。


「良いご関係のようですな」


 俺は一拍。


「ありがとうございます」


 リリスも。


「皆さまに支えていただきながら、少しずつ学んでおります」


 よい返答だ。


 先生が役を解く。


「アマリリスさん」


「はい」


「紹介できました」


「はい」


「シェルザートさん」


「はい」


「婚約者と呼ばれた後、言葉を失いませんでした」


「危なかったです」


 教室に笑いが起きる。


「正直でよろしい」


「はい」


 次は、呼称の使い分け。


 先生が場面札を上げる。


『王族の前』


 俺たちは向かい合う。


「アマリリス様」


「はい、シェルザート様」


 遠い。


 でも、練習。


『親しい友人のみ』


「リリス」


「アル」


 戻る。


 胸がほどける。


 教室から、小さな声。


「変わるね」


「空気が違う」


「本当に近く見える」


 俺たちも分かる。


『教師の前』


「アマリリス様」


「シェルザート様」


 公的。


『家族のみ』


「リリス」


「アル」


『王城の控え廊下。周囲に他家の者あり』


「アマリリス様」


「アルフレッド様」


 リリスが、シェルザート様ではなくアルフレッド様を選んだ。


 少し近い。


 でも公的。


 俺の胸が揺れる。


 先生が聞く。


「なぜ、アルフレッド様と?」


 リリスが答える。


「婚約者としての親しさは残しながら、愛称を避けるためです」


「よろしい」


 なるほど。


 シェルザート様より近い。


 アルより公的。


 中間。


 半歩。


「では、シェルザートさんは?」


 俺も考える。


「アマリリス様」


「リリス様では?」


 先生が聞く。


 教室が静かになる。


 リリス様。


 愛称に様。


 可能なのか。


 少し不思議。


「リリス様と呼ぶ選択肢もありますか?」


「家族や親しい者の前なら」


「王城の控え廊下で、周囲に他家の者がいる場合は?」


「関係が周知されているなら、問題とは限りません」


「はい」


「ただし、本人の希望も確認すること」


 俺はリリスを見る。


「どうですか?」


 リリスの顔が赤くなる。


「リリス様」


「はい」


「嫌ですか?」


「いいえ」


 目が潤む。


「アマリリス様より、少し近いです」


「はい」


「でも、アルにリリス様と呼ばれるのは」


「はい」


「少し照れます」


「俺もです」


 教室が笑う。


 温かい笑い。


 先生が言う。


「では、王城での基本呼称を決めてください」


 俺たちは相談する。


 短い沈黙。


 公的すぎると遠い。


 近すぎると周囲を外へ置く。


 中間。


「俺は、アマリリス様を基本にします」


 リリスが少し寂しそうになる。


 だが俺は続ける。


「ただし、家族や近しい方だけの場では、リリス様」


 リリスの表情が柔らかくなる。


「二人きりなら?」


「リリス」


 涙が一粒。


「私は」


 リリスが言う。


「王族や年長者の前では、シェルザート様」


「はい」


「親しい方々の前では、アルフレッド様」


「はい」


「二人きりなら、アル」


「はい」


 先生が頷く。


「よろしい」


「呼称を一つに固定しない」


「はい」


「場と相手に合わせる」


「はい」


「ただし、呼び方の変化を愛情の変化と誤解しない」


「はい」


 俺とリリスの声が重なる。


 次は、紹介されたくない情報。


 先生が例を出す。


「こちらは、涙もろく、婚約者との距離が近すぎることで有名な――」


「先生」


 俺が止めた。


 教室が笑う。


 リリスの顔が真っ赤。


「今のは不適切な紹介です」


 先生は平然としている。


「はい」


「なぜ?」


「本人が望まない個人的特徴を、勝手に説明しています」


「よろしい」


「また、有名ではありません」


 ユリウスが小さく、


「たぶん有名」


 と言った。


「ユリウス様」


「はい」


「軽さを半歩」


「はい」


 先生は別の例。


「こちらは、剣の腕に自信がなく、公爵家との婚約に今も不安を抱える――」


 今度は俺。


 胸に刺さる。


 でも、紹介としては不適切。


 リリスがすぐに言う。


「それは、アルがご自分でお話しされることです」


 教室が静かになる。


 先生が頷く。


「その通り」


 リリスは続ける。


「紹介する方が、勝手に弱さを説明することではありません」


 強い。


 俺を見る。


「アルの不安も、アルのものです」


「……はい」


「私が守るために、勝手に話してはいけません」


「はい」


 俺の目元が熱くなる。


 先生が言う。


「シェルザートさん」


「はい」


「褒められた後も?」


「授業は続きます」


「よろしい」


 教室に小さな拍手。


 紹介するとは、相手を所有することではない。


 婚約者だからといって、何でも話してよいわけではない。


 守るためでも。


 褒めるためでも。


 本人の言葉を奪わない。


 以前からの学びにつながる。


 授業の後半。


 さまざまな役割で練習。


 ニールがクラリス嬢を紹介する。


「こちらは、クラリス・ウェルナー伯爵令嬢です」


 クラリス嬢が礼をする。


 先生が聞く。


「他に加えることは?」


 ニールは一瞬考える。


「同じ学園で学ぶ友人です」


 クラリス嬢の表情が柔らかくなる。


 肩書だけではない。


 でも、余計な情報でもない。


「よろしい」


 先生が言う。


 クラリス嬢も名乗る。


 少し緊張している。


 だが、自分の声。


 紹介された後、自分を取り戻すように。


 エレナ嬢は、ユリウスを紹介する。


「こちらは、ユリウス・ハルベルト侯爵子息です。同じ学園で学び、模擬夜会でもご一緒しております」


 ユリウスが礼。


 軽さを抑えている。


「お初にお目にかかります」


 できる。


 先生が褒める。


「落ち着いていました」


「ありがとうございます」


「褒められた後も?」


「礼を続けます」


 教室が笑う。


 休み時間。


 俺とリリスは、窓際の席へ座った。


 朝の光とは違う。


 少し高くなった陽射し。


 机の上に、呼称の紙。


 俺たちは、基本の呼び方へ印をつける。


 王族の前。


 シェルザート様。


 アマリリス様。


 親しい者の前。


 アルフレッド様。


 リリス様。


 二人きり。


 アル。


 リリス。


「リリス様」


 俺が呼ぶ。


 リリスの肩がぴくっと動く。


「はい、アルフレッド様」


 今度は俺の胸。


 お互い、少し照れる。


「これは」


「はい」


「慣れません」


「俺もです」


「でも、嫌ではありません」


「俺も」


「少し近くて」


「少し遠い」


「半歩です」


「はい」


 ユリウスが後ろから声をかける。


「リリス様」


「ユリウス様が呼ぶと、いつも通りです」


「差がある」


「当然です」


 俺が言う。


「アルフレッド様」


「やめてください」


「僕が呼ぶと?」


「気持ち悪いです」


「ひどい」


 エレナ嬢が笑う。


「呼称は、誰が呼ぶかでも変わりますわね」


「はい」


 リリスが答える。


「同じ言葉でも、アルの声なら分かります」


 強い。


 俺の目元が熱い。


「声で?」


 エレナ嬢が聞く。


「はい」


「アマリリス様と呼ばれても、アルが呼んでいると分かります」


「それなら安心ですわね」


「はい」


 リリスが俺を見る。


「アルも?」


「はい。アルフレッド様でも、リリスの声なら分かります」


「……嬉しいです」


 涙が落ちる。


 ミラがすぐにハンカチ。


「本日十六回目。声質関係継続確認涙でございます」


「細かいですね」


「呼称確認日でございますので」


 ニールが呼称表を持ってやってくる。


「すみません」


「はい」


「僕、姉を王城で何と呼べば?」


「普段は?」


「姉上」


「王族の前でも、家族内の呼称として問題ないのでは?」


 俺が答える。


 リリスも頷く。


「ただし、第三者へ紹介する時は、お名前を」


「はい」


「姉上だけでは、周囲の方に伝わりません」


「なるほど」


 家族の呼称。


 親しい呼称。


 全部を消す必要はない。


 伝わるように足す。


 昼休み。


 食堂へ向かう途中。


 俺たちは、呼び方練習を続けた。


「アマリリス様」


「はい、シェルザート様」


「本日の昼食は、食堂でよろしいですか?」


「はい。皆さまとご一緒したいです」


 周囲に生徒がいる。


 公的呼称。


 だが、声は柔らかい。


 リリスが聞く。


「寂しいですか?」


「少し」


「私もです」


「でも?」


「言葉に礼装を」


「はい」


 食堂へ入る。


 席につく。


 友人だけ。


 エレナ嬢。


 ユリウス。


 ニール。


 クラリス嬢。


 俺は一拍。


「リリス様、水を取りますか?」


 リリスの顔が赤くなる。


「はい。ありがとうございます、アルフレッド様」


 ユリウスが吹き出した。


「すごい。婚約者感が増えた」


「笑わないでください」


「いや、良い意味」


「褒めていますか?」


「たぶん」


「曖昧です」


 リリスは水を受け取る。


 涙が少し。


「褒められた後も?」


 俺が聞く。


「昼食は続きます」


「はい」


 クラリス嬢が言う。


「お二人とも、愛称より少し大人びて聞こえます」


「そうですか?」


 リリスが聞く。


「はい。でも、遠くは見えません」


 リリスの表情が明るくなる。


「本当ですか?」


「はい。声がいつもと同じですから」


 また声。


 呼び方より、声。


 表情。


 視線。


 そこに関係がある。


「ありがとうございます」


 リリスは受け取る。


 涙は一粒。


 食事を続ける。


 午後の魔法基礎。


 教師は、教室の前に三つの札を浮かべた。


『名』


『役割』


『本人』


「本日は、名と魔力です」


 また何でも魔法になる。


「同じ者でも、呼ばれ方は変わります」


 教師が言う。


「アマリリスさん」


「はい」


「フルーラ公爵令嬢」


「はい」


「リリス」


 深い青の魔力が、呼び方ごとに少し揺れる。


 アマリリスさん。


 教室の自分。


 フルーラ公爵令嬢。


 家と役割。


 リリス。


 親しい自分。


「どれが本物ですか?」


 教師が聞く。


 リリスは少し考える。


「全部です」


「よろしい」


「でも、全部だけではありません」


 教師が目を細める。


「続けて」


「呼ばれていない私も、います」


 教室が静かになる。


 俺も息を止めた。


 アマリリス。


 リリス。


 公爵令嬢。


 婚約者。


 娘。


 妹。


 友人。


 それだけではない。


 言葉にされない部分。


 本人。


「大変よろしい」


 教師が言った。


「名は、本人へ届くための道です」


「はい」


「本人そのものを、すべて言い切るものではありません」


 リリスの深い青が、三つの札を包む。


 どれか一つに閉じない。


「シェルザートさん」


「はい」


「アルフレッド」


「はい」


「アル」


 俺の魔力も揺れる。


 アルと呼ばれる時が、一番近い。


 だが、それだけが俺ではない。


「どれを失いたくありませんか?」


 教師が聞く。


 難しい。


 俺は少し考える。


「全部」


「はい」


「でも、呼ばれ方が一時的に変わっても、失ったとは思わないようにします」


「よろしい」


「本人は、残ります」


「その通りです」


 魔力が落ち着く。


 名前は道。


 服。


 でも、本人より大きくない。


 放課後。


 レオナルド先輩は、いつもの場所で待っていた。


 今日は手に札ではなく、呼称表。


「リリス」


「お兄様」


「足は?」


「問題ありません」


「靴は?」


「十五分。廊下三往復、階段五段。問題なし」


「よい」


 いつもの確認。


 それから、呼称。


「今日の基本は決めたか」


「はい」


「王族や年長者の前では、シェルザート様」


「はい」


「親しい方々の前では、アルフレッド様」


「はい」


「二人きりでは、アル」


「よい」


 兄が俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「君は?」


「王族や年長者の前では、アマリリス様」


「はい」


「親しい方々の前では、リリス様」


 レオナルド先輩の眉が少し動く。


「リリス様」


「はい」


「二人きりでは?」


「リリス」


「……分かった」


 少し不満そう。


 だが止めない。


「お兄様」


 リリスが言う。


「私が決めました」


「分かっている」


「嫌ですか?」


「少し」


 正直。


 リリスの目が潤む。


「お兄様も寂しいですか?」


「呼び方ではない」


「では?」


「君とアルフレッドの間に、私の知らない形が増える」


 沈黙。


 兄の言葉は、思ったより率直だった。


 リリスは少し驚く。


 俺も。


「嫌なのですか?」


 リリスが聞く。


 レオナルド先輩はすぐには答えない。


 風が通る。


 校舎脇の木の葉が揺れる。


 夕方の光。


「嫌ではない」


 やがて言った。


「寂しいだけだ」


 リリスの涙が落ちた。


「お兄様」


「泣くな」


「はい」


「だが、増えることを止めるつもりはない」


「はい」


「君が自分で選んだ呼び方なら、受け取る」


「ありがとうございます」


 レオナルド先輩も、妹の変化を止めない。


 寂しさを隠さず。


 でも、支配しない。


「アルフレッド」


「はい」


「リリス様と呼ぶ時も」


「はい」


「本人を見ろ」


「はい」


「呼び方に酔うな」


「どういう意味ですか」


「近い呼び方を使える自分へ満足するな」


 鋭い。


 呼称を権利のように扱わない。


 リリス様と呼べる。


 婚約者だから。


 それを誇示しない。


「分かりました」


「父上は?」


 俺が聞く。


 レオナルド先輩は、少しだけ疲れた顔をした。


「朝、紹介練習をした」


「はい」


「母上が父上へ、リリスを紹介した」


「何と?」


「『こちらは私たちの娘であり、アルフレッド殿の婚約者、アマリリスです』」


「はい」


「父上は泣いた」


「はい」


「婚約者という言葉で立った」


「札は?」


「『紹介で父親を辞めない』」


「聞きました」


「『婚約者と呼ばれても娘は娘』」


「はい」


「『名前を呼ばれなくても関係は消えない』」


「はい」


「さらに一枚増えた」


「何ですか?」


 リリスが聞く。


「『娘を紹介するたび幼少期から語らない』」


「必要です」


「父上は、三歳の青い花から話そうとした」


「紹介が長すぎます」


「母上が止めた」


「他には?」


「父上が君を紹介する練習をした」


 俺を見る。


「何と?」


「『こちらは、私の大切な娘を任せることになったが、まだ完全には任せていない、シェルザート伯爵家の――』」


「長いです!!」


「母上が止めた」


 リリスが顔を覆う。


「お父様」


「修正後は?」


「『こちらは、娘の婚約者であるアルフレッド・シェルザート殿だ』」


「普通」


「言った後、泣いた」


「はい」


「私も泣きそうです」


「泣くな」


「はい」


「父上は、紹介したからといって娘を渡し切ったわけではないと確認した」


「渡される物ではありません」


 リリスが言う。


 レオナルド先輩が頷く。


「ああ。母上も同じことを言った」


「お父様は?」


「娘は娘で、自分で歩く者だと」


「理解しましたか?」


「泣きながら」


「進歩です」


「新札は?」


 俺が聞く。


「五枚」


「多い」


「『紹介は譲渡ではない』」


「大切」


「『婚約者は所有者ではない』」


「はい」


「『父親も所有者ではない』」


「かなり大切」


「『名前より本人を見る』」


「今日の学び」


「最後」


「はい」


「『紹介文を三行以内にする』」


 俺は吹き出しかけた。


 リリスも口元を押さえる。


「お父様には必要です」


 正門。


 夕方。


 夜会まで五日。


 呼び方。


 名前。


 紹介。


 関係。


 今日は、ずっと言葉の距離を考えた。


 リリスは馬車の前で立ち止まる。


「アル」


「はい」


「今は、二人きりに近いです」


「はい」


「だから、アル」


「はい」


「嬉しいです」


「俺も」


 リリスの目が潤む。


「でも、明日また学園へ来たら」


「はい」


「人前では、アルフレッド様と呼ぶ練習をします」


「はい」


「寂しくても」


「はい」


「声で分かります」


「俺も」


「アマリリス様と呼ばれても?」


「はい」


「リリスだと」


「はい」


「今日の宝物名は」


「はい」


「呼び方に礼装を着せても、中の私たちは変わらないと知った日の宝物です」


「良い名前です」


「あと」


「はい」


「皆さまの前ではアルフレッド様、二人きりではアルと呼べる日の宝物です」


「はい」


「アルは?」


「王城ではアマリリス様」


「はい」


「親しい方々の前ではリリス様」


「はい」


「二人きりでは、リリス」


 涙が一粒落ちる。


「今、誰を呼びましたか?」


「リリスです」


「私は?」


「アルです」


 二人で笑う。


「リリス」


「はい」


「紹介する時、婚約者と言います」


 リリスの涙が増える。


「はい」


「隠しません」


「はい」


「でも、俺のものだという意味ではありません」


 リリスが少し驚く。


「はい」


「リリスはリリスです」


「はい」


「婚約者である前に?」


「リリスです」


 完全に泣いた。


 ハンカチ。


 ミラが用意する。


「アル」


「はい」


「私も」


「はい」


「アルを、私の婚約者と紹介します」


「はい」


「でも、私のものではありません」


「はい」


「アルは、アルです」


 今度は俺が危ない。


 目元へ来る。


 一拍。


「受け取ります」


「はい」


「婚約者でも」


「はい」


「本人です」


「はい」


 少し長い沈黙。


 夕方の風が、二人の間を通る。


 近い。


 でも、触れない。


 その距離で十分だった。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 馬車が遠ざかる。


 俺は見送る。


 明日、学園で会えば、また人前の呼び方を練習する。


 でも、今の声を覚えている。


 呼び方が変わっても、見失わない。


 屋敷へ戻ると、父上と母上が待っていた。


「どうだった?」


 母上が聞く。


「基本呼称を決めました」


「聞きましょう」


「王族や年長者の前では、アマリリス様」


「はい」


「親しい方々の前では、リリス様」


「はい」


「二人きりでは、リリス」


 母上が微笑む。


「本人の希望は?」


「確認しました」


「よろしい」


 父上が聞く。


「紹介は?」


「婚約者であるアマリリス・フルーラ公爵令嬢です、と」


「言えたか」


「はい」


「感情は?」


「かなり」


「止まったか」


「はい」


「よし」


 母上が聞く。


「リリス様からは?」


「婚約者であるアルフレッド・シェルザート伯爵子息です、と」


「どうだった?」


「危なかったです」


 父上が笑う。


「分かる」


「父上も?」


「母上に婚約者と紹介された時は、胸へ来た」


 母上が少し驚く。


「覚えているの?」


「もちろん」


「いつ?」


「王城の夏の昼餐会」


「よく覚えているわね」


「お前が言ったからな」


 父上の声が少し柔らかい。


 俺は、二人を見る。


 呼び方や紹介の言葉は、何年経っても残ることがある。


 ただの礼法ではない。


 でも、すべてでもない。


 その夜。


 フルーラ家から、いつもの三通が届いた。


 一通目。


 ガロウ公爵。


『今日は紹介の練習をした。セレスティアが、リリスを「私たちの娘であり、アルフレッド殿の婚約者」と紹介した。泣いた。立った。「紹介で父親を辞めない」「婚約者と呼ばれても娘は娘」「名前を呼ばれなくても関係は消えない」の札を見た。座った。私もアルフレッド殿を紹介した。最初は長くなった。三歳のリリスから話そうとした。止められた。三行以内で言えた。紹介は譲渡ではない。リリスは誰の所有物でもない。理解した。泣いた。 ガロウ』


 二通目。


 レオナルド先輩。


『呼称の基本を確認した。王城では場に合わせて呼べ。呼び方は関係そのものではない。近しい呼称を使えることへ酔うな。紹介する時も、肩書だけで本人を終わらせず、勝手に個人的情報を加えるな。リリスは君を婚約者として紹介できた。君も同様だ。父上は紹介文を三行以内に収めた。大きな進歩だ。 レオナルド』


 三通目。


 セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日は、王城での呼称と紹介順を学ばれたそうですね。呼び方が変わると、少し遠く感じることもあるでしょう。けれど、それは関係が変わったのではなく、言葉が場に合わせた装いへ着替えただけです。どうか声と表情で、相手を見失わないでくださいませ。また、婚約者と紹介することは、相手を所有することではありません。お二人がそれぞれ本人でありながら、関係を言葉にできることを願っております。夫には五枚の札を用意しました。紹介文を三行以内に収めることができました。継続が大切です。 セレスティア』


 俺は三通を読み終えた。


 三行以内。


 ガロウ公爵にとっては、大きな進歩なのだろう。


 父上が書状を読み、笑う。


「ガロウ、三歳から話そうとしたか」


「紹介では長すぎます」


「父親は語りたくなるものだ」


「父上も?」


「必要なら」


「必要ありません」


 母上が笑う。


「アル」


「はい」


「婚約者と紹介されることは嬉しい?」


「はい」


「怖い?」


「少し」


「なぜ?」


「責任を感じます」


「はい」


「でも、所有される感じは?」


「ありません」


「なぜ?」


「リリスが、俺は俺だと言ってくれたからです」


 母上の表情が柔らかくなる。


「よかったわね」


「はい」


「あなたも、同じことを忘れないで」


「はい」


「リリス様は、あなたの婚約者」


「はい」


「でも、あなたのためだけにいる方ではない」


「はい」


「娘であり、妹であり、友人であり、ご本人でもある」


「はい」


 呼び方。


 役割。


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