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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第65話 公爵令嬢様、座って休むだけなのに申し訳なさそうすぎます


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王城の春の親睦夜会まで、あと八日。


 昨日は九日だった。


 今日は八日。


 数字は、きちんと一つ減った。


 当然である。


 だが、一日ずつ減っていく数字を見るたびに、胸の奥に小さな鐘を鳴らされているような気分になる。


 急げ。


 もうすぐだ。


 準備は足りているのか。


 忘れていることはないか。


 そんな音だ。


 しかし、昨日も学んだ。


 本番が近いからといって、未来まで一気に歩こうとしてはいけない。


 今日は今日。


 痛いなら、止まる。


 直せるものは、今のうちに直す。


 できないことがあっても、それだけで一日を失敗にしない。


 昨日、リリスは夜会用の靴で右の踵を少し擦った。


 傷にはなっていなかった。


 赤みがあり、押すと違和感がある程度。


 けれど、リリスは最初、


「少しだけです」


 と言った。


 少しだけ。


 これくらいなら大丈夫。


 履いていれば慣れる。


 本番では我慢する。


 放っておけば、そのまま未来まで我慢しそうだった。


 だから俺は言った。


「我慢は礼ではないそうです」


「痛みを隠さないでください」


「できない日があっても、嫌いになりません」


 リリスも答えた。


「アルが痛い時、できない時、弱い時でも、嫌いになりません」


 強かった。


 思い出すだけで、まだ胸が熱くなる。


 昨日は靴の練習を途中で止めた。


 階段も。


 ダンスも。


 できなかった。


 だが、痛いと言えた。


 止まれた。


 休めた。


 それは、夜会本番で最後まで歩くために必要な準備だった。


 そして本日。


 リリスの夜会用靴は、朝から靴職人の手で修正されることになっている。


 右踵の内側を少し広げる。


 柔らかな当て布を加える。


 留め具の位置を微調整する。


 午後には試し履きができる予定だが、今日は長く歩かない。


 足を休める。


 礼法授業も、座ったままでできる内容へ変更されるらしい。


 ライズの予告通りである。


 朝。


 食堂へ入ると、俺の夜会用靴はまだ戻っていなかった。


 昨日のうちに靴職人へ渡され、踵の硬さと底の滑り止めを調整中だ。


 父上は朝食を取りながら、王城から届いた予定表とは別の紙を見ていた。


 母上は、俺の礼装の最終刺繍案を確認している。


 平常運転だ。


 いや。


 夜会準備中の我が家としては、平常運転だ。


「おはようございます」


「おはよう、アルフレッド」


「おはよう、アル」


 俺は席へ座る。


 温かいスープ。


 焼いたパン。


 卵。


 果物。


 本番まで八日でも、朝食はいつも通りだ。


 父上が紙から顔を上げる。


「リリス嬢の足はどうだ」


「昨夜の書状では、赤みは少し引いたそうです」


「歩けるか」


「歩けます。ただし、今日は休ませると」


「正しい」


 父上は短く頷いた。


「若い者は、休むことを遅れだと思いがちだ」


「はい」


「だが、休むべき日に無理をすれば、翌日以降まで遅れる」


「はい」


「一日休むことが、三日進むために必要なこともある」


「三日進むため」


「そうだ」


 母上が俺を見る。


「アル、今日はリリス様の代わりに何かしようと考えないこと」


「……顔に出ていましたか?」


「少し」


「何をしようとした?」


 父上が聞く。


「授業の内容を全部覚えて、後で伝えようかと」


「それ自体は悪くないわ」


 母上は言う。


「でも、リリス様がご自分で学べることまで、あなたが先に抱えないこと」


「はい」


「座ってできる授業なのでしょう?」


「はい」


「なら、リリス様はご自分で受けられるわ」


「そうですね」


「助けることと、役目を奪うことは違う」


 昨日、レオナルド先輩にも言われた。


『守ることと、奪うことは近い』


 本人が言う機会を奪わない。


 本人ができることまで代わりにしない。


 心配しないわけではない。


 だが、信じる。


「分かりました」


 俺は頷いた。


「頼まれたら手伝います」


「よろしい」


 母上が微笑む。


「頼まれる前に全部やらない」


「はい」


「ただし、困っているのに知らないふりもしない」


「はい」


「難しいですね」


「人と一緒にいることは、ずっと難しいものよ」


 さらりと言われた。


 でも、たぶん本当だ。


 半歩は、一度覚えれば終わりではない。


 近づきすぎる日もある。


 遠ざかりすぎる日もある。


 心配しすぎる日。


 頼れない日。


 頼りすぎる日。


 そのたびに戻る。


 ライズは俺の鞄へ教科書を入れ終えると、静かに告げた。


「若様、本日のハンカチは三十枚でございます」


「ついに三十枚」


「座位礼法および靴修正確認日でございますので」


「座っているのに増えるのか」


「座ることへの罪悪感涙が予想されます」


「罪悪感」


「はい。アマリリス様は、皆さまが立って練習される中、ご自分だけ座ることを申し訳なく思われる可能性が高くございます」


「ものすごくありそうだ」


「さらに、若様が『座っていてください』と仰った際の安心涙」


「言いそうだ」


「ご友人方が自然に座位へ合わせてくださった際の友情涙」


「あるな」


「靴職人より修正完了の報告を受けた際の感謝涙」


「はい」


「試し履きで痛みが軽減した際の達成涙」


「はい」


「ガロウ公爵閣下が、娘が座っていると聞き、ご自身も座ることを選ばれた際の家族成長涙でございます」


「公爵も座るのか?」


「セレスティア様がご提案される可能性がございます」


「娘が休んでいるから、父も座って待つ」


「はい」


「良い話のようで、いつものようでもある」


「両立いたします」


 ライズは真顔だ。


「本日の心の札は?」


「『休むことにも居場所がある』でございます」


 俺は少し黙った。


 休むことにも、居場所がある。


 昨日、リリスは座学へ切り替えた。


 魔法基礎では、座ったまま光を作った。


 立たなくても、学べた。


 歩けなくても、その場にいられた。


 今日は、それをもっと受け取る日なのかもしれない。


「受け取る」


「よろしいかと」


 学園へ向かう馬車の中。


 俺は窓の外ではなく、向かいの座席を見ていた。


 座る。


 普段、何気なくしていること。


 朝食で座る。


 馬車で座る。


 授業で座る。


 休むために座る。


 待つために座る。


 けれど、リリスは今日、皆が立って練習する中で座る。


 それを申し訳なく思うだろう。


 自分だけ遅れている。


 自分だけ休んでいる。


 皆に迷惑をかけている。


 きっと、そう考える。


 俺も似たところがある。


 自分だけ休むのが苦手だ。


 誰かが動いていると、何かしなければと思う。


 何もしていない時間を、価値がないように感じる。


 だが、昨日母上は言った。


 治すにも力が必要。


 今日休むことが、三日進むために必要なこともある。


 休むことにも役目がある。


 正門前。


 リリスは、いつもの場所にいた。


 制服姿。


 ブルーローズの髪飾り。


 足元は、学園用の柔らかな靴。


 右足には、昨日と同じ保護布を当てているらしい。


 だが、今日は立ち方が少し違った。


 右足へ無理に体重をかけていない。


 かといって、左へ寄りすぎてもいない。


 自分の足の状態を確かめながら立っている。


 俺を見つける。


 微笑む。


 歩き出そうとする。


 一歩。


 そこで止まった。


 俺は、こちらから歩いた。


 走らない。


 急がない。


 いつもの距離で止まる。


「リリス、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、アル」


「今日は俺が歩きました」


「はい」


「痛みは?」


 聞いた後、続けすぎないように待つ。


 リリスは自分で考える。


「何もしていなければ痛くありません」


「はい」


「長く歩くと、少し違和感が出るかもしれません」


「はい」


「押すと、昨日より弱い違和感があります」


「受け取りました」


 リリスの目が潤む。


「先に決めませんでした」


「はい」


「アルが、待ってくださいました」


「昨日、注意されましたから」


「私も、言えました」


「はい」


「小声版です」


「朝一回目ですね」


「家で二回泣きました」


「何で?」


「お父様が、私が足を休めるなら今日は自分もできるだけ座ると言ってくださって」


「ライズの予測が当たった」


「はい」


「公爵は仕事へ?」


「騎士団の執務室で、座って書類を確認すると」


「普段も座る仕事はあるのでは?」


「お父様は、考える時に歩く癖があります」


「なるほど」


「今日は歩き回らず、座って待つと」


「良いですね」


 リリスの涙が一粒落ちる。


「お父様も一緒に休んでくださいます」


「公爵は怪我をしていませんけど」


「気持ちです」


「はい」


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは目元を押さえる。


「アル」


「はい」


「今日は、礼法で座るそうです」


「聞きました」


「皆さまは立つのに」


「はい」


「私だけ」


 来た。


 声が小さくなる。


 視線が落ちる。


「申し訳ないです」


「誰に?」


 俺が聞くと、リリスは少し驚いた。


「先生に」


「はい」


「皆さまに」


「はい」


「アルにも」


「俺にも?」


「一緒に練習できません」


「座って練習します」


「でも」


「リリス」


「はい」


「今日は、座っていることが練習なんだと思います」


 リリスが目を上げる。


「座っていることが」


「はい」


「痛いのに立つのではなく、必要な時に休む」


「はい」


「皆が立っていても、自分の体に合わせる」


「はい」


「申し訳なさで無理に戻らない」


「はい」


「休むことにも、居場所があるそうです」


 リリスの目から涙が落ちた。


「誰のお言葉ですか?」


「ライズです」


「ライズ様が」


「従者です」


「でも、とても優しいです」


「はい」


 俺もそう思った。


「今日は、座っていてください」


 言った瞬間、リリスの涙が増える。


 予測通り。


「アル」


「はい」


「座っていても、隣にいてよいですか?」


「当然です」


「皆さまより遅くても?」


「遅いとは思いません」


「できないことがあっても?」


「昨日確認しました」


「嫌いになりませんか?」


「なりません」


 リリスは完全に泣いた。


 校門前で。


 朝から。


 しかし、声は抑えている。


 ハンカチで目元を覆い、深呼吸する。


「アル」


「はい」


「休んでいても、ここにいてよいのですね」


「はい」


「俺の隣に」


「はい」


「学園に」


「はい」


「夜会の準備の中に」


「はい」


「いてください」


 俺はそう言った。


 リリスの肩が小さく揺れた。


 ミラが後ろで新しいハンカチを用意する。


「本日三回目。休息居場所確認涙でございます」


「長いですね」


「重要事項でございます」


 リリスは涙を拭き、顔を上げた。


「戻りました」


「はい」


「今日は、ゆっくり歩きます」


「はい」


「でも、自分で歩きます」


「はい」


「必要なら、止まります」


「はい」


 俺たちは校門を通った。


 いつもより遅い。


 だが、遅れているとは感じなかった。


 朝の校舎。


 石の廊下。


 窓から入る柔らかな光。


 生徒たちが俺たちを追い越していく。


 一人。


 二人。


 何人も。


 以前なら、俺は周囲を気にしたかもしれない。


 遅いと思われる。


 目立つ。


 邪魔になる。


 しかし、廊下は広い。


 端を歩けば、誰も困らない。


 俺たちには、俺たちの速度がある。


 途中で、ユリウスとエレナ嬢が追いついた。


 ユリウスは歩幅を緩める。


 エレナ嬢も、何も言わずリリスの反対側へ並んだ。


「おはよう」


「ご機嫌よう」


「ご機嫌よう」


 ユリウスは足元を見る。


「痛み、どう?」


 リリスが自分で答える。


「何もしていなければ痛くありません。長く歩くと、少し違和感が出るかもしれません」


「了解」


 それだけ。


 過剰に心配しない。


 エレナ嬢も言う。


「本日は座位中心ですわね」


「はい」


「私も隣へ座ります」


「エレナ様も?」


「練習相手が必要でしょう?」


「でも、エレナ様は立つ練習を」


「交代で行いますわ」


「よいのですか?」


「先生から、座位での会話練習は全員が行うと伺っています」


「全員?」


 リリスが驚く。


 ユリウスが笑う。


「リリス様だけ特別に座らされるわけじゃないよ」


「そうなのですか?」


「夜会では座る場面もあるからね」


「椅子へ座る礼、立ち上がる礼、座ったまま会話する距離。必要ですわ」


 エレナ嬢が説明する。


 リリスの表情が少し緩む。


「皆さまも座るのですね」


「はい」


「私は長めに座るだけ?」


「そうですわ」


 リリスの目が潤む。


「同じ授業の中にいられます」


「最初から同じです」


 エレナ嬢が優しく言った。


 リリスは深呼吸。


「ありがとうございます」


 ユリウスが俺を見る。


「アルフレッド、今日は顔が見張り役だね」


「見張らないようにしています」


「努力中?」


「はい」


「じゃあ、僕が見張ろうか」


「余計です」


「冗談」


「軽さを半歩」


「はい」


 いつものやり取り。


 リリスが笑う。


 教室へ入る。


 今日は机の配置が少し変わっていた。


 中央に広い空間はない。


 代わりに、椅子がいくつかの小さな円を作るように置かれている。


 低い机。


 ティーカップを置く想定の台。


 扇。


 ハンカチ。


 模擬の招待状。


 座ったままの社交練習。


 リリスのためだけではない。


 夜会の一場面として、全員が学ぶ。


 そのことが分かるだけで、リリスの肩から少し力が抜けた。


 ニールが椅子の位置を直していた。


「アマリリス様」


「はい」


「こちらの椅子、背が柔らかいそうです」


「ありがとうございます」


「足を少し前へ出せる位置にしました」


「バートン様が?」


「先生に言われて」


「それでも、ありがとうございます」


 ニールが照れたように笑う。


 クラリス嬢も、リリスの席の近くに水を置いた。


「今日は座ってお話しできますね」


「はい」


「私、立っている皆さまへ話しかけるのは少し緊張するので、座位練習は嬉しいです」


「クラリス様も?」


「はい」


 リリスだけではない。


 座る方が安心できる者もいる。


 立ち続けるのが得意ではない者。


 人の輪へ入るのが怖い者。


 長い夜会で疲れる者。


 座ることは、特別な退場ではない。


 社交の中の一つの場所だ。


 一時間目。


 礼法。


 ベイル先生は教室へ入り、全員が席へ着くのを待った。


 黒板へ向かう。


 白い文字。


『夜会における休息と座位の礼』


 リリスの目が、文字を追う。


「昨日、夜会用靴の確認を行いました」


 先生の声は落ち着いている。


「痛みや違和感を申し出た者が複数いました」


 俺。


 リリス。


 ユリウス。


 ニール。


 他にも数人。


「本番前に見つかったことは幸いです。必ず調整してください」


「はい」


「本日は、夜会中に疲れた場合の休息、椅子への座り方、座ったままの会話、立ち上がる際の礼を練習します」


 先生は黒板へ書き足す。


『休むことは退場ではない』


『座っていても場の一員』


『無理をする前に休む』


 リリスの目が潤む。


「夜会は長時間です」


 昨日も聞いた。


 王城到着。


 入場。


 挨拶。


 第一舞踏。


 会話。


 第二舞踏。


 軽食。


 退出。


 何時間もある。


「最初から最後まで立ち続ける必要はありません」


「はい」


「必要に応じて、壁際の椅子、談話席、控え室を使うこと」


 先生は全員を見る。


「休む者を、場から外れた者として扱わないこと」


 静かになる。


「座っていても、夜会に参加しています」


 リリスの涙が一粒落ちる。


「アマリリスさん」


「はい」


「今、何を受け取りましたか?」


 リリスは少し考える。


「座っていても、皆さまと同じ場所にいられることです」


「はい」


「休むことが、夜会から離れることではない」


「その通りです」


「ありがとうございます」


 先生が頷く。


「今日は右足を休めるため、アマリリスさんは大部分を座位で行います」


「はい」


「申し訳ないと思いますか?」


 直球。


 リリスは正直に答える。


「はい」


「誰に?」


「皆さまに」


「では、皆さんへ聞きます」


 先生が教室を見渡した。


「アマリリスさんが座っていることで、授業を妨げられる者は?」


 誰も手を挙げない。


 静かな教室。


 先生が待つ。


 一拍。


 二拍。


 三拍。


 誰も。


「アマリリスさん」


「はい」


「今の沈黙を受け取りなさい」


 リリスの唇が少し震える。


「はい」


「誰も困っていません」


「はい」


「むしろ、あなたが座位役を務めることで、他の者も実際的な練習ができます」


「はい」


「あなたは授業から外れていません」


「……はい」


 リリスの涙が増える。


 だが、椅子に座ったまま背筋を伸ばしている。


「小声版です」


「今は泣いてよいです」


 先生が言った。


「ただし、授業は続きます」


「はい」


 先生は今日も厳しく、優しい。


 最初の練習。


 椅子へ座る動作。


 夜会用ドレスを想定する。


 椅子の位置を確認。


 後ろへ下がる。


 裾を整える。


 背もたれへ深く預けすぎない。


 足を投げ出さない。


 膝を揃える。


 手は自然に。


 扇やハンカチを持つ場合の位置。


 リリスは、すでに座っている。


 先生が彼女の姿勢を見る。


「アマリリスさん、右足を守ろうとして左肩が上がっています」


「はい」


「足を少し前へ」


「はい」


「痛みは?」


 リリスは自分で確認する。


「ありません」


「違和感は?」


「今はありません」


「よろしい」


 姿勢を整える。


 痛みを隠さない。


 だが、痛みに全身を支配させない。


「背もたれを使ってもよいですか?」


 リリスが聞く。


「もちろんです」


「礼を失いませんか?」


「疲労で倒れる方が礼を失います」


「はい」


 教室に小さな笑いが起きる。


 先生は続ける。


「ただし、深く沈みすぎないこと。休むことと崩れることは違います」


 また半歩。


 背もたれを使う。


 使いすぎない。


 次に、座った相手へ声をかける練習。


 立っている者が、座って休む者へ近づく。


 相手を見下ろしすぎない。


 距離を取りすぎない。


 必要なら自分も座る。


 最初の相手はエレナ嬢。


 エレナ嬢はリリスへ近づき、丁寧に礼をする。


「アマリリス様、ご一緒してもよろしいでしょうか」


「はい。どうぞ」


 エレナ嬢が隣へ座る。


 同じ高さ。


 リリスの表情が少し柔らかくなる。


「お疲れではありませんか?」


「少し足を休めております」


「痛みは?」


「今はありません」


「それならよかったですわ。先ほどの第一舞踏、とても美しかったです」


 想定会話。


 褒められた後も。


 一拍。


「ありがとうございます。途中で少し緊張いたしましたが、戻ることができました」


「その後、どなたかとお話しされました?」


「はい。エドワード殿下より、半歩の研究についてお言葉をいただきました」


「まあ」


 会話が続く。


 座っていても。


 先生が頷く。


「よろしい。休息中だからといって、弱々しく振る舞う必要はありません」


「はい」


「また、相手も過剰に心配しないこと」


 エレナ嬢が頷く。


「はい」


「心配の言葉を一度。返答を受け取ったら、通常の会話へ戻る」


 大切だ。


 俺も覚える。


 次にユリウス。


 リリスの前へ立つ。


「アマリリス様、お疲れですか?」


「少し足を休めております」


「大丈夫?」


 言葉が軽い。


 先生の視線。


「場に合わせる」


「はい」


 ユリウスが戻る。


「お加減はいかがでしょうか」


「今は痛みもなく、落ち着いております」


「それは何よりです。こちらへ座っても?」


「はい」


 ユリウスが向かいの椅子へ座る。


「王城の庭園について、ご覧になりましたか?」


「まだです。夜会の時間に出られるのでしょうか」


「一部の回廊から、夜の庭園が見えるそうです」


「楽しみです」


 会話が進む。


 ユリウスも真面目にできる。


 少しだけ。


「よろしい」


 先生が言う。


「ユリウスさん、最初の軽さを戻せました」


「ありがとうございます」


「褒められた後も?」


「座っています」


 教室が笑う。


 次。


 俺。


 リリスの前へ立つ。


 ただの練習。


 教室。


 制服。


 それでも少し緊張する。


 夜会本番。


 リリスが椅子で休んでいる。


 俺が戻る。


 そんな場面を想像する。


 礼。


「アマリリス様、ご一緒してもよろしいでしょうか」


 リリスが俺を見る。


 目が潤みかける。


 一拍。


「はい。どうぞ」


 俺は隣へ座る。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 椅子同士の距離。


 夜会用半歩。


「お加減はいかがですか?」


「今は痛みもなく、落ち着いております」


「それなら安心しました」


 ここで心配を終える。


 次へ。


「先ほど、王妃殿下のお側でお話しされていましたね」


「はい。深い青のドレスについて、お言葉をいただきました」


「何と?」


「落ち着いた良い色ですね、と」


 俺の胸が熱くなる。


 だが、会話を続ける。


「俺……私も、そのように思います」


 リリスの目が潤む。


「褒められた後も、座っています」


「はい」


「会話も続けましょう」


「はい」


「何とお返ししたのですか?」


「ありがとうございます。婚約者と並んだ際の色も考え、家族と選びました、と」


 強い。


 でも、今は授業。


 続ける。


「王妃殿下は?」


「とても自然な色合わせですね、と」


 俺の顔が熱くなる。


 教室が少しざわつく。


 ユリウスが笑いを堪えている。


 先生が言う。


「シェルザートさん」


「はい」


「会話を止めない」


「はい」


 戻る。


「その後、足を休めるよう勧められたのですか?」


「はい。無理をせず、夜会を楽しみなさいと」


「良いお言葉ですね」


「はい」


 リリスが静かに微笑む。


 座っている。


 泣きそう。


 でも、場にいる。


 会話ができる。


「よろしい」


 先生が言った。


「二人とも、心配と感情に留まりすぎず、次へ進めました」


「ありがとうございます」


 俺たちは同時に答えた。


 次は、立ち上がる練習。


 これが重要らしい。


 休んだ後、再び立つ。


 急に立たない。


 眩暈を確認。


 足の痛みを確認。


 裾を整える。


 同伴者がいる場合も、引っ張って立たせない。


 本人が立つ意思を示してから手を貸す。


 先生がリリスを見る。


「アマリリスさん」


「はい」


「今は実際に立たなくても構いません」


「はい」


「動作だけ確認します」


 リリスは椅子の端へ少し移動する。


 両足の位置。


 右足は少し前。


「立つ前に?」


「痛みを確認します」


「今は?」


「ありません」


「眩暈は?」


「ありません」


「では、シェルザートさん」


「はい」


「手を」


 俺は立ち、リリスの前へ手を差し出す。


 すぐ引かない。


 待つ。


 リリスが手を重ねる。


 だが、立たない。


 動作だけ。


 先生が言う。


「シェルザートさん、今、力を入れましたね」


「はい」


「引き上げようとしました」


「少し」


「本人が立つ力を奪わない」


「はい」


「手は、支点です」


 支点。


 引くものではない。


 支える場所。


「アマリリスさん」


「はい」


「相手の手へ全てを預けない」


「はい」


「自分で立つ。必要な分だけ借りる」


「はい」


 俺たちは、もう一度。


 手を重ねる。


 俺は動かない。


 リリスが、自分で立つつもりの力を入れる。


 今日は実際には上がらない。


 でも、感覚を作る。


「よろしい」


「はい」


「支えは、代行ではありません」


 先生の言葉。


 今日の全部につながる。


 助ける。


 でも、代わりにしない。


 頼る。


 でも、全てを預けない。


 休む。


 でも、場から消えない。


 半歩。


 授業は、全員が交代で座位役をした。


 俺も座った。


 ユリウスが話しかける役。


「シェルザート様、お疲れですか?」


「少し足を休めています」


「アマリリス様は?」


 いきなり婚約者の所在を聞く。


「エレナ様方とお話ししています」


「寂しくない?」


「ユリウス様」


「練習だよ」


 一拍。


「少しは」


 正直に答える。


「ですが、互いに役目があります。後で合流します」


「戻る合図は?」


「リリスがハンカチを左手へ。俺は胸元の青へ触れます」


「それなら安心だね」


「はい」


 先生が頷く。


「よろしい。休息中も、婚約者の不在を過度に不安として扱っていません」


 俺も座ると分かる。


 座っているからといって、何もしていないわけではない。


 相手の言葉を聞く。


 呼吸を整える。


 周囲を見る。


 次に動く力を戻す。


 必要な時間だ。


 休み時間。


 リリスはそのまま椅子へ座っていた。


 皆も近くの椅子に座る。


 ユリウス。


 エレナ嬢。


 ニール。


 クラリス嬢。


 俺。


 自然に、小さな輪になった。


 誰も、リリスだけを中心に心配し続けない。


 普通の会話をする。


「算術の課題、難しくなかった?」


 ユリウスが言う。


「最後の二問が」


 ニールが答える。


「僕、答えが合いませんでした」


「式の途中で符号を変えた?」


「たぶん」


 エレナ嬢がクラリス嬢へ聞く。


「図書室の本は返せました?」


「はい。昨日」


 リリスも会話へ入る。


「クラリス様、前にお話しされていた詩集ですか?」


「はい。とてもよかったです」


「今度、私も借りてみたいです」


「ぜひ」


 夜会の話だけではない。


 足の話だけでもない。


 今日の休み時間。


 普通の会話。


 リリスは座っている。


 でも、何も失っていない。


 俺はそれを見て、少し安心した。


「アル」


 リリスが俺を見る。


「はい」


「皆さま、私が座っていても普通にお話ししてくださいます」


「はい」


「申し訳なさそうに見えますか?」


「少し」


「まだ?」


「はい」


 リリスが苦笑する。


「どうすれば、なくなりますか?」


「すぐになくさなくていいと思います」


「はい?」


「申し訳ないと思う気持ちが出たら、誰かが本当に困っているか見ればいいです」


「はい」


「今、困っている人は?」


 リリスが周囲を見る。


 ユリウスはニールの算術を見ている。


 エレナ嬢とクラリス嬢は詩集の話。


 誰も困っていない。


「いません」


「なら、その気持ちを少し置く」


「半歩」


「はい」


「申し訳なさにも半歩」


「また増えましたね」


「でも必要かも」


 リリスが静かに笑う。


「アル」


「はい」


「座っている私を、急かさないでくださってありがとうございます」


「はい」


「でも、置いていかないでくださって」


「はい」


「ありがとうございます」


 目が潤む。


「今は何の涙ですか?」


「休んでいても、友人でいられる涙です」


「良いですね」


「はい」


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは目元を拭く。


 ニールがこちらを見る。


「ハンカチ、足りますか?」


「今日は三十枚あります」


「三十」


 ニールが驚く。


 ユリウスが言う。


「本番は何枚になるんだろう」


「言わないでください」


 俺が止める。


「予測だけで大変になります」


「本番用荷車が必要かも」


「ハンカチだけの?」


「はい」


 リリスが笑う。


 笑って、また少し泣く。


 昼休み。


 食堂へ向かう時、リリスは自分から言った。


「少し歩きたいです」


「はい」


「痛みが出たら止まります」


「はい」


「食堂までは、自分で」


「分かりました」


 俺は並ぶ。


 手を貸さない。


 必要になるまで。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 ゆっくり。


 右足。


 左足。


 廊下の端。


「痛みは?」


 一度だけ聞く。


「ありません」


「違和感は?」


「少しだけ。でも増えていません」


「分かりました」


 それ以上は聞かない。


 エレナ嬢が反対側へいる。


 ユリウスは少し前。


 ニールとクラリス嬢は後ろ。


 誰も急かさない。


 かといって、全員がリリスの足元だけを見ているわけでもない。


「今日のスープ、何でしょう」


 クラリス嬢が言う。


「豆だと思います」


 ニールが答える。


「匂いで?」


「はい」


「すごいですね」


 普通の話。


 歩くことだけが世界の中心にならない。


 食堂へ到着する。


 リリスは少し息を吐いた。


「着きました」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「よかったです」


「ありがとうございます」


 席へ座る。


 今日は、リリスが先に座った。


 俺たちも続く。


 食事が運ばれる。


 やはり豆のスープ。


 ニールが少し誇らしそうだ。


「当たりました」


「すごいです」


 リリスが言う。


 ニールが顔を赤くする。


「褒められた後も座っています」


「今日は座位ですから」


 皆が笑う。


 リリスは食事を始める。


「お母様に、休む日ほど食べなさいと言われました」


「昨日と同じですね」


「はい」


「公爵は?」


「私が帰るまで、座って仕事をすると」


「食事も?」


「お母様に確認されるそうです」


「万全ですね」


 ユリウスが言う。


「ガロウ公爵、娘のために座っているうちに、仕事が進みそう」


「歩き回って指示を増やすより、書類が片づくと副官の方が喜んでいたそうです」


「副官の人、助かってる」


 リリスが少し笑う。


「お父様の休息が、騎士団のためにも」


「休むことにも役目があるね」


 ユリウスが言った。


 軽い口調。


 でも、良い言葉。


 午後の魔法基礎。


 昨日に続き、リリスは座位での実技。


 教師は教室の中央へ椅子を用意した。


 だが今日は、リリスだけではない。


 全員が一度座り、力を抜いた状態で魔力を保つ練習をする。


「立っている時は、体の緊張で魔力を支えている者がいます」


 教師が説明する。


「座ると、余計な力が抜けます」


「はい」


「その時、魔力まで消える者は、体に頼りすぎています」


 俺たちも座る。


 手のひら。


 小さな光。


 俺の光は、少し揺れた。


 座ると集中が緩む。


 リリスの深い青は、昨日より安定している。


 教師が言う。


「アマリリスさん、よいですね」


「ありがとうございます」


「昨日、休む魔力を学んだ効果があります」


「はい」


「では今日は、休みながら周囲を見る」


「はい」


 リリスは光を保ちながら、隣の生徒を見る。


 俺。


 エレナ嬢。


 ユリウス。


 ニール。


 自分の光だけを見ない。


「休む時、人は内側へ入りすぎることがあります」


 教師が言う。


「痛み。不安。疲労。自分のことだけでいっぱいになる」


「はい」


「しかし、周囲とのつながりを少し残す」


 深い青の光から、細い線が伸びる。


 俺の光へ。


 エレナ嬢の光へ。


 触れない。


 でも、近くにある。


「よろしい」


「ありがとうございます」


「休息は孤立ではありません」


 リリスの目が潤む。


 だが、光は消えない。


「褒められた後も?」


 教師が聞く。


「光は続きます」


 リリスが答えた。


 教室に小さな笑い。


 放課後。


 レオナルド先輩は、いつもの場所にいた。


 今日は椅子を持っていた。


 なぜ。


 校舎脇の壁際に、一脚の椅子。


「お兄様」


「リリス」


「その椅子は?」


「待つ間、座っていた」


「お兄様も?」


「ああ」


 リリスの目が潤む。


「足は痛くないですよね?」


「痛くない」


「では、なぜ」


「父上が座っている」


「はい」


「君も座っている」


「はい」


「私も、座って待つことを試した」


 レオナルド先輩。


 妹と父に合わせて、自分も。


「どうでしたか?」


 リリスが聞く。


「悪くない」


「落ち着きましたか?」


「少し」


「お兄様」


「泣くな」


「はい」


 深呼吸。


 耐える。


 レオナルド先輩がリリスの足を見る。


「痛みは?」


 リリスが自分で答える。


「何もしていなければ痛くありません。食堂まで歩きましたが、痛みは出ませんでした。軽い違和感のみです」


「よい」


「礼法は?」


「座位で参加しました」


「申し訳なく思ったか?」


「はい」


「今は?」


「皆さまが困っていないことを確認し、半歩置きました」


「よい」


 兄の短い返答。


 でも、リリスは嬉しそうだ。


「靴は?」


「夕方には修正が終わります。今日は試し履きをせず、明日の朝に短く確認します」


「正しい」


 レオナルド先輩は俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「先回りしたか?」


「朝は待てました」


「途中は?」


「少し心配しすぎましたが、本人へ聞きました」


「よい」


「助けすぎませんでした」


「リリスが歩くと言った時は?」


「並びました」


「手は?」


「貸していません」


「必要なかったから?」


「はい」


「ならよい」


 今日も講評のようだ。


 だが、ありがたい。


「公爵は?」


 俺が聞く。


 レオナルド先輩は少しだけ笑った。


「座っている」


「ずっと?」


「騎士団執務室で、午前中は座ったまま書類を処理した」


「午後は?」


「一度立ち、部下へ指示を出そうとした」


「札が?」


「母上から使者が来た」


「屋敷から?」


「『娘が休んでいる日に廊下を往復しない』」


「具体的」


「父上は座り直した」


「仕事は進みましたか?」


「通常の二倍」


「すごい」


 ユリウスがいれば笑っただろう。


 いや、俺も少し笑いそうだ。


「副官から、毎週一日娘に休んでほしいと言われた」


「それは駄目です」


 リリスが即答した。


「冗談だ」


「お兄様が冗談を」


「父上の副官が言った」


「そうでしたか」


「私が言ったと思ったのか」


「少し」


 レオナルド先輩が不満そうだ。


 リリスが笑う。


「新札は?」


 俺が聞く。


「今日は三枚」


「多い」


「『休息中に予定を増やさない』」


「休んでいる時間で別の仕事を増やすな、と」


「ああ」


「『座っている者を立たせない』」


「リリスへ会いに来るつもりでした?」


「帰宅時、玄関まで迎えに出ると言った」


「座って待つ約束なのに」


「母上が止めた」


「最後は?」


「『娘が帰るまで、椅子と仲良くする』」


 リリスが口元を押さえた。


「椅子と仲良く」


「父上は、椅子に名前は必要かと聞いた」


「いりません!!」


 俺の声が大きくなった。


 レオナルド先輩は真顔だ。


「母上も同じことを言った」


 正門。


 夕方。


 八日前の一日が終わる。


 リリスは朝より、少し自然に立っていた。


 違和感はある。


 でも、無理にかばっていない。


「アル」


「はい」


「今日は、ほとんど座っていました」


「はい」


「最初は、申し訳なかったです」


「はい」


「でも、皆さまと話せました」


「はい」


「授業も受けられました」


「はい」


「魔法も使えました」


「はい」


「食堂まで歩けました」


「はい」


「座っていても、一日を過ごせました」


「はい」


 リリスは微笑む。


「今日の宝物名は」


「はい」


「休んでいても、私の居場所はなくならなかった日の宝物です」


「とても良い名前です」


「あと」


「はい」


「皆さまが、私の速度で一緒に歩いてくださった日の宝物です」


「はい」


「アルも」


「はい」


「急かさず、置いていかず」


「はい」


「並んでくださいました」


「隣にいただけです」


「それが嬉しいです」


 目が潤む。


「今日は何枚目ですか?」


 俺が聞く。


 ミラが答える。


「二十六枚目でございます」


「三十枚、使い切りそうですね」


「残り四枚。予備が八枚ございます」


「予備まで」


「本日は想定範囲内です」


 リリスが少し恥ずかしそうに笑う。


「アル」


「はい」


「明日、靴を短く履きます」


「はい」


「痛みがあれば言います」


「はい」


「大丈夫でも、無理に長く履きません」


「はい」


「自分で決めて、伝えます」


「受け取ります」


 リリスの表情が柔らかくなる。


「アルは?」


「はい?」


「明日、自分の靴を確認しますよね」


「はい」


「硬さや違和感があれば、言ってください」


「はい」


「これくらいなら、で終わらせないで」


「分かりました」


「約束です」


「はい」


 お互い様。


 心配する側と、される側。


 固定ではない。


 今日は俺が心配した。


 明日はリリスが心配するかもしれない。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 馬車が遠ざかる。


 俺は見送る。


 馬車へ乗る時、リリスは自分で足を上げた。


 ミラは手を差し出す準備だけ。


 リリスは必要な分だけ借りた。


 自分で。


 昨日より、少し自然だった。


 屋敷へ帰ると、父上と母上が待っていた。


 俺の夜会用靴も戻っている。


 箱の中。


 底に正式な滑り止め。


 踵の内側に柔らかな革。


「今日は履かないわよ」


 母上が先に言う。


「分かっています」


「明日の朝、十分だけ」


「はい」


「違和感があれば?」


「言います」


「少しだけなら?」


「程度を説明します」


「よろしい」


 父上が言う。


「リリス嬢は休めたか」


「はい」


「申し訳なさは?」


「ありました」


「戻れたか」


「はい」


「休むことにも居場所がある、と」


「良い言葉だな」


「ライズです」


 父上がライズを見る。


「よく言った」


「恐れ入ります」


 ライズは頭を下げる。


 本人はいつも通りだ。


 夕食。


 今日は、座ることの話になった。


 父上は仕事中、考える時に歩く。


 母上は、考える時ほど座って紙へ書く。


 俺は、考え込むと窓辺へ立つ。


「人によって違うのね」


 母上が言う。


「でも、疲れている時は体へ聞くこと」


「はい」


「気持ちが動きたいからといって、体も動けるとは限らない」


「はい」


「逆もあります。体は動けても、心が休みたい時も」


「その時は?」


「座る」


「簡単ですね」


「簡単だから、忘れやすいのよ」


 その夜。


 フルーラ家から、いつもの三通が届いた。


 一通目。


 ガロウ公爵。


『今日は座って仕事をした。リリスも座って授業を受けた。私は椅子と仲良くした。名前はつけなかった。書類が通常の二倍片づいた。副官が泣きそうになっていた。私も泣いた。リリスは休んでいても学園に居場所があったと話してくれた。よかった。立ち上がって抱きしめたくなったが、「座っている者を立たせない」の札を見た。座ったまま聞いた。成長している。 ガロウ』


 二通目。


 レオナルド先輩。


『リリスは座位で礼法と魔法基礎へ参加できた。休むことを退場と考えず、場に残れたのは良い。君も先回りしすぎず、必要な分だけ隣にいられたようだな。支える手は、引き上げるためではなく、本人が立つ時の支点であることを忘れるな。父上は終日ほぼ座位。仕事が進んだ。副官の評価が高い。 レオナルド』


 三通目。


 セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日は、リリスが休みながら学べるよう見守ってくださり、ありがとうございました。座っていることを申し訳なく思っていたようですが、友人の皆さまと変わらず会話し、授業へ参加できたことで、少しずつ休息を受け入れられたようです。休むことは、場から消えることではありません。必要な時に座り、力が戻った時に自分で立つ。その際、差し出された手は支点であり、代わりに立つものではないのだと思います。夫には三枚の札を出しました。椅子に名前はつけませんでした。継続が大切です。 セレスティア』


 俺は三通を読み終えた。


 椅子に名前はつけなかった。


 そこが報告事項なのか。


 だが、公爵は座って待った。


 リリスの話を、座ったまま聞いた。


 立ち上がって抱きしめることを我慢した。


 騎士団の仕事も進んだ。


 休むことには、本当に役目があったらしい。


 父上がガロウ公爵の書状を読み、笑う。


「椅子と仲良くしたか」


「名前はつけなかったそうです」


「賢明だ」


「つける可能性があったのが怖いです」


「ガロウだからな」


 それで説明がつくのか。


 母上はセレスティア夫人の書状を読み、静かに頷いた。


「アル」


「はい」


「あなたも、誰かの手を取る時に覚えておきなさい」


「支点であること」


「ええ」


「引き上げすぎない」


「はい」


「でも、必要な時に差し出す」


「はい」


「そして、あなた自身も必要なら借りる」


「……はい」


 俺は、頼ることも苦手だ。


 リリスばかりではない。


 夜会で緊張した時。


 言葉を失った時。


 自分を下げそうになった時。


 俺も、リリスの言葉へ戻っている。


『逃げていません』


『アルがよいのです』


『私も、弱い時でも嫌いになりません』


 すでに何度も支えてもらっている。


 リーマスは胸元へ手を当てた。


「立つ者だけが強いのではございません。座るべき時を知り、再び立つ時を自ら選べる者もまた、強き者でございます」


 ライズは静かに親指を立てた。


「若様」


「何だ」


「本日のハンカチ使用数は、アマリリス様三十一枚でございます」


「三十枚を超えた!?」


「予備を一枚使用されました」


「座っていたのに」


「座ることへの感情が多かったものと」


「公爵は?」


「十八枚」


「座って仕事をしていたのに」


「椅子と仲良くされた感動が含まれます」


「俺は?」


「零枚でございます」


「よし」


「ただし、正門で一度、目元が熱くなっておられました」


「使用していないなら零だ」


「記録上は」


 含みがある。


「明日のハンカチは?」


「三十一枚を予定しております」


「減らない」


「修正靴の試し履きと、夜会用の髪飾り候補確認がございます」


「髪飾り」


「はい」


 ブルーローズ。


 深い青のドレス。


 少し上げた金の髪。


 夜会用の髪飾り。


 俺は想像しかけた。


 止める。


 明日は明日。


 今日は今日。


 今は、眠る前。


 俺は窓の外を見る。


 夜空。


 八日後。


 王城。


 だが今日、リリスは座っていた。


 休んでいた。


 それでも、一日を過ごした。


 友人と笑った。


 授業を受けた。


 魔法を使った。


 歩いた。


 食べた。


 話した。


 そして、自分で立つ時を選ぼうとしている。


 俺も、隣にいただけだ。


 急かさず。


 置いていかず。


 引っ張らず。


 ただ、必要な時に手を差し出せる距離で。


 その距離を、これからも覚えておきたい。


 俺は深く息を吸った。


 そして、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 座って休んでいても、あなたの居場所はなくなりません!!


 立つ時は自分で立ってください!!


 でも、必要な時には俺の手を支点として使ってください!!


 あと、お父様は椅子と仲良くなっても、絶対に名前はつけないでください!!

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