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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第64話 公爵令嬢様、靴が少し痛いだけで未来まで我慢しようとします


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王城の春の親睦夜会まで、あと九日。


 昨日までは十日後だった。


 今日になれば九日後。


 当たり前である。


 当たり前なのだが、数字が一つ減っただけで、妙に心臓が落ち着かない。


 十という数字には、まだ両手の指が全部使える安心感があった。


 九になると、急に片手では数えきれないが、十よりは明らかに少ない。


 そんな感覚になる。


 いや、何を言っているのだろう。


 とにかく。


 夜会は近づいている。


 けれど昨日、俺たちは学んだ。


 本番が決まっても、今日は今日。


 十日後の緊張を、一日ですべて使い切らない。


 予定表を見つめ続けても、時間が早く進むわけではない。


 朝食を食べる。


 学園へ行く。


 授業を受ける。


 友人と話す。


 帰宅する。


 眠る。


 そうして、一日ずつ本番へ向かう。


 ガロウ公爵も、正式日程を聞いて立ち、自分で座り、泣いた後、騎士団会議へ向かったらしい。


 書状には誇らしげに書かれていた。


『私は今日を過ごした』


 少し大げさに見える。


 でも、今の俺にはよく分かる。


 心が十日後へ走ろうとする中で、今日を今日として過ごす。


 それは、案外難しい。


 そして本日の課題。


 夜会用の靴。


 ライズは昨日の夜、すでに言っていた。


「若様、明日は夜会用靴の最終確認がございます」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は思った。


 靴くらい、普通に履けばいいのでは?


 だが、それは甘かった。


 礼装用の靴は、学園へ履いているものとは違う。


 素材。


 硬さ。


 踵の高さ。


 底の滑り方。


 階段。


 磨かれた床。


 長時間立つこと。


 ダンス。


 どれも関係する。


 さらに、リリスのドレス用靴は、裾の長さや歩幅にも直接影響する。


 靴が少し高くなれば、ドレスの裾も変わる。


 足が痛めば、立ち姿も崩れる。


 歩幅が狭くなる。


 ダンスで踏み込みが遅れる。


 階段で止まる。


 泣く。


 最後はいつものことだ。


 いや、靴が痛い涙は、いつもの感動涙とは違う。


 気をつけなければならない。


 朝。


 食堂へ入ると、父上は俺の夜会用靴を机の横へ置いていた。


 食卓の横に靴。


 少し不思議な光景である。


 黒に近い濃紺の革。


 つま先には控えめな艶。


 留め具には、小さく銀が使われている。


 礼装と合わせるための靴だ。


「おはようございます」


「おはよう」


「おはよう、アル」


 母上は、俺の足元を見る。


 まだ普段の靴だ。


「朝食後に、一度履いて歩きましょう」


「今ですか?」


「ええ」


「学園へ行く前に?」


「今日の礼法でも靴確認があるそうだから、先に感覚を知っておいた方がいいわ」


「はい」


 父上が言う。


「昨日、仕立て師から連絡があった。礼装の裾を最終決定するには、靴の高さが必要だ」


「なるほど」


「それと、王城の床は学園より滑る」


「そうなんですか」


「磨かれているからな」


「滑ったら?」


「転ぶ」


「分かりやすい」


「だから確認する」


「はい」


 母上が少し真剣な表情になる。


「アル、靴に違和感があったら、必ず言うのよ」


「はい」


「少し痛いくらいなら平気です、は駄目」


「でも、履き慣れれば」


「その判断は仕立て師と靴職人がすることよ」


「はい」


「我慢は礼ではないわ」


 その言葉に、俺は少し顔を上げた。


 我慢は礼ではない。


 似たようなことを、これまで何度も学んできた。


 感情を我慢しすぎない。


 怒りをなかったことにしない。


 嫉妬を消そうとしない。


 不安を隠しすぎない。


 そして今日は、痛み。


「痛くても立つ方が立派、ではないのですか?」


 俺が聞くと、父上が首を振った。


「必要な時に耐えることはある」


「はい」


「だが、直せる痛みを黙って抱えるのは、立派ではなく準備不足だ」


「……はい」


「本番前に分かっているなら直せ」


「はい」


「これも半歩だな」


「やはり」


「我慢しすぎず、騒ぎすぎず」


「痛みにも半歩」


「そうだ」


 正式採用されそうだ。


 母上が微笑む。


「リリス様にも、きっと必要な言葉ね」


「はい」


 リリスは、痛くても笑って立ちそうだ。


 そして後で泣く。


 いや、泣きながら「大丈夫です」と言いそうだ。


 かなり危険だ。


 ライズは鞄の確認を終えると、いつものように言った。


「若様、本日のハンカチは二十九枚でございます」


「予告通りだな」


「夜会用靴最終確認日でございますので」


「靴で二十九枚」


「足元は、夜会全体を支えます」


「それは分かる」


「想定される涙は、完成靴確認涙、若様と靴の色を合わせた婚約者実感涙、履いた瞬間の本番接近涙、階段練習成功涙、靴擦れ未遂不安涙、若様が『痛ければ言ってください』と仰った際の安心涙でございます」


「最後は言いそうだな」


「はい」


「もう予測ではなく予定では?」


「必要な言葉でございます」


「そうだな」


 ライズは一拍置いた。


「また、アマリリス様は『少し痛いだけです』と仰る可能性がございます」


「高いな」


「非常に」


「その場合は?」


「否定せず、程度を確認。歩行を止め、ミラ様または教師へ共有してください」


「分かった」


「本日の心の札は、『痛みを隠さない』でございます」


「痛みにも半歩ではないのか?」


「そちらも併用可能でございます」


「札が二枚になった」


「本番前でございますので」


 何でも本番前で片づけられる。


 だが、必要なことだ。


 朝食後。


 俺は夜会用靴へ履き替えた。


 最初の感触。


 硬い。


 普段の靴より足全体が包まれる。


 踵が少し高い。


 足首が固定される。


「立って」


 母上に言われ、立つ。


 姿勢が少し変わる。


 いつもより背が高く感じる。


 ほんの少しだけ。


「歩いて」


 食堂の端から端へ。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 踵の音が違う。


 硬い。


 だが、不快ではない。


 止まる。


 方向転換。


 少しつま先が滑る。


「今、滑ったわね」


「はい」


「底を少し調整しましょう」


「これくらいなら」


 母上の視線。


「はい。調整します」


 危ない。


 すぐ我慢しようとした。


 父上が笑っている。


「お前も同じだな」


「何がですか」


「少しくらいなら、と言うところが」


「リリスと?」


「ああ」


「……否定できません」


 母上が靴底へ目を向ける。


「足の痛みは?」


「ありません」


「踵は?」


「少しだけ当たる感じがあります」


「少しだけ、で終わらせない」


「歩くと気になる程度です」


「よろしい」


 言葉へする。


 曖昧にしない。


 これも言葉の半歩かもしれない。


 学園へ向かう時は、普段の靴へ戻した。


 夜会用靴は、専用の箱に入れ、ライズが持つ。


 今日の礼法授業で使用するためだ。


 馬車の中。


 俺は足元を見た。


 本番では、あの靴で王城へ入る。


 階段を上がる。


 控え廊下へ向かう。


 リリスを見つける。


 並んで歩く。


 踊る。


 立つ。


 退出する。


 足元は、思ったより大切だ。


 どれだけ礼装が整っていても、靴が痛ければ表情が崩れる。


 どれだけ言葉を練習しても、足が滑れば頭が真っ白になる。


 準備とは、目立つところだけではない。


 正門前。


 リリスはいつもの場所にいた。


 制服姿。


 ブルーローズの髪飾り。


 そして今日は、足元に視線が向いた。


 普段の学園用靴。


 夜会用ではない。


 当たり前だ。


 なのに、俺はどんな靴になるのか気になった。


 リリスも、俺の足元を見ていた。


 顔を上げる。


 頬が赤い。


 歩いてくる。


 走らない。


 一、二、三。


 今日は少し慎重な歩き方だ。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。今日は足元を見ていましたね」


「今朝、夜会用の靴を履いたので」


「俺もです」


 リリスの目が潤む。


「アルも?」


「はい」


「一緒です」


「はい」


「小声版です」


「朝一回目ですね」


「家で三回泣きました」


「靴だけで?」


「一回目は箱を開けた時」


「はい」


「二回目は履いた時」


「はい」


「三回目は、お母様に『この靴でアルフレッド様の隣を歩くのよ』と言われた時です」


「セレスティア様、朝から強い」


「はい」


 俺はハンカチを渡す。


 リリスは目元を押さえた。


「靴は、どんな色ですか?」


「深い青です」


「ドレスと同じ?」


「少しだけ暗めです。裾から見えた時に、目立ちすぎないように」


「なるほど」


「留め具に、小さな銀があります」


「似合いそうですね」


 リリスの涙が増えた。


「まだ見ていないのに」


「深い青は似合うと知っています」


「強いです」


「褒められた後も立ってください」


「今は歩いています」


「では歩いてください」


 二人で少し笑う。


 だが、俺はリリスの歩き方が少し気になった。


 いつもより右足をかばっているように見える。


「リリス」


「はい」


「右足、痛いですか?」


 リリスが一瞬止まった。


 分かりやすい。


「少しだけです」


 来た。


 ライズの予測通り。


「どこが?」


「踵が」


「今朝の夜会用靴で?」


「はい」


「普段の靴へ戻しても?」


「少しだけ残っています」


「ミラ」


 俺が後ろを見る。


 ミラはすでに前へ出ていた。


「確認しております」


「大丈夫ですか?」


「皮膚に赤みが少々。傷にはなっておりません」


「学校へ来てよかったんですか?」


「歩行可能と判断いたしました。ただし、午前の礼法前に保健室で再確認いたします」


「分かりました」


 リリスが少し困ったように笑う。


「アル、大丈夫です」


「少し痛いんですよね」


「はい。でも、これくらいなら」


「我慢は礼ではないそうです」


 リリスが目を見開いた。


「誰のお言葉ですか?」


「父上です」


「シェルザート伯爵様が」


「直せる痛みを黙って抱えるのは、立派ではなく準備不足だと」


 リリスはしばらく黙った。


 朝の風が、ブルーローズの髪飾りを少し揺らす。


「準備不足」


「リリスを責めているわけではありません」


「はい」


「今日分かったなら、直せます」


「はい」


「だから言ってください」


 リリスの目が潤む。


「アル」


「はい」


「痛ければ言ってもよいのですね」


「はい」


「夜会のための靴なのに」


「夜会で歩けなくなったら困ります」


「はい」


「リリスが我慢して笑っている方が、俺は困ります」


 涙が落ちた。


「強いです」


「でも、本当に」


「はい」


「痛みを隠さないでください」


「分かりました」


「約束です」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


「右の踵が、少し擦れます」


「ありがとうございます」


「言えました」


「はい」


「小声版です」


「今は受け取りですね」


「はい」


 ミラが静かに言う。


「本日四回目。痛み共有安心涙として記録いたします」


「分類が正確すぎる」


「重要事項でございます」


 教室へ向かう前に、俺たちは保健室へ寄った。


 朝の保健室は静かだった。


 薬草の匂い。


 白い布。


 窓から入る柔らかな光。


 養護教師がリリスの踵を確認する。


「赤みはありますが、傷にはなっていませんね」


「はい」


「今日は夜会用靴を履かないこと」


「礼法で確認が」


「履くなら数分だけ。踵へ保護布を当てます」


「はい」


「靴職人へ、右踵の内側を少し広げるよう伝えてください」


「はい」


「痛かったらすぐ脱ぐ」


「はい」


 養護教師は俺を見る。


「シェルザートさん」


「はい」


「あなたが見張る必要はありません」


「え」


「本人に言わせなさい」


「……はい」


 刺さる。


 俺が気づくことは大切。


 でも、俺が全部管理するのは違う。


 リリスが自分で言う。


 痛い。


 休みたい。


 脱ぎたい。


 それが必要だ。


 養護教師が続ける。


「心配するあまり、本人より先に決めないこと」


「はい」


「アマリリスさん」


「はい」


「相手を心配させたくないからと隠さないこと」


「はい」


 二人とも注意された。


 これも半歩だ。


 心配しすぎず。


 隠しすぎず。


 教室へ向かう途中。


 ユリウスとエレナ嬢が合流した。


 ユリウスは俺たちが保健室から出てきたのを見て、少し真面目な顔になる。


「どうしたの?」


「リリスの踵に少し赤みが」


「夜会用靴ですか?」


 エレナ嬢がすぐに聞く。


「はい」


 リリスが答える。


「大丈夫ですの?」


「傷にはなっていません。保護布を当てていただきました」


「靴は直せそうですか?」


「はい。内側を少し広げます」


 エレナ嬢がほっとしたように微笑む。


「本番前に分かってよかったですわ」


「はい」


 リリスも少し表情を緩める。


 ユリウスが言う。


「靴擦れって、我慢すると本当に歩けなくなるからね」


「経験が?」


「子どもの頃、礼装用靴で庭を走って」


「なぜ走ったんですか」


「新しい靴が嬉しくて」


「子どもですね」


「子どもだったからね」


 エレナ嬢が呆れたように笑う。


「その後、三日歩き方がおかしかったのです」


「詳しいですね」


「見ていましたもの」


 リリスが少し笑った。


 空気が軽くなる。


「アマリリス様」


 エレナ嬢が優しく言う。


「痛みを言えたことも、準備の一つですわ」


「はい」


「本番で美しく歩くために、今日休むことも礼です」


「今日休むことも」


「はい」


 リリスの目が潤む。


「エレナ様も、優しいです」


「今日は泣く理由が少し違いますわね」


「はい」


 教室へ入る。


 今日は、招待者たちが夜会用靴の箱を持ってきていた。


 教室の後方に、いくつもの箱。


 黒。


 紺。


 茶。


 白。


 淡い色。


 家紋入り。


 細い箱。


 大きな箱。


 生徒たちは足元の話をしている。


「少し高いんだよね」


「滑る気がする」


「踵が固い」


「靴紐、変えた方がいいかな」


「ダンスしたら脱げない?」


 ニールが俺たちへ来た。


 箱を抱えている。


「シェルザート君」


「はい」


「僕の靴、緑になりました」


「靴も緑ですか?」


「いえ、茶です」


「礼装が緑」


「はい」


「決まったんですね」


「アマリリス様のおかげです」


 リリスが少し照れる。


「ご家族と相談された結果です」


「はい。でも、母がアマリリス様の意見なら、と」


「責任が重いですね」


 俺が言うと、リリスが少し緊張する。


「似合わなかったら」


「似合うと思います」


 ニールが即答する。


「僕も緑が気に入りました」


 リリスの表情が緩む。


「よかったです」


 クラリス嬢も、靴の箱を興味深そうに見ていた。


「皆さま、本当に本番が近いのですね」


「はい」


 リリスが答える。


「でも、今日は今日です」


「もう使いこなしていますね」


「少しずつ」


 クラリス嬢はリリスの足元を見る。


「お怪我は?」


「赤みだけです」


「無理をなさらないでください」


「はい。痛ければ言います」


「約束ですね」


「はい」


 周囲からも言われる。


 リリスが少し恥ずかしそうだが、嬉しそうでもある。


 一時間目。


 礼法。


 ベイル先生は、教室後方の靴箱を一度確認した。


 それから黒板へ、ゆっくりと書いた。


『夜会の足元と礼』


 先生は振り返る。


「本日は、夜会用靴を使った歩行、階段、立ち姿、ダンス姿勢を確認します」


 教室が少しざわつく。


「最初に伝えます」


 先生の声が少し強い。


「痛みを我慢しないこと」


 リリスが真っ直ぐ前を見る。


「痛みを感じた者は、すぐに申し出る。靴を脱ぐ。確認する」


 先生は黒板へ書き足す。


『我慢は礼ではない』


『痛みを隠さない』


『直せるうちに直す』


 朝と同じ。


「王城の夜会は長時間です。入場から退出まで、数時間立つことになります」


 予定表。


 十八時過ぎから二十二時半。


 長い。


「痛い靴で美しく歩くことはできません」


「はい」


「痛みを隠して笑うことを、礼とは呼びません」


 リリスの指先が少し動く。


「また、同伴者が心配するあまり、本人より先に歩行を止めることも避けなさい」


 俺のことだ。


「本人が言葉にする。相手は受け取る。必要なら支える」


「はい」


 俺とリリスが同時に答えた。


 先生の視線が一瞬だけこちらへ向く。


 保健室へ行ったことを知っているのだろう。


 養護教師から連絡があったのかもしれない。


「まず、靴を履きます」


 生徒たちが箱を開ける。


 革の匂い。


 布の擦れる音。


 留め具の小さな金属音。


 俺も箱を開ける。


 濃紺の靴。


 履く。


 朝より少し慣れた。


 底には仮の滑り止めが追加されている。


 ライズが屋敷から靴職人へ伝え、短時間で簡易調整してくれたらしい。


 早い。


 リリスは椅子に座り、深い青の靴を履いている。


 保護布を当てた右の踵。


 ミラが確認する。


「痛みは?」


「今はありません」


「立ってから再確認いたします」


「はい」


 リリスが立つ。


 少しだけ背が高くなる。


 制服姿だが、足元だけ深い青。


 不思議な組み合わせ。


 それでも似合う。


 裾から少し見える青。


 銀の留め具。


 俺は見てしまった。


 リリスが気づく。


「アル」


「はい」


「見ましたか?」


「はい」


「どうですか?」


 一拍。


「似合っています」


 リリスの目が潤む。


「先生」


 リリスが前を見る。


「はい」


「褒められた後も立っています」


 教室が笑いに包まれた。


 先生も、ほんの少し口元を緩めた。


「痛みは?」


「ありません」


「よろしい。では次へ」


 会話も進んだ。


 成功だ。


 最初は直線歩行。


 教室の端から端。


 一人ずつ。


 踵からつきすぎない。


 つま先へ力を入れすぎない。


 裾を踏まない想定。


 姿勢。


 視線。


 俺の番。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 朝より滑らない。


 止まる。


 礼。


 方向転換。


 先生が言う。


「シェルザートさん、右足の外側へ少し重心が逃げています」


「はい」


「靴をかばっていますね」


「踵が少し気になって」


「痛みは?」


「痛くはありません。硬さが気になります」


「よろしい。記録しなさい」


「はい」


 曖昧にしない。


 硬さが気になる。


 言えた。


 次にリリス。


 深い青の靴で歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 いつもより少し慎重。


 右足をかばっている。


 先生がすぐに止める。


「アマリリスさん」


「はい」


「痛みは?」


 リリスは一瞬迷った。


 俺は何も言わない。


 本人に言わせる。


 リリスが深呼吸する。


「少し、踵が当たります」


「どの程度?」


「歩けます。でも、続けると赤みが増えそうです」


「よろしい。脱ぎなさい」


「はい」


 リリスは椅子へ戻る。


 ミラが靴を外す。


 保護布の上からでも、少し赤みが出ている。


 先生が頷く。


「今日の歩行確認は終了」


「でも、階段が」


「仮の確認より、足を守る方が先です」


「はい」


「見学しなさい」


「はい」


 リリスは少し悔しそうだった。


 それが分かった。


 ここまで準備してきた。


 皆と同じように確認したい。


 階段も。


 ダンスも。


 できないことが悲しい。


 俺は隣へ行きたかった。


 だが、今は授業中。


 俺の練習もある。


 リリスの代わりに止まるのは違う。


 先生が俺を見る。


「シェルザートさん」


「はい」


「あなたは続けます」


「はい」


「アマリリスさんの分まで頑張る、とは考えないこと」


 心を読まれた。


「自分の確認をしなさい」


「はい」


 リリスも小さく頷く。


「アル、続けてください」


「はい」


 短い会話。


 でも、大切だ。


 次は、教室の隅に作られた簡易階段。


 三段。


 王城の大階段を想定した高さ。


 手すりあり。


 上る。


 止まる。


 振り返る。


 下りる。


 礼装用靴は底が硬い。


 音が響く。


 俺は一段目へ足を置く。


 滑らない。


 二段目。


 三段目。


 上で止まる。


 振り返る時、つま先が少し引っかかる。


 危ない。


 戻る。


 先生が言う。


「今、急ぎましたね」


「はい」


「階段で方向転換を急がない」


「はい」


「王城では後ろに人がいても、自分の足元を失う方が危険です」


「はい」


「半歩の余裕を」


「はい」


 時間にも半歩。


 階段にも半歩。


 本当に何でも半歩だ。


 下りる。


 視線を落としすぎない。


 足元は見る。


 でも、顔を伏せすぎない。


 難しい。


 ニールは一段目で止まり、深呼吸していた。


 ユリウスは軽く上りすぎて注意された。


「ユリウスさん、王城の階段を飛ぶように上らない」


「はい」


「軽さを半歩」


「はい」


 エレナ嬢は安定している。


 だが、下りる時に裾を想定して歩幅を小さくしすぎた。


 先生に、


「本番のドレス丈を確認してください」


 と言われていた。


 誰にでも修正点がある。


 リリスだけではない。


 見学席のリリスは、皆の動きを真剣に見ている。


 ノートへ書く。


『階段は方向転換を急がない』


『視線を落としすぎない』


『痛みがあれば止める』


『今日できなくても、本番前に直せる』


 最後の一文。


 自分に言い聞かせているのだろう。


 次はダンス姿勢。


 靴を履いたまま、三歩。


 方向転換。


 礼。


 俺の相手はエレナ嬢。


 リリスは見学。


 少し複雑だ。


 昨日までなら、嫉妬にも半歩の練習になった。


 今日はリリスの足が痛い。


 余計に気になる。


 だが、目の前の相手へ礼を。


 俺はエレナ嬢へ手を差し出す。


「一曲、お願いいたします」


「喜んで」


 音はない。


 教師の拍だけ。


「一、二、三」


 動く。


 靴底の感触。


 普段より少し硬い。


 方向転換。


 今度は急がない。


 踵を浮かせすぎない。


 一、二、三。


 止まる。


 礼。


「よろしい」


 先生が言う。


「ただし、シェルザートさんは見学席を気にしすぎです」


「はい」


 やはり。


 リリスが少し困ったように笑っている。


 エレナ嬢が小声で言う。


「アマリリス様は大丈夫ですわ」


「はい」


「今はご自分の足元を」


「ありがとうございます」


 次の練習。


 今度は、リリスの代わりにクラリス嬢が歩行相手役として俺の横へ立った。


 婚約者として並ぶのではない。


 単純に二人で歩いた時の歩幅確認。


 俺は自分の速度を確認する。


 相手へ合わせすぎない。


 置いていかない。


 自然な歩幅。


 リリスが見ている。


 だが、表情は穏やかだ。


 嫉妬より、自分の靴のことを考えているらしい。


 それも少し寂しい。


 いや、何を求めている。


 授業終了前。


 先生が全員を座らせた。


「本日、痛みや違和感を申し出た者は?」


 何人かが手を挙げる。


 リリス。


 俺。


 ニール。


 別の令嬢。


 ユリウスも。


「ユリウス様も?」


 俺が小声で聞く。


「左のつま先が少し狭い」


「言えたんですね」


「今日の授業だからね」


 先生は全員を見る。


「申し出たことを恥じないこと」


 静かな声。


「本番前に見つけた違和感は、失敗ではありません」


 昨日まで何度も聞いた。


 完成前だから直せる。


「痛みを隠して最後まで歩くことより、痛みを伝えて靴を直し、本番で最後まで歩けることの方が大切です」


 リリスの目が潤む。


「アマリリスさん」


「はい」


「今日、階段練習ができませんでしたね」


「はい」


「悔しいですか?」


 リリスは少し迷う。


 そして、正直に答える。


「はい」


「よろしい」


「よろしいのですか?」


「悔しさを隠さなかったことが」


「……はい」


「では、その悔しさをどうしますか?」


 リリスは自分の靴箱を見る。


「靴を直します」


「はい」


「足を休めます」


「はい」


「治ってから、階段とダンスを確認します」


「よろしい」


「今日できなかったことを、本番までできないことにしません」


 教室が静かになる。


 先生が頷く。


「大変よろしい」


 拍手が起きた。


 誰か一人ではない。


 教室全体。


 温かい。


 リリスの涙が落ちる。


 だが、椅子に座ったまま、背筋は伸びている。


「褒められた後も?」


 俺が小声で聞く。


「授業は続きます」


 リリスが答えた。


 成長している。


 休み時間。


 俺はリリスの席へ向かった。


 彼女の右足は、学園用の柔らかい室内履きへ替えられている。


「痛みは?」


「今は大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


 俺がさらに聞こうとした時、リリスが少し笑った。


「アル」


「はい」


「本人に言わせる、です」


 保健室で言われたこと。


 俺は止まる。


「すみません」


「いえ。心配してくださるのは嬉しいです」


「でも、先に決めすぎました」


「はい」


「リリスが言ってください」


「分かりました」


 リリスは少し考え、言葉にする。


「今は痛くありません。ただ、踵を押すと少し違和感があります」


「はい」


「今日の体育は見学します」


「はい」


「帰宅後、靴職人に直していただきます」


「はい」


「足を休めます」


「受け取りました」


 リリスの目が潤む。


「言えました」


「はい」


「アルが、受け取ってくださいました」


「はい」


「小声版です」


 俺はハンカチを渡す。


 リリスは涙を拭いた。


 エレナ嬢が水を持ってくる。


「アマリリス様、今日は歩きすぎないように」


「はい」


「昼食も、取りに行かず持ってまいりましょうか?」


「いえ、ゆっくり歩けます」


「では一緒に」


「ありがとうございます」


 支えすぎない。


 置いていかない。


 半歩。


 ユリウスも近づく。


「僕の靴も直しになる」


「つま先ですか?」


「うん。リリス様だけじゃないよ」


「はい」


「僕は階段できたけど、明日は履かないように言われた」


「皆、直す場所がありますね」


「完成前だからね」


 リリスが少し安心したように笑う。


 ニールも言う。


「僕は靴紐が長すぎました」


「それはすぐ直せそうですね」


「でも、階段で踏みかけました」


「危ない」


「先生に止められました」


「本番前でよかったです」


「はい」


 今日できなかった者。


 違和感があった者。


 全員、何かしら持っている。


 自分だけではない。


 昼休み。


 俺たちは、いつもよりゆっくり食堂へ向かった。


 リリスの歩幅に合わせすぎない。


 だが、急がない。


 俺が少し前へ出そうになると、自分で半歩抑える。


 リリスも、かばいすぎず自然に歩こうとする。


「痛いですか?」


 俺が聞く。


「今は大丈夫です」


「分かりました」


 それ以上は聞かない。


「アル」


「はい」


「聞いてくださって、ありがとうございます」


「はい」


「でも、何度も聞かないでくださって、ありがとうございます」


「難しいですね」


「はい」


「心配しないわけではないです」


「分かっています」


「信じて待つ」


「はい」


「戻る場所は、互いに作る」


「はい」


 歩きながら、静かな会話。


 食堂には、靴の話が広がっていた。


「底を直す」


「踵が痛い」


「紐を変える」


「靴下を厚くする?」


「本番用は薄いから確認しないと」


 皆、足元を見ている。


 普段は装いの華やかな部分ばかり話題になる。


 ドレス。


 礼装。


 髪飾り。


 宝石。


 だが今日は、靴。


 見えにくい場所。


 それでも大切。


 リリスはスープを飲みながら言った。


「お母様に、夜会の日ほど食べなさいと言われました」


「今日も?」


「今日は、足を休める日ほど食べなさいと」


「意味が広がっていますね」


「はい。治すにも力が必要だと」


「正しいです」


 ユリウスがパンをちぎりながら言う。


「ガロウ公爵、靴の話で泣くかな」


「泣くと思います」


 リリスが即答する。


「何で?」


「私が、その靴で王城を歩くからです」


「なるほど」


「今朝、箱を見て泣きました」


「やっぱり」


「履いたら立ちました」


「札は?」


「『靴で走らない』です」


「もう何でも走らない」


 俺が言うと、リリスが少し笑う。


「お父様には必要です」


「他には?」


「『娘の足元だけ見続けない』」


「それも必要そう」


「夜会中、足元ばかり見ていたら不自然だから、とお母様が」


「正しいですね」


 エレナ嬢が優しく言う。


「でも、今日の赤みを知ったら、ガロウ公爵様は心配なさるでしょうね」


「はい」


 リリスの表情が少し曇る。


「心配をかけたくありません」


「隠しますか?」


 エレナ嬢が聞く。


 リリスは一拍置いた。


「いいえ」


「はい」


「帰宅したら、私から言います」


「よろしいと思いますわ」


「痛みを隠さない」


「はい」


 リリスは少し強くなった。


 午後の魔法基礎。


 今日は座学中心になった。


 リリスは足を休めるため、立位での実技を見学。


 最初は少し残念そうだった。


 だが、教師が言った。


「アマリリスさん、今日は足を使わず魔力を整える練習をしましょう」


「はい」


「立たないと練習できないと思っていますか?」


「少し」


「魔力は、座っていても扱えます」


「はい」


「休むことを、何もしないことだと思わない」


 また新しい学び。


 リリスは椅子へ座ったまま、手のひらに深い青の光を作る。


 小さい。


 静か。


 足を使わない。


 体重をかけない。


 それでも、光はある。


「よろしい」


 教師が言う。


「今日は、立つ魔力ではなく、休む魔力です」


「休む魔力」


「はい。力を抜いても消えない形を覚えなさい」


 リリスは目を閉じた。


 光が少し小さくなる。


 でも、消えない。


「痛みがある時、全身を緊張させると余計に疲れます」


「はい」


「必要な場所だけを守る」


「はい」


 深い青の光が、手のひらに残る。


 柔らかい。


 リリスの表情も、少し落ち着く。


「ありがとうございます」


 受け取った。


 涙は出なかった。


 代わりに、静かに微笑んだ。


 放課後。


 レオナルド先輩は、いつもの場所で待っていた。


 今日は、俺たちを見るなり足元へ目を向けた。


 情報が早い。


「リリス」


「お兄様」


「踵」


「少し赤みがあります」


「傷は?」


「ありません」


「痛みは?」


「今はありません。押すと少し違和感があります」


「靴は?」


「内側を広げていただきます」


「今日の練習は?」


「途中で止めました」


「自分で言えたか?」


「先生に聞かれて、言えました」


「よい」


 レオナルド先輩は短く頷いた。


 責めない。


 慌てない。


 大きく騒がない。


 兄も半歩を置いている。


「父上へは?」


「私から言います」


「分かった」


「お兄様は先に言わないでください」


 レオナルド先輩が一瞬黙った。


「……分かった」


 妹本人に言わせる。


 兄も受け取った。


 今度は俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「心配しすぎたか?」


「少し」


「本人より先に決めたか?」


「保健室で注意されました」


「よい経験だ」


「はい」


「守ることと、奪うことは近い」


 その言葉に、俺は少し息を止めた。


「相手が言う機会まで奪うな」


「はい」


「だが、見ないふりもするな」


「はい」


「半歩だ」


「はい」


 重い。


 だが必要だ。


「レオナルド先輩」


「何だ」


「公爵の新札は?」


 レオナルド先輩は少し遠い目をした。


「今朝、靴を見て立った」


「はい」


「母上が『靴で走らない』を出した」


「聞きました」


「さらに、リリスが踵を擦ったと伝えた」


「もう?」


 リリスが驚く。


「学校から家へ連絡があった」


「そうでしたか」


「父上は立ったまま、今すぐ学園へ行くと言った」


「走る気でしたね」


「ああ」


「札は?」


「『赤みで王都を走らない』」


「具体的」


「『傷ではない』」


「事実確認札」


「『娘が帰って話すまで待つ』」


 リリスの目が潤む。


「お父様、待ってくださるのですね」


「母上に座らされた」


「自分でではなく?」


「今回は難しかった」


「足のことですから」


 レオナルド先輩は頷く。


「だが、今は屋敷で待っている」


「帰ったら、私から話します」


「ああ」


 リリスが深呼吸する。


「痛みを隠しません」


「よい」


 正門。


 今日も夕方の風が吹いている。


 九日前の一日が終わる。


 リリスは学園用の柔らかい靴で立っている。


 右足へ重心をかけすぎない。


 だが、かばいすぎもしない。


「アル」


「はい」


「今日は、階段練習ができませんでした」


「はい」


「ダンスも」


「はい」


「悔しかったです」


「はい」


「でも、痛いと言えました」


「はい」


「靴を直せます」


「はい」


「足も休められました」


「はい」


 リリスは少し笑った。


「今日の宝物名は」


「はい」


「痛みを隠さなくても、嫌われないと知った日の宝物です」


 胸が痛くなった。


「嫌うはずがありません」


 すぐに答えた。


 リリスの目が潤む。


「強いです」


「でも、絶対に」


「はい」


「痛いと言ってください」


「はい」


「休みたいと言ってください」


「はい」


「できない日があっても、嫌いになりません」


 リリスの涙が落ちた。


「アル」


「はい」


「私も」


「はい」


「アルが痛い時、できない時、弱い時でも、嫌いになりません」


 今度は俺が言葉を失った。


 強い。


 急に返された。


 胸の奥へ真っ直ぐ入る。


 リリスが少し不安そうになる。


 戻れ。


「……ありがとうございます」


「はい」


「受け取ります」


 リリスの表情が柔らかくなる。


「今日の宝物、もう一つです」


「何ですか?」


「できない日でも、互いに嫌いにならないと確認できた日の宝物です」


「……大切ですね」


「はい」


 しばらく、二人とも黙った。


 夕方の光。


 馬車の音。


 遠くで笑う生徒たち。


 今日、リリスは階段を上れなかった。


 踊れなかった。


 でも、今日しか得られないものを得た。


 痛いと言うこと。


 止まること。


 休むこと。


 相手へ任せること。


 できない自分を見せること。


 完成前だから直せる。


 人も。


 靴も。


 関係も。


「リリス」


「はい」


「帰ったら、公爵へ自分で言うんですよね」


「はい」


「頑張ってください」


「はい」


「でも、無理に強く言わなくていいです」


「はい」


「痛かった、とそのまま」


「分かりました」


「また明日」


「また明日、アル」


 リリスの馬車が遠ざかる。


 俺は見送る。


 今日は、胸元ではなく足元を見た。


 柔らかい靴。


 ゆっくりした歩幅。


 馬車へ乗る動作。


 大丈夫そうだ。


 でも、俺が決めることではない。


 帰宅後、リリスが自分で家族へ伝える。


 俺は信じて待つ。


 屋敷へ戻ると、父上と母上が待っていた。


 俺の夜会用靴も、すでに靴職人のもとへ戻されている。


「踵の硬さを少し調整するそうよ」


 母上が言う。


「はい」


「底も、正式な滑り止めへ」


「はい」


「リリス様は?」


「右の踵に赤み。傷はありません。靴を直します」


「本人は言えた?」


「はい」


「あなたは待てた?」


「途中から」


 母上が微笑む。


「十分よ。最初からできる者はいないわ」


 父上が言う。


「心配したか」


「はい」


「心配しすぎたか」


「はい」


「なら覚えろ」


「はい」


「守ることと、支配することは違う」


「レオナルド先輩にも、似たことを」


「兄も学んでいるな」


「はい」


「相手が痛いと言うまで待つのも難しい。だが、言った後に受け取るのも大切だ」


「はい」


 夕食。


 今日は足元の話。


 母上は、自分が初めて王城夜会へ参加した時、靴擦れを隠して最後まで歩いた話をした。


「終わった後、足が血で赤くなっていたわ」


「そんなに?」


「若かったのね。我慢すれば立派だと思っていた」


「父上は?」


「気づかなかった」


 父上が少し気まずそうに咳払いする。


「当時は婚約前だった」


「言い訳ですか?」


「事実だ」


 母上が笑う。


「でも、それ以来、私は靴の確認を何より先にするようになったの」


「経験ですね」


「ええ。失敗は、次の準備に使えばいい」


「はい」


 その夜。


 フルーラ家から、いつもの三通が届いた。


 一通目。


 ガロウ公爵。


『リリスの右の踵が少し赤くなったと聞いた。立った。私が。学園へ行こうとした。セレスティアに「赤みで王都を走らない」「傷ではない」「娘が帰って話すまで待つ」の札を出された。座った。待った。リリスが帰ってきて、自分で話してくれた。少し痛かった。靴を直す。今日は休む。そう言えた。私は聞いた。走らなかった。泣いた。よく言えた。 ガロウ』


 二通目。


 レオナルド先輩。


『リリスは靴の痛みを申告し、練習を止めた。正しい判断だ。君も心配しすぎたようだが、途中で本人へ戻せた。守ることと、相手の言葉を奪うことを混同するな。父上は学園へ向かおうとしたが札で停止。リリス本人の説明を最後まで聞けた。進歩だ。 レオナルド』


 三通目。


 セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日はリリスの足を心配してくださり、ありがとうございました。右踵には軽い赤みがありましたが、傷にはなっておりません。靴は内側を少し広げ、柔らかな当て布を加える予定です。リリス自身が「痛かった」「今日は休みたい」と言葉にできたことを、大切に受け取っております。心配することと、本人の言葉を奪わないこと。その両方を忘れずにいてくださいませ。夫には三枚の札を出しました。王都を走らず、娘の説明を聞けました。継続が大切です。 セレスティア』


 俺は三通を読み終えた。


 ガロウ公爵。


 走らなかった。


 待った。


 聞いた。


 泣いた。


 最後はいつも通りだが、今日は大きい。


 リリスも。


 痛かった。


 今日は休みたい。


 そう言えた。


 俺も。


 先回りしすぎず、途中で戻れた。


 全員が少しずつ学んでいる。


 父上が書状を置く。


「明日は靴なしだな」


「はい」


「練習できない、と焦るか?」


「少し」


「九日ある」


「はい」


「だが、九日もあるとは思うな」


「今日は今日」


「そうだ」


 母上が微笑む。


「明日は、足を休めた状態でできることをすればいいのよ」


「はい」


「呼吸。言葉。予定確認。座ってできる礼」


「たくさんありますね」


「ええ」


 できないことだけを見ると、一日が空白になる。


 できることを見ると、まだたくさんある。


 リーマスは胸元へ手を当てた。


「痛みを言葉にすることは弱さではなく、共に歩き続けるための勇気でございます」


 ライズは静かに親指を立てた。


「若様」


「何だ」


「本日のハンカチ使用数は、アマリリス様二十一枚、若様一枚、ガロウ公爵閣下十五枚でございます」


「俺、一枚?」


「正門で、目元を押さえられました」


「見ていたのか」


「従者でございますので」


「そうだった」


「明日は三十枚を予定しております」


「ついに三十!?」


「リリス様の靴修正確認と、座ったまま行う夜会礼法が予定されております」


「座ったままでも泣くのか」


「アマリリス様ですので」


「否定できない」


 俺は窓の外を見る。


 夜空。


 九日後。


 まだ少し先。


 でも、今日一日分は進んだ。


 歩けなかった歩幅もある。


 上れなかった階段もある。


 踊れなかった三歩もある。


 それでも。


 痛いと言えた。


 止まれた。


 休めた。


 嫌われないと知った。


 それは、今日にしかできなかった準備だ。


 俺は深く息を吸う。


 そして、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 少し痛い時は、未来まで我慢しようとしないでください!!


 夜会用の靴も、心も、痛いところは本番前にちゃんと直しましょう!!


 あと、お父様は赤みだけで王都を走らないでください!!

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