第63話 公爵令嬢様、夜会の日付を聞いただけで一日分の涙を使いかけます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、俺とリリスは、褒められた後の礼を学んだ。
褒め言葉を受け取る。
一拍置く。
感情が動いても、立ったまま次の会話へ進む。
簡単なように聞こえる。
だが、俺たちにとっては難しい。
特にリリスは、誰かから気持ちを受け取るたびに、その言葉を胸の奥まで持っていってしまう。
装いを褒められれば泣く。
ダンスを褒められれば泣く。
距離が整ったと言われても泣く。
俺とお似合いだと言われれば、当然泣く。
俺の礼装を褒められれば、本人である俺より先に泣く。
そして俺も、人のことは言えない。
リリスの深い青を褒められた時、かなり危なかった。
表向きには泣いていない。
ライズの記録でも、俺のハンカチ使用数は零枚だった。
しかし、使用していないだけである。
目の奥が熱くなった回数まで含めれば、零ではない。
母上によれば、「泣きかけ半回」が何度かあったらしい。
泣きかけに回数をつけないでほしい。
それでも、俺たちは立っていた。
褒められた。
照れた。
泣いた。
戻った。
会話を続けた。
少しずつ、本番へ近づいている。
そして今日。
ついに、王城から正式な知らせが届いた。
春の親睦夜会。
開催日。
王城への到着時刻。
招待客の入場開始時刻。
第一舞踏の時刻。
王族への挨拶順。
退出予定時刻。
そのすべてが、具体的な形になった。
夜会は――十日後。
朝食の席で父上がそう告げた瞬間、俺は手にしていたパンを静かに皿へ戻した。
「十日後」
「ああ」
父上は、王城から届いた正式な書状を机の上へ置いた。
厚みのある白い紙。
王家の紋章。
青と金の封蝋。
昨日までの夜会は、予定だった。
近づいてはいた。
準備もしていた。
礼装も仮縫いまで進んだ。
模擬夜会も終えた。
それでも、心のどこかには、まだ少し先のことだという感覚が残っていた。
だが、十日後。
数字になった。
日付になった。
朝、起きる時刻。
食事。
着替え。
馬車。
王城。
扉。
深い青のリリス。
全部が一本の道として、急に目の前へ現れた。
「アル」
母上の声で、俺は顔を上げた。
「息が止まっているわ」
「あ」
深呼吸。
吸う。
吐く。
「十日ですか」
「ええ」
母上は王城からの書状とは別に、細かな予定表を作っていた。
すでに準備が始まっている。
「当日は、午後の授業を欠席します」
「学園もですか」
「王城招待者には、半日の特別休暇が認められます。学園から正式に連絡が来るでしょう」
「はい」
「昼前には帰宅。軽い食事を取る。入浴。休憩。仕度開始」
「仕度には、どのくらいかかりますか?」
「あなたは二時間ほど」
「二時間」
「リリス様は、もう少しかかるでしょうね」
髪。
ドレス。
装飾品。
化粧。
靴。
ハンカチ。
泣いた時の修正。
最後だけ普通の令嬢より時間が必要そうだ。
「王城へは?」
「シェルザート家の馬車で向かいます」
「リリスとは別ですか」
口から出た。
少し早かった。
母上が俺を見る。
父上も。
「今のところは別々だ」
父上が答えた。
「フルーラ公爵家とシェルザート伯爵家、それぞれの家として王城へ向かう」
「はい」
「ただし、王城内の控え廊下で合流する予定だ」
「控え廊下」
「ああ。広間へ入る前に、同伴者同士が整えるための場所がある」
そこで会う。
深い青のリリスと。
完成した濃紺の礼装を着た俺が。
仮縫いではない。
本番。
胸の奥が強く鳴った。
母上は予定表を指で示す。
「到着後、家同士で挨拶。控え廊下で合流。装いの最終確認。ハンカチ。青の位置。呼吸」
「はい」
「それから、扉の前へ」
扉。
ガロウ公爵が聞いただけで泣いた扉。
模擬夜会でも練習した。
扉の前で一拍。
開く。
歩く。
隣にリリス。
王城の大広間。
俺は無意識に胸元へ手を置いていた。
まだ普段着だ。
青はない。
だが、そこへ戻る合図があることを、もう体が覚えている。
父上が言った。
「十日しかない、と考えるな」
「はい」
「十日もある、とも考えるな」
「では、どう考えれば?」
「今日は今日だ」
父上は静かだった。
「夜会の十日前だからといって、今日一日をすべて夜会へ渡す必要はない」
「はい」
「朝食を食べる。学園へ行く。授業を受ける。友人と話す。帰宅する。眠る」
「はい」
「本番が近い時ほど、日常を崩すな」
その言葉は、思っていたより深く胸へ入った。
本番が近い。
だから、すべてを本番のために使いたくなる。
失敗しないように。
泣かせないように。
恥をかかないように。
何度も頭の中で夜会を繰り返したくなる。
だが、それでは本番前に疲れ切る。
ガロウ公爵の札。
『模擬は模擬、本番は本番』
あれと同じだ。
今日も今日。
本番は十日後。
ライズは、王城からの正式日程が出たことをすでに把握していたらしい。
俺の鞄へ教科書を入れながら、何もなかったように言った。
「若様、本日のハンカチは二十八枚でございます」
「昨日の予告通りだな」
「夜会日程確定日でございますので」
「日程を聞くだけで二十八枚?」
「数字は感情を具体化いたします」
「なるほど」
「十日後、という言葉を聞かれたアマリリス様が、朝から複数回涙を流されている可能性がございます」
「何回くらいだ」
「起床時。朝食時。王城からの書状確認時。ドレス完成予定日確認時。若様との合流時刻確認時」
「五回」
「現時点での予測でございます」
「午前中だけで?」
「はい」
ありそうだ。
非常にありそうだ。
「想定される本日の涙は?」
「日程確定涙、十日という数字への緊張涙、控え廊下合流想像涙、当日の別馬車不安涙、扉前再確認涙、夜会後の帰宅時刻を知った際の『終わりもある』涙でございます」
「最後はどういう感情だ」
「夜会が始まる前から、終わることを想像される涙です」
「リリスならありそうだな」
「はい」
ライズは予定表を閉じた。
「本日の心の札は、『本番が決まっても、今日は今日』でございます」
「父上と同じだな」
「はい」
「受け取る」
「よろしいかと」
朝食を取る。
パン。
卵。
温かいスープ。
いつもと同じ。
だが、王城から届いた書状が視界にあるだけで、すべてが少し違って見えた。
十日後。
俺は十日後も、同じように朝食を食べられるだろうか。
緊張で残さないだろうか。
母上に見抜かれるだろう。
いや、確実に見抜かれる。
だから、今から心配する必要はない。
今日は今日。
俺はパンを食べた。
残さず。
学園へ向かう馬車。
窓の外には、いつもの街並み。
店を開ける商人。
荷車を引く男。
母親に手を引かれる子ども。
犬。
空。
すべて、夜会とは関係なく動いている。
王城の夜会が十日後でも、世界は今日を進んでいる。
俺もそうすればいい。
しかし、正門が見えた瞬間。
その考えは半分ほど飛んだ。
リリスがいた。
いつもの場所。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
そして。
すでに泣いていた。
かなり。
ハンカチを目元へ当てている。
ミラが隣で静かに待っている。
俺が馬車を降りる。
リリスがこちらに気づく。
目元を拭く。
歩き出す。
走らない。
けれど、いつもより少し早い。
途中で減速する。
王城用半歩。
今から使っている。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。でも、泣いていますね」
「はい」
「夜会の日程を?」
「十日後です」
「はい」
「本当に、十日後です」
「はい」
「数字になりました」
「はい」
リリスの涙がまた溜まる。
「今朝、何回ですか?」
俺が聞くと、リリスは少し恥ずかしそうにミラを見た。
ミラが答える。
「六回でございます」
「ライズの予測より一回多い」
「若様との控え廊下合流想像が二回ございました」
「二回」
「一回目は、合流できる安心。二回目は、完成した礼装姿の若様が待っている想像によるものです」
「なるほど」
なるほどではない。
朝からかなり使っている。
「リリス」
「はい」
「本番が決まっても、今日は今日だそうです」
リリスが瞬きをした。
「今日は今日」
「父上に言われました」
「はい」
「夜会が十日後でも、今日は学園へ来て、授業を受ける日です」
「はい」
「今すべてを考えなくていい」
「はい」
「今日は、今日の一拍だけ」
リリスの目から涙が一粒落ちた。
「アル」
「はい」
「その言葉、とても優しいです」
「父上の言葉です」
「シェルザート伯爵様へ、ありがとうございますとお伝えください」
「伝えます」
「……小声版です」
「もう泣いていますけど」
「追加です」
俺はハンカチを渡した。
リリスは新しいハンカチへ持ち替える。
朝だけで何枚使うのだろう。
「アル」
「はい」
「当日は、別々の馬車なのですね」
「うちでも聞きました」
「はい」
「少し寂しいです」
「俺もです」
リリスが顔を上げる。
「アルも?」
「はい」
「一緒です」
「はい」
また涙が増える。
「でも、王城の控え廊下で会えます」
「はい」
「完成した礼装で」
「はい」
「アルの青を」
「はい」
「見つけます」
胸の奥が熱くなる。
「俺も、深い青を見つけます」
リリスは完全に泣いた。
言うと思った。
言ったら泣くと思った。
でも、必要な言葉だった。
「控え廊下で」
「はい」
「見つけてください」
「必ず」
「強いです」
「今日は今日ですが、その時の約束だけはしておきます」
「はい」
リリスは泣きながら笑った。
ミラが静かに言う。
「本日七回目。控え廊下合流確約涙として記録いたします」
「分類が長い」
「重要事項でございます」
正門を通る。
いつもの学園。
白い石の校舎。
朝の鐘。
生徒たちの声。
夜会まで十日。
だが、今日の授業開始までは、あと少し。
廊下を歩く。
リリスが俺の隣。
いつもの距離。
昨日までと同じ。
そのことに、少し安心する。
途中で、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは、リリスの目元を見る。
「おはよう。日程出たね」
「はい」
リリスが答える。
「十日後」
「はい」
「もう泣いた?」
「七回です」
「多いな」
「朝からです」
「知ってる」
ユリウスは少し笑った。
だが、今日はからかいすぎない。
エレナ嬢が優しく言う。
「私も、日付を見た時は緊張いたしましたわ」
「エレナ様も?」
「ええ。予定だったものが、急に現実になりますもの」
「はい」
「でも、十日間すべてを夜会にしなくてよいのです」
「アルと同じです」
「シェルザート伯爵様のお言葉です」
「素敵なお考えですわ」
リリスは頷いた。
「今日は今日」
「はい」
ユリウスが言う。
「それでも今日の礼法は、たぶん日程確認だろうけどね」
「今日も夜会ではありませんか」
「授業の一部だよ」
「たしかに」
「授業が終われば、昼食もあるし、魔法基礎もあるし、帰宅もある」
「はい」
「本番前日まで、普通の日は続くよ」
ユリウスにしては、かなりまともなことを言っている。
「ユリウス様」
「何?」
「今日は真面目ですね」
「いつも真面目だよ」
「それは」
「一拍置くな」
エレナ嬢がくすくす笑った。
教室へ入る。
空気が違った。
王城からの日程は、すでに招待者全員の家へ届いている。
皆、その話をしていた。
「十日後だって」
「仕立て、間に合うかな」
「靴、もう一回直さないと」
「当日、昼で帰れるらしいよ」
「王城到着が思ったより早い」
「第一舞踏まで時間あるんだね」
「食事、どうするの?」
「帰りは遅いらしい」
ざわめき。
高揚。
不安。
笑い。
沈黙。
皆の感情が混ざっている。
ニールは机の前で予定表を握りしめていた。
「シェルザート君」
「はい」
「十日後です」
「はい」
「僕、もう緊張しています」
「俺もです」
「アマリリス様も?」
「はい」
「七回泣きました」
「七回」
ニールが驚く。
リリスは少し恥ずかしそうに頷いた。
「でも、今日は今日だと教えていただきました」
「今日は今日」
「はい」
ニールは予定表を見る。
「それなら、今日は算術の小試験がありますね」
「そうです」
俺は忘れかけていた。
夜会日程のせいで。
「勉強しましたか?」
リリスが聞く。
ニールは顔を青くした。
「……夜会のことで、少し」
「今日は今日です」
俺が言う。
「小試験も今日です」
「戻ります」
ニールは急いで教科書を開いた。
今日は今日。
便利である。
クラリス嬢も近づいてきた。
彼女は夜会へ参加しない。
それでも、皆の空気を受け止めるように穏やかに笑っていた。
「アマリリス様、日程が決まったのですね」
「はい」
「十日後」
「はい」
「少し寂しくなります」
「なぜですか?」
「準備のお話を皆さまから聞くのが、もうすぐ終わる気がして」
リリスの目が潤んだ。
「クラリス様」
「すみません。泣かせるつもりでは」
「夜会が終わっても、お話しします」
「本当ですか?」
「はい。王城のことも、ドレスのことも、失敗したことも」
「失敗も?」
「はい。きっとありますので」
クラリス嬢が笑う。
「楽しみにしております」
「私も、お話しすることを楽しみにします」
夜会が終わった後。
今まで、そこまで考えていなかった。
終わりもある。
ライズの予測。
『終わりもある涙』
リリスの目から、一粒落ちた。
「これは何の涙ですか?」
俺が聞く。
「夜会が終わっても、クラリス様へお話しできる涙です」
「明るい終わりですね」
「はい」
一時間目。
礼法。
ベイル先生は、いつもより厚い書類を持って教室へ入った。
教室の空気がすぐに引き締まる。
先生は黒板へ向かい、ゆっくりと書いた。
『夜会本番までの十日間』
数字が、黒板にある。
リリスの肩が少し強張った。
俺も。
「皆さんのご家庭へ、王城より正式日程が届いたと思います」
「はい」
招待者たちが答える。
「開催は十日後です」
先生が改めて言う。
教室がざわつく。
一度聞いている。
それでも、教師から正式に言われると重い。
「まず伝えておきます」
先生は教室を見渡した。
「この十日間を、すべて夜会のためだけに使わないこと」
父上と同じ。
リリスが俺を見る。
俺も小さく頷く。
「通常授業があります。課題があります。食事があります。睡眠があります。友人との時間があります」
先生は黒板へ書き足す。
『日常を保つことも準備』
「本番前に体調を崩す者が毎年います」
教室が静かになる。
「練習をしすぎて足を痛める。食事を減らしすぎて倒れる。衣装を気にして眠れない。挨拶を頭の中で繰り返しすぎて、当日に声が出ない」
全部ありそうだ。
「準備は必要です。しかし、準備しすぎて本番へ立てなくなれば意味がありません」
先生は一拍置いた。
「本番が決まっても、今日は今日です」
正式採用。
リリスの目が潤む。
「アマリリスさん」
「はい」
「今朝、何回泣きましたか?」
先生まで聞く。
「七回です」
教室がざわつく。
ユリウスが小声で、
「今ので八回目かな」
と言った。
先生の視線。
「黙る」
「はい」
「アマリリスさん」
「はい」
「泣くことを禁じません」
「はい」
「ですが、夜会のことだけで一日の感情を使い切らないこと」
「はい」
「今日は何がありますか?」
リリスは少し考える。
「算術の小試験があります」
「はい」
「魔法基礎があります」
「はい」
「昼食があります」
「はい」
「クラリス様と、お話しする約束があります」
「よろしい」
先生が頷く。
「夜会は十日後。小試験は今日です」
ニールが机で震えた。
教室に笑いが起きる。
緊張が少しほどける。
先生は王城の予定表を配った。
俺の手元にも一枚。
正式な時刻。
十三時――学園早退。
十三時半――帰宅、軽食。
十四時――休憩、入浴。
十五時――仕度開始。
十七時――屋敷出発。
十八時――王城到着予定。
十八時十五分――控え廊下集合。
十八時四十分――招待客入場開始。
十九時――王族入場。
十九時十五分――挨拶開始。
二十時――第一舞踏。
二十二時半――退出開始。
二十三時――王城出発予定。
遅い。
思っていたより長い。
リリスは予定表を見ながら、何度も呼吸している。
「先生」
ニールが手を挙げた。
「何ですか」
「夕食は、いつ食べるのでしょうか」
現実的。
とても大事だ。
「王城で軽食が出ます。ただし、緊張で食べられない者も多いため、出発前に軽く食べること」
セレスティア夫人が絶対に言う。
夜会の日ほど食べなさい、と。
「飲み物も、勧められるまま飲みすぎないこと。特に甘いものや香りの強いものは、喉が渇く場合があります」
「はい」
「靴は、当日初めて履かないこと」
「はい」
「装飾品も、必ず事前に重さを確認すること」
「はい」
「ハンカチは?」
リリスが反応する。
「予備を用意しなさい」
先生の視線がリリスへ。
「アマリリスさんは、通常より多めに」
「はい」
教室に笑いが起きた。
リリスも少し笑う。
「シェルザートさんも」
「俺もですか?」
「アマリリスさんへ渡す分です」
「はい」
納得。
先生は当日の動線を説明する。
「各家の馬車で王城へ到着後、招待者は家族とともに受付へ進みます」
黒板に簡単な王城内の図。
正面玄関。
大階段。
第一控え廊下。
第二控え室。
大広間。
「婚約者同士で入場する者は、第一控え廊下で合流します」
リリスの指先が動く。
俺も胸元へ触れそうになる。
「合流後、互いの装いを確認。問題がなければ、同伴者列へ並びます」
「先生」
リリスが小さく手を挙げた。
「何ですか」
「合流した時に、感情が動いた場合は」
教室が静かになる。
真剣な質問だ。
先生も真剣に答える。
「一度、壁際へ半歩寄りなさい」
「壁際へ」
「通路中央で立ち止まらないこと」
「はい」
「深呼吸。ハンカチ。言葉を一つだけ」
「一つだけ」
「すべてをそこで伝えようとしない。夜会はこれから始まります」
リリスが頷く。
「例えば?」
先生は少し考える。
「『会えて安心しました』程度でよいでしょう」
強い。
それだけでリリスの目が潤む。
俺も想像する。
王城の控え廊下。
深い青。
濃紺。
人の声。
灯り。
リリスが言う。
会えて安心しました。
危ない。
「シェルザートさん」
「はい」
「あなたも今、想像しましたね」
「はい」
「本番まで取っておきなさい」
「はい」
教室が少し笑う。
先生は続ける。
「返答も一つでよい。『俺もです』では公的な場として少し近すぎる場合があります」
俺は頷く。
「では、何と?」
「『私も安心しました』」
「はい」
「呼称は場に合わせること」
「はい」
アル。
リリス。
普段の呼び名。
だが、王城の控え廊下では周囲がいる。
アマリリス様。
シェルザート様。
言葉にも半歩。
それでも、視線は俺たちのものだ。
授業の後半。
当日の予定表を使い、「その時刻に何をするか」を一人ずつ答える練習が始まった。
「十三時」
「学園を早退します」
「十三時半」
「屋敷で軽食を取ります」
「十四時」
「入浴と休憩」
「十五時」
「仕度開始」
「十七時」
「屋敷出発」
「十八時十五分」
先生が俺を見る。
「第一控え廊下で、アマリリス様と合流します」
「その時?」
「装いを確認します」
「感情が動いたら?」
「通路中央で止まらず、壁際へ半歩。深呼吸。言葉は一つ」
「何と?」
一拍。
「お会いできて安心しました」
リリスの涙が落ちた。
「アマリリスさん」
「はい」
「返答は?」
リリスは深呼吸。
「私も、お会いできて安心いたしました」
言えた。
教室が静かだった。
誰も笑わない。
先生が頷く。
「よろしい。今、それ以上を言わなかったことも良いです」
「はい」
余白。
本番まで残す。
大切だ。
休み時間。
リリスは席に座り、予定表をじっと見ていた。
十八時十五分。
そこへ、小さな印をつけている。
「何を書いているんですか?」
俺が聞く。
「合流」
「見れば分かります」
「大切なので」
「はい」
「アルも印をつけますか?」
「つけます」
俺も予定表に、小さく印をつける。
十八時十五分。
同じ時刻。
別々の紙。
でも、同じ場所。
リリスがそれを見る。
目が潤む。
「今日は今日です」
俺が先に言う。
「はい」
深呼吸。
耐えた。
「アル」
「はい」
「夜会は、二十二時半から退出なのですね」
「はい」
「終わります」
「はい」
「始まる前から考えるのは変でしょうか」
「いいえ」
「終わったら、少し寂しいと思います」
「まだ始まっていません」
「はい」
「でも、終わった後も、次の日があります」
「はい」
「クラリス嬢へ話す約束もあります」
「はい」
「俺たちも学園で会います」
リリスの涙が一粒落ちた。
「終わっても、会えます」
「はい」
「夜会だけが、すべてではありません」
「はい」
リリスは予定表を折らないよう、丁寧に机へ置いた。
「本番が決まっても、今日は今日」
「はい」
「終わっても、次の日」
「はい」
「覚えます」
エレナ嬢が近づいてくる。
「お二人とも、十八時十五分に印を?」
「はい」
リリスが答える。
「私も、ユリウス様とは別ですが、家族との確認時間へ印をつけました」
「エレナ様も」
「ええ。予定表は不安を増やすためではなく、戻る場所を作るために使うのですわ」
良い言葉だ。
「戻る時刻」
リリスが呟く。
「はい」
ユリウスも来た。
「僕は二十時の第一舞踏に印つけた」
「なぜですか」
「軽さを半歩抑える最大の場面だから」
「自覚があるんですね」
「あるよ」
ニールは、十三時半の軽食へ大きな丸をつけていた。
「そこが一番大事ですか?」
俺が聞く。
「空腹だと、もっと緊張するので」
「正しいと思います」
皆、それぞれの不安へ印をつけている。
予定表は同じ。
だが、大切な時刻は違う。
昼休み。
食堂では、予定表が何度も開かれていた。
食事をしながら確認する者。
友人と到着時刻を話す者。
同じ馬車になる家族を考える者。
夜会へ参加しない生徒たちも、興味深そうに聞いている。
リリスは、スープを一口飲んでから言った。
「当日は、昼食ではなく軽食なのですね」
「はい」
「お母様が、絶対に食べなさいと」
「もう言われましたか?」
「朝、予定表を見た瞬間に」
「さすがです」
「お父様は、緊張で食べられないと言いました」
「早いですね」
「お母様に、『当日食べない者は王城へ連れていかない』と言われました」
「食べますね」
「食べると即答しました」
ユリウスが笑いを堪えている。
「ガロウ公爵、夜会に行きたいんだね」
「娘を守るためだそうです」
「守るって何から?」
「全てから」
範囲が広い。
エレナ嬢が穏やかに言う。
「王城には騎士もおりますから、ガロウ公爵様も少し休まれてよいと思いますわ」
「お母様も同じことを言いました」
「返答は?」
「私は父だ、と」
「騎士団長ではなく」
「はい」
俺は想像する。
王城の夜会。
深い青のリリス。
濃紺の俺。
そして、少し離れた場所で札を握るガロウ公爵。
本番の難易度が上がっている気がする。
「アル」
リリスが俺を見る。
「はい」
「当日、お父様が立ち上がったら」
「はい」
「半歩、見守ってください」
「止めなくていいんですか?」
「お母様とお兄様が止めます」
「役割分担」
「はい」
「分かりました」
午後の魔法基礎。
教師も正式日程を知っていた。
黒板には、数字の「十」が書かれている。
「夜会まで十日」
リリスの深い青の光が少し揺れる。
「数字が出ると、魔力も急ぎますね」
「はい」
「十日分を、一度に使おうとしないこと」
「はい」
「今日の魔力は、今日の分だけ」
礼法と同じ。
父上と同じ。
教師は十個の小さな光を作った。
空中に並ぶ。
「十日を、一つの大きな光にしない」
「はい」
「一日ずつ」
一つ目の光が灯る。
「今日」
二つ目。
「明日」
三つ目。
「その次」
小さな光が並ぶ。
夜会は一番最後。
「最後だけを見つめ続けると、その手前で転びます」
「はい」
「今日の光を整えなさい」
リリスは目を閉じた。
深い青の光を一つ。
大きくない。
強すぎない。
今日の分。
それを保つ。
「よろしい」
「ありがとうございます」
リリスの表情が少し落ち着いた。
数字が道になった。
壁ではなく。
放課後。
レオナルド先輩は、いつもの場所で待っていた。
今日は手に紙を持っている。
王城の予定表。
「リリス」
「お兄様」
「日程は確認したか」
「はい」
「全部覚えようとしたか?」
「少し」
「母上に止められたな」
「はい」
「今日は今日だ」
「皆さま同じことを言います」
「必要だからだ」
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「十八時十五分」
「第一控え廊下で合流します」
「遅れるな」
「はい」
「早く行きすぎるな」
「はい」
「早く行って待つのは?」
「駄目ですか?」
「周囲の動線を邪魔する」
「分かりました」
「時間にも半歩だ」
「そこにも」
「そこにもだ」
レオナルド先輩は真剣だった。
「父上は?」
俺が聞く。
レオナルド先輩は予定表を一度見た。
「日程を聞いて、立った」
「はい」
「自分で座った」
「おお」
「十日後、と声に出した」
「はい」
「泣いた」
「はい」
「十八時十五分、控え廊下合流と聞いた」
「はい」
「もう一度立ちかけた」
「札は?」
「母上が出した」
「何ですか?」
「『日程で一日を使い切らない』」
「今日の課題そのものですね」
「ああ」
「効きましたか?」
「座ったまま、今日の騎士団会議へ行った」
「仕事へ行けたんですね」
「大きな進歩だ」
リリスが嬉しそうに笑う。
「お父様も、今日は今日ができたのですね」
「たぶん」
レオナルド先輩は続ける。
「だが、予定表の十八時十五分に青い丸をつけていた」
「お父様も?」
「家族全員分の合流時刻だそうだ」
リリスの目が潤む。
「お父様」
「泣くな。今日はもう多い」
「はい」
深呼吸。
耐えた。
「新しい札は?」
俺が聞く。
「二枚だ」
「増えましたね」
「『十日前に本番を始めない』」
「正しい」
「『十八時十五分まで生きる』」
「また生存系!!」
リリスが顔を覆った。
「お父様……」
「夜会本番では、その先も生きてもらう」
「札を追加するんですか?」
「母上が検討中だ」
たぶん、
『退出まで生きる』
だろう。
いや、すでにありそうだ。
正門。
夕方の風。
授業を終えた生徒たちの声。
今日は、朝から夜会の日程に心を使った。
それでも、小試験を受けた。
昼食を食べた。
魔法基礎も終えた。
クラリス嬢と話した。
ユリウスの冗談に突っ込んだ。
今日は今日を過ごせた。
リリスも、朝より落ち着いていた。
予定表を鞄へ大切に入れている。
「アル」
「はい」
「夜会まで、十日です」
「はい」
「怖いです」
「はい」
「楽しみです」
「はい」
「終わるのは、少し寂しいです」
「はい」
「でも、終わった後も会えます」
「はい」
「今日は、今日でした」
「はい」
リリスが微笑む。
「今日の宝物名は」
「はい」
「夜会の日付が決まっても、今日を過ごせた日の宝物です」
「良い名前です」
「あと」
「はい」
「十八時十五分に、アルと会う約束ができた日の宝物です」
「……必ず行きます」
リリスの目が潤む。
「強いです」
「でも必要なので」
「はい」
「遅れません」
「早すぎません」
「時間にも半歩」
「はい」
二人で笑った。
「アル」
「はい」
「控え廊下で、何と言いますか?」
「それは本番まで取っておきましょう」
リリスが少し驚く。
だが、すぐに頷く。
「はい」
「練習した言葉はあります」
「はい」
「でも、本番で会った時の気持ちは、その時に」
「……はい」
リリスの涙が一粒落ちた。
「今の方が強いです」
「すみません」
「でも、嬉しいです」
俺はハンカチを渡した。
リリスは涙を拭く。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
今日は、十日後の約束ができた。
だが、明日も会う。
その次の日も。
本番まで、普通の日が続く。
それを忘れないようにしたい。
屋敷へ戻ると、父上と母上が待っていた。
机の上には、俺の予定表。
家用の予定表。
使用人用の予定表。
馬車係用の予定表。
何枚あるのだろう。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「日程確認は?」
「学校でも行いました」
「覚えた?」
母上が聞く。
「全部は覚えていません」
「それでいいわ」
「十八時十五分は覚えました」
母上が微笑む。
「そうでしょうね」
父上も笑う。
「そこだけ忘れなければ、まずはいい」
「まずは?」
「出発時刻も忘れるな」
「はい」
「食事も」
「はい」
「靴も」
「はい」
「結局多いですね」
「一つずつだ」
「はい」
夕食。
今日も食べる。
予定表を見ながらではなく。
家族と話しながら。
父上は領地から届いた報告の話をした。
母上は、明日の仕立て師との打ち合わせの話。
俺は小試験の話。
夜会だけではない。
今日の話。
その夜。
フルーラ家から、いつもの三通が届いた。
一通目。
ガロウ公爵。
『夜会は十日後だ。聞いた。立った。自分で座った。泣いた。十八時十五分、第一控え廊下でリリスとアルフレッド殿が合流する。青い丸をつけた。セレスティアに「十日前に本番を始めない」「十八時十五分まで生きる」の札を出された。今日は騎士団会議へ行った。私は今日を過ごした。成長している。泣いた。 ガロウ』
二通目。
レオナルド先輩。
『正式日程が決まった。十日後だ。だからといって、十日分の緊張を今日使うな。十八時十五分、第一控え廊下。時間にも半歩を置け。早すぎず、遅れず。父上は日程を聞いて立ったが、自分で座った。その後、騎士団会議へ向かった。進歩している。 レオナルド』
三通目。
セレスティア夫人。
『アルフレッド様。王城より正式日程が届きましたね。夜会は十日後、第一控え廊下での合流は十八時十五分を予定しております。日付が決まると、心は先に本番へ向かいたくなるものです。ですが、どうか今日を今日としてお過ごしください。食事、睡眠、学び、友人との時間。そのすべてが本番へ立つあなた方を支えます。夫には「十日前に本番を始めない」「十八時十五分まで生きる」の札を出しました。騎士団会議へ行けました。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み終えた。
ガロウ公爵。
『私は今日を過ごした』
その一文が、妙に心へ残った。
大げさに聞こえる。
でも、今日の俺たちには大切だった。
夜会の日程が決まった。
十日後。
心はすぐに、その日へ走ろうとした。
深い青。
濃紺。
王城。
扉。
第一舞踏。
嫉妬。
戻る合図。
退出。
全部を今日のうちに考えたくなった。
だが、今日には今日のことがあった。
朝食。
学園。
小試験。
昼食。
友人。
授業。
帰宅。
夕食。
今。
俺も今日を過ごした。
リリスも。
ガロウ公爵も。
父上が書状を置いた。
「十日後だな」
「はい」
「焦るか?」
「少し」
「なら半歩だ」
「はい」
母上が笑う。
「十日後に向かって、一日に十歩進む必要はないのよ」
「一日一歩?」
「半歩でもいいわ」
「この家も半歩が増えていますね」
「便利でしょう?」
「はい」
リーマスは胸元へ手を当てた。
「未来へ心を急がせず、今日の床を踏むこともまた、立派な前進でございます」
ライズは静かに親指を立てた。
「若様」
「何だ」
「本日のハンカチ使用数は、アマリリス様十九枚。若様零枚。ガロウ公爵閣下十一枚でございます」
「十九枚」
「日程確定日でございますので」
「明日は減るか?」
「二十九枚を予定しております」
「増えるのか!?」
「夜会用靴の最終確認がございます」
靴。
歩幅。
階段。
ダンス。
また新しい課題。
俺は額へ手を当てた。
だが、すぐに手を下ろす。
明日は明日。
今日は今日。
俺は窓の外を見る。
夜空。
十日後も、同じ空があるだろう。
だが今は、今日の夜だ。
眠る時間。
明日、またリリスへ会うために。
俺は深く息を吸った。
そして今日も、心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
夜会は十日後ですが、今日はちゃんと今日を過ごせました!!
十八時十五分、王城の控え廊下で必ず見つけます!!
でも、お父様は十八時十五分までではなく、退出後まで生きてください!!




