第61話 公爵令嬢様、完成前の深い青で婚約者を泣かせかけます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
本日。
俺は、リリスの夜会用ドレス姿を見る。
正確には、完成したドレスではない。
まだ仮縫いだ。
裾の長さも完全には決まっていない。
袖口の布も仮止め。
装飾品も一部だけ。
髪型も、本番用ではない。
それでも。
深い青の布をまとったリリスを見る。
王城の春の親睦夜会で、俺の隣に立つ彼女の姿が、初めて形になる。
そしてリリスも、俺の仮縫い姿を見る。
濃紺を基調にした礼装。
胸元と袖口に入る青。
襟元の白。
近くで見なければ分からないほどの銀。
完成前の礼装を着た俺が、深い青のリリスと並ぶ。
色を見る。
歩幅を見る。
礼をする。
立ち位置を確認する。
ダンスの姿勢を取る。
それが今日の予定だった。
……重い。
予定を並べただけで、心臓が重い。
緊張である。
嫌な重さではない。
むしろ楽しみだ。
見たい。
早く見たい。
けれど、見た瞬間に自分がどうなるのか分からない。
ガロウ公爵を笑ってばかりいられない。
深い青で深く崩れない。
仮縫いで倒れない。
対面で走らない。
あれは公爵のための札だ。
しかし今朝、目を覚ました俺は思った。
自分にも、一枚くらい必要なのではないか。
『深い青を見て固まらない』
これだ。
走ることはない。
倒れるつもりもない。
だが、固まる可能性は高い。
朝。
食堂へ入ると、父上と母上はすでに席についていた。
母上の前には、今日の対面確認について書かれた紙が置かれている。
父上はそれを読みながら、どこか楽しそうだった。
「おはよう、アルフレッド」
「おはようございます」
「眠れたか?」
「一応」
「一応か」
「何度か目が覚めました」
父上が笑った。
母上も口元を緩める。
「楽しみなのね」
「緊張しているんです」
「両方でしょう?」
「……はい」
否定できない。
母上は紙を指先で軽く叩いた。
「本日の流れを確認しましょう」
「はい」
「学園から帰宅後、軽く食事を取る。体を休める。その後、礼装へ着替える」
「はい」
「フルーラ公爵家へは、夕刻より少し前に到着予定」
「はい」
「最初は別室で最終調整。あなたとリリス様は、同時に大広間へ入るのではなく、片方ずつ入場します」
「片方ずつ?」
「ええ。まず互いの姿を見る時間を作るためよ」
見る時間。
その言葉だけで緊張が増した。
「次に、少し離れた位置で向かい合う」
「はい」
「その後、婚約者として並ぶ」
「はい」
「歩幅、礼、入場姿勢、ダンスの基本姿勢まで確認」
「はい」
「感情が限界を超えた場合は?」
「半歩」
「そうね。無理に続けないこと」
父上が言う。
「ただし、見た瞬間に逃げるな」
「逃げません」
「目を逸らすな」
「努力します」
「褒めるべき時は褒めろ」
「はい」
「曖昧な言い方で誤魔化すな」
「……はい」
そこが一番難しい。
似合うと思ったら、似合うと言う。
綺麗だと思ったら、綺麗だと言う。
しかし、リリスは泣く。
確実に泣く。
それでも必要な言葉なら、言うべきだ。
ライズは、俺の鞄を整えながら静かに言った。
「若様、本日のハンカチは二十六枚でございます」
「やはり増えたな」
「仮縫い対面確認日でございますので」
「屋敷へ帰ってからの対面なのに、学園へ二十六枚持っていくのか?」
「学園内でも想像による涙が予想されます」
「具体的には?」
「朝の対面想像涙、昼の残り時間確認涙、友人方から深い青について話題にされた際の照れ涙、帰宅前の緊張涙でございます」
「対面前だけで何枚使うつもりだ」
「八枚から十一枚と予測しております」
「残りは?」
「本番用でございます」
「仮縫い対面が本番扱いなんだな」
「本日の主目的でございますので」
ライズはさらに続けた。
「対面時に想定される涙は、アマリリス様が若様の礼装をご覧になった際の感動涙、若様が深い青をご覧になった際の沈黙涙、互いに褒め合った際の決壊涙、並んだ色が合った時の婚約者実感涙、ガロウ公爵閣下の床接近涙でございます」
「沈黙涙とは何だ」
「若様が言葉を失われ、その沈黙によりアマリリス様が泣かれる可能性でございます」
「危険だな」
「はい。沈黙が長すぎると、お似合いでないのではと誤解される恐れもございます」
「それは避けたい」
「そのため、本日の心の札は――」
ライズは一拍置いた。
「『言葉を失っても、戻って伝える』でございます」
「なるほど」
見た瞬間、言葉を失うかもしれない。
でも、そのまま黙らない。
戻って伝える。
俺は頷いた。
「受け取る」
「よろしいかと」
学園へ向かう馬車の中。
窓の外には、薄い雲の向こうから朝の光が差していた。
春の空気は柔らかい。
道沿いの木々は、葉を少しずつ増やしている。
街の人々は、いつも通り一日を始めていた。
俺だけが、今日という日を異様に大きく感じている。
リリスの仮縫い姿を見る。
ただそれだけだ。
いや。
ただではない。
ここまで一緒に準備してきた。
半歩を学んだ。
王城用半歩。
王族用半歩。
言葉にも半歩。
嫉妬にも半歩。
別行動。
戻る合図。
模擬夜会。
そのすべてが、今日初めて装いという形を持つ。
制服姿の俺たちは、毎日並んでいる。
けれど、礼装とドレスで並ぶ俺たちは、王城の夜会で他者から見られる「婚約者」だ。
俺は、その姿を受け入れられるだろうか。
いや。
受け入れるのだ。
正門前。
リリスは、いつもの場所にいた。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
今日もまだ、深い青ではない。
それなのに、俺は彼女を見た瞬間に今日の夕刻を想像してしまった。
リリスも同じらしい。
俺を見つけると、頬が一気に赤くなった。
歩いてくる。
走らない。
だが、途中で一度止まる。
深呼吸。
それから、また歩く。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。途中で止まりましたけど」
「夕方のことを考えたら、足が」
「俺も馬車の中で何度か考えました」
リリスの目が潤む。
「アルも?」
「はい」
「一緒です」
「はい」
「小声版です」
「朝一回目ですね」
俺はハンカチを渡した。
リリスは目元へ当てる。
「アル」
「はい」
「今日、見てくださるのですね」
「はい」
「完成前の深い青を」
「はい」
「笑いませんか?」
「笑いません」
「似合わなくても、困りませんか?」
「似合わないとは思わないです」
「まだ見ていないのに」
「昨日も言いました。深い青は似合うと思います」
リリスの涙が一粒落ちた。
「強いです」
「でも、本当に」
「はい」
俺は少しだけ息を吸った。
「リリスも、俺の礼装を見てください」
「はい」
「まだ裾も袖も完成していません」
「はい」
「肩も少し直します」
「はい」
「青の刺繍も途中です」
「それでも、見たいです」
即答。
俺の胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「アル」
「はい」
「私も、笑いません」
「はい」
「逃げていない青を、見ます」
強い。
朝から強すぎる。
俺の方が黙りそうになる。
言葉を失っても、戻って伝える。
「……受け取ります」
リリスの目がさらに潤んだ。
「戻ってくださいました」
「危なかったです」
「私もです」
二人とも朝から危ない。
ミラが後ろで静かに言った。
「本日二回目、発生。一回目は仮縫い用ドレスの保管箱をご覧になった際でございます」
「箱で?」
「はい」
リリスが真っ赤になる。
「深い青の布が少し見えていたので」
「箱から少し見えただけで」
「本番が近づいた気がして」
「今日は長くなりそうですね」
「はい」
教室へ向かう途中。
ユリウスとエレナ嬢が合流した。
エレナ嬢は、リリスの顔を見るなり微笑んだ。
「本日ですわね」
「はい」
「仮縫いの対面」
「はい」
リリスの目が潤む。
「エレナ様、朝から強いです」
「まだ何も褒めておりませんわ」
「本日ですわね、が強いです」
「そうでしたの」
ユリウスが俺を見る。
「アルフレッド、眠れた?」
「一応」
「顔が仮縫い前夜だよ」
「どういう顔ですか」
「楽しみだけど怖い顔」
「合っています」
ユリウスが少し笑った。
「見た瞬間、固まらないようにね」
「ライズにも言われました」
「固まったら、アマリリス様が不安になるよ」
「分かっています」
エレナ嬢が優しく言う。
「でも、すぐに言葉が出なくても、それ自体は悪くありませんわ」
「そうでしょうか」
「はい。驚いて言葉を失うこともありますもの」
「ただし?」
「戻って、伝えることです」
ライズと同じ。
俺は頷いた。
「はい」
リリスが小さく言う。
「私も、アルの礼装を見たら固まるかもしれません」
「なら、お互い戻り版ですね」
「はい」
ユリウスがにやっと笑う。
「無言版?」
「増やさないでください」
「でも、言葉を失った時用」
「少し分かりやすいです」
リリスが採用しかける。
「リリス」
「はい。採用しません」
エレナ嬢がくすくす笑った。
教室に入ると、昨日の模擬夜会後の穏やかな空気が残っていた。
机は元の位置へ戻っている。
だが、生徒たちの会話はほとんど夜会の装いについてだった。
衣装の仮縫い。
靴の高さ。
髪飾り。
家紋の位置。
色。
ニールは今日も困っていた。
「シェルザート君」
「はい」
「礼装、決まりました?」
「ほぼ」
「僕は昨日、緑に決まりかけたのに、父が紺もいいと言い出しました」
「また戻ったんですか」
「はい」
リリスが真剣に言う。
「バートン様は緑がよいと思います」
「アマリリス様」
「模擬夜会で、緊張しながらも丁寧に戻っていらしたので。落ち着いた緑が似合うと思います」
「ありがとうございます」
ニールが嬉しそうに笑った。
「もう緑にします」
「ご家族と相談はしてください」
「はい」
クラリス嬢がリリスへ近づいた。
「アマリリス様、今日ご覧になるのですよね」
「はい」
「シェルザート様の礼装を」
「はい」
「楽しみですね」
「はい……」
リリスの顔が真っ赤になる。
「すみません。強かったでしょうか」
「少し。でも嬉しいです」
クラリス嬢も慣れてきた。
一時間目。
礼法。
ベイル先生は黒板へ書いた。
『完成前の装いを見る礼』
やはり。
今日も、俺たちにぴったりだ。
「昨日、模擬夜会後の修正について確認しました」
先生は教室を見渡す。
「本日は、仮縫いや調整途中の装いを他者に見せる際の礼について考えます」
そんな礼まであるのか。
いや、確かに必要かもしれない。
「完成前の装いは、本人にとって不安が大きいものです」
リリスが真剣に聞いている。
「まだ直す場所がある。本人も自信がない。だからこそ、見る側には配慮が必要です」
先生は黒板へ書いた。
『最初に欠点を探さない』
『本人を見る』
『必要な修正は丁寧に伝える』
「装いを見る時、すぐ裾が長い、色が重い、袖が合わないと指摘するのではなく、まず全体を受け取ること」
母上や仕立て師は実用のために修正点を見る。
だが、俺とリリスが互いを見る時は違う。
まず、本人を見る。
「褒めるために嘘を言う必要はありません」
先生は続ける。
「しかし、完成前だからといって完成後より価値が低いわけでもありません」
リリスの目が少し潤んだ。
「アマリリスさん」
「はい」
「今夜、シェルザートさんの仮縫い姿をご覧になるそうですね」
教室の視線が集まる。
「はい」
「最初に何を見ますか?」
リリスは少し考えた。
「アル……シェルザート様を」
呼び方を戻した。
「服だけではなく、ご本人を見ます」
「よろしい」
先生が俺を見る。
「シェルザートさんは?」
「リリス……アマリリス様を見ます」
教室の空気が少し温かくなる。
「深い青だけではなく、その色を選んだリリスを」
言った。
リリスの涙が落ちた。
「先生」
「はい」
「小声版です」
「後で受け取りなさい」
「はい」
先生は平然としている。
「次に、言葉を失った場合」
俺の心臓に刺さる。
「驚きや感動で、すぐに言葉が出ない場合もあります」
先生は黒板へ書いた。
『沈黙にも終わりを作る』
「黙ったままにしないこと。深呼吸し、目を合わせ、戻って言葉を伝える」
ライズと同じだ。
エレナ嬢と同じだ。
今日の心の札。
「沈黙そのものが悪いのではありません。相手を不安な場所へ置き去りにする沈黙が問題です」
重い。
俺はしっかり頷いた。
「また、修正点を伝える場合は、本人を否定する言い方をしないこと」
先生は例を挙げる。
「『似合わない』ではなく、『こちらの色を少し軽くすると、あなたの表情がより明るく見える』」
「はい」
「『姿勢が悪い』ではなく、『肩の布を少し調整すると、自然に立ちやすい』」
仮縫いを見る礼。
人を見る礼。
言葉の半歩。
全部がつながっている。
授業の後半は、布見本を使った練習だった。
それぞれの生徒が候補色を持ち寄り、相手へ感想を伝える。
俺の濃紺と青の見本もあった。
リリスの深い青も。
先生は、俺とリリスへ互いの布見本を渡した。
「まず、色だけを見てください」
俺は深い青の布を手にする。
重すぎない。
黒に近すぎない。
光を受けると、少し柔らかくなる青。
リリスに似合う。
本当に。
「シェルザートさん」
「はい」
「どう見えますか?」
「落ち着いています。でも、暗くはありません」
「はい」
「リリスの金の髪にも、碧い瞳にも合うと思います」
リリスの目が潤む。
「アマリリスさんは?」
リリスは、俺の濃紺と青の布を持つ。
「静かですが、弱くありません」
俺は少し息を止めた。
「濃紺の中に青があるので、近づいた時に分かります」
「はい」
「アルが、表では落ち着いていて、近くでは優しいように見えます」
強い。
非常に強い。
教室が静かになった。
ユリウスが何か言いそうになり、エレナ嬢が視線で止めている。
先生が一拍置いた。
「装いの感想として、本人をよく見ています」
「ありがとうございます」
リリスが答える。
俺は言葉が出なかった。
先生が俺を見る。
「シェルザートさん」
「はい」
「沈黙の終わりを」
「……はい」
深呼吸。
戻る。
「ありがとうございます」
俺はリリスを見る。
「そこまで見てくれて、嬉しいです」
リリスの涙が落ちた。
「戻ってくださいました」
「危なかったです」
先生が言う。
「よろしい」
教室から小さな拍手が起きた。
温かい。
休み時間。
リリスは机に座り、涙を拭いていた。
「アル」
「はい」
「本当に、私を見てくださいますか?」
「はい」
「ドレスだけではなく?」
「はい」
「完成前でも?」
「はい」
「……嬉しいです」
「俺も、礼装だけではなく見てもらえるのが嬉しいです」
「見ます」
リリスは真っ直ぐ言った。
「濃紺も、青も、銀も見ます。でも、最初にアルを見ます」
俺の心臓が危ない。
「受け取ります」
「はい」
エレナ嬢が水を差し出す。
「お二人とも、夕方までに感情を使い切らないように」
「はい」
リリスが素直に受け取る。
ユリウスも言う。
「模擬は模擬、本番は本番。学校は学校、対面は対面」
「札の応用ですね」
「便利だね」
「軽く使いすぎないでください」
「はい」
ニールが真剣に言った。
「今日の二人、もう対面したみたいな空気です」
「していません」
俺とリリスの声が重なった。
教室が笑いに包まれた。
昼休み。
食堂でも、夕方の話題になった。
俺とリリスは、なるべく普通に食べようとした。
だが、互いに何度も目が合う。
そのたびに、どちらかが逸らす。
また戻る。
エレナ嬢がくすくす笑った。
「本番前のようですわね」
「仮縫い対面前です」
俺が言う。
「だからこそですわ」
リリスはスープを飲みながら言った。
「お母様に、仮縫い対面の日ほど食べなさいと言われました」
「やはり」
「お父様は、緊張で朝食を半分残しました」
「ガロウ公爵が?」
「はい」
「騎士団長なのに」
「仮縫い対面は戦場より緊張するそうです」
「別の意味で強い」
ユリウスが吹き出した。
「今日、公爵本人が一番危ないね」
「三枚の札があります」
リリスが言う。
「完成前で完成しない。仮縫いで倒れない。対面で走らない」
「覚えてる」
「家族全員で朝に確認しました」
「儀式みたいですね」
「はい」
フルーラ家の一日は札から始まっているらしい。
午後の魔法基礎。
リリスの魔力は、朝からの緊張をそのまま映していた。
深い青の光が、いつもより強く明滅している。
教師は少し眺めてから言った。
「アマリリスさん、今日は完成前の光ですね」
「はい」
「形を整えようと急ぎすぎています」
「分かりますか?」
「はい」
教師は手を上げた。
「完成させなくてよいです」
「はい」
「今日の夕方も同じでしょう。完成前を見せるのですから」
「はい」
「相手に見せるために、急に完成したふりをしないこと」
リリスの目が大きくなる。
「完成したふり」
「はい。不安なら不安なまま。緊張しているなら、緊張しているまま立つ」
「はい」
「整っていない部分を隠しすぎると、仮縫いの意味がありません」
衣装だけではない。
心も。
俺も同じだ。
リリスは深呼吸した。
光が少し落ち着く。
完全ではない。
でも、そのまま保つ。
「よろしい」
「ありがとうございます」
放課後。
レオナルド先輩は正門付近ではなく、校舎の出口で待っていた。
今日は早い。
おそらく、フルーラ家へ戻って準備をする必要があるのだろう。
「リリス」
「お兄様」
「体調は?」
「大丈夫です」
「食べたか?」
「はい」
「泣いたか?」
「少し」
「何枚だ?」
「ミラ」
リリスが後ろを見る。
ミラは答えた。
「本日、現時点で七枚でございます」
「想定内だな」
レオナルド先輩が頷く。
兄まで管理している。
「アルフレッド」
「はい」
「君は?」
「大丈夫です」
「言葉を失うな」
「努力します」
「失っても戻れ」
「はい」
「リリスは、黙られると不安になる」
「分かっています」
レオナルド先輩は少しだけ表情を緩めた。
「だが、無理にすぐ言う必要はない」
「はい」
「ちゃんと見てから言え」
「はい」
それは、兄としての言葉だった。
妹の装いを軽い褒め言葉で済ませるな。
そう言われている気がした。
「公爵は?」
俺が聞く。
レオナルド先輩の表情が遠くなる。
「朝から三札を携帯している」
「携帯?」
「胸元に入れている」
「お守りみたいですね」
「父上は札を握りすぎて皺にした」
「効果に影響は?」
「母上が新しく書き直した」
「万全ですね」
「さらに追加札が一枚ある」
「増えたんですか?」
「『見た瞬間に叫ばない』」
「必要そうです」
リリスが両手で顔を覆った。
「お父様……」
「本人は叫ばないと言っている」
「信用できますか?」
「できない」
即答だった。
正門。
今日は、いつもの別れではない。
俺たちは一度それぞれの屋敷へ戻り、夕刻前にフルーラ公爵家で会う。
それでも、いつもの場所で少し立ち止まった。
「アル」
「はい」
「また後で、ですね」
「はい」
「明日ではなく」
「今日、もう一度」
リリスの目が潤む。
「強いです」
「でも本当です」
「はい」
「帰ったら、ちゃんと食べてください」
「アルも」
「休んでください」
「アルも」
「泣きすぎないで」
「それは難しいです」
「でしょうね」
二人で少し笑った。
「アル」
「はい」
「完成前の私を、見てください」
「はい」
「俺も、見てください」
「はい」
「また後で」
「また後で、リリス」
馬車が別々の方向へ進む。
いつもなら、ここで一日が区切られる。
だが今日は違う。
続きがある。
それが、妙に嬉しかった。
屋敷へ戻ると、すでに慌ただしい空気があった。
仕立て師。
ライズ。
母上。
家令。
皆が、仮縫い礼装の最終確認をしている。
俺は軽い食事を取った。
母上の監視付きで。
「残さない」
「はい」
「水も」
「はい」
「緊張していても食べる」
「はい」
父上が笑う。
「ガロウと同じだな」
「公爵は朝食を残したそうです」
「お前は残すな」
「はい」
食後、少し休む。
だが、横になっても落ち着かない。
窓の外を見れば、夕刻へ向かう光が少しずつ傾いている。
時間が進む。
もうすぐ。
やがて、ライズが部屋へ入ってきた。
「若様、お時間でございます」
「分かった」
仮縫いの礼装へ着替える。
濃紺。
青。
白。
銀。
昨日より少し調整されている。
袖が合う。
肩も自然。
胸元の青は、昨日より少しだけはっきりしている。
逃げていない青。
鏡の前に立つ。
まだ完成前。
でも、昨日より俺に近い。
ライズが後ろから襟を整える。
「若様」
「何だ」
「本日は、良いお顔でございます」
「緊張しているぞ」
「はい。しかし、逃げておりません」
「そう見えるか」
「はい」
俺は鏡の中の自分を見る。
逃げていない。
たぶん。
「ハンカチは?」
「内側に四枚。外側に二枚。予備は私が二十枚所持しております」
「多い」
「必要でございます」
「俺の分も?」
「はい」
「……分かった」
馬車へ乗る。
父上と母上も同行する。
フルーラ公爵家への道は、学園へ向かう道とは違う。
街を抜け、広い道へ入る。
夕陽が馬車の窓から差し込む。
濃紺の布に、青の刺繍が浮かぶ。
胸元へ触れる。
戻る合図。
まだ本番ではない。
でも、リリスがこれを見る。
フルーラ公爵家へ到着した。
大きな門。
広い前庭。
使用人たちが整然と並んでいる。
馬車から降りた瞬間、風が礼装の裾を揺らした。
歩ける。
肩も問題ない。
母上が俺を見て頷く。
「姿勢」
「はい」
「自然に」
「はい」
玄関へ入る。
フルーラ家の家令が深く礼をした。
「お待ちしておりました、シェルザート伯爵様、奥様、アルフレッド様」
案内される。
大広間の手前。
俺は別室へ入った。
リリスも反対側の部屋で準備しているらしい。
壁一枚。
それだけなのに遠い。
部屋には、レオナルド先輩がいた。
「来たか」
「はい」
レオナルド先輩は、俺の礼装を上から下まで見る。
沈黙。
少し長い。
「どうでしょう」
「悪くない」
短い。
だが、レオナルド先輩としてはかなりの評価だ。
「青も逃げていない」
「ありがとうございます」
「肩は?」
「問題ありません」
「歩け」
俺は数歩歩く。
止まる。
礼。
レオナルド先輩が頷く。
「よい」
「公爵は?」
「大広間で座っている」
「自分で?」
「ああ」
「成長ですね」
「ただし、札を四枚握っている」
「四枚」
「完成前で完成しない。仮縫いで倒れない。対面で走らない。見た瞬間に叫ばない」
「万全ですね」
「油断はできない」
その時。
向こうの部屋から、小さな物音が聞こえた。
布の擦れる音。
誰かの声。
リリス。
いる。
心臓が一気に速くなる。
レオナルド先輩が俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「顔が固い」
「分かっています」
「深呼吸」
「はい」
兄に言われるとは。
吸う。
吐く。
「見たら、まず本人を見ろ」
「はい」
「服だけではなく」
「はい」
「そして、黙りすぎるな」
「はい」
扉の向こうから、セレスティア夫人の声が聞こえた。
「準備が整いました」
俺の心臓が跳ねる。
レオナルド先輩が扉へ手をかける。
「行くぞ」
「はい」
大広間。
広い。
高い天井。
大きな窓から、夕刻の柔らかな光が差し込んでいる。
中央には、十分な空間。
端には椅子。
ガロウ公爵は座っていた。
本当に座っている。
両手に札を握りしめている。
俺を見た瞬間、目を見開いた。
「アルフレッド殿」
「ご機嫌よう、公爵閣下」
「青だ」
「はい」
「青が入っている」
「はい」
ガロウ公爵の目が潤んだ。
セレスティア夫人がすぐに言う。
「まだです」
「分かっている」
「リリスはまだ入っておりません」
「分かっている」
「感情を使い切らないでください」
「分かっている」
もう泣いている。
父上は口元を押さえていた。
笑ってはいけない場面だ。
俺は広間の中央より少し手前へ立つ。
向かい側に、もう一つの扉。
そこからリリスが入る。
セレスティア夫人が目で合図する。
使用人が扉へ手をかける。
開く。
最初に見えたのは、深い青だった。
夕陽の中で、静かに揺れる青。
次に、白い手。
金の髪。
碧い瞳。
そして、リリス。
俺は。
何も言えなかった。
深い青のドレスは、まだ完成していない。
裾の一部は仮止め。
装飾も少ない。
袖口には、糸が見える場所もある。
髪も、普段より少し整えただけ。
それでも。
綺麗だった。
俺が想像していたより、ずっと。
深い青は、リリスを大人びて見せていた。
だが、重くはない。
肩から落ちる布は柔らかい。
手首の薄い布が、歩くたびにわずかに揺れる。
裾は広がりすぎず、彼女の歩みを邪魔しない。
金の髪が、青の上で光っている。
碧い瞳が、こちらを見ている。
不安そうに。
期待するように。
俺の言葉を待っている。
言葉を失っても、戻って伝える。
戻れ。
俺。
リリスの表情が少しずつ不安へ変わる。
「アル……?」
小さな声。
駄目だ。
置き去りにするな。
俺は深呼吸した。
一拍。
「……すみません」
「はい」
「言葉が、出ませんでした」
リリスの目が潤む。
「似合わないからではありません」
すぐに続ける。
「逆です」
「逆」
「想像していたより、ずっと綺麗で」
リリスの涙が落ちた。
「深い青が、本当に似合っています」
一粒。
二粒。
「完成前なのに」
「はい」
「まだ仮縫いなのに」
「はい」
「綺麗です」
リリスが泣いた。
完全に。
手に持っていたハンカチを目元へ当てる。
セレスティア夫人が静かに新しいハンカチを渡す。
ガロウ公爵は立ちかけた。
しかし札を見た。
座り直した。
すごい。
自分で戻った。
リリスは涙を拭きながら、俺を見る。
「アル」
「はい」
「戻ってくださいました」
「危なかったです」
「でも、伝えてくださいました」
「はい」
「ありがとうございます」
リリスは深呼吸する。
今度は、俺を見る番だ。
彼女の視線が、俺の礼装へ移る。
胸元。
青。
袖口。
濃紺。
肩。
足元。
また顔へ戻る。
リリスは何も言わない。
沈黙。
俺も少し不安になる。
似合わないか?
青が強すぎたか?
濃紺が重いか?
リリスの目が潤む。
「リリス」
「はい」
「どうですか?」
彼女は深呼吸した。
「……すみません」
「はい」
「私も、言葉が出ませんでした」
俺と同じ。
「アル」
「はい」
「とても、素敵です」
胸の奥が熱くなる。
「濃紺が落ち着いています」
「はい」
「でも、青がちゃんと見えます」
「はい」
「逃げていません」
その言葉に、俺の目の奥が少し痛くなった。
「胸元の青を見た時」
「はい」
「戻る合図だと思いました」
「はい」
「本当に、そこへ戻れる気がしました」
俺は一拍置く。
声が震えそうだった。
「戻ってきてください」
言った。
リリスの涙がさらにこぼれた。
「はい」
ガロウ公爵が嗚咽した。
立ってはいない。
偉い。
父上が肩を震わせている。
母上は、目元を少し押さえていた。
セレスティア夫人も、穏やかに微笑んでいる。
レオナルド先輩は、静かに息を吐いた。
「対面確認を続ける」
兄の声で、皆が少し現実へ戻った。
最初は、離れて立つ。
俺とリリスは広間の中央で、数歩の距離を空けて向かい合った。
色を見る。
深い青。
濃紺。
完全に同じではない。
でも、離れても関係が分かる。
胸元の青が、リリスの深い青へつながって見える。
セレスティア夫人が言った。
「良いですね」
母上も頷く。
「はい。アルの青は、もう少しだけ胸元の線を長くしてもよいかもしれません」
「リリスの袖口には、銀を少し入れましょう」
仕立て師たちがメモを取る。
「並んでください」
俺とリリスが歩く。
近づく。
隣へ。
いつもの距離。
だが、服が違う。
見える景色も違う。
リリスの深い青が、すぐ隣にある。
袖が触れそうで、触れない。
俺の青が、その隣にある。
ガロウ公爵が小さく呟いた。
「婚約者だ」
また泣いた。
セレスティア夫人が札を見せる。
『完成前で完成しない』
「分かっている」
ガロウ公爵は座ったまま答えた。
レオナルド先輩が俺たちの前へ立つ。
「歩け」
「はい」
俺とリリスは並んで歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
リリスの裾が少しだけ遅れる。
仕立て師がすぐに気づく。
「右側を少し上げましょう」
「アルフレッド様の歩幅に合わせると、今の裾では少し引かれます」
「俺が狭く歩いた方が?」
俺が言うと、母上がすぐに首を振った。
「駄目」
「はい」
「どちらかだけが無理に合わせない。二人が自然に歩ける形へ直します」
リリスも頷く。
「私も、歩幅を狭くしすぎないようにします」
「はい」
次に、礼。
並んで止まる。
一拍。
礼をする。
俺の肩は問題ない。
リリスは袖の薄布が少し前へ流れすぎる。
「手首の留めを半指詰めましょう」
仕立て師が言う。
「これなら、ハンカチを持ち替えても布が絡みません」
戻る合図。
そこまで考えられている。
「ハンカチを左手へ」
セレスティア夫人が言う。
リリスが持ち替える。
袖は少し引っかかる。
「直します」
仕立て師がメモする。
俺は胸元へ触れる。
青の刺繍見本。
少し位置が高い。
「もう指一本分、下へ」
母上が言う。
「自然に触れられる位置へ」
「はい」
完成前だから、直せる。
本当にそうだった。
次に、ダンスの姿勢。
これが危険だった。
リリスが目の前へ立つ。
深い青。
近い。
制服より、はるかに近く感じる。
俺は左手を差し出す。
「一曲、お相手いただけますか」
練習だ。
仮縫い確認だ。
それでも声が少し震えた。
リリスは、深い青の裾を少しだけ整え、礼をする。
「喜んで」
手を重ねる。
右手を背へ。
布越し。
いつもの制服とは違う感触。
リリスの肩が小さく震える。
「呼吸」
「はい」
一緒に吸う。
吐く。
楽器はない。
レオナルド先輩が拍を取る。
「一、二、三」
俺たちは三歩動く。
リリスの裾が少し広がる。
綺麗だ。
だが、方向転換でわずかに布が遅れる。
「止める」
仕立て師が確認する。
「裾の内側を軽くしましょう」
「背中は?」
母上が聞く。
「アルの右手が入る位置に、装飾を置かない方がいいですね」
セレスティア夫人が頷く。
「賛成です。ダンス中に引っかかります」
リリスの顔が真っ赤になる。
「右手が入る位置」
小声。
俺も顔が熱い。
ユリウスがいなくてよかった。
レオナルド先輩が俺を見る。
「何か問題が?」
「ありません」
「なら続けろ」
「はい」
もう一度。
一、二、三。
方向転換。
今度は少し小さく。
リリスの深い青が、夕陽の中で揺れる。
俺の濃紺と並ぶ。
鏡に映る。
大広間の端に置かれた大きな鏡。
その中に、俺とリリスがいる。
礼装とドレス。
婚約者として並ぶ二人。
完成前。
でも、確かにそこにいる。
リリスも鏡を見た。
動きが止まりかける。
「リリス」
「はい」
「拍」
「はい」
戻る。
三歩。
止まる。
礼。
ガロウ公爵が泣いていた。
声を出さずに。
札を胸へ押し当てて。
レオナルド先輩も少し目元が危ない。
セレスティア夫人が夫を見る。
「立ちませんでしたね」
「立たなかった」
「叫びませんでしたね」
「叫ばなかった」
「倒れませんでしたね」
「倒れなかった」
「よくできました」
ガロウ公爵の涙が増えた。
「受け取る」
公爵まで受け取りを使っている。
リリスが笑った。
泣きながら。
確認は続いた。
椅子へ座る動き。
立ち上がる動き。
段差を上がる動き。
横へ並ぶ時の距離。
別行動から戻った時の立ち位置。
リリスのハンカチ。
俺の青。
一つずつ。
完成前の装いが、俺たちの動きに合わせて少しずつ直されていく。
途中。
仕立て師たちが一度退室し、家族だけの休憩になった。
リリスと俺は、少し離れた椅子へ座った。
礼装もドレスも、まだ着たまま。
疲れた。
だが、不思議な達成感がある。
「アル」
「はい」
「見てくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「最初、黙った時」
「はい」
「少しだけ、不安でした」
「すみません」
「でも、戻ってくださいました」
「はい」
「だから、今は大丈夫です」
俺は頷く。
「リリスも、黙りました」
「はい」
「俺も少し不安でした」
「すみません」
「でも、戻ってくれました」
「はい」
二人で笑った。
「完成前でも」
リリスが言う。
「はい」
「見せてよかったです」
「俺もです」
「直す場所がありました」
「はい」
「でも、似合うと言ってくださいました」
「本当に似合っています」
リリスの目が潤む。
「また強いです」
「今日はもう言います」
「はい」
「深い青、本当に綺麗です」
涙が落ちる。
「アルの濃紺も」
「はい」
「本当に素敵です」
俺も目の奥が熱くなる。
「ありがとうございます」
「青が」
「はい」
「私のところへ戻ってきてくださる色に見えます」
「リリスの深い青も、俺が戻る場所に見えます」
言ってしまった。
リリスは完全に泣いた。
俺も少し目元を押さえた。
ガロウ公爵が遠くでまた嗚咽した。
父上は静かに笑っている。
母上は目元を拭っていた。
セレスティア夫人が言う。
「二人とも、感情を使い切らないように」
「はい」
俺とリリスが同時に答える。
「まだ本番があります」
「はい」
「仮縫いは仮縫い」
「本番は本番」
ガロウ公爵が言った。
札の効果が出ている。
休憩後。
最後の確認として、俺とリリスは大広間の入口から並んで歩いた。
本番を想定する。
扉の前。
一拍。
開く。
深い青。
濃紺。
並ぶ。
歩く。
中央で礼。
王族役はいない。
だが、家族たちが見ている。
それだけで十分緊張する。
リリスの裾は、仮止めを少し直したことで歩きやすくなっている。
俺の胸元の青も、位置を少し下げた。
自然に触れられる。
リリスがハンカチを左手へ持ち替える。
俺が胸元へ触れる。
合図。
目が合う。
戻った。
レオナルド先輩が言う。
「よい」
父上も頷く。
母上とセレスティア夫人は、まだいくつか修正点を相談している。
ガロウ公爵は、座ったまま泣いている。
だが、穏やかな顔だった。
「アルフレッド殿」
公爵が呼ぶ。
「はい」
「その青で」
「はい」
「リリスの隣に立ってくれ」
広間が静かになった。
俺は息を止めた。
ガロウ公爵は泣いている。
だが、目は真剣だった。
「完成前でも、分かった」
「……はい」
「君は、逃げていない」
胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「受け取ります」
「はい」
ガロウ公爵が深呼吸した。
「ただし」
「はい」
「王城でリリスを泣かせすぎるな」
「努力します」
「他の男が近づきすぎたら」
「公爵閣下」
セレスティア夫人の声。
札が上がる。
『本番前に剣を想像しない』
「まだ何も言っていない」
「顔が言っております」
「……座っている」
「よろしい」
広間に笑いが広がった。
張り詰めていた空気が、ようやく柔らかくなる。
対面確認が終わった。
俺とリリスは、それぞれ別室へ戻り、仮縫いの衣装を脱ぐ。
制服でも礼装でもない、普段の服へ戻る。
だが、さっきまでの姿は頭に残っている。
深い青。
濃紺。
青。
鏡の中の二人。
帰る前。
玄関ホールでリリスと向かい合う。
もうドレスではない。
俺も礼装ではない。
それでも、互いの姿が少し違って見えた。
「アル」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「完成前の私を見てくださって」
「はい」
「綺麗だと言ってくださって」
「はい」
「アルも、素敵でした」
「ありがとうございます」
「逃げていませんでした」
「はい」
「隣に立ってくださいました」
「はい」
リリスは微笑んだ。
「今日の宝物名は」
「はい」
「完成前の深い青を、アルに見ていただけた日の宝物です」
「良い名前です」
「あと」
「はい」
「濃紺と深い青が、初めて隣に並んだ日の宝物です」
「……俺にとっても大切です」
リリスの目が潤む。
だが、一拍置く。
深呼吸。
涙を一粒だけ落とす。
「本番まで、取っておきます」
「何を?」
「残りの涙を」
「取っておけますか?」
「努力します」
「難しそうですね」
「はい」
二人で笑った。
俺は馬車へ乗る前に、もう一度リリスを見る。
「また明日、リリス」
「また明日、アル」
馬車が動き出す。
窓の向こう。
玄関前に立つリリス。
その姿に、深い青を重ねてしまう。
俺は胸元へ触れた。
今は普通の服。
青はない。
でも、戻る合図はもう心にある。
屋敷へ戻ると、父上と母上は今日の確認について話していた。
「色は問題ない」
「ええ。アルの胸元は少し下げる」
「リリス嬢の袖も軽くするそうだ」
「ダンス時の背中の装飾はなし」
「歩幅も合っていた」
俺はその会話を聞きながら、少しだけ安心した。
「アル」
母上が呼ぶ。
「はい」
「どうだった?」
「……綺麗でした」
「それだけ?」
「ものすごく」
母上が笑う。
父上も。
「言えたか?」
「はい」
「黙っただろう」
「最初は」
「戻ったか?」
「はい」
「ならよい」
その夜。
フルーラ家から、いつもの三通が届いた。
一通目。
ガロウ公爵。
『仮縫い対面を終えた。私は立たなかった。叫ばなかった。倒れなかった。座ったまま泣いた。大きな成長だ。リリスの深い青と、アルフレッド殿の濃紺と青は、よく合っていた。認める。泣いた。アルフレッド殿、その青でリリスの隣に立ってくれ。ただし泣かせすぎないでほしい。私より。 ガロウ』
二通目。
レオナルド先輩。
『仮縫い対面は問題なく終了した。君は最初に言葉を失ったが、戻って伝えた。よい。リリスも同じだ。色、歩幅、礼、ダンス姿勢、戻る合図、すべて修正可能な範囲だった。完成前の姿を見せられたことも信頼だ。父上は座ったまま最後まで耐えた。評価する。 レオナルド』
三通目。
セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日は仮縫い対面へお越しいただき、ありがとうございました。リリスの深い青を、衣装だけではなく本人として見てくださったこと、心より感謝いたします。お二人の色は、同じではありませんが、離れて見ても関係が伝わる良い組み合わせでした。完成前だからこそ見つかった修正も多くあります。これから少しずつ整えてまいりましょう。夫は立たず、叫ばず、倒れず、座ったまま泣きました。大変な進歩です。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、しばらく黙った。
ガロウ公爵の言葉。
『その青でリリスの隣に立ってくれ』
重い。
でも、嬉しい。
俺はもう一度読んだ。
父上は隣で頷いた。
「認められたな」
「はい」
「完全ではないが」
「はい」
「完成前だからな」
母上が微笑む。
「完成前でいいのよ」
「はい」
「人も、関係も、ずっと少しずつ直していくものだもの」
リーマスは胸元へ手を当てた。
「完成とは終わりではなく、共に整え続ける覚悟でございます」
ライズは静かに親指を立てる。
「若様」
「何だ」
「本日のハンカチ使用数は、アマリリス様十四枚、若様二枚、ガロウ公爵閣下は確認不能でございます」
「確認不能」
「セレスティア様が途中で数えることを断念されたそうです」
「そうか」
「ただし、立たず、叫ばず、倒れずでございました」
「大きな進歩だな」
「はい」
俺は窓の外を見る。
夜空。
深い青。
今日のリリスのドレスと同じではない。
でも、少し思い出す。
完成前の深い青。
完成前の濃紺。
初めて隣に並んだ色。
まだ直す場所がある。
裾。
袖。
胸元。
歩幅。
沈黙。
言葉。
俺たち自身も同じだ。
まだ完成していない。
きっと、夜会が終わっても完成しない。
それでも。
一緒に整えていける。
俺は深く息を吸った。
そして、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
完成前の深い青、本当に言葉を失うほど綺麗でした!!
でも、お父様が最後まで座っていられたことも、本当に大きな進歩です!!




