第60話 公爵令嬢様、仮縫いの深い青だけで本番より先に泣きます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、俺とリリスは模擬夜会を最後まで通した。
入場。
王族役への挨拶。
婚約者としての第一舞踏。
周囲との会話。
別行動。
婚約者以外との第二舞踏。
再合流。
退出。
一つずつ練習してきたことを、初めて最初から最後までつないだ。
完璧ではなかった。
途中で何度も揺れた。
リリスは泣きそうになった。
俺も視線を戻すのが遅れた。
再合流した時には、二人とも安心しすぎて、周囲が少し薄くなった。
先生にも言われた。
「戻った後も夜会は続いています」
まったくその通りだ。
けれど、それでも最後まで終えた。
扉から入り、扉から出るまで。
何度離れても、何度感情が揺れても、戻ることができた。
リリスは別れ際に言った。
「最初から最後まで半歩で戻れた日の宝物です」
俺もそう思った。
大切な一日だった。
そして、ガロウ公爵は模擬夜会の話を聞いた時、立った後、自分で座った。
これも大きな進歩だったらしい。
フルーラ家から届いた書状には、家族全員がそれを高く評価していた。
新しい札は、
『模擬は模擬、本番は本番』
だった。
正しい。
とても正しい。
模擬夜会が終わったからといって、すべての準備が終わったわけではない。
むしろ、ここからが本番へ向けた最後の調整になる。
礼装。
ドレス。
髪型。
靴。
装飾品。
移動。
挨拶順。
当日の食事。
泣く回数。
最後だけ事前調整できるのか?
いや、フルーラ家なら調整しようとするかもしれない。
そして今日。
俺の礼装の仮縫い確認が行われることになった。
さらに。
リリスのドレスも、同じ日に仮縫いの確認へ入るらしい。
ただし、互いに完成前の姿を見せるかどうかは、まだ決まっていなかった。
朝。
屋敷の食堂には、いつもより多くの布見本と紙が置かれていた。
濃紺。
黒に近い青。
少し明るい青。
銀糸。
白い絹。
細かな刺繍図案。
母上は完全に楽しんでいた。
「アル、今日は帰宅後に仮縫いよ」
「はい」
「仕立て師が午後には到着するわ」
「はい」
「昨日の模擬夜会で、歩幅や礼の姿勢も少し分かったでしょう?」
「はい」
「それも見ながら、裾と肩を調整します」
「そこまで見るんですね」
「当然よ。礼装は立っている時だけではなく、歩いている時、礼をする時、踊る時まで考えるものよ」
母上は濃紺の布を持ち上げた。
「これが基調」
「はい」
「青の刺繍は、胸元と袖口に控えめに」
「はい」
「白は襟元に。銀は、近くで見た時に分かる程度」
「目立ちすぎませんか?」
俺が聞くと、母上は少しだけ目を細めた。
「アル」
「はい」
「また隠れようとしている?」
「……少しだけ」
「駄目よ」
即答だった。
父上も紅茶を置いた。
「昨日、模擬夜会で堂々と入場できたのだろう」
「はい」
「なら、礼装でも戻るな」
「戻る?」
「悪い意味でだ。地味な方へ逃げるな」
「はい」
「お前は公爵令嬢の隣へ立つ。それを受け入れろ」
「……はい」
父上は落ち着いた声だった。
怒ってはいない。
でも、逃げ道を作らない言い方だった。
「リリス嬢は深い青になるのだろう」
「はい」
「お前は濃紺で、その深い青を受ける」
「受ける」
「完全に同じ色ではない。だが、別々にも見えない」
「装いにも半歩ですね」
「そうだ」
父上は満足そうに頷いた。
母上も笑った。
「覚えたわね」
「毎日言われていますから」
ライズは鞄を整えていた。
だが、今日は鞄だけでなく、帰宅後の仮縫い用に予定表も持っている。
「若様、本日のハンカチは二十五枚でございます」
「模擬夜会を越えた翌日にさらに増えるのか」
「仮縫い確認日でございますので」
「まだ完成していないぞ」
「完成前だからこその涙もございます」
「どういうことだ」
「本番が形になり始める実感涙、若様の青刺繍確認涙、アマリリス様の深い青仮縫い想像涙、互いの仮縫い姿を見るか否かの迷い涙、見た場合の決壊涙でございます」
「最後はもう災害みたいだな」
「また、ガロウ公爵閣下の仮縫い前崩壊報告も想定しております」
「まだ見てもいないのに?」
「はい」
「絶対あるな」
「高確率でございます」
ライズは予定表へ目を落とした。
「なお、若様の仮縫い中は姿勢確認がございます。肩を落とさず、胸を張りすぎず、自然に立つように」
「分かった」
「本日の心の札は、『完成前でも逃げない』でございます」
「完成前でも」
「はい」
服も。
気持ちも。
まだ完成していない。
だが、完成前だからといって逃げていいわけではない。
俺は頷いた。
学園へ向かう馬車の中。
俺は今日の帰宅後を想像していた。
濃紺の礼装。
青の刺繍。
鏡の前に立つ自分。
それが本当にリリスの隣へ立つ姿になるのか。
正直、まだ実感が薄い。
制服なら、毎日リリスと並んでいる。
学園の廊下。
教室。
正門。
図書室。
温室。
いろいろな場所で。
だが礼装は違う。
王城の夜会。
家名。
立場。
婚約者。
全部が外から見える形になる。
俺の胸元の青が、リリスへ戻る合図になる。
ただの飾りではない。
そう思うと、少し重くて、少し嬉しい。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
しかし、明らかに落ち着きがない。
顔が赤い。
目元も少し潤んでいる。
今朝、何かあった。
間違いない。
俺を見つけると、リリスはほっとしたように笑った。
歩いてくる。
走らない。
だが、近づく途中で一度止まり、深呼吸している。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。途中で深呼吸していましたね」
「分かりましたか?」
「はい」
リリスは胸元で両手を重ねた。
「今朝、ドレスの仮縫いを見ました」
「もう?」
「はい。まだ完成前です」
「そうですよね」
「布を体へ当て、形を確認しただけです」
「はい」
「深い青でした」
「はい」
リリスの目に涙が溜まる。
「本当に、深い青でした」
「決まったんですね」
「はい。お母様と、仕立て師の方と、お兄様と」
「レオナルド先輩も?」
「途中から入ってきました」
「ガロウ公爵は?」
リリスが黙った。
その沈黙だけで分かる。
「見ましたか」
「はい」
「どうなりました?」
「立ちました」
「はい」
「お母様が札を出す前に、自分で座ろうとしました」
「おお」
「でも、座る途中で膝をつきました」
「惜しい!!」
リリスが顔を赤くする。
「お父様は、座ったつもりだったそうです」
「床ですね」
「はい」
「泣きましたか?」
「はい」
「でしょうね」
リリスは少し笑った。
だが、すぐにまた目が潤む。
「アル」
「はい」
「深い青を見た時、本番が近づいた気がしました」
「はい」
「怖くなりました」
「はい」
「でも、嬉しくもなりました」
「はい」
「アルの礼装にも、青が入ります」
「はい」
「今日、仮縫いですよね」
「帰宅後に」
「……小声版です」
「朝一回目ですね」
「はい」
俺はハンカチを渡した。
リリスは涙を一粒だけ拭いた。
「アル」
「はい」
「完成前でも、見たいです」
心臓が一度強く鳴った。
「俺の仮縫い姿を?」
「はい」
「まだ袖や裾も調整前ですよ」
「分かっています」
「完成してからの方が」
「でも、完成前から見たいです」
強い。
ものすごく強い。
俺は言葉を失った。
リリスは顔を真っ赤にしながら続ける。
「一緒に準備してきたので」
「はい」
「完成した時だけではなく」
「はい」
「まだ途中の姿も、見たいです」
俺の心臓が危ない。
今日の心の札。
完成前でも逃げない。
ここで使うのか。
「……俺も、リリスの仮縫い姿を見たいです」
言った。
リリスの目から涙が落ちた。
「アル」
「はい」
「強いです」
「お互い様です」
「はい」
「でも、フルーラ家が許すなら」
「お母様へ相談します」
「ガロウ公爵は?」
「倒れるかもしれません」
「そこが問題ですね」
ミラが後ろで静かに言った。
「セレスティア様は、すでに候補としてご検討中です」
「何を?」
「仮縫い段階での対面でございます」
「もう?」
「はい」
リリスが驚く。
「お母様は何も」
「お嬢様が自分から望まれるか、確認しておられたのかと」
セレスティア夫人。
全部見ている。
すごい。
怖い。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは俺たちの顔を見て、すぐに言った。
「おはよう。今日は服の話だね」
「分かりますか」
「二人とも顔が仮縫い」
「また顔で判断する」
エレナ嬢が目を輝かせた。
「アマリリス様、仮縫いをご覧になったのですか?」
「はい。今朝」
「深い青?」
「はい」
「まあ」
エレナ嬢は本当に嬉しそうだった。
「どのような形ですの?」
「まだ布を合わせただけですが、肩は少し柔らかく、裾は広がりすぎない形にする予定です」
「袖は?」
「手首に少しだけ透ける布を」
「素敵ですわ」
リリスの目が潤む。
「エレナ様、完成前です」
「完成前でも素敵ですわ」
「……小声版です」
ユリウスが俺を見る。
「アルフレッドは?」
「濃紺を基調に、胸元と袖口へ青の刺繍。白と銀は控えめに入れる予定です」
「逃げてないね」
「父上と母上に止められました」
「良いことだと思うよ」
エレナ嬢も頷く。
「アマリリス様の深い青と、とても合うでしょうね」
リリスの涙腺が限界へ近づく。
「朝から皆さまが強いです」
「今日は仮縫い日ですから」
俺が言うと、リリスが少し笑った。
「アルも分類を使っています」
「慣れました」
ユリウスが言った。
「互いの仮縫い姿、見るの?」
「それを相談しようかと」
「見た方がいいんじゃない?」
軽い。
簡単に言う。
「本番前に一度、色と立ち姿を確認した方がいいし」
エレナ嬢も真面目に頷いた。
「礼法上も意味がありますわ。完成前なら、並んだ時の色や丈を調整できますもの」
「実用面もあるのですね」
「もちろんです」
リリスの表情が少し明るくなる。
「なら、見ることにも理由があります」
「見たいだけではなく?」
ユリウスが言う。
リリスが真っ赤になった。
「ユリウス様」
「ごめん」
「思っていても言わないでください」
「本当にごめん」
教室に入ると、模擬夜会翌日の空気が残っていた。
皆、少し疲れている。
だが、同時に達成感もある。
招待された生徒たちの間では、礼装やドレスの話がさらに具体的になっていた。
ニールは困り果てた顔だった。
「シェルザート君」
「はい」
「僕の礼装、母と姉がまだ決まりません」
「色ですか?」
「はい。緑か茶か紺か」
「昨日より増えてません?」
「増えました」
リリスが真剣に考える。
「バートン様は、落ち着いた緑が似合うと思います」
「本当ですか?」
「はい。模擬夜会でも、誠実に戻ろうとされていましたので」
「服に性格が?」
「出ると思います」
ニールは嬉しそうに頷いた。
「母に伝えます」
クラリス嬢も近づいてきた。
「アマリリス様、深い青に決まりそうなのですね」
「はい」
「きっと本当にお似合いです」
「ありがとうございます」
「私は夜会へは行きませんが、完成したらお話を聞かせてください」
「もちろんです」
リリスの目が潤む。
「クラリス様にお話しします」
「楽しみにしています」
一時間目。
礼法。
ベイル先生は黒板にこう書いた。
『模擬夜会後の修正』
今日は実技ではなく、振り返りの日だった。
「昨日の模擬夜会、お疲れ様でした」
先生の声に、教室全体が少し緩む。
「本日は、昨日見えた課題を整理し、礼装や装いにどう反映するかを考えます」
先生は黒板に書いた。
『歩幅』
『姿勢』
『礼』
『ダンス』
『別行動』
『感情の出方』
「礼装は、ただ美しければよいのではありません。本人の動きを助ける必要があります」
母上と同じだ。
「歩幅が狭くなりすぎる者は、裾を見直す。肩が上がりやすい者は、肩周りの締めつけを確認する。礼の時に布が引っ張られるなら、縫い直す」
具体的。
先生は本当に何でも知っている。
「シェルザートさん」
「はい」
「昨日、入場時の姿勢は良くなっていました。しかし、再合流後、肩が少し内側へ入りました」
「はい」
「礼装の肩が狭すぎると、その癖が強く出ます。仮縫いで確認しなさい」
「分かりました」
「また、胸元へ戻る合図を置く予定ですね」
「はい」
「装飾は、触れた時にずれにくいものを選ぶこと」
「はい」
そこまで考えるのか。
戻る合図として使う以上、当然かもしれない。
次にリリス。
「アマリリスさん」
「はい」
「昨日、別行動中にハンカチを握る力が強くなりました」
「はい」
「袖口が細すぎると、手の緊張が目立ちます。少し柔らかい布を使うとよいでしょう」
「はい」
「また、深い青のドレスは落ち着きを出せますが、全体が重くなりすぎないように」
「はい」
「袖や髪飾りに軽さを置くとよいですね」
「ありがとうございます」
リリスは真剣にメモしている。
俺も。
先生は教室全体へ言った。
「仮縫いは、完成前の失敗ではありません」
空気が静かになる。
「完成へ向かう途中です。合わない場所が見つかったなら、それは直せる場所が見つかったということです」
リリスの目が少し潤む。
「人の礼も同じです。まだ完成していないからといって、恥じる必要はありません」
俺の胸にも刺さった。
完成前でも逃げない。
今日の心の札と同じだ。
「アマリリスさん」
「はい」
「今、何を考えましたか?」
「完成前でも、見てよいのだと思いました」
「何を?」
リリスが真っ赤になる。
教室が少しざわつく。
「……仮縫いを」
「誰の?」
先生。
そこまで聞きますか。
リリスの耳まで赤くなる。
「シェルザート様の」
教室に温かい笑いが起きる。
俺も顔が熱い。
先生は平然と頷いた。
「婚約者同士で装いの統一感を確認することは、礼法上も有効です」
「はい」
「ただし、家同士の許可を得ること」
「はい」
「完成前の姿を笑わないこと」
「笑いません」
リリスは即答した。
「シェルザートさんは?」
「俺も、リリスの仮縫い姿を見たいです」
教室が静かになった。
言った後で、ものすごく強いことに気づいた。
リリスが俺を見る。
目が潤む。
先生が一拍置いた。
「同じ条件です」
「はい」
「許可を得ること。笑わないこと。完成前だからこそ、支え合うこと」
「はい」
リリスの涙が落ちた。
「小声版です」
「授業中です」
「でも、強いです」
先生が言う。
「後で受け取りなさい」
「はい」
教室の空気は温かかった。
誰も茶化さない。
ユリウスでさえ、今は黙っている。
エレナ嬢は嬉しそうに微笑んでいた。
休み時間。
リリスは席に座ると、すぐにハンカチを握った。
「アル」
「はい」
「見たいと言ってくださいました」
「はい」
「皆さまの前で」
「はい」
「強かったです」
「俺も、言った後で気づきました」
「でも、嬉しいです」
「俺も、リリスが先に言ってくれて嬉しかったです」
リリスの涙が増える。
「一緒です」
「はい」
「完成前でも」
「はい」
「見たいです」
「俺もです」
俺はハンカチを渡した。
エレナ嬢が近づいてきた。
「お二人とも、許可が出るとよいですわね」
「はい」
「色合わせだけでなく、歩いた時の見え方も確認できますもの」
「エレナ様は実用面を忘れませんね」
「大切ですわ」
ユリウスも来る。
「僕は、見た瞬間に二人とも泣いて確認にならない気がする」
「ユリウス様」
「いや、心配してる」
「少し笑っています」
「少しだけ」
「軽さを半歩」
「はい」
ユリウスが素直に下がった。
ニールが真面目に言う。
「でも、完成前に見せられるのって、信頼がある感じがします」
リリスの目がまた潤む。
「バートン様」
「すみません。強かったですか?」
「はい。でも嬉しいです」
昼休み。
食堂では、模擬夜会の疲れが少し抜け、皆の会話も明るくなっていた。
リリスは朝より落ち着いて食事をしている。
「今日は食べられていますね」
「はい。お母様に、仮縫いの日ほど食べなさいと言われました」
「また正しいですね」
「はい。立ったまま長く調整するので、空腹ではいけないそうです」
「なるほど」
エレナ嬢が言う。
「仮縫いは意外と疲れますもの」
「エレナ様も?」
「はい。昨日確認しました」
「どの色ですか?」
「淡い藤色です」
「絶対似合いますね」
俺が言うと、エレナ嬢が少し照れた。
リリスがすぐに頷く。
「エレナ様に、淡い藤色はとてもお似合いです」
「ありがとうございます」
ユリウスが言う。
「僕は濃い灰色に銀。軽く見えすぎないために」
「先生の指導が服にまで」
「家でも同じこと言われた」
全員が笑った。
少しずつ、本番の色が見えてくる。
午後の魔法基礎。
先生は、今日の仮縫いの話を聞いていたらしい。
「アマリリスさん、今日は完成前の形を作りましょう」
「はい?」
「魔力を完全な形にしなくていい。途中まで作り、どこが崩れやすいかを見る」
「仮縫いのように?」
「そうです」
リリスは目を閉じた。
深い青の光。
今日は、いつものように完成させない。
途中で止める。
一部だけ濃い。
一部は薄い。
片側が少し重い。
教師は言った。
「ここが重いですね」
「はい」
「消すのではなく、軽さを足す」
「はい」
リリスは少し白い光を混ぜた。
深い青が柔らかくなる。
「よろしい。完成前だからこそ、直せます」
「ありがとうございます」
リリスは受け取った。
今日は泣かなかった。
代わりに、とても静かに頷いた。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日は、少し疲れた顔をしている。
朝の仮縫いでガロウ公爵を支えたからだろうか。
「リリス」
「お兄様」
「朝の仮縫い、大丈夫だったか」
「はい」
「父上は?」
「床へ座りました」
「膝からな」
「はい」
「座った判定にはならない」
「お父様は座ったと」
「判定外だ」
厳しい。
だが正しい。
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「君の仮縫いは今日か」
「はい。帰宅後です」
「青は入るか」
「はい」
「逃げるな」
「はい」
「深い青の隣に立てる濃紺にしろ」
「分かりました」
リリスの目が潤む。
「お兄様も、認めてくださるのですね」
「何を」
「アルの青を」
レオナルド先輩は少し黙った。
それから、静かに答える。
「認めている」
リリスの涙が落ちた。
俺も少し胸が熱くなる。
レオナルド先輩は咳払いした。
「仮縫い姿を互いに見たいそうだな」
「もう聞いているんですか」
「上級生の耳は早い」
「それでは説明になっていません」
「母上から聞いた」
「普通でしたね」
レオナルド先輩は真面目な顔になる。
「私は反対しない」
リリスの目が大きくなる。
「お兄様」
「色と立ち姿の確認は必要だ」
「はい」
「完成前の姿を見せられる相手なら、悪くない」
言葉が重い。
「ただし」
「はい」
「父上の準備が必要だ」
「やはり」
「仮縫いで対面すると伝えたら、立った」
「はい」
「母上が札を出した」
「何ですか?」
「『完成前で完成しない』」
「意味が!!」
「父上が、仮縫い姿だけで娘の未来を完成させようとするな、という意味だ」
「深い」
「母上の札は時々深い」
たしかに。
リリスが顔を赤くしている。
「さらに」
レオナルド先輩が続ける。
「『仮縫いで倒れない』」
「こちらは分かりやすい」
「『対面で走らない』」
「いつもの」
「三枚だ」
「多いですね」
「必要だ」
正門で別れる時。
リリスは朝より少し落ち着いていた。
だが、今日は帰宅後に俺の仮縫いがある。
さらに、家同士の許可が出れば、仮縫い姿での対面も行われる。
そのことを考えているのだろう。
ずっと頬が赤い。
「アル」
「はい」
「今日、仮縫いですね」
「はい」
「逃げませんか?」
「逃げません」
「青を、減らしませんか?」
「減らしません」
「地味にしませんか?」
「しません」
「……嬉しいです」
「リリスも、深い青を変えませんか?」
「変えません」
「袖を重くしすぎませんか?」
「先生に言われた通り、柔らかくします」
「完成前でも、見せてくれますか?」
リリスの目が潤む。
「はい」
一拍。
「アルも?」
「はい」
リリスは微笑んだ。
「今日の宝物名は」
「はい」
「完成前でも、見たいと言い合えた日の宝物です」
「良い名前です」
「あと」
「はい」
「アルが青から逃げないと約束してくださった日の宝物です」
「……守ります」
リリスの涙が落ちた。
「強いです」
「でも必要なので」
「はい」
俺はハンカチを渡した。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺は見送りながら、今日の帰宅後を思った。
仮縫い。
濃紺。
青の刺繍。
鏡。
完成前の俺。
完成前でも見たいと言ってくれたリリス。
少し怖い。
でも、逃げたくない。
その夜。
屋敷へ帰ると、仕立て師がすでに到着していた。
広い客間には、布、針、糸、仮止め用の紐、鏡が並んでいる。
母上は完全に準備を終えていた。
「アル、食事の前に一度合わせましょう」
「はい」
「ライズ、着替えを」
「承知いたしました」
俺は別室へ入り、仮縫いの礼装を着た。
まだ完成前だ。
袖は仮止め。
裾も少し長い。
胸元の青い刺繍は、一部だけ見本として入っている。
濃紺の布は、制服より重い。
だが、思ったほど派手ではない。
鏡の前へ立つ。
自分ではないように見えた。
いや。
これも俺になるのか。
王城で。
リリスの隣で。
ライズが肩を整える。
「若様、背筋を」
「はい」
「胸を張りすぎず」
「はい」
「肩を落としすぎず」
「難しいな」
「自然に」
「一番難しい」
客間へ戻る。
父上と母上がこちらを見る。
父上は真面目な顔。
母上は嬉しそう。
仕立て師たちは、すぐに周囲を回り始める。
「肩は良いですね」
「袖は半指ほど詰めましょう」
「踊る時に背が引かれないよう、こちらへ余裕を」
「裾は歩幅を見る必要があります」
俺は歩く。
止まる。
礼をする。
腕を上げる。
ダンスの姿勢を取る。
母上が言う。
「青、もう少し見えてもいいわ」
「目立ちませんか」
「逃げない」
「はい」
父上が頷く。
「胸元の青は、そのまま。袖口は少し控える」
「はい」
「白を増やすと軽くなりすぎる。銀を少し」
「はい」
鏡を見る。
濃紺。
青。
銀。
これが、リリスの深い青の隣へ立つ俺。
まだ完成していない。
でも、少し見えてきた。
「アル」
母上が呼ぶ。
「どう?」
俺はしばらく鏡を見た。
「……まだ慣れません」
「そうでしょうね」
「でも」
「うん」
「逃げたいとは、思いません」
母上の表情が柔らかくなる。
父上も静かに頷いた。
「それでいい」
その時。
家令のリーマスが一通の書状を持って入ってきた。
「フルーラ公爵家より、急ぎのご連絡でございます」
「何だ?」
父上が受け取る。
書状を読む。
少し笑った。
「セレスティア夫人からだ」
「何と?」
「明日、学園後に両家で仮縫い姿の対面確認を行いたい、と」
心臓が止まりかけた。
「明日」
「ああ」
「リリスと?」
「ああ」
母上が嬉しそうに手を合わせる。
「ちょうどいいわ。今日の修正を少し入れて、明日見てもらいましょう」
「まだ完成前ですよ」
「だからでしょう?」
朝から何度も言われた。
完成前でも。
見たい。
逃げない。
俺は一拍置いた。
「分かりました」
父上が書状の続きを読む。
「なお、ガロウ公爵対策として、対面前に三枚の札を確認するとのことだ」
「完成前で完成しない」
「仮縫いで倒れない」
「対面で走らない」
「覚えているな」
「はい」
母上が笑った。
リーマスは胸元へ手を当てる。
「完成前の姿を互いに見せることは、信頼の仮縫いでもございます」
「信頼の仮縫い」
また強い言葉が出た。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は鏡を見る。
胸元の青へ手を触れる。
戻る合図。
まだ刺繍は一部だけ。
でも、明日リリスが見る。
深い青の仮縫い姿で。
俺も見る。
完成前の彼女を。
その夜、フルーラ家から三通の書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『リリスの仮縫いを見た。立った。私が。自分で座ろうとした。床へ膝をついた。座ったつもりだった。認定されなかった。泣いた。明日、アルフレッド殿と仮縫い姿で対面すると聞いた。立った。札を三枚出された。完成前で完成しない。仮縫いで倒れない。対面で走らない。守る。たぶん。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『リリスの深い青は悪くない。君の濃紺と青も、逃げずに整えろ。仮縫い姿での対面には反対しない。完成前の姿を見せられることも信頼だ。ただし父上の管理が必要だ。三札を導入済み。効果は明日確認する。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日の仮縫いはいかがでしたでしょうか。明日、学園後に両家で仮縫い姿の対面確認を行いたいと思います。完成前だからこそ、並んだ時の色、歩幅、立ち位置を見直すことができます。リリスも、あなたの完成前の姿を見たいと申しておりました。夫には「完成前で完成しない」「仮縫いで倒れない」「対面で走らない」の札を出しております。床へ座ることは座った判定にいたしません。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
床へ座ることは、座った判定にいたしません。
厳しい。
正しい。
そして明日。
リリスの深い青を見る。
完成前の姿。
俺も完成前。
まだ途中。
だからこそ、一緒に見られる。
父上は書状を読みながら笑った。
「ガロウ、惜しかったな」
「膝は座るではありません」
「そうだな」
母上はすでに、明日の確認順を考えている。
「最初は少し離れて立つ。次に並ぶ。歩く。礼をする。最後にダンス姿勢を確認」
「最後まで持ちますか?」
「誰が?」
「全員です」
「持たせるのよ」
母上は強い。
リーマスは、
「途中の姿を見せ合える者は、完成後の輝きだけを求めぬ者でございます」
と頷いた。
ライズは、明日のハンカチ枚数を考えている顔をしていた。
怖い。
二十六枚を越えるのではないか。
俺は胸元の青い刺繍見本へ、もう一度手を触れた。
まだ完成していない。
俺も。
礼装も。
リリスも。
俺たちの距離も。
でも、完成前だからこそ、一緒に整えられる。
俺は深く息を吸った。
そして、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
完成前の深い青も、絶対にお似合いだと思います!!
でも、お父様は床に膝をついても座った判定にはなりません!!




