第59話 公爵令嬢様、模擬夜会で最初から最後まで半歩します
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、俺とリリスは、婚約者以外とのダンスを練習した。
俺はエレナ嬢とクラリス嬢。
リリスはユリウスとニール。
それぞれ別の相手と手を取り、曲に合わせて踊った。
嫌だった。
正直に言えば、かなり嫌だった。
リリスがユリウスと踊っている姿は綺麗だった。
ユリウスはいつもの軽さを抑え、リリスへ丁寧に礼を尽くしていた。
だからこそ、何も文句はなかった。
文句がないのに、胸の奥が狭くなった。
ニールと踊った時もそうだ。
ニールは緊張しすぎて遠くなり、先生に戻り版を命じられていた。
危険など何もない。
それでも、リリスが別の男と向き合って踊っているというだけで、落ち着かなかった。
リリスも、俺がエレナ嬢やクラリス嬢と踊る姿を見て、同じように感じたらしい。
「嫌でした」
と、はっきり言った。
けれど、俺たちは止めなかった。
相手に礼を尽くした。
踊り終わって、互いの場所へ戻った。
嫉妬にも半歩。
一曲は一曲。
婚約は婚約。
最後の二つは、ガロウ公爵用の札から生まれた言葉だが、案外大切な考えなのかもしれない。
そして今日。
いよいよ、ここまでの練習を一つにつなげる日が来た。
模擬夜会。
朝食の席でその話を告げた父上は、なぜか俺以上に楽しそうだった。
「今日、学園で模擬夜会を行うそうだな」
「もうご存じなんですね」
「昨日、学園から家へ連絡があった」
「俺は聞いていません」
「本番を意識させるため、直前まで生徒には詳しく伝えない方針だったらしい」
「それを先に言っていいんですか?」
「家で心の準備は必要だろう」
「確かに」
模擬夜会。
言葉だけで胃が少し重くなる。
これまでの授業では、一つずつ練習してきた。
入場だけ。
王族への挨拶だけ。
ダンスだけ。
ダンス後の会話だけ。
別行動だけ。
婚約者以外とのダンスだけ。
だが今日は、それを最初から最後まで通す。
王城の夜会を想定した教室へ入場し、王族役へ挨拶し、婚約者として一曲踊り、他の者たちと会話し、別行動を行い、他の相手とのダンスも受け、再び戻り、最後に退出する。
全部。
全部である。
「父上」
「何だ」
「今日一日で、そんなにできますか?」
「できるかどうかを確かめるのが模擬夜会だ」
「失敗したら?」
「練習で失敗しろ」
父上は迷わず答えた。
「本番前に崩れる場所が分かる方がいい」
「はい」
「完璧にこなそうとするな。どこで揺れ、どこで戻れるかを見ろ」
「はい」
母上も微笑みながら頷いた。
「アル、模擬夜会は試験ではないわ」
「はい」
「今まで学んだ半歩を、一つの流れの中で使ってみる日よ」
「一つの流れ」
「ええ。扉の前の一拍。入場の歩幅。王族への礼。ダンスの呼吸。周囲を見る視線。言葉の半歩。別行動から戻る合図。嫉妬にも半歩」
「多いですね」
「多いわね」
母上も少し笑った。
「全部を意識したら、たぶん動けなくなるわ」
「では、どうすれば?」
「最初の一拍だけを大切にしなさい」
「最初の一拍」
「その次は、次の一拍。その積み重ねよ」
エレナ嬢が一曲の練習前に言っていた。
一曲は一拍の積み重ね。
夜会も同じなのかもしれない。
一場面ずつ。
一拍ずつ。
半歩ずつ。
ライズは、静かに鞄を確認していた。
俺は先に聞いた。
「今日は何枚だ」
「二十四枚でございます」
「やっぱり増えた」
「模擬夜会通し練習日でございますので」
「二十四枚で足りるか?」
「予備を屋敷の馬車に十枚積んでおります」
「総数三十四枚」
「はい」
「戦場なのか?」
「若様とアマリリス様にとっては、似た緊張があるかと」
「否定できない」
ライズは真顔のまま続ける。
「想定される涙は、模擬夜会発表時の衝撃涙、入場成功涙、王族挨拶達成涙、一曲通し涙、別行動から戻った安心涙、他者ダンス後の再会涙、退出まで到達した達成涙でございます」
「一つの場面ごとに泣く想定だな」
「はい」
「最後まで心が持つか?」
「アマリリス様は、心が持たなくても半歩で戻られます」
「強くなったな」
「若様もでございます」
その言葉に、俺は少し黙った。
俺も。
たしかに、以前よりは変わったかもしれない。
リリスを支えなければと力みすぎることが減った。
自分を下げることが、礼ではないと知った。
嫉妬も、不安も、恥ずかしさも、なかったことにしなくていいと学んだ。
半歩は、リリスだけのものではない。
俺も使っている。
「今日の心の札は?」
俺が聞く。
ライズは答えた。
「『最初から最後まで、一拍ずつ』でございます」
「長いな」
「本日は集大成ですので」
「受け取る」
「よろしいかと」
学園へ向かう馬車の中、俺は目を閉じた。
模擬夜会。
たぶん、リリスは朝から何度も泣くだろう。
俺も緊張する。
失敗もする。
でも、失敗したら戻ればいい。
半歩。
戻り版。
一拍。
俺は静かに息を吸った。
正門前。
リリスは、いつもの場所にいた。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
だが、今日は明らかに様子が違った。
目元が赤い。
すでに泣いている。
しかも、かなり。
俺を見つけると、リリスはほっとしたように笑い、次の瞬間にはまた涙を浮かべた。
歩いてくる。
走らない。
けれど、足取りは少し危うい。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。でも、もう泣いていますね」
「はい」
「模擬夜会の話を?」
「今朝、お母様から聞きました」
「うちでも聞きました」
リリスは胸元で手を重ねた。
「最初から最後まで、通すそうです」
「はい」
「入場も」
「はい」
「殿下への挨拶も」
「はい」
「ダンスも」
「はい」
「別行動も」
「はい」
「他の方とのダンスも」
「はい」
「戻るところも」
「はい」
「退出も」
「はい」
リリスの涙が一粒落ちた。
「小声版では足りません」
「でしょうね」
俺はハンカチを渡した。
リリスは目元を押さえた。
「アル」
「はい」
「私、全部できるでしょうか」
「全部を一度に考えなくていいそうです」
「はい?」
「最初の一拍。その次の一拍。一つずつです」
「一つずつ」
「はい。扉の前では扉のこと。挨拶の時は挨拶のこと。踊る時は音のこと」
「別行動の時は?」
「戻る合図のこと」
「他の方と踊る時は?」
「目の前の相手への礼」
「戻った時は?」
「戻れたことを受け取る」
リリスの目が潤む。
「アル」
「はい」
「もう少し泣いてもよろしいでしょうか」
「学校へ入る前に、少しだけ」
「はい」
リリスはハンカチで顔を隠し、静かに泣いた。
大声ではない。
肩も大きく揺らさない。
ただ、不安を外へ出すように涙を流す。
俺は隣で待った。
ミラも後ろで待っている。
朝の風が、制服の裾を揺らした。
校門を通る生徒たちが、少しだけこちらを見る。
だが、誰も笑わない。
もう、リリスが泣くことは、奇妙な見世物ではなくなっている。
感情を整えるための時間だと、皆が少しずつ知っている。
やがて、リリスは顔を上げた。
「戻りました」
「はい」
「アル」
「はい」
「今日、最後まで一緒にいてください」
「別行動はあります」
「はい」
「でも、戻ります」
「はい」
「最後まで、戻ります」
「……はい」
リリスはまた泣きそうになった。
「今のは強いです」
「分かっています」
「でも、受け取ります」
「お願いします」
ミラが静かに言った。
「本日三回目、発生。決壊一回。戻り成功でございます」
「一回目と二回目は?」
「一回目は起床時。二回目は朝食時でございます」
「朝から三回」
「模擬夜会日ですので」
納得しかけた自分が怖い。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスも、今日は少し緊張した顔をしていた。
「おはよう。二人とも聞いた?」
「はい」
「模擬夜会ですね」
リリスが答える。
エレナ嬢が優しく微笑んだ。
「最初から最後までの流れを確認できる良い機会ですわ」
「はい。でも、怖いです」
「私も少し緊張しております」
「エレナ様も?」
「もちろんですわ」
安定して見えるエレナ嬢でも緊張する。
それを聞き、リリスは少し安心したようだった。
ユリウスが肩を竦める。
「僕も、今日は軽さを半歩どころか二歩くらい抑える必要がありそう」
「二歩は別の距離になります」
「真面目だね、アルフレッド」
「今日は真面目です」
「いつも真面目だろ」
「ユリウス様が言いますか」
二人で少し笑う。
その笑いで、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
エレナ嬢はリリスへ言った。
「アマリリス様。模擬夜会は、失敗しても戻るための場ですわ」
「はい」
「最後まで完璧でなくても、最後まで戻れれば十分です」
「最後まで戻る」
「はい」
リリスは頷いた。
「今日の目標にします」
教室へ入った瞬間、俺たちは足を止めた。
そこは、もう普段の教室ではなかった。
机はすべて壁際へ寄せられている。
窓には薄い布がかけられ、柔らかな光が入っている。
中央には広い空間。
入口側には扉を模した衝立。
奥には王族席に見立てた高い台。
左右には、小さな談話の輪を作るための椅子。
別行動用の場所。
飲み物を置く机。
楽器を持った補助教師。
本当に、小さな夜会場のようだった。
生徒たちのざわめきも、いつもと違う。
「すごい……」
リリスが小さく呟いた。
ニールは入口で完全に固まっている。
クラリス嬢は招待されてはいないが、今日は補助参加者として模擬夜会に加わるらしい。
「アマリリス様」
クラリス嬢が近づいてくる。
「本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「私も、少し緊張しています」
「一緒ですね」
「はい」
皆、緊張している。
自分だけではない。
それだけで、少し呼吸が楽になる。
ベイル先生が教室の中央へ立った。
いつもの礼法教師の服装だが、今日は胸元に少し華やかな飾りがある。
模擬夜会の主催者役なのだろう。
「皆さん」
教室が静まる。
「本日は、これまで学んだ内容を通して確認する模擬夜会を行います」
空気が引き締まった。
「これは試験ではありません」
母上と同じ言葉だ。
「失敗を恐れすぎないこと。失敗に気づいたら、半歩で戻ること。相手の失敗を笑わないこと。互いに礼を保つこと」
「はい」
教室全体から返事が返る。
「本日の流れを説明します」
先生は黒板に書いた。
一、入場。
二、主催者および王族役への挨拶。
三、婚約者または指定相手との第一舞踏。
四、自由会話。
五、別行動。
六、第二舞踏。
七、再合流。
八、退出挨拶。
長い。
本当に夜会だ。
「一つ一つに点をつけることはしません。ただし、終了後に個別の講評を行います」
先生は全員を見渡した。
「衣装は制服ですが、礼装を着ているつもりで動いてください」
リリスと目が合う。
深い青のドレス。
濃紺の礼装。
今は制服だ。
でも、想像する。
先生が言った。
「では、準備を」
生徒たちは一度教室の外へ出た。
入場順に並ぶ。
俺とリリスは三組目。
一組目はユリウスとエレナ嬢。
二組目はニールと、別の伯爵令嬢。
三組目が俺たち。
リリスの指先が震えている。
「リリス」
「はい」
「最初の一拍」
「はい」
「今は扉だけ」
「はい」
衝立の向こうから、先生の声が聞こえる。
一組目が呼ばれた。
扉役の補助教師が衝立を開く。
ユリウスとエレナ嬢が入場する。
外からは全体が見えない。
音だけ。
歩く靴音。
礼の気配。
短い挨拶。
それだけで緊張が増す。
二組目。
ニールの声が少し震えていた。
だが、途中で戻ったようだ。
そして。
「アルフレッド・シェルザート様。アマリリス・フルーラ様」
呼ばれた。
リリスが息を吸う。
俺も。
目を合わせる。
一拍。
「行きましょう」
「はい」
衝立が開く。
教室なのに、違う場所に見えた。
生徒たちが左右に立っている。
視線が集まる。
楽器の静かな音。
奥に先生。
隣にリリス。
俺は最初の一歩を出した。
急がない。
遅すぎない。
一歩。
二歩。
三歩。
リリスの歩幅を感じる。
中央で止まる。
礼。
以前のように、控えめになりすぎない。
大きく見せすぎない。
招かれた伯爵家子息として、立つ。
リリスも、美しい礼をする。
先生が頷いた。
「お入りください」
「ありがとうございます」
俺たちは進む。
王族役には、上級生の礼法補助員が立っていた。
殿下役。
初めて見る上級生だが、かなり堂々としている。
一定の距離で止まる。
少し近い?
いや、合っている。
礼。
「シェルザート伯爵家長男、アルフレッド・シェルザートでございます。本日はお招きいただき、誠に光栄に存じます」
「フルーラ公爵家長女、アマリリス・フルーラでございます。本日はこのような場へお招きいただき、誠にありがとうございます」
殿下役の上級生が穏やかに言った。
「お二人の半歩の研究については、私も伺っています。学園内でよい影響が生まれているようですね」
一拍。
俺が答える。
「ありがとうございます。私どもも、日々の中で学びを重ねております」
リリスが続ける。
「皆さまが大切に受け取ってくださることで、私自身も意味を学び直しております」
「今後も期待しています」
「ありがとうございます」
礼。
離れる。
できた。
リリスの目が潤んでいる。
だが、今はまだ流れの途中。
俺は視線だけで伝える。
次。
リリスが小さく頷く。
第一舞踏。
俺とリリスは中央へ進む。
他の組も並ぶ。
複数組。
周囲の視線。
今まで練習した全部がある。
俺はリリスへ手を差し出した。
「一曲、お相手いただけますか」
「喜んで」
リリスが手を重ねる。
少し震えている。
右手を背へ添える。
呼吸。
一緒に吸う。
吐く。
音が始まる。
一、二、三。
動き出す。
最初の三歩は合った。
方向転換。
隣の組が少し近い。
軌道を調整。
リリスから視線が外れる。
戻す。
目が合う。
リリスが頷く。
一、二、三。
今までの練習が、体の中にある。
近さに驚いた最初の三歩。
音に合わせた日。
一曲通した日。
複数組で戻る視線を学んだ日。
全部がつながっている。
曲の中盤。
リリスの目が潤む。
感情が動いた。
でも、止まらない。
呼吸。
拍。
戻る。
最後の三拍。
一、二、三。
礼。
拍手。
リリスの涙が落ちた。
だが、崩れない。
「ありがとうございました」
リリスが言う。
「こちらこそ、ありがとうございました」
次は、会話。
ユリウスとエレナ嬢が近づく。
「お二人とも、とても穏やかな踊りでした」
エレナ嬢が言う。
一拍。
「ありがとうございます。練習してきたことを、少し出せたと思います」
俺が答える。
リリスも続ける。
「ありがとうございます。まだ緊張しておりますが、シェルザート様と呼吸を合わせることができました」
ユリウスが少し意地悪そうに笑う。
「王城でも、今のように二人だけの世界へ入りすぎなければ大丈夫そうですね」
一拍。
棘ではない。
からかい。
「ご心配ありがとうございます」
俺は答える。
「周囲を忘れないよう、王城用半歩を大切にいたします」
ユリウスが笑う。
「良い返しだね」
先生は遠くから見ている。
流れは続く。
自由会話。
ニールが来る。
クラリス嬢が来る。
別の生徒から、半歩の話を聞かれる。
俺の領地研究について質問される。
リリスのドレスの予定色を聞かれる。
「深い青を予定しております」
リリスが答えた瞬間、何人かの令嬢が、
「きっとお似合いです」
と言った。
リリスの目が一気に潤む。
一拍。
「ありがとうございます。大切に選んだ色ですので、そう言っていただけて嬉しいです」
言えた。
泣かなかった。
いや、涙は落ちた。
でも、言えた。
別行動の合図が出る。
先生が宣言した。
「次の場面へ移ります。各自、指定された輪へ」
俺は男性側。
リリスは令嬢側。
離れる前に、目を合わせる。
「戻ります」
「戻ります」
離れる。
俺はユリウス、ニール、上級生役の男子生徒と話す。
領地の話。
夜会への緊張。
婚約について。
「公爵令嬢の婚約者として、注目を受けるのは大変では?」
上級生役が聞く。
一拍。
「責任を感じることはございます。ですが、いただいたご縁から逃げず、共に学びたいと思っております」
言えた。
少し離れた場所で、リリスも夫人役の教師と話している。
見ない。
今は目の前の相手。
でも、忘れない。
やがて、視界の端でリリスのハンカチが左手へ移った。
戻りたい合図。
俺は胸元に触れる。
青はまだない。
でも、合図は届く。
リリスの表情が少し緩む。
先生が言う。
「再合流まで、あと一場面です」
まだ戻れない。
待つ。
これも練習。
次は第二舞踏。
指定された相手と踊る。
俺はエレナ嬢。
リリスはユリウス。
昨日と同じ組み合わせ。
胸の奥が少し狭くなる。
嫉妬。
ある。
でも、投げない。
俺はエレナ嬢へ礼をする。
「一曲、お相手いただけますか」
「喜んで」
音が始まる。
目の前の相手へ礼。
エレナ嬢は安定している。
俺も昨日より落ち着いている。
「アルフレッド様」
「はい」
「本日は、昨日より戻る場所を信じていらっしゃいますね」
「分かりますか」
「はい」
「ありがとうございます」
「アマリリス様も、昨日より落ち着いていらっしゃいますわ」
見ない。
でも、エレナ嬢の言葉を信じる。
一曲。
最後まで。
礼。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
俺はすぐにリリスのもとへ行かない。
まず、エレナ嬢へ最後の礼。
それから、戻る。
リリスもユリウスへ丁寧に礼をしている。
ハンカチが左手へ。
胸元へ手。
歩く。
中央で再び隣に立つ。
「戻りました」
リリスが言う。
「はい」
「アルも」
「戻りました」
目が潤む。
でも、流れはまだ終わっていない。
退出挨拶。
俺たちは最後の輪を抜け、主催者役の先生の前へ進む。
「本日は、誠にありがとうございました」
「大変学びの多い時間をいただき、感謝申し上げます」
礼。
先生が頷く。
「気をつけてお帰りください」
「ありがとうございます」
扉へ向かう。
歩く。
急がない。
最後まで。
衝立の前で一度止まる。
一拍。
退出。
教室の外へ出た。
扉が閉まった。
終わった。
模擬夜会が。
最初から最後まで。
俺とリリスは、しばらく何も言えなかった。
廊下は静かだった。
教室の中では、次の組の退出が続いている。
俺たちは壁際に立ち、ただ呼吸を整えた。
リリスの手が震えている。
目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「アル」
「はい」
「最後まで」
「はい」
「戻れました」
「はい」
「入場して」
「はい」
「殿下へご挨拶して」
「はい」
「踊って」
「はい」
「離れて」
「はい」
「他の方とも踊って」
「はい」
「戻って」
「はい」
「退出まで」
「はい」
「できました」
「はい」
リリスは泣いた。
声を抑えきれず、少しだけしゃくり上げた。
俺はハンカチを渡す。
一枚。
足りない。
二枚目。
リリスは顔を覆う。
「私、途中で何度も怖くなりました」
「はい」
「泣きそうになりました」
「はい」
「アルが見えない時もありました」
「はい」
「でも、合図がありました」
「はい」
「戻れました」
「はい」
「アル」
「はい」
「最後まで一緒でした」
俺の胸も熱くなった。
目の奥が少し痛い。
「はい」
声が少し震えた。
「最後まで、一緒でした」
リリスがさらに泣いた。
俺も、少しだけ目元を押さえた。
ライズの予測。
俺のハンカチ使用可能性も高い。
当たった。
悔しい。
でも、今はどうでもいい。
少しして、教室の扉が開いた。
先生が出てきた。
俺たちを見て、何も驚かなかった。
「終わった後に受け取れていますね」
「はい」
リリスが涙声で答える。
「では、落ち着いたら教室へ戻りなさい」
「はい」
先生はそれだけ言い、次の組を呼ぶため戻っていった。
やはり先生は全部分かっている。
休み時間を兼ねた講評の時間。
全員が教室へ戻ると、疲労と達成感が混ざった空気があった。
ニールは机に突っ伏している。
ユリウスも、今日は少しだけ疲れた顔だ。
エレナ嬢は落ち着いているが、いつもより頬が赤い。
クラリス嬢は達成感のある笑顔を浮かべていた。
先生が一人ずつ講評を行う。
まず、ユリウス。
「全体としては良好。ただし、会話中に軽さが戻りかけました」
「はい」
「本番では、相手を安心させる軽さと、場を崩す軽さを見分けること」
「はい」
エレナ嬢。
「非常に安定していました。ただし、周囲を支えようとしすぎる傾向があります。あなた自身も夜会を楽しむこと」
「はい」
ニール。
「緊張しましたが、戻れました。名乗りの声も後半は安定していました」
「ありがとうございます」
そして俺。
「シェルザートさん」
「はい」
「入場時、昨日までより堂々と立てていました」
「ありがとうございます」
「王族役への挨拶も、自分を下げすぎていません」
「はい」
「第一舞踏では、アマリリスさんの感情を気にしすぎず、待てていました」
「はい」
「別行動では、一度視線が流れましたが、目の前の会話へ戻れています」
「はい」
「第二舞踏も、相手への礼を保てていました」
「ありがとうございます」
先生は少し間を置いた。
「課題は、再合流後に安心しすぎて周囲が薄くなったこと」
「はい」
たしかに。
リリスが戻った瞬間、少し二人だけになった。
「本番では、戻った後も夜会は続いています」
「分かりました」
「ですが、最後まで流れを保てたのは良いです」
「ありがとうございます。受け取ります」
先生が頷く。
リリスが俺を見て、目を潤ませる。
次にリリス。
「アマリリスさん」
「はい」
「入場から王族役への挨拶まで、非常に美しい所作でした」
「ありがとうございます」
「第一舞踏では、途中で感情が揺れましたが、曲の中で戻れています」
「はい」
「会話でドレスの色を褒められた時、泣きながらも言葉を返せました」
「はい」
「別行動では、不安を感じながらも役目を果たしました」
「はい」
「第二舞踏では、婚約者を気にしすぎず、相手へ礼を尽くせています」
「はい」
「再合流後、安心で泣きそうになりましたが、退出まで保ちました」
リリスの目から涙が落ちる。
「ありがとうございます」
「課題は、感情が動いた際に、まだ指先へ出やすいこと」
「はい」
「ハンカチを握りしめすぎると、周囲から不安が見えます。持つ力を半歩緩めなさい」
「はい」
先生は微笑んだ。
「ですが、最後までよく戻りました」
「……ありがとうございます。受け取ります」
教室から拍手が起きた。
温かい拍手。
リリスは泣いた。
今度は止めない。
模擬夜会は終わった。
受け取る時間だ。
俺はハンカチを渡す。
クラリス嬢も。
エレナ嬢は水を。
ユリウスは少し離れて笑っている。
ニールは拍手しながら、自分も少し泣きそうになっていた。
昼休み。
食堂の空気は、いつも以上にゆるんでいた。
模擬夜会を終えた生徒たちは、全員かなり疲れている。
だが、表情は明るい。
「今日、食べられそうですか?」
俺が聞く。
リリスは頷いた。
「はい。お母様に、模擬夜会を最後まで終えた日は、必ずたくさん食べなさいと言われました」
「さすがです」
「朝から用意されていた言葉です」
「全部予測していますね」
「はい」
リリスはスープを口に運ぶ。
少しずつ、顔色が戻る。
エレナ嬢が言った。
「アマリリス様、本当にお疲れ様でした」
「エレナ様も」
「最初から最後まで通すと、思った以上に疲れますわね」
「はい」
ユリウスがパンをちぎりながら言う。
「一場面ずつならできても、つなぐと難しいね」
「軽さ、戻りかけていましたね」
俺が言う。
「見てた?」
「はい」
「アルフレッドも、再合流後に二人だけになってたよ」
「先生にも言われました」
「お互い様だね」
「はい」
ニールが小さく言った。
「僕、入場の時に名前を忘れそうになりました」
「自分の名前を?」
「はい」
「かなり緊張していましたね」
「でも、一拍置いたら戻りました」
リリスが優しく笑う。
「バートン様、最後までできていました」
「ありがとうございます」
「皆さま、最後まで戻れました」
その言葉で、席の全員が少し静かになった。
最後まで戻る。
今日の模擬夜会の一番大きな学びだった。
午後の魔法基礎。
リリスの魔力は、かなり疲れていた。
光が弱い。
だが、乱れてはいない。
教師はそれを見て言った。
「アマリリスさん、今日は力を使いましたね」
「はい」
「弱い光でも、形は保てています」
「はい」
「最後まで戻れたからでしょう」
リリスの目が潤む。
「はい」
「今日は強く出さなくてよいです。小さな光を、最後まで保ちなさい」
「はい」
リリスは目を閉じた。
小さな深い青の光。
弱い。
でも、消えない。
一拍。
また一拍。
最後まで。
教師が頷く。
「よろしい」
「ありがとうございます」
その光は、今日のリリスそのものだった。
疲れている。
泣いている。
でも、消えない。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日は、いつもより少し早足で近づいてきた。
走ってはいない。
兄も礼を守っている。
「リリス」
「お兄様」
「模擬夜会、最後までできたか?」
「はい」
「入場は?」
「できました」
「王族への挨拶は?」
「できました」
「第一舞踏は?」
「できました」
「別行動は?」
「怖かったですが、戻れました」
「他の相手とのダンスは?」
「礼を尽くせました」
「退出は?」
「最後まで」
レオナルド先輩の表情が、ゆっくり緩んだ。
「よくやった」
リリスの目から涙が落ちた。
「ありがとうございます」
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「最後まで、リリスの隣へ戻ったか」
「はい」
「自分の役目も果たしたか」
「はい」
「ならよい」
「ありがとうございます」
短い。
でも、今日の俺には十分だった。
「父上には?」
俺が聞く。
レオナルド先輩は少し遠い目をした。
「模擬夜会を最初から最後まで通したと伝えた」
「どうなりました?」
「立った」
「はい」
「札を出す前に、自分で座った」
「おお!!」
俺とリリスの声が重なった。
「成長ですね」
「ああ」
「泣きましたか?」
「泣いた」
「そこはいつも通り」
「だが、座ったままだった」
「大きな進歩です」
「母上も評価している」
レオナルド先輩は続けた。
「新しい札は一枚だけだ」
「何ですか?」
「『模擬は模擬、本番は本番』」
「一曲は一曲の仲間ですね」
「ああ。模擬夜会が成功したからといって、本番前に感情を使い切らないための札だ」
「ガロウ公爵用ですか?」
「家族全員用だ」
「全員用」
フルーラ家全体が、夜会本番へ向けて高まっているらしい。
正門で別れる時、リリスは本当に疲れていた。
だが、顔は晴れていた。
俺たちは、いつもの場所に立つ。
近すぎず。
遠すぎず。
自然な距離。
「アル」
「はい」
「今日は、模擬夜会を最後までできました」
「はい」
「何度も怖くなりました」
「はい」
「何度も泣きそうになりました」
「はい」
「離れました」
「はい」
「他の方とも踊りました」
「はい」
「でも、戻れました」
「はい」
リリスは静かに笑った。
「今日の宝物名は」
「はい」
「最初から最後まで半歩で戻れた日の宝物です」
「とても良い名前です」
「あと」
「はい」
「模擬夜会の最後まで、アルと一緒だった日の宝物です」
「……俺にとっても、大切な宝物です」
リリスの目が潤む。
しかし、すぐには泣かなかった。
一拍。
受け取る。
「はい」
その一言の後、涙が落ちた。
でも、笑っていた。
「アル」
「はい」
「本番も、怖いです」
「はい」
「でも、今日より少しだけ、行ける気がします」
「俺もです」
「一緒ですか?」
「はい」
「それなら、大丈夫です」
俺はハンカチを渡した。
リリスは涙を拭いた。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺は見送りながら、今日の一日を思い返した。
扉。
入場。
礼。
ダンス。
言葉。
別行動。
嫉妬。
再合流。
退出。
全部を、完璧にできたわけではない。
揺れた。
迷った。
泣いた。
でも、戻った。
最後まで。
それでいい。
いや、それがいいのかもしれない。
その夜。
屋敷に帰ると、父上と母上が待っていた。
「模擬夜会は?」
「最後までできました」
「失敗は?」
「ありました」
「戻れたか?」
「はい」
「ならよい」
父上は満足そうに頷いた。
母上も優しく微笑む。
「最初の一拍、覚えていられた?」
「全部ではありません。でも、何度か」
「十分よ」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『模擬夜会を最初から最後まで通したと聞いた。立った。私が。だが自分で座った。泣いた。私は成長している。リリスが入場し、挨拶し、踊り、離れ、戻り、退出したと聞いた。座ったまま泣いた。セレスティアに「模擬は模擬、本番は本番」の札を出された。本番まで生きる。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『模擬夜会を最後まで通せたのは良い。リリスは何度も揺れたが戻れた。君も自分の役目を果たし、最後に隣へ戻った。よい。父上は自分で座った。大きな進歩だ。「模擬は模擬、本番は本番」を家族全員で確認中。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日は模擬夜会を最後まで終えられたそうですね。完璧であることより、揺れた時に戻れること。離れた後に再び並べること。最後の退出まで礼を保つこと。それが本番でも大切になります。リリスも、今日の経験で少し自信を得たようです。夫は自分で座りました。座ったまま泣きました。「模擬は模擬、本番は本番」の札を家族全員へ出しております。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
自分で座った。
ガロウ公爵。
本当に成長している。
そして、
『模擬は模擬、本番は本番』
それも大切だ。
今日できたから、本番も必ずできるわけではない。
だが、今日戻れた経験は、本番でも俺たちを支えてくれる。
父上は書状を読み、珍しく腹を抱えずに笑った。
「ガロウ、自分で座ったか」
「大きな進歩らしいです」
「ああ。立派だ」
母上も微笑んでいる。
リーマスは胸元へ手を添え、
「模擬で得た一拍が、本番の心を支えるのでございます」
と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸った。
今日の全部を胸の中へ置く。
そして、心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
模擬夜会、最初から最後までちゃんと戻れました!!
でも、お父様は本番でも自分で座ってください!!




