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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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58/69

第58話 公爵令嬢様、別の相手と踊る練習で笑顔が少しだけ怖くなります


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 昨日、俺とリリスは別行動の練習をした。


 婚約者として王城の夜会へ参加しても、ずっと隣にいられるわけではない。


 俺には俺の挨拶がある。


 リリスには、公爵令嬢としての役目がある。


 それぞれ別の輪へ入り、別の相手と話し、役目を果たしてから戻る。


 そのために、合図も決めた。


 リリスが戻りたい時は、ハンカチを左手へ持ち替える。


 俺はそれを確認したら、礼装の胸元に入る青へ手を触れる。


 離れていても、戻る意思を伝える。


 夜会用ハンカチの橋。


 俺の青が、戻る合図。


 リリスは昨日、それを宝物と呼んだ。


「離れても戻れると知った日の宝物です」


 そう言って、涙を拭きながら笑っていた。


 俺も、胸元にまだ存在しない青を想像しながら、少しだけ安心した。


 離れても戻る。


 戻る場所は、互いに作る。


 大切な学びだった。


 ……しかし。


 夜会における「離れる」は、それだけではなかった。


 今日の朝、食堂で父上から新しい課題を告げられた瞬間、俺は持っていたカップを静かに置いた。


「アルフレッド」


「はい」


「今日あたり、婚約者以外とのダンス練習も入るだろう」


 沈黙。


 俺は父上の顔を見た。


 父上は真面目だった。


 冗談ではない。


「婚約者以外と」


「ああ」


「リリスも?」


「当然だ」


 再び、沈黙。


 分かっている。


 分かってはいた。


 王城の夜会では、最初のダンスを婚約者と踊るとしても、その後に他の相手から誘いを受ける可能性がある。


 すべて断ることはできない。


 特にリリスは公爵令嬢だ。


 上位貴族の子息。


 王家に近い家門。


 学園の上級生。


 礼を保つため、相手を選びながらも、何人かとは踊ることになるかもしれない。


 俺も同じだ。


 侯爵家や伯爵家の令嬢から声をかけられれば、理由なく断ることは失礼になる。


 婚約しているからといって、夜会中のすべてのダンスを互いに独占するわけではない。


 それが社交だ。


 分かっている。


 頭では。


 しかし。


 リリスが、他の男と踊る。


 知らない令息の手に、自分の手を重ねる。


 背に手を添えられる。


 音に合わせて回る。


 一曲を踊る。


 ……嫌だな。


 思ったより、かなり嫌だ。


 俺は自分の内側に生まれた感情に、少し驚いていた。


 怒りではない。


 相手が悪いわけでもない。


 リリスが悪いわけでもない。


 社交として必要だ。


 それでも、嫌だ。


 胸の奥が狭くなる。


 母上は、俺の顔を見てすぐに気づいたらしい。


「アル」


「はい」


「嫌なのね」


 直球だった。


 俺は少し迷った。


 否定するのは簡単だ。


 貴族として当然です。


 理解しています。


 問題ありません。


 そう答えればいい。


 だが、それでは自分の感情をなかったことにする。


 半歩は、感情を消すことではない。


「……はい」


 俺は答えた。


「嫌です」


 父上が少しだけ口元を上げた。


 笑っているのではない。


 それでいい、と言う顔だった。


「なら、まずそこを認めろ」


「はい」


「嫌だから止める、は違う」


「はい」


「嫌ではないふりをするのも違う」


「はい」


「嫉妬にも半歩だ」


「嫉妬」


 はっきり言われると、顔が熱くなった。


 嫉妬。


 俺が。


 リリスに。


 いや、リリスが他の相手と踊ることに。


 間違ってはいない。


 母上は穏やかに紅茶を飲んだ。


「アル、相手を信じるというのは、何も感じないことではないわ」


「はい」


「不安になることもある。寂しくなることもある。少し嫉妬することもある」


「はい」


「でも、その感情で相手の役目を奪わないこと」


「……はい」


「リリス様が他の方と踊っても、戻る場所はあなたの隣なのでしょう?」


 昨日の合図。


 リリスのハンカチ。


 俺の青。


 離れても戻る。


 俺は静かに息を吸った。


「はい」


「なら、それを信じなさい」


「分かりました」


 父上が言った。


「お前が他の令嬢と踊る時も同じだ。相手への礼を尽くせ。ただし、必要以上に親しげになるな」


「はい」


「リリス嬢へ見せつけるようなこともするな」


「しません」


「逆に、リリス嬢ばかり気にして相手を粗末に扱うな」


「……はい」


「それも礼だ」


 難しい。


 非常に難しい。


 他の相手へ礼を尽くしながら、リリスを不安にさせない。


 リリスを見すぎず、忘れず。


 戻る場所を持ちながら、今の相手を軽く扱わない。


 王城用半歩の中でも、かなり高度な課題ではないか。


 ライズは、いつものように俺の鞄を確認していた。


 そして当然のように言った。


「若様、本日のハンカチは二十三枚でございます」


「増えたな」


「他者ダンス練習日でございますので」


「そのままだな」


「想定される涙は、アマリリス様が若様以外と踊る想像涙、若様が他の令嬢と踊る想像涙、嫉妬を認めた時の羞恥涙、戻る合図確認による安心涙、練習後に互いを選び直す確認涙でございます」


「互いを選び直す確認?」


「高確率で発生すると予測しております」


「何だそれ」


「離れて踊った後、やはり若様がよい、あるいはアマリリス様がよいと再確認される流れでございます」


「……ありそうだな」


「はい」


 ライズは一拍置いた。


「なお、若様ご自身のハンカチ使用可能性も高めでございます」


「俺が泣く?」


「否定はいたしません」


「否定してくれ」


「事実に反する可能性がございますので」


 まったく頼もしい従者である。


 今日の心の札。


『嫉妬にも半歩』


『相手を信じる』


『戻る場所を忘れない』


 朝から重い。


 だが、これも夜会には必要だ。


 学園へ向かう馬車の中。


 俺は窓の外を見ながら、何度も同じ想像をしてしまった。


 リリスが他の相手と踊る。


 美しい姿勢。


 深い青のドレス。


 差し出された手。


 誰かが、その手を取る。


 嫌だ。


 やはり嫌だ。


 だが、リリスを閉じ込めたいわけではない。


 彼女は公爵令嬢だ。


 役目がある。


 俺の婚約者である前に、一人の貴族令嬢でもある。


 俺が不安だからといって、その役目を奪うことはできない。


 俺がすべきなのは、信じること。


 そして自分も礼を守ること。


 それでも嫌なものは嫌だ。


 この感情を、どう半歩で置けばいいのだろう。


 正門前。


 リリスはいつもの場所にいた。


 今日も制服姿。


 ブルーローズの髪飾り。


 ただ、俺を見つけた瞬間の笑顔が、いつもより少し不安そうだった。


 やはり、フルーラ家でも同じ話をされたのだろう。


 歩いてくる。


 走らない。


 しかし、今日はかなり近い位置まで来た。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。ただ、近いです」


「あっ」


 リリスは半歩下がった。


 だが、顔が寂しそうだ。


「今朝、お母様から、今日は婚約者以外とのダンス練習になるかもしれないと言われました」


「うちでも聞きました」


「やはり」


 リリスは視線を落とした。


 しばらく言葉がなかった。


 朝の風が、校門近くの木の葉を揺らしている。


 登校する生徒たちの声が遠く聞こえる。


 いつもならすぐ言葉を続けるリリスが、今日は黙っている。


 俺も待った。


 やがて、リリスが小さく言った。


「アル」


「はい」


「嫌です」


 俺は一瞬、息を止めた。


 リリスは顔を上げない。


「アルが、他の令嬢の方と踊るのは」


「はい」


「必要なことだと分かっています」


「はい」


「夜会の礼です」


「はい」


「でも、嫌です」


 声が震えている。


 涙が一粒落ちた。


「私、わがままでしょうか」


「いいえ」


 俺はすぐに答えた。


 リリスが顔を上げる。


「俺も嫌です」


「アルも?」


「はい。リリスが他の令息と踊るのは嫌です」


 言ってしまった。


 はっきり。


 顔が熱い。


 でも、言う必要があった。


 リリスの目から涙がこぼれた。


「一緒ですか?」


「はい」


「嫉妬、でしょうか」


「たぶん」


「アルも、私に?」


「はい」


 リリスは両手で口元を押さえた。


 泣いているのに、少し笑っている。


「嬉しいです」


「嬉しいんですか」


「はい。アルが、嫌だと思ってくださるのが」


「でも、止めることはできません」


「分かっています」


「俺も踊ります」


「はい」


「リリスも踊る」


「はい」


「でも、戻ります」


 リリスの涙が増えた。


「アル」


「戻る場所は、変わりません」


「……強いです」


「今日は必要なので」


「はい」


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは涙を拭く。


「私も戻ります」


「はい」


「誰と踊っても、アルの隣へ戻ります」


「受け取ります」


 リリスはまた泣いた。


 ミラが後ろで静かに言った。


「本日二回目、決壊手前でございます」


「一回目は?」


「お嬢様が今朝、若様と他の令嬢が踊る想像をされた際に」


「泣いたんですね」


「はい」


 リリスが真っ赤になった。


「想像だけです」


「俺も嫌でした」


「アルも?」


「はい」


「また嬉しいです」


 感情が忙しい。


 嫉妬で悲しくなり、相手も嫉妬していると知って嬉しくなる。


 人の心は複雑だ。


 教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


 ユリウスは俺たちの顔を見て、すぐに察した。


「おはよう。もう他者ダンスの話した?」


「はい」


 リリスが答える。


「嫌だった?」


「はい」


 即答。


 ユリウスが少し驚いた。


「今日は正直だね」


「アルも嫌だと言ってくださいました」


「おお」


 ユリウスが俺を見る。


「アルフレッド、言ったね」


「必要だと思ったので」


「いいと思うよ。何でも平気なふりするより」


 エレナ嬢が穏やかに微笑んだ。


「アマリリス様、嫉妬すること自体は悪くありませんわ」


「はい」


「大切なのは、その感情で相手を縛らないことです」


「はい」


「そして、他の方と踊る時は、その方への礼を忘れないこと」


「……はい」


 リリスは少し難しい顔をした。


「アルが見ていると思うと、他の方へ失礼になってしまいそうです」


「分かります」


 俺も言った。


「俺も、リリスばかり気にして相手を粗末にしそうです」


 エレナ嬢が頷く。


「だから、踊っている間は目の前の方へ礼を尽くすのです」


「はい」


「そして曲が終わったら、戻る」


「戻り版ですね」


 リリスが言う。


「そうですわ」


 ユリウスが笑った。


「一曲限定半歩だね」


「増やさないでください」


「でも分かりやすい」


「リリス、採用しないでください」


「少し分かりやすいです」


 採用されそうだ。


 教室に入ると、机は端へ寄せられていた。


 中央にダンスの空間。


 複数組練習の時と似ている。


 だが、今日は先生が用意した組み合わせ表が黒板の横に貼られていた。


 生徒たちがざわついている。


 俺も見た。


 第一練習。


 俺――エレナ嬢。


 リリス――ユリウス。


 ……。


 分かっている。


 練習として自然だ。


 エレナ嬢は安定している。


 ユリウスもダンスに慣れている。


 俺とリリスがそれぞれ別の相手と踊るには、最初として安全な組み合わせだ。


 分かっている。


 だが、嫌だ。


 リリスも表を見て固まった。


「アル」


「はい」


「私は、ユリウス様と」


「はい」


「アルは、エレナ様と」


「はい」


「……小声版では足りません」


「まだ踊っていません」


「分かっています」


 ユリウスは組み合わせを見て、少し気まずそうに笑った。


「僕、今日かなり慎重に踊るよ」


「当然です」


 俺が言うと、ユリウスが目を丸くした。


「怖いな、アルフレッド」


「すみません」


「いや、正直でいいけど」


 エレナ嬢が俺へ向かって穏やかに礼をした。


「アルフレッド様、本日はよろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 リリスがこちらを見ている。


 笑顔だ。


 だが、少しだけ怖い。


 気品に満ちた微笑み。


 目元は柔らかい。


 口元も美しい。


 なのに、その奥から何かが出ている。


 公爵令嬢様。


 笑顔が少しだけ怖いです。


 一時間目。


 礼法。


 ベイル先生は黒板にこう書いた。


『婚約者以外とのダンスと礼』


 教室が静まった。


「本日は、夜会で婚約者以外からダンスを申し込まれた場合の対応を練習します」


 先生はいつも通り淡々としている。


「婚約者がいるからといって、すべての誘いを断ることが礼とは限りません。相手の家格、関係性、曲数、誘い方を見て判断します」


 リリスが真剣に聞いている。


「ただし、婚約者以外と踊る時こそ、距離と態度に注意が必要です」


 先生は黒板に書いた。


『相手への礼』


『婚約者への配慮』


『戻る場所を忘れない』


「今踊っている相手を粗末にしてはいけません。婚約者ばかりを見るのは失礼です」


 俺もリリスも少し反応した。


「逆に、必要以上に親密な態度を取ってはいけません」


 当然だ。


「曲が終われば、丁寧に礼をし、必要に応じて婚約者のもとへ戻る」


 先生は俺たちを見る。


「嫉妬を感じる者もいるでしょう」


 教室が少しざわついた。


 先生は続ける。


「感じること自体は問題ありません。ただし、嫉妬を理由に相手の礼を妨げないこと」


 リリスが小さく頷いた。


 俺も。


「嫉妬にも半歩です」


 正式採用された。


 また礼法用語になった。


 リリスの目が潤んでいる。


「では、組み合わせ通りに」


 来た。


 俺はエレナ嬢の前へ。


 リリスはユリウスの前へ。


 距離は少しある。


 互いが見える位置だ。


 見えるからこそ、つらい。


 先生が言う。


「まず、誘う側」


 今回、俺がエレナ嬢を誘う役。


 ユリウスがリリスを誘う役。


 俺はエレナ嬢へ礼をする。


「エレナ様、一曲お相手いただけますでしょうか」


「喜んで」


 エレナ嬢は完璧な礼で手を差し出した。


 視界の端で、ユリウスがリリスへ礼をしている。


「アマリリス様、一曲お願いいたします」


「はい。よろしくお願いいたします」


 リリスも完璧だ。


 声は少し硬い。


 俺も硬いだろう。


 音が始まる前に、先生が言った。


「婚約者を見ない」


 いきなり。


「今は、目の前の相手へ礼を」


「はい」


 俺はエレナ嬢を見る。


 穏やかな表情。


 こちらの緊張を理解している顔だ。


「アルフレッド様」


「はい」


「大丈夫です。私も、アマリリス様も、ユリウス様も、練習だと分かっております」


「はい」


「目の前の一曲へ、礼を置きましょう」


「ありがとうございます」


 音が始まる。


 一、二、三。


 俺はエレナ嬢と動き出した。


 踊りやすい。


 当然だ。


 エレナ嬢は安定している。


 呼吸も拍も、こちらへ無理なく合わせてくれる。


 リリスとのダンスとは違う。


 リリスとは、二人で一緒に呼吸を探してきた。


 少しずつ、何度も止まりながら。


 エレナ嬢は、すでに形が整っている。


 俺が合わせれば、自然に流れる。


 だからこそ、少し寂しい。


 踊りやすい。


 でも、リリスではない。


 考えるな。


 今はエレナ嬢への礼。


 一、二、三。


 方向転換。


 俺は視界の端にリリスを探しそうになる。


 先生の声が飛ぶ。


「シェルザートさん、目の前の相手」


「はい」


 戻る。


 エレナ嬢が小さく微笑んだ。


「アマリリス様は、ユリウス様がきちんとお守りしていますわ」


「はい」


「今は、私を転ばせないでくださいませ」


「申し訳ありません」


「ふふ。冗談です」


 少し力が抜けた。


 一方、リリスはユリウスと踊っている。


 見ない。


 見ないようにする。


 だが、音の中で時々、視界に入る。


 ユリウスはいつもより軽さを抑えている。


 リリスへ近づきすぎず、丁寧に踊っている。


 分かっている。


 信じている。


 でも、胸が少し痛い。


 嫉妬にも半歩。


 感情を消さない。


 でも、相手へ投げない。


 今はエレナ嬢と踊る。


 最後の三拍。


 一、二、三。


 止まる。


 礼。


「ありがとうございました、エレナ様」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 先生が頷く。


「よろしい。シェルザートさん、途中で婚約者を気にしましたね」


「はい」


「戻れましたか?」


「はい」


「ならよい。エレナさんへの礼は保てていました」


「ありがとうございます」


 俺は一拍置いてから、リリスの方を見た。


 リリスとユリウスも踊り終わっていた。


 ユリウスが丁寧に礼をしている。


 リリスも礼を返す。


 リリスが顔を上げた。


 俺と目が合う。


 その目が一気に潤んだ。


 ハンカチが左手へ移る。


 戻りたい合図。


 俺は胸元に触れる。


 まだ青はない。


 でも、合図はある。


 リリスが小さく息を吐いた。


 先生が言う。


「では、婚約者のもとへ戻ってください」


 俺とリリスは、それぞれ相手へもう一度礼をしてから中央へ戻った。


 並ぶ。


 近づきすぎない。


 遠すぎない。


 戻った。


 リリスが小さく言った。


「アル」


「はい」


「戻りました」


「はい」


「私、嫌でした」


「俺もです」


「でも、踊れました」


「はい」


「ユリウス様は、とても丁寧でした」


「エレナ嬢も」


「……はい」


 言いながら、二人とも少し複雑な顔になる。


 先生がすぐに言った。


「そこで相手への感謝を否定しない」


「はい」


 俺たちは同時に答えた。


 教室に小さな笑いが起きた。


「婚約者以外と踊って楽であった、踊りやすかった、という感想を持つこともあります」


 先生は続ける。


「それを罪のように扱う必要はありません。相手への礼と、婚約者への思いは別です」


 リリスが真剣に聞いている。


「大切なのは、比べて相手を傷つけないこと」


「はい」


「そして、戻る場所を自分で選ぶこと」


 リリスの手が少し震えた。


「アマリリスさん」


「はい」


「ユリウスさんとのダンスはどうでしたか?」


 直球。


 リリスは一拍置いた。


「とても踊りやすかったです。ユリウス様が、私の緊張に合わせてくださったので」


 ユリウスが少し照れたように礼をする。


「ありがとうございます」


 先生が俺を見る。


「嫌ですか?」


「少し」


 俺は正直に答えた。


 教室がざわついた。


 リリスが俺を見る。


「ですが」


 俺は続けた。


「ユリウス様がリリスへ礼を尽くしてくださったことには、感謝しています」


 ユリウスの表情が真面目になる。


「任せてくれてありがとう」


「はい」


 先生が頷く。


「よろしい。嫉妬を否定せず、相手への礼も受け取れています」


 次にリリス。


「シェルザートさんとエレナさんのダンスは、どう見えましたか?」


 リリスの顔が少し硬くなる。


 一拍。


「とても綺麗でした」


 声が少し震える。


「エレナ様はお上手で、アル……シェルザート様も、落ち着いて踊っていました」


 呼び方も戻った。


「嫌でしたか?」


「はい」


 即答だった。


 教室が少しざわつく。


 リリスは続ける。


「ですが、エレナ様がシェルザート様へ礼を尽くしてくださったことは分かっています。私も、感謝しています」


 エレナ嬢が優しく礼をした。


「ありがとうございます、アマリリス様」


 先生が頷く。


「よろしい」


 それだけだった。


 でも、その「よろしい」は重かった。


 嫉妬した。


 嫌だった。


 それでも、相手への礼を認めた。


 俺たちは少しだけ、今日の課題を受け取れたのだと思う。


 次の組み合わせでは、俺はクラリス嬢と短く踊り、リリスはニールと踊った。


 クラリス嬢は緊張していた。


 俺も少し緊張した。


「シェルザート様、足を踏んでしまったら申し訳ありません」


「大丈夫です。俺も完璧ではありません」


「はい」


「一拍ずつ行きましょう」


「はい」


 クラリス嬢は、丁寧に踊った。


 途中で足が少し乱れたが、俺は待った。


 彼女も戻った。


 一方、ニールとリリスは、かなりぎこちなかった。


 二人とも緊張している。


 ニールはリリスに近づきすぎないよう、遠くなりすぎていた。


 先生から、


「バートンさん、遠すぎます」


 と言われ、慌てて戻り版をしていた。


 リリスは少し笑った。


 その笑顔を見て、俺の胸がまた少し狭くなる。


 リリスが他の男と笑っている。


 嫌だ。


 でも、良い笑顔だった。


 ニールも少し安心したようだ。


 俺はクラリス嬢への礼へ意識を戻す。


 目の前の相手を粗末にしない。


 これが今日の半歩だ。


 休み時間。


 リリスは席に座ると、しばらく何も言わなかった。


 俺も隣に座った。


 教室のざわめきが遠く聞こえる。


 皆、今日の練習について話している。


 少し笑っている者。


 気まずそうな者。


 婚約者がいる者同士は、互いに様子をうかがっている。


 リリスが、ハンカチを握った。


「アル」


「はい」


「嫌でした」


「はい」


「アルが、エレナ様と踊るのを見て」


「はい」


「綺麗でした」


「はい」


「だから、余計に嫌でした」


 正直だ。


 俺は一拍置いた。


「俺も、リリスとユリウス様のダンスが綺麗に見えました」


 リリスの目が潤む。


「嫌でしたか?」


「はい」


「……少し嬉しいです」


「俺も、リリスが嫌だったと言ってくれて、少し嬉しいです」


 二人とも、少し笑った。


 嫉妬を喜ぶのはおかしいかもしれない。


 でも、自分が大切にされていると感じる。


 その嬉しさは、確かにあった。


「でも」


 リリスが続ける。


「エレナ様は、とても丁寧でした」


「はい」


「ユリウス様も」


「はい」


「ニール様も、緊張しながら礼を尽くしてくださいました」


「クラリス嬢もです」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


「嫌な気持ちと、感謝は、一緒にあっていいのですね」


「はい」


「嫉妬にも半歩」


「はい」


「消さず、投げず」


「はい」


「戻る」


「はい」


 リリスの涙が一粒落ちた。


「今日、難しいです」


「俺もです」


「一緒です」


「はい」


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは涙を拭いた。


 エレナ嬢が少し離れた場所からこちらを見ていた。


 近づこうか迷っている様子だった。


 リリスがそれに気づき、立ち上がる。


「エレナ様」


「はい」


「先ほどは、アル……シェルザート様へ丁寧に接してくださり、ありがとうございました」


 エレナ嬢は少し驚いた。


 そして、とても優しく微笑んだ。


「こちらこそ、ありがとうございました。私も練習相手として多く学べましたわ」


「はい」


「アマリリス様」


「はい」


「私も、少し緊張しておりました」


「エレナ様も?」


「ええ。大切なご婚約者をお借りする練習でしたもの」


 リリスの目が潤む。


「お借りする」


「一曲だけですわ」


「はい」


 リリスは泣きながら笑った。


 次に、俺もユリウスのところへ行った。


「ユリウス様」


「うん」


「リリスへ丁寧に接してくださり、ありがとうございました」


 ユリウスは少しだけ驚いた顔をした。


「どういたしまして」


「正直、嫌でした」


「正直すぎるね」


「でも、任せられました」


 ユリウスの表情が柔らかくなる。


「それなら良かった。僕も、からかわないようにかなり頑張った」


「いつもそうしてください」


「それは難しい」


「お願いします」


 二人で少し笑った。


 昼休み。


 食堂では、他者ダンス練習の話題でかなりざわついていた。


 招待された生徒たちは、本番で誰と踊る可能性があるのかを考え始めている。


 婚約者同士の席では、少し気まずい空気もある。


 だが、俺たちの席は思ったより穏やかだった。


 リリスはスープを飲みながら、エレナ嬢へ言った。


「エレナ様、本当にありがとうございました」


「もう十分受け取りましたわ」


「はい」


 ユリウスが笑う。


「アマリリス様、アルフレッドが僕に感謝しに来たよ」


「アルが?」


 リリスが俺を見る。


「はい」


「嫌だったけど、任せられたって」


 ユリウスが言う。


 リリスの目が潤んだ。


「アル」


「言わなくていいです」


「でも、嬉しいです」


「分かりました」


 ニールも小さく言った。


「僕、アマリリス様と踊るの、すごく緊張しました」


「申し訳ありません」


「いえ。でも、笑ってくださったので、少し戻れました」


 リリスが微笑む。


「ニール様が、きちんと距離を取ろうとしてくださったことが分かりました」


「取りすぎました」


「はい」


 全員が少し笑った。


 嫉妬や不安があっても、こうして話せる。


 それは大きい。


 午後の魔法基礎では、今日の感情がはっきり光に出ていた。


 リリスの魔力は、深い青の中に少し赤い揺らぎを含んでいた。


 教師が興味深そうに言った。


「アマリリスさん、今日は複雑な色ですね」


「嫉妬、だと思います」


 リリスは正直に答えた。


 教室が少しざわついた。


 教師は驚かなかった。


「嫉妬を消しますか?」


 リリスは少し考えた。


「消したくはありません」


「なぜですか?」


「アルを大切に思っている気持ちも入っているからです」


 強い。


 俺は少し顔が熱くなった。


 教師は頷く。


「では、人を傷つけない形に整えましょう」


「はい」


「色を消すのではなく、尖りを丸くする」


「はい」


 リリスは目を閉じた。


 深い青。


 少し赤い揺らぎ。


 最初は尖っていた。


 だが、呼吸を整えるたび、赤は柔らかく青へ混ざっていった。


 消えてはいない。


 でも、刺さる形ではない。


「よろしい」


 教師が言った。


「感情を持つことと、感情に使われることは違います」


「ありがとうございます」


 リリスは受け取った。


 俺も心の中で受け取った。


 放課後。


 レオナルド先輩が待っていた。


 今日の顔は、非常に険しかった。


「リリス」


「お兄様」


「他の者と踊ったな」


「はい」


「誰だ」


「ユリウス様と、ニール様です」


 レオナルド先輩の視線が鋭くなる。


 だが、すぐに一拍置いた。


 見て分かった。


 兄も半歩を使っている。


「丁寧だったか?」


「はい。お二人とも」


「ならよい」


 すごい。


 レオナルド先輩も成長している。


 彼は俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「君も他の令嬢と踊ったな」


「エレナ嬢と、クラリス嬢です」


「リリスを不安にさせたか?」


「少し」


「礼は尽くしたか?」


「はい」


「ならよい」


 短い。


 だが、認めている。


「嫉妬したか?」


「はい」


 俺とリリスが同時に答えた。


 レオナルド先輩が一瞬黙った。


 そして小さく頷いた。


「それもよい」


「よいのですか?」


 リリスが聞く。


「大切に思っているなら、多少はある」


「お兄様も?」


「質問を変えろ」


 リリスが少し笑った。


 レオナルド先輩は咳払いをした。


「父上には、まだすべて伝えていない」


「段階的に?」


「まず、婚約者以外とのダンス練習があったと伝えた」


「どうなりました?」


「立った」


「でしょうね」


「母上が札を出した」


「何ですか?」


「『他者ダンスで剣を抜かない』」


「剣!?」


 俺の声が大きくなった。


「騎士団長だからな」


「いや、そういう問題ですか?」


「父上は剣を抜くつもりはなかったと言った」


「よかったです」


「だが、腰に手をやっていた」


「危ない!!」


 リリスが顔を真っ赤にして両手で覆った。


「お父様……」


「次に、丁寧に踊ってもらったと伝えた」


「はい」


「座った」


「おお」


「泣いた」


「いつも通り」


「新札が増えた」


「何ですか?」


「『一曲は一曲』」


「どういう意味ですか」


「一曲踊っただけで、婚約が変わるわけではないと」


「そこから説明が必要なんですね」


「父上には必要だ」


 ガロウ公爵。


 理屈は分かっているはずなのに、感情が追いつかない。


 少し、今日の俺たちと同じかもしれない。


 正門で別れる時。


 リリスは朝より落ち着いていた。


 だが、目元は何度も泣いたせいで赤い。


 俺たちはいつもの距離に立った。


 近すぎず。


 遠すぎず。


「アル」


「はい」


「今日は、他の方と踊りました」


「はい」


「嫌でした」


「はい」


「でも、礼を尽くせました」


「はい」


「アルも」


「はい」


「戻りました」


「はい」


 リリスは静かに笑った。


「今日の宝物名は」


「はい」


「嫉妬にも半歩を置けた日の宝物です」


「良い名前です」


「あと」


「はい」


「他の方と踊っても、戻る場所を選び直せた日の宝物です」


 ライズの予測。


 互いを選び直す確認。


 本当に来た。


 俺は一拍置いた。


「俺も、リリスの隣へ戻れてよかったです」


 リリスの目から涙が落ちた。


「強いです」


「でも本当です」


「はい」


「誰と踊っても、戻る場所はリリスの隣です」


 完全に泣いた。


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは涙を拭きながら、笑った。


「私もです」


「はい」


「誰と踊っても、アルの隣へ戻ります」


「受け取ります」


「はい」


 しばらく、言葉がなかった。


 馬車の音。


 風に揺れる木々。


 遠くから聞こえる生徒たちの声。


 その中で、俺たちはただ隣に立っていた。


 今日、何度も離れた。


 別の相手と踊った。


 嫉妬した。


 嫌だった。


 でも、戻った。


 それでいいのだと思う。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 リリスの馬車が遠ざかる。


 俺は見送りながら、胸元に触れた。


 青はまだない。


 だが、戻る場所はもうある。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上と母上が待っていた。


「他の相手と踊ったか」


「はい」


「嫌だったか」


「はい」


「礼は尽くしたか」


「はい」


「戻ったか」


「はい」


 父上は満足そうに頷いた。


「ならよい」


 母上が微笑む。


「嫉妬を消さなかったのね」


「はい」


「でも、相手へ投げなかった」


「たぶん」


「十分よ」


 その後、フルーラ家から書状が届いた。


 一通目、ガロウ公爵。


『リリスが婚約者以外と踊ったと聞いた。立った。私が。腰に手をやった。剣は抜いていない。セレスティアに「他者ダンスで剣を抜かない」の札を出された。座った。泣いた。丁寧に踊ってもらったと聞いた。「一曲は一曲」の札を見た。一曲は一曲。婚約は婚約。理解している。泣いた。 ガロウ』


 二通目、レオナルド先輩。


『婚約者以外とのダンス練習は必要だ。リリスも君も嫉妬を認めながら、相手へ礼を尽くせた。よい。戻る場所を自分たちで選べ。父上は腰に手をやったが剣は抜かなかった。「他者ダンスで剣を抜かない」「一曲は一曲」を導入。効果あり。 レオナルド』


 三通目、セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日は婚約者以外とのダンス練習だったそうですね。嫉妬を感じること自体は悪いことではありません。大切なのは、その感情で相手の役目を奪わず、踊ってくださった方への礼も忘れず、最後に戻る場所を自分たちで選ぶことです。夫には「他者ダンスで剣を抜かない」「一曲は一曲」の札を出しました。剣は抜きませんでした。座りました。泣きました。継続が大切です。 セレスティア』


 俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。


 一曲は一曲。


 婚約は婚約。


 確かに、その通りだ。


 父上は腹を抱えて笑っている。


 母上は少しだけ優しい顔で書状を見ていた。


 リーマスは胸に手を当て、


「嫉妬にも礼を置ける者こそ、真に相手を大切にできるのでございます」


 と頷いた。


 ライズは静かに親指を立てた。


 そして、俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 他の方と踊っても、ちゃんとお互いの場所へ戻れました!!


 でも、お父様は他者ダンスで絶対に剣を抜かないでください!!

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