第49話 公爵令嬢様、一曲分の前に心が一曲分もちません
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、俺とリリスは踊った。
正確に言うなら、三歩だけ踊った。
一、二、三。
止まる。
呼吸。
また、一、二、三。
それだけだ。
夜会のダンスとしては、本当に入口の入口。
まだ曲に合わせて一曲踊ったわけでもない。
広間を回ったわけでもない。
ただ、基本姿勢を取って、手を重ねて、呼吸を合わせて、三歩進んだだけ。
それだけ。
……それだけのはずなのに、昨日からずっと手の感覚が残っている。
リリスの手は細くて、思っていたより温かかった。
俺の右手を彼女の背へ添えた瞬間、リリスの肩が小さく震えた。
その震えを感じた俺まで、心臓が変な音を立てた。
先生に言われた通り、呼吸を合わせた。
一拍目だけ、一緒に。
吸って、吐く。
その瞬間、リリスの表情がほんの少しだけ落ち着いた。
それを見て、俺も落ち着いた。
たった三歩。
でも、俺たちにとっては大きな三歩だった。
リリスは昨日、別れ際に言った。
「アルと最初の三歩を踊れた日の宝物です」
さらに、
「呼吸が合った日の宝物です」
とも言った。
俺はつい、
「それは、俺にとっても宝物です」
と言ってしまった。
結果、リリスは泣いた。
分かっていた。
分かっていたが、あれは言わずにはいられなかった。
そしてその夜、フルーラ家から届いた書状には、ガロウ公爵が想像だけで静かに崩れたと書かれていた。
新札は、
『三歩で崩れない』
である。
ガロウ公爵。
まだ三歩です。
夜会本番では一曲踊るかもしれません。
本当に大丈夫ですか。
朝。
屋敷の食堂で、俺は昨日のダンス練習について父上と母上に報告していた。
「三歩踊れたか」
「はい」
「呼吸は?」
「一度、合いました」
「なら上出来だ」
父上は満足そうに頷いた。
「最初のダンス練習で大事なのは、足運びより呼吸だ。足は後から整う」
「はい」
「リリス嬢はどうだった?」
「かなり緊張していました。手を取った時点で小声版でした」
「だろうな」
「でも、離しませんでした」
「それは大きい」
母上が優しく言った。
「リリス様、頑張ったのね」
「はい」
「アルも」
「俺も、ですか?」
「ええ。あなたも緊張していたでしょう?」
「……はい」
「でも、ちゃんと向き合った」
「はい」
「今日は、昨日より少し長く踊ることになるかもしれないわ」
来た。
やはり。
「三歩の次は?」
「おそらく、短い一連の流れでしょうね。三歩、方向転換、三歩。もしかしたら半曲程度まで」
「半曲」
胃が少し重くなった。
一曲ですらない。
半曲。
それでも昨日の三歩から考えれば、かなり進む。
母上は微笑んだ。
「焦らないこと。最初から綺麗に踊ろうとしすぎないこと」
「はい」
「リリス様を綺麗に見せようと力みすぎると、逆に動きが硬くなるわ」
「父上にも言われました」
「相手を信じることね」
相手を信じる。
昨日、先生にも言われた。
俺はリリスを支えようとしすぎて、少し動きが重くなっていた。
リリスは俺を見すぎて、感情が先に動いていた。
今日の課題は、それぞれ少しずつ信じることかもしれない。
ライズは鞄を整えながら言った。
「若様、本日のハンカチは十四枚でございます」
「また増えたな」
「三歩突破翌日、発展練習日でございますので」
「分類が細かい」
「想定される涙は、昨日の三歩思い出し涙、本日さらに長く踊る緊張涙、回転時に距離を見失う涙、若様と拍が合った時の感動涙、練習後に一曲への現実味を覚えた涙でございます」
「回転時に距離を見失う涙?」
「ダンスでは方向転換がございます」
「確かに」
「アマリリス様が若様を見すぎると、足元ではなく感情が回転する恐れがあります」
「感情が回転」
「はい」
「うまいこと言ったみたいな顔をするな」
「失礼いたしました」
ライズは真顔だ。
いつも通り真顔だ。
しかし、今日の注意点は本当に重要だった。
ダンスで回転する時、相手を見る。
だが、見すぎると崩れる。
リリスだけでなく俺も危ない。
「若様」
「何だ」
「本日の心の札は、『拍を聞く』でございます」
「呼吸じゃなくて?」
「昨日は呼吸。本日は拍です」
「なるほど」
「近さに惑わされず、音を聞いてください」
「分かった」
俺は深呼吸した。
今日の心の札。
拍を聞く。
学園へ向かう馬車の中、俺は昨日の三歩を頭の中で何度も繰り返した。
一、二、三。
止まる。
呼吸。
一、二、三。
今日は、その先へ進む。
方向転換。
おそらく、手を取ったまま流れを作る。
リリスは大丈夫だろうか。
いや、俺は?
俺は大丈夫なのか?
窓に映った自分の顔は、思ったより緊張していた。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
今日の彼女は、昨日より少し落ち着いて見えた。
だが、俺を見つけた瞬間、頬が赤くなった。
昨日の手の感覚を思い出したのだろう。
いや、俺も思い出した。
歩いてくる。
走らない。
一歩一歩、慎重に。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日は昨日より落ち着いていました」
「昨日、三歩踊れたので」
「はい」
「少しだけ、自信がつきました」
「それは良かったです」
「ですが」
「はい」
「今日は、三歩より進むのですよね」
「おそらく」
「回るのでしょうか」
「たぶん」
「アル」
「はい」
「私、回っている途中でアルを見たら、戻れなくなる気がします」
「どこへ?」
「心が」
「心が」
リリスは真剣だった。
とても真剣だった。
俺は笑わないように頷く。
「今日は、音を聞きましょう」
「音」
「はい。俺も、ライズに拍を聞くよう言われました」
「拍を聞く」
「リリスも、俺を見るだけではなく、音を聞く」
「……はい」
「俺も、リリスを支えようとしすぎず、音を聞きます」
リリスの表情が柔らかくなる。
「一緒に音を聞くのですね」
「はい」
目が潤んだ。
早い。
「小声版です」
「朝一回目ですね」
「はい。音を一緒に聞くのが強いです」
「今日はそういう日ですね」
俺はハンカチを差し出す。
リリスは少しだけ涙を拭いた。
「アル」
「はい」
「昨日の三歩、宝物です」
「はい」
「今日も、宝物になるでしょうか」
「なると思います」
「……強いです」
「すみません」
「でも、嬉しいです」
ミラが後ろで静かに言った。
「本日一回目、通常発生。二回目、接近中でございます」
「ミラ、今日も細かいです」
「発展練習日ですので」
発展練習日。
すでに公的分類のようになっている。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは俺とリリスを見て、すぐに笑った。
「おはよう。昨日より顔がダンスしてる」
「顔がダンスとは」
「なんか、三歩の余韻が残ってる」
「否定できません」
リリスが小さく答える。
ユリウスは楽しそうに頷く。
「今日はもう少し進むだろうね」
「やはり」
「回転くらいはやるんじゃない?」
リリスが固まる。
エレナ嬢が優しく言った。
「アマリリス様、回転は相手を見るのではなく、流れを見るのですわ」
「流れ」
「はい。アルフレッド様だけを見てしまうと、感情が先に回ってしまいます」
「ライズと同じことを」
俺が言うと、エレナ嬢は少し驚いた。
「ライズ様も?」
「感情が回転すると言っていました」
ユリウスが吹き出した。
「ライズ殿、詩人だね」
「本人は真顔でした」
「だろうね」
エレナ嬢は微笑んだ。
「でも、正しいですわ。今日は音と流れを意識するとよいと思います」
「はい」
リリスは真剣に頷いた。
「アルを見すぎないようにします」
少し寂しい。
いや、何を思っている。
見すぎると崩れるのだから正しい。
リリスがこちらを見た。
「アル?」
「はい」
「少し寂しそうです」
「気のせいです」
「本当ですか?」
「半歩でお願いします」
「はい」
ユリウスがにやにやしている。
エレナ嬢も口元を押さえている。
朝から俺まで危険だ。
教室に入ると、机は昨日と同じように端へ寄せられていた。
今日は最初から広い空間が作られている。
つまり、ダンス練習確定である。
ニールが青い顔をしていた。
「シェルザート君」
「はい」
「昨日、足を踏みかけました」
「はい」
「今日、回るって聞きました」
「はい」
「終わりました」
「終わっていません」
リリスが真剣に言った。
「バートン様、足を踏みそうになったら戻り版です」
「戻り版で足は戻るでしょうか」
「戻ります」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん」
ニールが余計に不安そうになった。
だが、少し笑っている。
クラリス嬢も今日は授業を見学する形で参加している。
彼女は夜会には出ないが、礼法として学ぶらしい。
「アマリリス様、昨日の三歩、とても綺麗だったと聞きました」
「誰からですか?」
「エレナ様から」
「エレナ様」
「本当ですもの」
エレナ嬢が微笑む。
リリスの目が潤む。
「小声版です」
「まだ授業前です」
「はい」
一時間目。
礼法。
ベイル先生は教室の前に立ち、黒板へ今日の課題を書いた。
『ダンスの呼吸と拍』
昨日が距離ではなく呼吸。
今日は呼吸と拍。
少し進んだ。
「本日は、昨日の三歩から少し進めます」
教室がざわつく。
「三歩、方向転換、三歩。まずはここまでです」
半曲どころではなく、まだ六歩。
少し安心した。
いや、リリスにとっては十分大きい。
「昨日確認した通り、ダンスで大切なのは、相手を見つめ続けることではありません」
リリスがぴくっとする。
「相手を無視することでもありません」
今度は俺が少し反応する。
「音を聞き、拍を取り、相手の呼吸を感じることです」
先生は手を軽く叩いた。
一、二、三。
一、二、三。
「まずは全員、手を組まずに足運びだけ」
全員で練習する。
一、二、三。
方向転換。
一、二、三。
リリスはやはり綺麗だ。
足運びだけなら本当に完璧に近い。
俺も何とかできる。
ニールは方向転換で少し迷子になった。
ユリウスは軽やかすぎて先生に「軽さを半歩抑える」と言われた。
エレナ嬢は優雅。
さすがだ。
そして、いよいよペア練習。
先生が言う。
「シェルザートさん、アマリリスさん」
「はい」
「昨日と同じ姿勢から」
俺とリリスは前に出る。
向かい合う。
昨日より少しだけ、心の準備はある。
だが、近いものは近い。
俺が左手を差し出す。
リリスが重ねる。
昨日より手の震えは少ない。
でも、頬は赤い。
俺が右手を添える。
リリスが息を吸う。
「呼吸」
俺が小さく言う。
「はい」
一緒に吸う。
吐く。
昨日より少し早く合った。
先生が頷く。
「よろしい。では、まず三歩」
一、二、三。
できた。
「止まらず、方向転換」
来た。
俺は教わった通りに体の向きを変える。
リリスが合わせる。
少し遅れる。
でも、崩れない。
「そのまま三歩」
一、二、三。
止まる。
できた。
六歩。
方向転換つき。
できた。
リリスの目が潤む。
「アル」
「はい」
「回れました」
「はい」
「心も、戻ってきました」
「よかったです」
「小声版です」
「分かります」
先生が静かに言う。
「泣く前に深呼吸」
「はい」
リリスは手を離さずに深呼吸した。
俺も合わせる。
泣かなかった。
拍を聞けた。
先生が言う。
「もう一度」
今度は、少しだけ楽になった。
一、二、三。
方向転換。
一、二、三。
止まる。
リリスは俺を見すぎないようにしている。
俺も支えすぎないようにする。
だが、完全に見ないわけではない。
呼吸でつながる。
これがダンスなのかもしれない。
三回目。
少し流れができた。
教室から小さな拍手が起きそうになったが、先生が目で止めた。
発表会ではない。
リリスが拍手で泣く可能性があるからだろう。
先生、さすがである。
「よくなりました」
先生が言った。
「シェルザートさん、昨日より力みが抜けています」
「ありがとうございます」
「アマリリスさん、相手を見すぎず、拍を聞けています」
「ありがとうございます」
「ただし、方向転換の時に少し感情が先に回りました」
「……はい」
感情が先に回る。
正式に採用された。
リリスは真っ赤だ。
先生は続ける。
「次は、音に合わせます」
音。
これまで先生の拍だけだったが、今度は小さな楽器の音が入る。
教室の端にいた補助の教師が、簡単な旋律を弾き始めた。
ゆっくりとした三拍子。
空気が変わる。
ただの練習から、少しだけ夜会に近づいた。
リリスの手が少し強くなる。
「リリス」
「はい」
「音を聞きましょう」
「はい」
音。
一、二、三。
俺たちは動いた。
一、二、三。
方向転換。
一、二、三。
少し流れた。
ほんの少し。
だが、昨日の三歩とは違う。
音に乗った。
リリスの目が潤む。
「アル」
「はい」
「音が」
「はい」
「一緒に」
「はい」
「……小声版です」
「止まらず、深呼吸」
「はい」
音が続いている。
俺たちは姿勢のまま、呼吸だけ整える。
先生が頷いた。
「よろしい。今の止まり方は悪くありません。夜会でも、心が揺れた時に、すべてを崩すのではなく、流れの中で整えること」
「はい」
流れの中で整える。
また新しい課題だ。
授業の後半は、他の生徒もペアで練習した。
ニールは一度足を踏んだ。
相手に全力で謝っていた。
そして小さく「戻り版です」と言っていて、相手も笑って許していた。
半歩の使い方としては正しい。
ユリウスは軽やかに踊りすぎて、相手役の女子を笑わせてしまい、先生に「場を軽くしすぎない」と注意されていた。
エレナ嬢は本当に綺麗だった。
リリスはそれを見て感心していた。
「エレナ様、素敵です」
「ありがとうございます」
「小声版です」
「なぜアマリリス様が?」
「美しかったので」
エレナ嬢が照れた。
休み時間。
リリスは椅子に座り、手元を見ていた。
「アル」
「はい」
「昨日は三歩でした」
「はい」
「今日は、回りました」
「はい」
「音に合わせました」
「はい」
「少し、夜会に近づきました」
「そうですね」
「……怖いです」
リリスは小さく言った。
嬉しいだけではない。
夜会に近づくほど、現実味が増す。
俺は頷いた。
「俺も怖いです」
「アルも?」
「はい」
「一緒ですか?」
「はい」
リリスの目が潤む。
「一緒は強いですが、安心します」
「俺もです」
リリスは涙を一粒落とした。
俺はハンカチを渡す。
彼女は拭きながら、小さく笑った。
「今日も宝物になりそうです」
「はい」
二時間目以降も、ダンスの余韻は残っていた。
授業中、リリスが何度か音の拍を指で小さく取っていた。
一、二、三。
それを見て、俺も頭の中で同じ拍を取る。
一、二、三。
離れていても、同じ拍を思い出している。
それに気づいた瞬間、俺の方が少し照れた。
昼休み。
食堂では、ダンス練習の話題が広がっていた。
招待された生徒たちは皆、少し疲れた顔をしている。
ニールは本当に落ち込んでいた。
「足を踏みました」
「謝れたんですよね?」
「はい」
「なら大丈夫です」
リリスが優しく言う。
「戻り版、できていました」
「ありがとうございます」
ニールは少し救われた顔をした。
ユリウスが言う。
「アルフレッドとアマリリス様は、昨日よりかなり良くなってたね」
「そうですか?」
「うん。昨日は近さに驚いてる感じ。今日は音を聞こうとしてた」
「ユリウス様、よく見ていますね」
「観察は得意だから」
エレナ嬢も頷く。
「お二人とも、呼吸が合う瞬間が増えていましたわ」
リリスの目が潤む。
「エレナ様」
「本当です」
「小声版です」
「今日は仕方ありませんわ」
食事中に泣きすぎないよう、俺は水を差し出した。
リリスは受け取り、少し笑った。
「アル、水の橋です」
「新しい橋を作らないでください」
「でも、助かりました」
「なら良かったです」
午後の魔法基礎では、昨日と同じく拍を使った魔力調整が行われた。
リリスの光は、昨日より少し滑らかだった。
一、二、三。
光が揺れ、整う。
一、二、三。
小さく回るように流れる。
教師が言った。
「アマリリスさん、今日は魔力にも拍がありますね」
「ありがとうございます」
「ただし、感情が乗りすぎると光が跳ねます」
「はい」
「音を聞きましょう」
「はい」
リリスは目を閉じる。
光が落ち着く。
ダンス練習が、魔法にもつながっている。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日は、昨日よりさらに目が鋭い。
「リリス」
「お兄様」
「今日は回ったそうだな」
「はい」
「音にも合わせたと」
「はい」
「泣いたか?」
「少し」
「だろうな」
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「今日は昨日より力みが抜けたらしいな」
「先生にそう言われました」
「良い」
「ありがとうございます」
「ただし、油断するな。夜会では周囲の視線がある」
「はい」
「音を聞け」
「はい」
やはり、同じことを言われる。
レオナルド先輩は少し息を吐いた。
「父上には、今日の練習内容を段階的に伝えた」
「段階的に」
「まず、三歩は昨日できたと再確認」
「はい」
「次に、今日は方向転換をしたと伝えた」
「どうなりました?」
「崩れかけた」
「かけた?」
「札『三歩で崩れない』を出した」
「方向転換なのに?」
「まだ三歩の延長だと言い張った」
「なるほど」
「次に、音に合わせたと伝えた」
「どうなりました?」
「静かに座った」
「おお」
「そして泣いた」
「やはり」
「新札が増えた」
「何ですか」
「『音で崩れない』」
「音でも!?」
リリスが顔を真っ赤にして俯いた。
「お父様……」
レオナルド先輩は真顔だった。
「本番までに、父上も一曲分もたせる必要がある」
「目的が増えている」
俺は思わず呟いた。
正門で別れる時、リリスは昨日より少し疲れていた。
だが、表情は明るい。
「アル」
「はい」
「今日は、回れました」
「はい」
「音に合わせられました」
「はい」
「でも、本番が少し近づいて、怖くなりました」
「はい」
「でも、アルも怖いと言ってくださいました」
「はい」
「一緒だと、思えました」
「はい」
リリスは柔らかく笑った。
「今日の宝物名は」
「はい」
「アルと音に合わせて回れた日の宝物です」
「良い名前です」
「あと」
「はい」
「怖さも一緒に受け取れた日の宝物です」
「……それは、とても大切ですね」
リリスの目が潤む。
「強いです」
「でも、本当に」
「はい」
俺はハンカチを渡した。
リリスは涙を拭き、笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はその背を見送りながら、頭の中で今日の拍を思い出した。
一、二、三。
方向転換。
一、二、三。
昨日より、少し進んだ。
夜会に近づいた。
怖さも増えた。
でも、リリスと同じ拍を聞けた。
その夜。
屋敷に帰ると、父上と母上が待っていた。
「今日は?」
「方向転換までしました」
「おお」
「音にも合わせました」
「よし」
「緊張しました」
「だろうな」
母上が微笑む。
「怖さも増えた?」
「はい」
「それは、近づいている証拠よ」
「夜会に?」
「ええ。でも、二人で聞く拍があるなら大丈夫」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『リリスがアルフレッド殿と回ったと聞いた。泣いた。私が。音にも合わせたと聞いた。座った。泣いた。走らなかった。私は成長している。だが音で崩れそうだったため、セレスティアに「音で崩れない」の札を出された。努力する。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『リリスは方向転換と音合わせまで進んだ。君も昨日より力みが抜けたようだな。良い。ただし夜会本番は視線がある。音を聞け。父上は「音で崩れない」の札を追加。走らなかった点は評価する。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日はリリスと音に合わせて踊られたそうですね。昨日の三歩から、今日は方向転換と拍へ進めたことは大きな成長です。夜会に近づくほど怖さも増えますが、その怖さも二人で半歩ずつ受け取ってくださいませ。夫には「音で崩れない」の札を追加しました。座りました。泣きました。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
音で崩れない。
座りました。
泣きました。
ガロウ公爵は、確かに成長している。
たぶん。
父上は腹を抱えて笑った。
母上も楽しそうに肩を震わせていた。
リーマスは「音にも礼が宿るのでございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
音に合わせて、ちゃんと一緒に回れました!!
でも、お父様は音だけで崩れないでください!!




