第47話 公爵令嬢様、王城用半歩の練習で近づきすぎます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
王城から、正式な招待状が届いた。
春の親睦夜会。
王城主催。
若い貴族子息令嬢を中心とした交流の場。
そして俺とリリスも、正式に招かれた。
招待状には、王家の紋章が封蝋に押されていた。
それを手にした時、紙なのに妙な重さを感じた。
物理的な重さではない。
伯爵家の子息としての重さ。
フルーラ公爵令嬢の婚約者としての重さ。
そして、リリスと一緒に王城へ行くという、別の意味で心臓に悪い重さである。
昨日、招待状が届いた日。
リリスは何度も泣いた。
王城から招待状が届いた日の宝物。
アルと夜会に行くことが決まった日の宝物。
そう言って、涙をこぼしていた。
俺も正直、平静ではなかった。
王城。
夜会。
リリスのドレス姿。
婚約者として並ぶ。
……想像すると、いろいろ危ない。
リリスの距離感も危ない。
ガロウ公爵も危ない。
俺の心臓も危ない。
そして今日から、準備が始まる。
学園では、夜会用の礼法訓練。
屋敷では、礼装の確認。
フルーラ家では、王城用半歩とガロウ公爵対策。
……最後だけ、明らかに別の訓練では?
いや、必要なのだろう。
王城で公爵が走るわけにはいかない。
しかも騎士団長である。
走ったら速い。
止めるのが大変だ。
朝。
屋敷の食堂で、父上が昨日の招待状を改めて確認していた。
「日時は来週末。王城西の大広間。開始は夕刻。若い世代を中心とした親睦夜会だな」
「はい」
「保護者同伴の家もあるが、学園推薦枠の者は本人中心で参加する形になる」
「父上と母上は?」
「王城には入るが、夜会の場では別の控えに回ることになるだろう。完全に離れるわけではない」
「なるほど」
「フルーラ公爵夫妻は当然来る」
「ですよね」
「問題はガロウだな」
「やはり」
父上は真面目な顔で言った。
「王城で走るのはまずい」
「当然です」
「泣くのは?」
「それもまずいのでは?」
「多少なら許されるかもしれんが、崩れるのはまずい」
「崩れる前提なんですね」
「崩れるだろう」
父上は即答した。
やはり、ガロウ公爵の娘愛は周囲に周知されているらしい。
母上はくすくす笑いながら言った。
「リリス様のドレス姿を見たら、アルも少し危ないかもしれないわね」
「母上」
「ふふ。大丈夫。泣く前に深呼吸よ」
「俺も札が必要ですか?」
「自分で心に持ちなさい」
「はい」
札。
心の札。
まさか自分にも必要になるとは。
父上は俺を見た。
「アルフレッド、今日は学園で夜会礼法の訓練があるだろう」
「はい。おそらく」
「婚約者としての立ち位置、紹介時の礼、会話の距離、ダンス前後の所作。特に注意しろ」
「ダンス」
ついに来た。
夜会といえばダンス。
避けて通れない。
俺は踊れないわけではない。
貴族子息として最低限は習っている。
だが、得意かと言われると微妙だ。
しかも相手がリリス。
近い。
ダンスはどうしても距離が近い。
王城用半歩とは?
ダンス中に半歩下がったら踊れないのでは?
俺の表情を見て、父上が笑った。
「心配するな。ダンスの距離にはダンスの礼がある」
「はい」
「ただし、リリス嬢が感極まって泣いたら?」
「踊れません」
「そうだ」
「どうすれば」
「泣かせすぎるな」
「無理難題では?」
父上は笑った。
母上は優しく言う。
「踊る前に、二人で呼吸を合わせることね」
「呼吸」
「ええ。発表の時もそうだったでしょう? 目を合わせて、頷いて、呼吸を整えた」
「はい」
「夜会でも同じよ。形は違っても、二人の半歩は変わらないわ」
なるほど。
ダンスでも半歩。
王城でも半歩。
万能すぎる。
ライズは鞄を確認しながら、いつものように言った。
「若様、本日のハンカチは十二枚でございます」
「昨日と同じか」
「王城用半歩訓練日でございますので」
「やはり」
「想定される涙は、夜会礼法訓練涙、婚約者立ち位置確認涙、ダンス想像涙、若様の礼装話題による照れ涙、ガロウ公爵閣下の追加札報告涙でございます」
「増えそうだな、札」
「はい」
「俺の注意点は?」
「本日は、アマリリス様が近づきすぎるだけでなく、恥ずかしさで遠ざかりすぎる可能性もございます」
「戻り版ですね」
「はい」
「王城用半歩と戻り版の使い分けか」
「重要でございます」
「難易度が高いな」
「若様なら可能です」
「……受け取る」
「よろしいかと」
俺は深呼吸した。
今日から、本格的に夜会準備が始まる。
学園へ向かう馬車の中、俺は王城の大広間を想像していた。
高い天井。
輝く灯り。
楽団の演奏。
色とりどりのドレス。
礼装の貴族子息たち。
その中で、リリスが青いドレスを着て立つ。
ブルーローズの髪飾りに似合うような、淡い青か。
それとも公爵令嬢らしく深い青か。
金の髪が光を受けて、碧い瞳がこちらを見て。
やばい。
想像だけで少し危険だ。
俺は窓の外を見た。
落ち着け。
王城用半歩。
自分にも必要だ。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
昨日よりさらにそわそわしている。
たぶん、フルーラ家でも夜会準備の話が本格化したのだろう。
俺を見つけると、ぱっと笑って、すぐに顔を赤くする。
歩いてくる。
走らない。
しかし、今日は途中で一度止まった。
距離を測っている。
そして半歩だけ近づく。
いや、慎重すぎる。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日はかなり距離を測っていましたね」
「王城用半歩の練習です」
「もう始まっているんですね」
「はい。お母様に、王城用半歩は日常から、と言われました」
「セレスティア様は本当に準備が早い」
「はい」
リリスは胸元で手を重ねた。
「アル」
「はい」
「昨日、招待状を見たお父様が泣きました」
「でしょうね」
「走ろうとしました」
「でしょうね」
「お母様が『王城では走らない』の札を出しました」
「聞きました」
「さらに今朝、新しい札が増えました」
「何ですか?」
リリスは少し恥ずかしそうに言った。
「『娘のドレスで崩れない』です」
「やはり」
「お父様は、その札を見て泣きました」
「崩れる前に泣いている」
「はい」
もう笑うしかない。
リリスも恥ずかしそうに笑っている。
だが、次の瞬間、彼女の顔が赤くなった。
「ドレス……」
「はい」
「アルに、見られるのですね」
「……はい」
「王城で」
「はい」
「婚約者として」
「はい」
リリスの目が潤む。
「小声版です」
「朝一回目ですね」
「はい。ドレス想像小声版です」
「深呼吸しましょう」
「はい」
リリスは深呼吸した。
涙は出なかった。
「アル」
「はい」
「アルの礼装も、見ます」
「そうですね」
「……小声版、追加です」
「自分で言って自分に刺さっていますね」
「はい」
ミラが後ろで静かに言う。
「本日二回目、未遂でございます」
「一回目は?」
「出発前、お嬢様がドレス候補の布見本を見て」
「泣いたんですか?」
「はい」
リリスが真っ赤になった。
「まだ布だけです」
「布だけで」
「アルと並ぶと思ったら」
強い。
朝から強い。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
「おはよう。今日から夜会礼法の特訓かな」
「そうでしょうね」
俺が答える。
エレナ嬢はリリスを見て微笑んだ。
「アマリリス様、今日は王城用半歩の練習ですわね」
「エレナ様まで」
「大切ですもの」
「はい」
ユリウスが楽しそうに言う。
「昨日、王城用半歩って言葉、かなり広がったよ」
「ユリウス様のせいです」
「便利だからね」
「便利にしすぎないでください」
「大丈夫。意味はちゃんと伝えてる」
ユリウスは笑いながらも、少し真面目に続けた。
「王城用半歩は、ただ距離を取るって意味じゃなくて、場に合わせた距離を選ぶってことだろ?」
「はい」
リリスが頷く。
「なら、夜会には本当に必要だよ」
「……ありがとうございます」
リリスの目が潤む。
「受け取ります」
エレナ嬢が優しく言う。
「本日は、きっとダンスの話も出ますわ」
リリスが固まった。
「ダンス」
「はい」
「アルと?」
「婚約者ですもの。おそらく」
「……っ」
リリスは完全に真っ赤になった。
「小声版では」
「足りない?」
俺が聞くと、リリスはこくりと頷いた。
「足りません」
「廊下です」
「はい。王城用小声版です」
「それも増えるのか」
ユリウスが笑いを堪えている。
エレナ嬢はにこにこしている。
朝から夜会の話題で、リリスの涙腺が大変だ。
教室に入ると、昨日以上に夜会の話で盛り上がっていた。
招待状を受け取った者たちが、それぞれ緊張と期待で落ち着かない。
ニールは机の上に招待状を置き、真剣な顔で眺めていた。
「バートン君」
「あ、シェルザート君」
「大丈夫ですか?」
「正直、全然大丈夫じゃないです」
ニールは苦笑した。
「王城なんて、僕、ほとんど行ったことがないので」
「俺も大きな夜会は初めてに近いです」
「シェルザート君でも?」
「はい」
ニールは少し安心したように息を吐いた。
「なら、僕も半歩で頑張ります」
「はい」
リリスが微笑む。
「バートン様も、一緒に練習しましょう」
「はい」
クラリス嬢は今回は招待されていないが、リリスのそばに来た。
「アマリリス様、夜会の準備、応援しております」
「ありがとうございます」
「私も、いつか王城の夜会に招かれた時のために、今日の授業はしっかり聞きます」
「クラリス様」
「王城用半歩、学ばせていただきますね」
リリスの目が潤む。
「クラリス様にそう言っていただけると嬉しいです」
「はい」
半歩はまた、次の形で広がろうとしている。
一時間目。
礼法。
ベイル先生は、教室へ入ると静かに言った。
「本日より、春の親睦夜会へ向けた礼法確認を始めます」
教室の空気が引き締まる。
黒板には、
『王城夜会の基本』
と書かれた。
「まず大前提です。王城の夜会は、学園の延長ではありません」
先生の声が響く。
「学園内では許される親しさも、王城では慎むべき場合があります。逆に、距離を取りすぎると、関係の悪化や不自然さとして見られることもあります」
リリスの顔が真剣になる。
「そこで必要なのが、場に合わせた距離です」
先生は少し間を置いた。
「一部で王城用半歩と呼ばれているようですが」
教室の視線が一斉にこちらへ来た。
ユリウスが楽しそうに下を向く。
リリスが真っ赤になる。
俺も顔が熱い。
「言葉としては分かりやすいので、本日の授業ではその表現を使いましょう」
正式採用された。
王城用半歩、授業用語になる。
先生、いいんですか。
「王城用半歩とは、場に合わせ、相手との関係性を損なわず、近すぎず遠すぎず立つための距離調整です」
すごく真面目だ。
完全に礼法用語だ。
リリスは恥ずかしさに耐えながら、真剣にノートを取っている。
「では、実践します」
先生が言う。
「シェルザートさん、アマリリスさん」
「はい」
「前へ」
やっぱり。
俺たちは前へ出た。
教室の空気が少し期待を含んでいる。
やめてほしい。
先生は俺たちを並ばせた。
「婚約者として夜会へ入場する場合、二人の距離は近すぎても遠すぎてもいけません」
リリスが慎重に立つ。
昨日よりは自然だ。
だが、少し遠い。
先生が言う。
「アマリリスさん、少し遠いですね」
「戻り版ですか?」
「はい。王城用戻り版です」
また増えた。
王城用戻り版。
リリスは半歩近づいた。
「よろしい」
先生は頷く。
「次に、紹介を受ける時。シェルザートさんが先に紹介され、その後アマリリスさんを紹介する形を取ります」
「はい」
「シェルザートさん、まず礼を」
俺は礼をする。
「次に、アマリリスさんへ視線を向け、紹介を受ける準備を促します。声ではなく、視線で」
俺はリリスを見る。
リリスと目が合う。
彼女が少し赤くなる。
だが、頷く。
「よろしい。アマリリスさん、礼を」
リリスが完璧な礼をする。
さすが公爵令嬢。
所作そのものは本当に美しい。
先生も頷く。
「動きは美しいです。ただし、視線を受けた時に少し照れすぎましたね」
「……はい」
リリスが真っ赤になる。
教室が温かく笑う。
「王城では、婚約者の視線を受けても動揺しすぎないように」
「はい」
先生。
直球が過ぎます。
次に、会話中の距離。
俺とリリスが並び、第三者役としてユリウスが前に立つ。
ユリウスは妙に楽しそうだ。
「ご機嫌よう、シェルザート殿、アマリリス様」
「ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、ユリウス様」
ここで、リリスが俺寄りに半歩近づいた。
緊張すると俺に寄る癖が出た。
先生が即座に言う。
「アマリリスさん、王城用半歩」
「はい!」
リリスが下がる。
ユリウスが笑いを堪えている。
「笑わない」
先生が言う。
「はい」
ユリウスが真面目な顔を作る。
俺は内心でツッコんだ。
先生、そこも見ている。
次は逆。
リリスが恥ずかしさで遠ざかる。
先生が言う。
「王城用戻り版」
「はい」
リリスが近づく。
距離調整だけで授業が進む。
しかし、確かに必要だ。
王城でこれをやらかすと目立つ。
授業の最後には、ダンスの誘い方と受け方の基本確認があった。
リリスは完全に固まっていた。
先生が言う。
「本日は手順だけ確認します。本格的なダンス練習は明日以降です」
明日以降。
来る。
ダンスが来る。
リリスは俺を見た。
俺もリリスを見る。
二人とも、たぶん同じことを考えていた。
距離、近いよな。
休み時間。
リリスは机に座り、真っ赤な顔でノートを見つめていた。
ノートには、
『王城用半歩』
『王城用戻り版』
『視線で合図』
『婚約者の視線で動揺しすぎない』
と書かれている。
最後の一文が強すぎる。
「アル」
「はい」
「婚約者の視線で動揺しすぎない、とは」
「授業内容ですね」
「アルが見たら、動揺します」
「……俺も、リリスに見られたら少し動揺します」
リリスの目が潤む。
「アルも?」
「はい」
「一緒です」
「はい」
「小声版です」
「でしょうね」
俺はハンカチを渡した。
リリスは目元を押さえた。
ユリウスが近くで笑っている。
「本番前から大変だね」
「ユリウス様のせいで王城用半歩が広がりました」
「でも役に立ってるでしょ?」
「否定できません」
エレナ嬢が微笑む。
「明日からダンス練習ですわね」
リリスがびくっとする。
「ダンス」
「アマリリス様はお上手でしょう?」
「踊り自体は、練習してきました」
「問題は?」
「アルと踊ることです」
直球。
俺の心臓に来た。
エレナ嬢が楽しそうに微笑む。
「では、明日はさらに王城用半歩が重要ですわ」
「はい……」
昼休み。
食堂でも夜会の話題は続いた。
招待された生徒たちが、それぞれ礼装やドレス、付き添い、当日の移動について話している。
リリスは食事をしながらも、時々考え込んでいた。
「リリス」
「はい」
「食べられていますか?」
「はい。お母様に、夜会準備が始まった日ほど食べなさいと言われました」
「セレスティア様は本当に毎日正しい」
「はい」
「ガロウ公爵は?」
「今朝、ドレスの布見本を見て泣いたそうです」
「布見本で二回目ですか」
「はい」
「札は?」
「『布で崩れない』が追加されました」
「ドレス本体ではなく布で!?」
ユリウスが吹き出した。
エレナ嬢も笑っている。
リリスは恥ずかしそうに俯く。
「お父様は、青い布を見ただけで」
「崩れかけた?」
「はい」
「本番、大丈夫ですか?」
「お母様が、段階的に慣らすと仰っていました」
「ガロウ公爵のドレス耐性訓練」
「はい」
また別の訓練が始まっている。
フルーラ家、本当に忙しい。
午後の授業では、夜会の招待を受けた生徒は特に、礼法の個別確認が行われた。
ニールは緊張しすぎて礼が硬くなり、先生に「肩を半歩緩めましょう」と言われていた。
王城用半歩が広がっている。
エレナ嬢はさすがに安定していた。
ユリウスは余裕がありすぎて、先生に「軽さを半歩抑えなさい」と言われた。
便利だな、半歩。
リリスは、立ち姿は完璧。
礼も美しい。
だが、俺と並ぶと少し揺れる。
そこを重点的に練習させられた。
俺も同じだ。
リリスと並ぶと、どうしても意識してしまう。
婚約者として。
夜会で。
王城で。
それを何度も考えてしまう。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日はいつもより真剣だった。
「リリス」
「お兄様」
「王城用半歩の授業が始まったそうだな」
「はい」
「王城用戻り版も」
「はい」
「良い」
「良いのですか?」
「必要だ」
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「明日からダンス練習が始まる可能性が高い」
「はい」
「リリスは踊れる」
「分かっています」
「だが、君と踊ると崩れる可能性がある」
「でしょうね」
「君も崩れるな」
「努力します」
レオナルド先輩は少しだけ目を細めた。
「父上は布見本で崩れかけた」
「聞きました」
「札が増えた」
「布で崩れない、ですか」
「さらに増えた」
「まだ!?」
「『本番まで生きる』」
「重い!!」
リリスが真っ赤になった。
「お兄様、それはさすがに」
「父上が自分で言った」
「お父様……」
「母上が札にした」
「セレスティア夫人、容赦ないですね」
「必要だからな」
ガロウ公爵、本番前に生存目標を立てられている。
正門で別れる時、リリスは朝より少し落ち着いていた。
王城用半歩。
王城用戻り版。
婚約者の視線。
明日のダンス練習。
情報量は多い。
だが、彼女は少しずつ受け取っている。
「アル」
「はい」
「今日は、王城用半歩をたくさん学びました」
「はい」
「難しいです」
「はい」
「でも、アルと一緒に練習できるのは、少し嬉しいです」
「俺もです」
リリスの目が潤む。
「強いです」
「今日は最後なので」
「はい」
「明日は、ダンスかもしれませんね」
「……はい」
「緊張しますか?」
「とても」
「俺もです」
「一緒です」
「はい」
リリスは深呼吸した。
「今日の宝物名は」
「はい」
「王城用半歩を学び始めた日の宝物です」
「良い名前です」
「あと」
「はい」
「アルと夜会の準備を始めた日の宝物です」
「大切ですね」
「はい」
リリスは一粒だけ涙を落とし、笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺は見送りながら、明日のダンス練習を思った。
近い。
絶対に近い。
半歩で済むのか。
いや、ダンスは半歩ではなく、呼吸かもしれない。
その夜。
屋敷に帰ると、父上と母上が待っていた。
「今日はどうだった?」
「王城用半歩が授業になりました」
「だろうな」
「王城用戻り版もできました」
「増えたな」
「明日はダンス練習になりそうです」
父上がにやりと笑う。
「いよいよだな」
「笑わないでください」
母上は優しく言った。
「アル、踊りは形だけではないわ。相手の呼吸を感じること」
「はい」
「リリス様を支えようと力みすぎないで」
「分かりました」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『王城用半歩が授業になったと聞いた。泣いた。私が。戻り版まで王城用になったらしい。泣いた。布見本を見た。崩れかけた。セレスティアに「布で崩れない」の札を出された。さらに「本番まで生きる」も出された。生きる。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『王城用半歩、王城用戻り版は必要だ。明日以降、ダンス練習が始まるだろう。リリスは踊れるが、君相手だと揺れる。君も揺れるな。父上は布見本で崩れかけたため、札を二枚追加した。「布で崩れない」「本番まで生きる」。効果は観察中。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日は王城用半歩の授業があったようですね。王城では、学園とは違う視線があります。ですが、必要以上に怯えず、場に合わせて距離を整えることが大切です。明日からはダンスの練習も始まるでしょう。リリスには呼吸を合わせることを教えております。夫には「布で崩れない」「本番まで生きる」の札を追加しました。生きるそうです。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
本番まで生きる。
生きるそうです。
重いのに面白い。
父上は腹を抱えて笑った。
母上は肩を震わせている。
リーマスは「生きることもまた礼でございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
王城用半歩、しっかり学び始めました!!
でも、お父様は本番まで生きてください!!




