第46話 公爵令嬢様、王城からの招待状で距離感を見失います
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
自由研究発表が終わり、半歩が学園内に広がり、軽く扱われて少し傷つき、そこから戻り版まで生まれた。
……改めて並べると、ここ数日が濃すぎる。
普通、自由研究発表の後というのは、もう少し穏やかに終わるものではないだろうか。
よく頑張りました。
講評を受け取りました。
今後の課題が見えました。
以上。
それで終わるものだと思っていた。
しかし、リリスの場合は違った。
発表した言葉が学園に広がった。
半歩が誰かに届いた。
半歩が軽くなりかけた。
リリスが意味を守った。
遠ざかりすぎたリリスが戻り版を作った。
そしてガロウ公爵が「戻り版は許可制」の札で座らされた。
最後の一文だけ別の物語ではないか?
いや、いつものことだった。
そんな数日を越え、ようやく学園生活が少し落ち着いてきた。
半歩という言葉は、以前ほど珍しげに騒がれることはなくなった。
むしろ、必要な時に誰かがそっと使う言葉になりつつある。
それはリリスにとって、とても嬉しい変化だった。
廊下で言い合いかけた生徒が、
「一度、半歩置こう」
と落ち着く。
友人同士で距離を取りすぎた者が、
「戻り版、してもいい?」
とぎこちなく笑う。
そんな小さな場面を見かけるたび、リリスは目を潤ませる。
だが、以前のように毎回泣き崩れるわけではない。
深呼吸して、受け取る。
時々、ハンカチを使う。
たまに、俺が渡す。
かなり泣いているのでは?
と思われるかもしれないが、リリス基準では成長している。
本当に。
少なくとも、本人はそう言っている。
そして俺も、そう思っている。
そんなある日の朝。
学園へ行く前、屋敷の食堂で父上が妙に真面目な顔をしていた。
普段なら、朝食の場では少し軽い冗談を交えながら話す父上だ。
だが今日は、紅茶を置く手つきまで少し慎重だった。
「アルフレッド」
「はい」
「今日あたり、学園で何か話があるかもしれん」
「何か、ですか?」
「ああ」
父上は少し間を置いた。
「王城主催の春の親睦夜会だ」
「夜会」
俺は思わず背筋を伸ばした。
夜会。
王城。
親睦。
その単語だけで、胃が少し重くなる。
「毎年、この時期に王城で若い貴族子息令嬢を招いた親睦夜会が開かれる」
「はい。聞いたことはあります」
「本来なら、上級生や社交デビュー済みの者が中心だが、今年は少し範囲が広いらしい」
「範囲が広い?」
「王子殿下が学園内の交流を重視していることもあり、発表で目立った者や、各家の若い後継候補にも声がかかる可能性がある」
嫌な予感がした。
いや、嫌ではない。
光栄なことだ。
光栄なことなのだが、心の準備が追いつかない。
「つまり」
「お前にも招待が来る可能性がある」
「俺にも」
「ああ。そして当然、リリス嬢にも来るだろう」
リリス。
王城。
夜会。
俺とリリス。
その組み合わせを頭の中で並べた瞬間、別の意味で心臓が変な音を立てた。
リリスは公爵令嬢だ。
社交の場に立つこと自体は慣れている。
気品もある。
礼法も美しい。
黙っていれば完璧な公爵令嬢だ。
黙っていれば。
問題は、俺が隣にいる場合である。
リリスは俺といると距離感がおかしくなる。
嬉しいことがあれば小声版。
安心すれば半歩。
遠ざかれば戻り版。
褒められれば泣く。
俺が少し強いことを言えば泣く。
俺が受け取っても泣く。
俺が褒められても泣く。
王城の夜会でそれが起きたらどうなる?
いや、起きる。
絶対に起きる。
俺は額に手を当てた。
「父上」
「何だ」
「リリスは夜会、大丈夫でしょうか」
「社交だけなら問題ないだろう」
「俺がいると?」
「問題が発生するかもしれん」
「ですよね」
父上は笑いを堪えていた。
母上は穏やかに微笑みながらも、どこか楽しそうだった。
「アル」
「はい」
「夜会では、普段以上に距離感が大切になるわ」
「はい」
「けれど、距離を取りすぎる必要はありません。婚約者として並ぶのですから」
「婚約者として」
「ええ。むしろ、離れすぎると不自然よ」
「……難しいですね」
「だから半歩なのではなくて?」
母上の言葉が、また核心を突いてきた。
そうだ。
近すぎても駄目。
遠すぎても駄目。
戻り版も必要。
まさに半歩。
夜会こそ、半歩が試される場なのかもしれない。
父上が言った。
「招待が正式に来たら、礼装の準備も始める」
「はい」
「お前は伯爵家の子息で、フルーラ公爵令嬢の婚約者だ。王城で恥ずかしくない姿を整えなければならん」
「分かっています」
「緊張するなとは言わん」
「はい」
「だが、逃げるな」
「……はい」
逃げない。
王子殿下の前で言った言葉。
また、それを思い出す。
ライズは背後で静かに鞄を整えていた。
「若様、本日のハンカチは十枚でございます」
「夜会の話が出ただけで十枚か」
「招待状発生日の可能性がございますので」
「発生日」
「想定される涙は、王城招待衝撃涙、アルフレッド様と夜会に出る想像涙、婚約者として並ぶ実感涙、礼装想像による照れ涙、ガロウ公爵閣下暴走報告涙でございます」
「最後は確定では?」
「高確率でございます」
「ガロウ公爵、招待状で泣くかな」
「泣かれるでしょう」
「レオナルド先輩も大変だな」
「札の増加が予想されます」
札。
また増えるのか。
王城夜会用の札。
何が増えるだろう。
『娘のドレスを見て走らない』
『アルフレッド様を威嚇しない』
『夜会中に泣きすぎない』
ありそうだ。
かなりありそうだ。
学園へ向かう馬車の中、俺は王城の夜会について考えていた。
俺はこれまで、大きな社交の場にまったく出ていないわけではない。
伯爵家の子息として、いくつかの集まりには参加したことがある。
しかし王城主催の夜会となると、規模が違う。
王族。
公爵家。
侯爵家。
上位貴族。
有力家門の子息令嬢。
その中に、俺とリリスが婚約者として並ぶ。
王子殿下もいるだろう。
オスカーもいるだろう。
レオナルド先輩も、おそらくいる。
ガロウ公爵とセレスティア夫人も来る可能性が高い。
……ガロウ公爵、本当に大丈夫か?
リリスの夜会姿を見た瞬間に泣き崩れないか?
いや、絶対泣く。
騎士団長が王城で泣く。
それをセレスティア夫人が札で止める。
王城で札。
絵面が強すぎる。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
ただ、いつもより少しそわそわしている。
もしかしたら、フルーラ家でも同じ話が出たのかもしれない。
俺を見つけると、リリスはぱっと笑い、そしてすぐに顔を赤くした。
何かを意識している。
歩いてくる。
走らない。
だが、歩幅が少し乱れている。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。ただ、少しそわそわしていました」
「分かりますか?」
「分かります」
リリスは両手を胸元で重ねた。
「今朝、お父様とお母様から、春の親睦夜会のお話を聞きました」
「うちでも聞きました」
「やはり」
リリスの頬が赤くなる。
「アルも、招待されるかもしれないと」
「はい」
「私も」
「はい」
「つまり」
「はい」
「アルと、王城の夜会に」
リリスの目が潤む。
早い。
まだ招待状も見ていない。
「小声版です」
「朝一回目ですね」
「はい。夜会想像小声版です」
「また新分類」
「アルと夜会に出ると思うと、胸が」
「深呼吸しましょう」
「はい」
リリスは深呼吸した。
一度。
二度。
涙は出なかった。
「戻りました」
「はい」
「アル」
「はい」
「夜会では、私はきちんと公爵令嬢として振る舞います」
「分かっています」
「ですが」
「はい」
「アルが隣にいると、少し……距離感が」
「分かっています」
「分かっていますか?」
「かなり」
リリスは恥ずかしそうに俯いた。
「ご迷惑をおかけしないようにします」
「迷惑とは思っていません」
リリスの目が潤む。
「アル」
「ただ、王城では半歩をさらに意識しましょう」
「はい」
「近すぎたら半歩」
「はい」
「遠すぎたら戻り版」
「はい」
「泣きそうなら小声版」
「はい」
「ガロウ公爵が走りそうなら?」
「札です」
「即答ですね」
リリスがくすっと笑った。
朝の緊張が少し和らぐ。
ミラが後ろで静かに言った。
「お嬢様、夜会用分類も必要になるかと」
「ミラ」
「セレスティア様より、王城用半歩の準備を始めるよう仰せつかっております」
「王城用半歩!?」
俺の声が少し大きくなった。
王城用半歩。
また新しい言葉が増えた。
リリスは真っ赤になっている。
「お母様が、王城では通常の半歩より慎重に、と」
「それは正しいですが、言葉が強いです」
「はい」
王城用半歩。
今日の主役はそれになりそうな気がした。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは顔を見ただけで察したようだった。
「おはよう。夜会の話、来た?」
「来ました」
俺が答える。
リリスも頷く。
「今朝、聞きました」
「やっぱりね。うちにも話が来てた」
「ユリウス様も?」
「うん。正式な招待状はまだだけど、近いうちに来るって」
エレナ嬢も言った。
「私の家にも話がありましたわ。学園での発表や交流が評価され、今年は少し若い世代にも声がかかるようです」
「やはり、発表が関係しているのですね」
「おそらく」
リリスは少し緊張した。
「私の発表で、夜会に」
「直接それだけではないと思いますわ」
エレナ嬢が優しく言う。
「でも、殿下がアマリリス様の研究を評価されたことは、少なからず影響しているでしょう」
「……はい」
ユリウスがにやりと笑った。
「つまり、半歩の公爵令嬢、王城デビューだね」
「ユリウス様」
「いや、すごいことだよ」
「半歩の公爵令嬢……」
リリスが赤くなる。
俺は思わず言った。
「二つ名みたいにしないでください」
「いいじゃん。気品は満点、距離感は赤点の」
「それはやめてください」
リリスが完全に真っ赤になった。
エレナ嬢は口元を押さえて笑っている。
「でも、夜会は本当に大切ですわ」
「はい」
リリスが真面目に頷く。
「王城ですもの。普段以上に、礼法も距離感も大切になります」
「王城用半歩ですね」
俺が言うと、ユリウスが吹き出した。
「何それ」
「セレスティア夫人の言葉らしいです」
「さすが」
「笑い事ではありません」
しかし、笑ってしまう。
王城用半歩。
たぶん今後、何度も使うことになる。
教室に入ると、すでにざわついていた。
どうやら春の親睦夜会の話は、学園全体に流れ始めているらしい。
上級生だけでなく、俺たちのような年齢にも招待が来るかもしれない。
そうなれば当然、話題になる。
「王城だって」
「招待来るかな」
「発表で選ばれる人もいるらしい」
「フルーラ様は絶対だろうな」
「シェルザート君も?」
聞こえる。
全部聞こえる。
リリスは少し背筋を伸ばした。
公爵令嬢としての顔だ。
だが、耳が赤い。
ニールが近づいてきた。
「シェルザート君、アマリリス様。夜会の話、聞きました?」
「はい」
「僕の家にも、もしかしたら招待が来るかもしれないって話が」
「バートン様も?」
「はい。でも、王城なんて緊張します」
「私も緊張します」
リリスが素直に言う。
ニールは少し驚いた顔をした。
「アマリリス様でも?」
「はい。とても」
「……少し安心しました」
「安心?」
「僕だけじゃないんだなって」
リリスは柔らかく微笑んだ。
「緊張する時は、半歩です」
「はい」
ニールは真面目に頷いた。
「王城用半歩ですね」
リリスが固まった。
もう広がった。
早い。
「バートン様、どこでそれを」
「さっき廊下でユリウス様が」
「ユリウス様!!」
俺が振り返ると、ユリウスは遠くで明後日の方を向いていた。
絶対聞こえている。
クラリス嬢も近づいてきた。
「王城用半歩、とても分かりやすいです」
「クラリス様まで」
「夜会では、普段より緊張しますもの。私も心に置いておきたいです」
リリスは恥ずかしさと嬉しさで目を潤ませた。
「小声版です」
「今日は早いですね」
「王城用半歩が広がりました」
「ユリウス様のせいです」
ユリウスが遠くで軽く手を振っていた。
許されない。
一時間目の礼法。
ベイル先生は、教室に入るなり黒板へ文字を書いた。
『夜会における距離と礼』
完全に来た。
教室中が一気に静かになる。
先生はいつも通り淡々と話し始めた。
「近日、王城主催の春の親睦夜会の案内が届く者もいるでしょう」
ざわっ、と教室が揺れる。
「正式な招待が来るまでは騒ぎすぎないように。ですが、準備は必要です」
先生の声は落ち着いていた。
「夜会は、ただ踊り、話し、楽しむ場ではありません。家同士の関係、本人の礼法、場の空気を読む力が見られる場でもあります」
重い。
非常に重い。
リリスの背筋が伸びる。
「特に、婚約者同士で参加する場合」
リリスの肩がぴくっと揺れた。
俺も少し身構えた。
「近づきすぎず、遠ざかりすぎず、互いを尊重する距離が大切です」
教室の何人かが、ちらっとこちらを見る。
やめてほしい。
「その意味では、半歩という考えは夜会にも応用できるでしょう」
先生まで王城用半歩を正式化しようとしている。
リリスは真っ赤だ。
「ただし、場に合わせた半歩です。普段の教室や廊下と、王城の広間では、適切な距離も振る舞いも変わります」
先生は黒板に書いた。
『場に合わせた半歩』
「今日は、夜会における立ち位置、会話の距離、紹介を受ける時の礼を確認します」
授業は実践的だった。
まず、挨拶の距離。
次に、婚約者と並ぶ距離。
さらに、第三者へ紹介される時の立ち位置。
俺とリリスは、当然のように模擬練習に指名された。
「シェルザートさん、アマリリスさん」
「はい」
「前へ」
「はい」
俺とリリスは前に出る。
教室中の視線が集まる。
リリスは公爵令嬢として完璧な姿勢を取った。
俺も伯爵家子息として礼を整える。
先生が言う。
「まず、婚約者として並ぶ距離」
リリスが少し近づく。
近い。
いや、王城では近い。
先生がすぐに言った。
「アマリリスさん、半歩」
「はい」
リリスが半歩下がる。
教室が少しざわつく。
先生は続ける。
「今の距離は教室なら微笑ましいですが、王城では少し近いでしょう」
微笑ましい。
教室で言わないでほしい。
リリスの顔が真っ赤だ。
「次に、遠ざかりすぎる場合」
リリスは緊張して、今度は下がりすぎた。
先生が言う。
「戻り版ですね」
「はい」
リリスが半歩近づく。
「よろしい。これが場に合わせた半歩です」
先生の声は真面目だ。
だが、教室の空気は少し温かい笑いを含んでいた。
リリスは恥ずかしそうだが、逃げない。
「シェルザートさん」
「はい」
「あなたは、アマリリスさんが距離を迷った時、視線と小さな動きで合図できるように」
「はい」
「声に出して『近いです』と言うのは、王城では控えましょう」
「分かっています」
ユリウスが肩を震わせている。
絶対笑っている。
先生はさらに言う。
「ただし、どうしても近い場合は?」
「半歩です」
俺が答える。
「遠い場合は?」
「戻り版です」
「よろしい」
授業になっている。
本当に授業になっている。
休み時間。
リリスは机に突っ伏しそうなほど赤くなっていた。
「アル」
「はい」
「王城用半歩が、授業になりました」
「なりましたね」
「恥ずかしいです」
「俺も恥ずかしいです」
「でも、必要です」
「はい」
「夜会で、近すぎたら困ります」
「はい」
「遠すぎても困ります」
「はい」
「……難しいです」
「練習しましょう」
リリスが顔を上げる。
「アルと?」
「はい」
「夜会の?」
「はい」
「婚約者として?」
「はい」
リリスの目が一気に潤む。
「小声版では足りません」
「強すぎましたか」
「はい。でも、必要です」
俺はハンカチを渡した。
リリスは涙を拭きながら笑った。
二時間目が終わる頃。
教室の扉が開き、学園の事務員が現れた。
手には封書。
数通。
教室の空気が変わる。
先生がそれを受け取り、名前を確認する。
「本日、王城より春の親睦夜会の正式な招待状が届きました」
教室がざわついた。
先生が読み上げる。
「アマリリス・フルーラさん」
「はい」
リリスが立ち上がる。
招待状を受け取る。
手が少し震えている。
「アルフレッド・シェルザートさん」
「はい」
俺も立つ。
受け取る。
封蝋には王家の紋章。
重い。
紙の重み以上に重い。
「ユリウス・ハーヴェイさん」
「はい」
「エレナ・ローデンさん」
「はい」
「ニール・バートンさん」
「は、はい」
ニールも呼ばれた。
クラリス嬢は今回は呼ばれなかったが、彼女は少し寂しそうにしながらも、リリスへ微笑んだ。
招待状を受け取った瞬間、リリスは固まっていた。
「アル」
「はい」
「本当に、来ました」
「はい」
「王城の夜会」
「はい」
「アルと」
「はい」
「……小声版では足りません」
「でしょうね」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは招待状を大切に抱えたまま、涙を拭いた。
教室中が、温かく見守っていた。
昼休み。
食堂では、王城から招待状が届いた話題でもちきりだった。
招待された者。
されなかった者。
家から別に届く者。
学園推薦で届いた者。
様々だ。
俺たちはいつもの席に座ったが、今日はいつも以上に注目されていた。
リリスは招待状を鞄にしまった後も、まだ少し夢見心地だった。
「リリス、食べられそうですか?」
「はい。お母様に、招待状が届いた日ほど食べなさいと言われました」
「さすがセレスティア様」
「お父様は、招待状を見たらどうなるでしょうか」
「泣きますね」
「はい」
ユリウスが笑う。
「札、増えるだろうね」
「間違いなく」
エレナ嬢が微笑みながら言う。
「アマリリス様、夜会のドレスも楽しみですわね」
リリスが一瞬で赤くなる。
「ドレス」
「はい。アルフレッド様と並ばれるのですもの」
「エレナ様」
「きっと、とてもお似合いですわ」
「……小声版です」
「今日は仕方ありませんわ」
俺は顔が熱くなった。
リリスの夜会ドレス姿。
想像してしまった。
絶対に綺麗だ。
絶対に泣く。
誰が?
リリスが。
ガロウ公爵が。
もしかしたら俺も危ない。
午後の授業は、招待状のことで皆そわそわしていた。
それでも先生は容赦なく進めた。
特に礼法では、夜会での紹介、退出、会話を終える合図などを確認した。
リリスは真剣だった。
俺もだ。
夜会は、ただのイベントではない。
新しい章の始まりだ。
学園内で育った半歩が、王城という大きな場に持ち込まれる。
その重みを、少しずつ感じ始めていた。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日は完全に知っている顔だった。
「リリス」
「お兄様」
「招待状が届いたな」
「はい」
「アルフレッド」
「はい」
「君にも届いたな」
「はい」
「夜会まで、準備が必要だ」
「分かっています」
レオナルド先輩は真面目な顔で言った。
「王城では、学園のように全員が半歩を温かく受け取るとは限らない」
「はい」
「だが、過度に怯える必要もない」
「はい」
「リリス」
「はい」
「お前は公爵令嬢だ。堂々と立て」
「はい」
「ただし、アルフレッドに近づきすぎるな」
「お兄様!」
「王城用半歩だ」
「お兄様まで!」
レオナルド先輩は少し笑った。
「父上にはすでに招待状の話を伝えた」
「どうなりました?」
俺が聞くと、レオナルド先輩は遠い目をした。
「泣いた」
「でしょうね」
「走ろうとした」
「やはり」
「母上が新しい札を出した」
「何ですか」
「『王城では走らない』」
「早い!!」
リリスが顔を真っ赤にして笑った。
しかし、レオナルド先輩は真顔で続ける。
「さらに追加予定がある」
「追加予定」
「『娘のドレスで崩れない』」
「崩れる想定なんですね」
「崩れる」
即答だった。
ガロウ公爵。
夜会前から危険すぎる。
正門で別れる時、リリスは招待状を大切に抱えていた。
目元は何度も泣いたせいで少し赤い。
でも、表情は明るかった。
「アル」
「はい」
「本当に、夜会に行くのですね」
「はい」
「王城に」
「はい」
「アルと」
「はい」
「怖いです」
「はい」
「でも、少し楽しみです」
「俺もです」
リリスの目が潤む。
「今日の宝物名は」
「はい」
「王城から招待状が届いた日の宝物です」
「良い名前です」
「あと」
「はい」
「アルと夜会に行くことが決まった日の宝物です」
「……大切な宝物ですね」
「はい」
リリスは涙を一粒だけ落とし、笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はその背を見送りながら、胸の中に新しい緊張が生まれるのを感じた。
王城。
夜会。
婚約者として並ぶ俺たち。
学園で育った半歩が、今度は王城で試される。
その夜。
屋敷に帰ると、父上と母上がすでに待っていた。
「招待状は?」
「届きました」
俺は封書を差し出す。
父上はそれを見て、静かに頷いた。
「正式なものだな」
「はい」
「準備を始める」
「はい」
母上が微笑む。
「忙しくなるわね」
「はい」
「礼装、靴、髪、挨拶、踊り、会話、すべて確認しましょう」
「……はい」
やることが多すぎる。
だが逃げられない。
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『王城から招待状が届いた。泣いた。私が。リリスが夜会に出る。アルフレッド殿と並ぶ。泣いた。走ろうとした。セレスティアに「王城では走らない」の札を出された。座った。泣いた。だがドレスを見たら崩れる自信がある。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『招待状が正式に届いた。夜会準備に入る。王城では学園とは違う視線もあるため、気を抜くな。ただし怯えすぎる必要もない。父上には「王城では走らない」の札を導入した。追加札「娘のドレスで崩れない」を検討中。効果は未知数。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。王城より正式な招待状が届きましたね。これから夜会まで、リリスには王城用半歩を学ばせます。あなたにもご負担をおかけするかと思いますが、婚約者として共に並ぶ準備をしていただければ幸いです。夫には「王城では走らない」の札を出しました。座りました。泣きました。ドレスについては追加対策が必要です。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
王城用半歩。
娘のドレスで崩れない。
効果は未知数。
新章の始まりから、情報量が多すぎる。
父上は腹を抱えて笑った。
母上も楽しそうに微笑んでいる。
リーマスは「王城にも半歩は必要でございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
王城からの招待状、ついに届きました!!
でも、お父様は王城でも走らないでください!!




