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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第44話 公爵令嬢様、軽くされた半歩に少し泣きます


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 半歩が、学園内で広がり始めた。


 最初は、俺とリリスの間で生まれた言葉だった。


「あと半歩だけ下がりましょう」


 ただそれだけの言葉。


 でもリリスは、それを拒絶ではなく、戻る場所として受け取った。


 そこから、小声版が生まれ、ハンカチの橋が生まれ、自由研究になり、発表になった。


 そして今、半歩は少しずつ、俺たちの手を離れて誰かの間に届き始めている。


 昨日は、下級生たちが言い合いの途中で「一回、半歩置こう」と言っていた。


 ニールは弟との喧嘩で半歩を使った。


 クラリス嬢は母親への手紙に、ハンカチの橋のことを書いた。


 殿下も、半歩という言葉が学園内で使われ始めていることを知り、


『言葉が人の間に渡るのは、それが必要とされたからだろう』


 と言ってくださった。


 リリスは泣いた。


 嬉しさと怖さで泣いた。


 言葉が届くことは嬉しい。


 けれど、自分の知らないところで育っていくことは怖い。


 それを昨日、リリスは初めて強く感じた。


 そして今日。


 その怖さは、別の形で彼女の前に現れた。


 朝。


 屋敷の食堂で、父上は昨日の話を聞いて満足そうに頷いていた。


「半歩が広がるのは良いことだ」


「はい」


「だが、そろそろ出るぞ」


「何がですか?」


「軽く使う者だ」


 父上の声が少し真面目になる。


「良い言葉ほど、便利に使われる。便利に使われるほど、軽くもなる」


「……はい」


「リリス嬢には、少しつらいかもしれんな」


 母上も静かに頷いた。


「でも、それも言葉が広がる時には避けられないことよ」


「避けられない」


「ええ。大切なのは、軽く使われた時に、怒りで潰すのではなく、意味をもう一度伝えられるかどうか」


「難しいですね」


「難しいわ」


 母上は微笑んだ。


「でも、リリス様なら、きっと学べるわ。アルも一緒にね」


「はい」


 言葉を守る。


 けれど、押しつけない。


 放しすぎない。


 まさに、半歩で向き合う必要がある。


 ライズは鞄を確認しながら言った。


「若様、本日のハンカチは十二枚でございます」


「昨日より増えたな」


「半歩軽視発生日の可能性がございますので」


「ライズも予測していたのか」


「はい。言葉が広まると、必ず軽く扱う者が出ます」


「そうか」


「想定される涙は、悲しみ涙、戸惑い涙、怒りを飲み込む涙、若様が意味を守った際の感動涙、アマリリス様が自分で意味を伝えられた場合の達成涙でございます」


「今日は重そうだな」


「はい」


「俺はどうすればいい?」


「まず、アマリリス様の悲しみを否定しないこと」


「はい」


「次に、相手をすぐ敵と決めつけないこと」


「はい」


「最後に、必要なら意味を短く伝えること」


「半歩の意味を」


「はい。『相手と自分がどちらも息をできる場所を探すこと』でございます」


 リリスの言葉だ。


 俺は頷いた。


 今日は、それを守る日になるかもしれない。


 学園へ向かう馬車の中、俺は少しだけ胸が重かった。


 言葉が広がることは嬉しい。


 昨日は本当にそう思った。


 だが、広がれば、誤解も生まれる。


 半歩を、ただ相手を黙らせる言葉として使う者が出るかもしれない。


 面倒な相手を遠ざける言葉として使う者もいるかもしれない。


 リリスがそれを見た時、どれほど傷つくだろう。


 正門前。


 リリスはいつもの場所にいた。


 今日も制服姿。


 ブルーローズの髪飾り。


 昨日よりは少し落ち着いている。


 だが、目元にはまだ、言葉が広がった余韻が残っていた。


 俺を見つけると、優しく笑って歩いてくる。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。落ち着いていました」


「昨日、お母様に言われました。半歩が広がっても、私は私の半歩を大切にしなさい、と」


「うちの父上と母上も、似た話をしていました」


「そうなのですね」


 リリスは少しだけ不安そうに笑う。


「アル」


「はい」


「もし、半歩が私の思っているものと違う形で使われたら」


「はい」


「私は、どうすればいいのでしょう」


「一緒に考えましょう」


 リリスの目が潤む。


「……一緒に」


「はい」


「強いです」


「でも、今日は言っておきたいです」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


「受け取ります」


 涙は出なかった。


 教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


 ユリウスはいつもより少し真面目だった。


「おはよう。昨日より、半歩って言葉が増えてるね」


「はい」


 リリスが答える。


「でも、ちょっと軽い使われ方も出てきてる」


 ユリウスははっきり言った。


 リリスの表情が少し揺れる。


「そう、ですか」


「うん。悪意ってほどじゃないけど、流行り言葉みたいに使ってる人もいる」


「……はい」


 エレナ嬢が優しく言う。


「アマリリス様、つらければ、つらいと言ってよいのですわ」


「はい」


「けれど、それはアマリリス様の言葉が悪いわけではありません」


「……はい」


 リリスは深呼吸した。


「分かっています。でも、少し怖いです」


「怖いまま、見ていきましょう」


 俺が言うと、リリスは小さく頷いた。


 教室に入ると、すぐにその場面は来た。


 男子生徒が二人、課題の提出順で軽く言い合っていた。


 大した喧嘩ではない。


 しかし、そのうち一人が笑いながら言った。


「はいはい、うるさいから半歩、半歩。お前ちょっと黙れよ」


 空気が止まった。


 俺はすぐにリリスを見た。


 リリスの顔から、少し色が引いていた。


 半歩。


 相手と自分がどちらも息をできる場所を探す言葉。


 それが今、相手を黙らせるための言葉として使われた。


 悪意は、たぶんない。


 ただ軽かった。


 でも、リリスには刺さった。


 男子生徒も、俺たちの反応に気づいたのか、少し気まずそうにした。


 教室が静かになる。


 俺は一歩出ようとした。


 だが、その前にリリスが小さく息を吸った。


「……あの」


 声は震えていた。


 でも、リリスは立っていた。


「半歩は、相手を黙らせるための言葉ではありません」


 教室がさらに静かになる。


 男子生徒は目を丸くした。


「え、あ……すみません、そんなつもりじゃ」


「はい。分かっています」


 リリスはすぐに言った。


 責める声ではない。


 震えてはいるが、丁寧だった。


「ですが、半歩は、どちらか一方を押し込めるためではなく、相手と自分がどちらも息をできる場所を探すための言葉です」


 言えた。


 リリスは自分で言えた。


 男子生徒は、顔を赤くして頭を下げた。


「すみません。軽く言いました」


「いえ」


 リリスは少しだけ首を振った。


「聞いてくださって、ありがとうございます」


 その場の空気が、ゆっくり緩む。


 男子生徒はもう一人へ向き直った。


「ごめん。黙れって言い方は悪かった」


「いや、こっちも言いすぎた」


 二人はぎこちなくも、少し落ち着いた。


 リリスはその様子を見て、ほっとしたように息を吐いた。


 そして、目に涙をためた。


「リリス」


「はい」


「言えましたね」


「……小声版では足りません」


「でしょうね」


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは目元を押さえる。


「怖かったです」


「はい」


「でも、言わないと、半歩が悲しくなる気がして」


「はい」


「私、怒っていたのでしょうか」


「少しは怒ってよかったと思います」


「怒ってよかった?」


「大切な言葉だから」


 リリスの涙が一粒落ちた。


「アル」


「はい」


「受け取ってくださって、ありがとうございます」


 教室の空気は、以前とは違った。


 誰もリリスを笑わなかった。


 むしろ、何人かは真剣に頷いていた。


 一時間目の礼法。


 ベイル先生は、教室の空気を見ただけで何かを察したようだった。


 黒板に書かれた文字は、


『言葉の意味を守る礼』


 だった。


 もう本当に、先生は何者なのか。


「広がった言葉は、時に軽く扱われます」


 先生は淡々と話し始めた。


「それを見た時、言葉を大切にしている者は傷つくでしょう」


 リリスが静かに聞いている。


「ですが、そこで相手をただ責めれば、言葉は壁になります。意味を伝え直せば、言葉は橋になります」


 橋。


 リリスの肩が少し震えた。


「怒ってはいけない、ということではありません。大切なものを軽く扱われた時、怒りを覚えるのは自然です」


 先生の声は優しかった。


「ただ、その怒りをどう扱うか。それも礼です」


 リリスの目が潤む。


「アマリリスさん」


「はい」


「今朝、あなたは意味を伝え直したそうですね」


「はい」


「怖かったですか?」


「はい」


「怒っていましたか?」


「少し」


「よろしい」


「よろしい、のですか?」


「はい。怒りをなかったことにせず、相手を潰すためではなく、意味を伝えるために使えたなら、それは大切な学びです」


 リリスは涙をこらえた。


「受け取ります」


「はい」


 先生はクラス全体を見た。


「皆さんも、半歩という言葉を使うなら、その意味を忘れないように」


 教室全体が静かに頷いた。


 休み時間、朝の男子生徒がリリスの席へ来た。


「アマリリス様」


「はい」


「さっきは、本当にすみませんでした」


「いえ」


「なんか、便利な言葉みたいに使ってしまって」


 男子生徒は気まずそうに頭をかく。


「でも、違いました。相手を黙らせる言葉じゃないって、分かりました」


 リリスの目が潤む。


「……ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです」


「次から、ちゃんと考えて使います」


「はい」


「あと、言い合ってた相手にも謝れました」


「それは、とても良かったです」


 男子生徒は照れくさそうに笑い、去っていった。


 リリスはしばらく黙っていた。


 俺は隣で待つ。


「アル」


「はい」


「言ってよかったのでしょうか」


「よかったと思います」


「相手を傷つけていませんか?」


「傷つけるためではなく、伝えるためでした」


「……はい」


「それに、相手も受け取ってくれました」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


「今日は、半歩が少し重いです」


「そういう日もあります」


「はい」


 二時間目の自由研究整理では、リリスは今日の出来事をノートに書いた。


『半歩を軽く使われて悲しかった』


『怒りもあった』


『でも、意味を伝え直せた』


『言葉を守ることは、相手を責めることではない』


『半歩は、黙らせる言葉ではなく、息をできる場所を探す言葉』


 その文字は、昨日より少し強かった。


 リリス自身が、言葉を守る側へ立ったのだ。


 クラリス嬢がそっと声をかけた。


「アマリリス様」


「はい」


「今朝のこと、私、すごいと思いました」


「すごい?」


「はい。怖かったと思うのに、ちゃんと伝えていました」


 リリスの目が潤む。


「怖かったです」


「でも、伝わっていました」


「……ありがとうございます」


 ニールも頷いた。


「僕も、ちゃんと意味を考えて使います」


「バートン様」


「弟にも、もう一度伝えます。黙らせるためじゃなくて、一回お互いに落ち着くためだって」


 リリスは涙を拭いた。


「ありがとうございます」


 その後、ユリウスが小声で俺に言った。


「今日のリリス様は、かなり大きく成長したね」


「はい」


「言葉を作った人から、言葉を守って育てる人になった」


「それ、本人に言ったら泣きます」


「後で言おう」


「やめてください」


 昼休み。


 食堂では、リリスは少し疲れていた。


 朝の出来事が心に残っているのだろう。


 エレナ嬢が優しく言う。


「アマリリス様、今日はよく頑張りましたね」


「はい……少し疲れました」


「大切なものを守るのは、疲れるものですわ」


「はい」


 リリスはスープを一口飲む。


「でも、半歩が嫌いにならなくてよかったです」


「嫌いになりそうでしたか?」


 俺が聞くと、リリスは少し考えた。


「少し、怖くなりました」


「はい」


「でも、あの方が受け取ってくださったので、やっぱり半歩は橋になるのだと思えました」


「はい」


 ユリウスが頷く。


「良い流れになってよかったよ。もし相手が反発してたら、少し面倒だった」


「そうですね」


「でも、アマリリス様の言い方が責める感じじゃなかったから、相手も受け取りやすかったんだと思う」


「……そうでしょうか」


「うん。ちゃんと怒ってるけど、潰してはいなかった」


 リリスの目が潤む。


「それは、良かったです」


 その時、食堂の別の席で、誰かが言った。


「半歩って、ちゃんと意味考えないと駄目なんだな」


 リリスがそちらを見る。


 別の生徒が答える。


「ただ離れろって意味じゃないらしいぞ。息できる場所を探すってやつ」


 リリスの涙が落ちた。


「アル」


「はい」


「伝わっていました」


「はい」


「軽くなった半歩が、少し戻りました」


「戻る場所ですね」


「……はい」


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは涙を拭きながら笑った。


 午後の魔法基礎では、リリスの光は少し揺れていた。


 ただ、昨日のような嬉しさの揺れではない。


 悲しみや怖さを含んだ揺れだった。


 教師はそれを見て、静かに言った。


「アマリリスさん、今日は心が少し重いですね」


「はい」


「重い心を無理に軽くしようとしなくてよいです」


「はい」


「形を見て、置く場所を探しましょう」


「置く場所」


「それも半歩でしょう?」


 リリスは驚いた顔をして、それから頷いた。


「はい」


 光がゆっくり落ち着く。


 完全に明るくなったわけではない。


 でも、乱れたままではない。


 重い心にも、置く場所がある。


 今日のリリスに必要な学びだった。


 放課後。


 レオナルド先輩が待っていた。


 今日はいつもより少し険しい顔だった。


「リリス」


「お兄様」


「半歩を軽く使われたそうだな」


「はい」


「つらかったか?」


「はい」


「言えたか?」


「はい」


「よく言った」


 リリスの目が潤む。


「お兄様」


「大切な言葉なら、守れ」


「はい」


「だが、守ることと閉じ込めることは違う」


「……はい」


「今日のお前は、守りながら開いた」


 リリスの涙がこぼれた。


「それは、強いです」


「今日は強く言う日だ」


 レオナルド先輩は俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「君も、よく待った」


「待つしかできませんでした」


「待てることは大事だ」


「ありがとうございます」


 その言葉は、俺にも少し刺さった。


 レオナルド先輩は続ける。


「父上にも伝えた」


「ガロウ公爵は?」


「怒って立った」


「でしょうね」


「母上が札を出した」


「何の札ですか?」


「『怒る前に半歩』」


「ついにガロウ公爵にも半歩が!!」


「座った」


「効果ありですね」


「泣いた」


「でしょうね」


 リリスがくすっと笑った。


 朝から重かった空気が、ようやく少し和らいだ。


 正門で別れる時、リリスは静かだった。


 でも、朝よりもしっかりしている。


「アル」


「はい」


「今日は、半歩が少し痛かったです」


「はい」


「でも、意味を伝えたら、戻ってきました」


「はい」


「言葉を守るのは、怖いです」


「はい」


「でも、守りたいです」


「はい」


「閉じ込めるのではなく、育てながら」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


「今日の宝物名は」


「はい」


「軽くなった半歩を、もう一度大切に伝えられた日の宝物です」


「とても良い名前です」


「あと」


「はい」


「怒りにも半歩が必要だと知った日の宝物です」


「大事ですね」


「はい」


 リリスは涙を一粒だけ落とした。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 馬車が遠ざかる。


 俺はそれを見送りながら思った。


 今日は嬉しいだけの日ではなかった。


 痛みもあった。


 怒りもあった。


 けれど、リリスはそれをなかったことにせず、意味を伝え直した。


 半歩は、また少し育ったのだと思う。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上が待っていた。


「今日は大変だったようだな」


「はい」


「リリス嬢は言えたか」


「はい。自分で」


「ならよい」


 母上も静かに微笑んだ。


「言葉を育てる最初の痛みね」


「はい」


 その後、フルーラ家から書状が届いた。


 一通目、ガロウ公爵。


『半歩を軽く使われたと聞いた。怒った。私が。立った。だがリリスが自分で意味を伝えたと聞いて泣いた。セレスティアに「怒る前に半歩」の札を出された。座った。泣いた。怒りにも半歩が必要らしい。学ぶ。 ガロウ』


 二通目、レオナルド先輩。


『リリスは今日、言葉を守った。よくやった。君も待てた。半歩が広がる以上、こういうことはまた起きる。意味を伝え続ける必要がある。父上には「怒る前に半歩」の札を導入した。効果あり。泣いた。 レオナルド』


 三通目、セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日、リリスは半歩が軽く扱われる痛みを知ったようですね。ですが、相手を責めるだけでなく、意味を伝え直せたことは大きな成長です。言葉は閉じ込めず、育てるもの。その第一歩だったと思います。夫には「怒る前に半歩」の札を出しました。座りました。泣きました。継続が大切です。 セレスティア』


 俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。


 怒る前に半歩。


 座った。


 泣いた。


 ガロウ公爵も、少しずつ半歩を学んでいる……のかもしれない。


 父上は腹を抱えて笑った。


 リーマスは「怒りにも礼が必要でございます」と頷いた。


 ライズは静かに親指を立てた。


 俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 軽くなった半歩を、ちゃんと大切に戻せました!!


 でも、お父様も怒る前に半歩です!!

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