第43話 公爵令嬢様、半歩が誰かに届いて泣きます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
自由研究発表が終わった。
発表本番。
翌日の講評。
エドワード殿下から届いた言葉。
クラスメイトたちからの感想。
その全部を受け取って、ようやくひと息つける。
……はずだった。
だが、物事というのはそう簡単には落ち着かないらしい。
発表が終わったことで、むしろリリスの研究は学園内に広がり始めた。
小声版。
半歩。
ハンカチの橋。
この三つの言葉の中でも、とくに「半歩」が広まりつつある。
廊下で誰かが友人に言う。
「それ、少し近すぎるから半歩じゃない?」
教室で誰かが喧嘩しかけて言う。
「一回半歩置こう」
食堂で席を詰めすぎた生徒が、
「あ、ごめん。半歩下がる」
と言う。
いや、待ってほしい。
便利なのは分かる。
分かるが、広まり方が早すぎる。
しかも、リリスがそれを聞くたびに泣きそうになる。
「アル、今、半歩と」
「はい」
「私の言葉が」
「はい」
「誰かの役に」
「小声版ですか?」
「はい……」
というやり取りが、朝からすでに三回あった。
発表後の反響はまだ続いている。
そして、リリスはその一つ一つを本気で受け取る。
だから、今日もハンカチは足りなくなりそうである。
朝。
屋敷の食堂で父上にその話をすると、父上は楽しそうに笑った。
「半歩が広がっているのか」
「はい」
「良いことじゃないか」
「良いことではあります」
「だがリリス嬢が泣く」
「はい」
「まあ、泣くだろうな」
父上の納得が早い。
母上は微笑みながら言った。
「自分の言葉が誰かに使われるのは、嬉しくて怖いものよ」
「怖い?」
「ええ。自分の手を離れていくような感覚があるでしょう?」
「なるほど」
「でも、それは届いたということでもあるわ」
「届いた」
「今日のリリス様は、それを受け取る日になるかもしれないわね」
「また受け取る日ですか」
「ええ。発表は終わったけれど、言葉は続いていくもの」
言葉は続く。
母上のその言葉は、妙に胸に残った。
ライズは鞄を確認しながら、いつものように言った。
「若様、本日のハンカチは十一枚でございます」
「昨日より増えたな」
「半歩拡散日でございますので」
「拡散日」
「想定される涙は、他者が半歩を使用した時の感動涙、半歩の意味が少し変化して使われた時の戸惑い涙、若様が『届いていますね』と仰った時の直撃涙、殿下側から追加反応があった場合の衝撃涙でございます」
「殿下側、まだあるのか?」
「可能性はございます」
「そうか……」
「また、言葉が広がることにより、アマリリス様が『私の言葉でよいのでしょうか』と不安になる可能性もございます」
「ありそう」
「その際は、若様が半歩で支える必要があります」
「分かった」
今日も、なかなか大変そうだ。
学園へ向かう馬車の中、俺はリリスの発表を思い出していた。
相手と自分が、どちらも息をできる場所を探す。
半歩。
あの言葉は確かに、誰かの心に残る力があった。
もともとは、俺とリリスの距離から生まれた言葉だ。
それが、友人関係や喧嘩の仲裁、礼法の考え方として使われ始めている。
これはすごいことだ。
でも、同時に少し心配でもある。
言葉は広がると、意味が変わることがある。
リリスが大切にしている半歩が、ただの流行り言葉のように扱われたら、彼女は傷つくだろう。
俺はそれを見ておかなければならない。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
今日も美しい。
だが、すでに目元が少し潤んでいる。
俺を見つけると、安心したように笑った。
歩いてくる。
走らない。
かなり慎重な歩き方だ。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日はかなり丁寧でした」
「今朝、登校途中で、前を歩いていた生徒の方が『半歩置こう』と仰っていて」
「もう聞きましたか」
「はい」
リリスの目が潤む。
「私の言葉が、私の知らないところで」
「はい」
「使われていました」
「嬉しいですか?」
「嬉しいです」
「怖いですか?」
リリスは少し驚いたように俺を見た。
そして、小さく頷いた。
「はい。少し」
「そうですよね」
「アル?」
「言葉が広がるのは、嬉しいけれど怖いことだと、母上が言っていました」
「シェルザート伯爵夫人が」
「はい」
「……その通りかもしれません」
リリスは胸元で手を重ねた。
「私の半歩は、アルとの言葉で、皆さまと整えてきた言葉です」
「はい」
「それが誰かの役に立つなら嬉しいです」
「はい」
「でも、軽く扱われたら、少し悲しいかもしれません」
「その時は、また半歩で整えましょう」
「言葉にも半歩が必要なのですね」
「そうかもしれません」
リリスの目が潤む。
「アルが、私の怖さも受け取ってくださいました」
「受け取ります」
「小声版です」
「朝一回目ですね」
リリスは深呼吸した。
涙は出なかった。
「戻りました」
「はい」
ミラが後ろで静かに言う。
「本日一回目、未遂でございます」
「ミラ、今日は多そうです」
「承知しております。記録準備済みです」
「準備しないでください」
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは開口一番に言った。
「半歩、広がってるね」
「はい……」
リリスが少し照れる。
「昨日、廊下で上級生が使ってたよ。『話す前に半歩置け』って」
「上級生まで」
「殿下の耳にも入りそうだね」
「もう入っているかもしれませんわ」
エレナ嬢が穏やかに言う。
「アマリリス様、すごいことですわ」
「すごい、のでしょうか」
「はい。誰かが自分の心を整えるために使っているのですもの」
「……嬉しいです」
「でも、怖い?」
エレナ嬢の問いに、リリスは少しだけ目を伏せた。
「はい」
「それも自然ですわ」
「自然」
「自分の言葉が広がる時、手を離れるように感じるのは当然です。でも、言葉は誰かに届くことで育つものでもあります」
リリスはエレナ嬢を見た。
「育つ」
「ええ。アマリリス様が大切にしてきた意味を伝え続ければ、きっと雑には扱われませんわ」
「……ありがとうございます」
リリスの目が潤む。
「小声版です」
俺はハンカチを出しかけたが、リリスは深呼吸した。
「受け取ります」
涙は出ない。
教室に入ると、いつもより少しざわついていた。
黒板には通常の授業予定。
だが、生徒たちの話題はまだ発表のことが多い。
ニールがすぐに来た。
「アマリリス様」
「はい」
「昨日、弟に半歩の話をしてみたんです」
「弟様に?」
「はい。兄弟喧嘩をした時、一回半歩置こうって言ってみたら、少し落ち着いて」
リリスの目が大きく開いた。
「本当ですか?」
「はい。まあ、すぐまた喧嘩になりましたけど」
ニールは少し苦笑した。
「でも、一回止まれたんです」
リリスの表情が揺れる。
「一回、止まれた」
「はい」
「……それは、とても大きいです」
リリスは涙をこぼした。
「アマリリス様!?」
ニールが慌てる。
俺はハンカチを差し出す。
「嬉しい涙です」
リリスが言う。
「バートン様、教えてくださってありがとうございます」
「い、いえ」
「半歩が、弟様との間で一回だけでも役に立ったのなら、とても嬉しいです」
ニールの顔が赤くなる。
「こちらこそ、ありがとうございます」
クラリス嬢も近づいてきた。
「アマリリス様、私も昨日、母へ手紙を書きました」
「お母様へ?」
「はい。ハンカチの橋のことを少し」
リリスがもう泣きそうになる。
「手紙に」
「はい。支えられた経験を、誰かへ返したいと書きました」
「クラリス様」
「母から返事が来るのは先ですが、書いていて少し心が軽くなりました」
リリスは完全に泣いた。
「小声版では足りません」
「はい」
クラリス嬢は慣れた様子でハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、涙を拭いた。
教室の何人かが、優しくその様子を見ている。
発表は、本当に届いている。
一時間目は礼法だった。
ベイル先生は黒板にこう書いた。
『言葉が広がった時の礼』
もはや驚かない。
驚かないが、毎回すごい。
「誰かが発した言葉が、周囲へ広がることがあります」
先生は淡々と話し始めた。
「それは名誉である一方、責任も伴います」
リリスの背筋が伸びる。
「言葉は、人の手に渡ると少しずつ形を変えます。だからこそ、発した者は、元の意味を丁寧に伝え続ける必要があります」
元の意味。
半歩の意味。
「ただし、すべてを自分の思い通りに使わせようとする必要はありません」
リリスが少し驚く。
「言葉は相手の中で育つものでもあります。大切なのは、軽く扱われた時に怒ることだけではなく、なぜ大切なのかをもう一度伝えることです」
リリスは真剣にノートを取った。
「アマリリスさん」
「はい」
「半歩という言葉が広がり始めていますね」
「はい」
「怖いですか?」
「……少し怖いです」
「よろしい」
「よろしい、ですか?」
「怖さを自覚できているなら、丁寧に扱えるからです」
先生の声は穏やかだった。
「あなたが伝えたい半歩は、ただ距離を取ることではありませんね?」
「はい」
「では、それを必要な時に伝えればよいのです」
「はい」
「言葉が広がることを、すべて止める必要はありません。あなた自身も半歩で向き合いなさい」
リリスの目が潤む。
「受け取ります」
「はい」
授業後、リリスはノートに書いた。
『言葉が広がる時も半歩。守りすぎず、放しすぎず、意味を伝え続ける』
良い言葉だ。
俺はそれを見て言った。
「リリス」
「はい」
「それ、とても良いと思います」
「……ありがとうございます」
「発表後の研究として、加えられますね」
「発表後の研究」
「はい。半歩が誰かに届いた後、どう育つか」
リリスは目を見開いた。
「アル」
「はい」
「研究は、発表で終わりではないのですね」
「そうだと思います」
「……小声版です」
「今日は多いですね」
「はい。でも、嬉しいです」
リリスは涙を一粒だけ拭いた。
二時間目の自由研究整理では、先生が発表後の振り返りを課題にした。
リリスは迷わず書き始めた。
『半歩が広がり始めている』
『嬉しい。怖い』
『でも、誰かが一度止まれたなら、それは大きい』
『言葉は届いた後も育つ』
その文字を見て、俺も自分の研究の振り返りを書く。
俺の発表も、ニールから算術とつながると言われた。
父上から、領地運営に必要だと言われた。
殿下から、堅実な視点だと言われた。
俺も受け取らなければならない。
俺は書いた。
『自分の研究も誰かとつながる。農園と商人だけでなく、学ぶ者同士の視点もつながる』
リリスがそれを見て、嬉しそうに微笑んだ。
「アルの研究も、橋ですね」
「そうかもしれません」
「農園と商人の橋」
「リリスが言うと、何でも橋になりますね」
「つなげることが好きなのかもしれません」
「良いことだと思います」
リリスは少し照れた。
休み時間、廊下で小さな出来事があった。
下級生らしき生徒二人が言い合いをしていた。
片方が泣きそうで、もう片方がむっとしている。
俺たちが通りかかった時、近くにいた別の生徒が言った。
「一回、半歩置こう。怒ったまま言うと、余計に近すぎるから」
リリスが足を止めた。
下級生たちは少し戸惑ったが、その言葉で本当に一度黙った。
そして、一人が小さく謝った。
完全に解決したわけではない。
でも、止まった。
一回、半歩を置いた。
リリスの目から涙が落ちた。
「アル」
「はい」
「今」
「はい」
「半歩が」
「届いていましたね」
言った瞬間、リリスはさらに泣いた。
「強いです」
「でも、本当です」
「はい」
俺はハンカチを渡した。
リリスは涙を拭きながら、下級生たちの方へ小さく礼をした。
彼らは気づいていない。
でも、リリスの言葉はそこにあった。
昼休み。
食堂では、リリスはかなり泣き疲れていた。
だが、食事は取れている。
「今日は、半歩がたくさん届いています」
「はい」
「嬉しいです。でも、心が忙しいです」
「でしょうね」
エレナ嬢が優しく言う。
「今日は早めに休まれた方がよいかもしれませんわ」
「はい」
ユリウスが言う。
「広がり方、興味深いね」
「研究目線ですね」
「もちろん。噂と違って、半歩は好意的に広がってる。でも、意味がずれないようにするには、アマリリス様の説明が今後も大事になる」
「はい」
リリスは頷いた。
「私は、半歩を大切に伝え続けます」
「それでいいと思う」
その時、食堂の入口にオスカーの姿が見えた。
彼はこちらに気づくと、少し迷った後、近づいてきた。
「アマリリス様、シェルザート殿」
「ご機嫌よう、ベルク様」
「ご機嫌よう」
オスカーは丁寧に礼をした。
「殿下より、また一つお言葉を預かっています」
リリスの背筋が伸びる。
「はい」
「半歩という言葉が、学園内で使われ始めていると殿下もお聞きになりました」
「……はい」
「殿下は、『言葉が人の間に渡るのは、それが必要とされたからだろう』と」
リリスの目が潤む。
「必要と」
「はい」
「また、『アマリリス嬢が大切にしている意味を、これからも伝えてほしい』とのことです」
リリスは泣いた。
もう仕方ない。
「ありがとうございます。大切に受け取ります」
オスカーは少し柔らかい表情になった。
「シェルザート殿」
「はい」
「殿下は、半歩の始まりにあなたの言葉があったことも、興味深く思われているようです」
「……光栄です」
「どうか、アマリリス様と共に、その意味を大切になさってください」
「はい」
オスカーは礼をして去っていった。
ユリウスが小声で言う。
「完全に認められ始めてるね」
「そうでしょうか」
「うん。少なくとも、殿下はこの言葉を軽く扱う気はない」
「それはありがたいです」
リリスは涙を拭きながら言った。
「殿下にも、届いていました」
「はい」
「怖いですが、嬉しいです」
「はい」
午後の授業では、リリスは少し疲れが出ていた。
魔法基礎では、光が揺れた。
だが、教師は優しく言った。
「アマリリスさん、今日は心をたくさん使いましたね」
「はい」
「なら、今日は小さく整えるだけで十分です」
「はい」
リリスは深呼吸した。
小さな光が、ゆっくり落ち着く。
半歩。
自分の言葉を、自分でも使っている。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日は、少し心配そうな顔だった。
「リリス」
「お兄様」
「今日はかなり泣いたな」
「はい」
「半歩が広がっているからか」
「はい」
「嬉しいか?」
「はい」
「怖いか?」
「はい」
「ならよし」
「よし、ですか?」
「両方分かっているなら、雑には扱わない」
リリスの表情が柔らかくなる。
「お兄様も、先生と同じことを」
「当然だ」
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「半歩は、もう君たちだけの言葉ではなくなりつつある」
「はい」
「だが、始まりは君たちだ」
「はい」
「だから、二人で意味を守れ。押しつけず、放しすぎず」
「分かりました」
リリスが小さく言った。
「半歩で」
「そうだ」
レオナルド先輩は少しだけ笑った。
「父上は、半歩が広がっていると聞いて泣いた」
「でしょうね」
「そして、『私も半歩を学ぶ』と言って立った」
「立つんですね」
「母上が札を出した」
「何の札ですか?」
「『まず座って学ぶ』」
「新札!!」
リリスが笑った。
泣き疲れていた顔に、やっといつもの笑顔が戻る。
正門で別れる時、リリスはとても静かだった。
今日一日、たくさんの言葉を受け取ったからだろう。
「アル」
「はい」
「半歩が、私の知らないところで誰かの役に立っていました」
「はい」
「嬉しいです」
「はい」
「怖いです」
「はい」
「でも、大切に伝え続けたいです」
「はい」
「アルと一緒に」
「はい」
リリスの目が潤む。
「今日の宝物名は」
「はい」
「半歩が誰かに届いた日の宝物です」
「とても良い名前です」
「あと」
「はい」
「言葉は届いた後も育つと知った日の宝物です」
「リリスらしいですね」
リリスは涙を一粒だけ落とし、笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はそれを見送りながら、静かに思った。
半歩は、もう俺とリリスだけの言葉ではない。
でも、始まりは確かに俺たちだった。
なら、これからも大切にしていけばいい。
押しつけず、放しすぎず。
半歩で。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「半歩が広がっているそうだな」
「はい」
「すごいじゃないか」
「リリスは嬉しさと怖さで大変そうでした」
「だろうな」
母上が微笑む。
「言葉が育ち始めたのね」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『半歩が学園で広がっていると聞いた。泣いた。私が。娘の言葉が誰かの役に立っている。泣いた。私も半歩を学ぶと立ったら、セレスティアに「まず座って学ぶ」の札を出された。座った。泣いた。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『半歩が広がり始めている。リリスは嬉しさと怖さの両方を感じているようだ。悪くない。君も共に意味を守れ。父上は半歩を学ぶと言って立ったため、「まず座って学ぶ」の札を出した。効果あり。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日、リリスは半歩が誰かに届いたことを知り、たくさん泣いたようです。言葉が広がることは、嬉しくも怖いものです。ですが、あの子が大切に意味を伝え続ければ、きっと良い形で育つでしょう。夫には「まず座って学ぶ」の札を出しました。座りました。泣きました。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
まず座って学ぶ。
座った。
泣いた。
ガロウ公爵、少しずつ進歩している……のか?
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「学びもまず姿勢からでございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
半歩は、ちゃんと誰かに届き始めています!!
でも、お父様は半歩を学ぶ前にまず座ってください!!




