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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第38話 公爵令嬢様、最初の半歩を思い出して赤くなります



 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 リリスの自由研究は、かなり形になってきた。


 最初は、ただ俺たちの間で生まれた不思議な言葉だった。


 小声版。


 半歩。


 ハンカチの橋。


 それが今では、礼法における感情表現と周囲の配慮、という研究になっている。


 王子殿下にも興味を持たれ、先生にも評価され、クラスメイトたちにも少しずつ受け入れられている。


 正直、ここまで広がるとは思っていなかった。


 最初はただ、リリスが近すぎたから、


「あと半歩だけ下がりましょう」


 と言っただけだったのだ。


 ただ、それだけだった。


 しかし、その一言をリリスは大切に受け取った。


 嫌われたのではなく、戻る場所を教えてもらえた。


 そう感じてくれた。


 そして今、それが研究の中心になろうとしている。


 昨日の反省会で、リリスの発表はかなり整理された。


 小声版は、感情を伝える合図。


 半歩は、心や距離を整える中心。


 ハンカチの橋は、支えられた経験を誰かへつなげる支え合い。


 この流れは、とても分かりやすい。


 先生も、ユリウスも、エレナ嬢も、ニールも、クラリス嬢も、皆がそう言った。


 そして今日。


 具体例を磨くことになった。


 つまり。


 俺が最初に言った、


「あと半歩だけ下がりましょう」


 の話を、発表用に整えるのである。


 ……恥ずかしい。


 かなり恥ずかしい。


 なぜ、俺とリリスの距離調整が、クラス発表の具体例になるのか。


 いや、分かる。


 分かるのだ。


 あれが半歩の始まりだった。


 発表としても、具体的で伝わりやすい。


 聞き手にもイメージしやすい。


 だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。


 朝食の席でその話をすると、父上は盛大に笑った。


「はははは! 最初の半歩か! いいじゃないか!」


「父上、笑いすぎです」


「いや、良い具体例だ」


「そうですけど」


「お前がリリス嬢に、あと半歩だけ下がりましょう、と言ったわけだろう?」


「復唱しないでください」


「そこから二人の礼法が始まったわけだ」


「言い方が大げさです」


「いや、案外そうでもないぞ」


 父上は笑いを少し収め、紅茶を飲んだ。


「距離を整えるというのは、婚約者同士だけでなく、貴族社会全体に必要なことだ」


「はい」


「近すぎれば相手を圧迫する。遠すぎれば声が届かない。ちょうどいい場所を探すことは、大切だ」


「それはリリスも言っていました」


「なら、良い研究だ」


 父上は穏やかに言った。


「恥ずかしいかもしれんが、お前たちの実感から出た言葉だからこそ、聞く者に届く」


「……はい」


 母上も微笑む。


「アル、照れる必要はあるけれど、隠す必要はないわ」


「照れる必要はあるんですね」


「ええ。照れがないと、甘さがなくなるもの」


「母上」


「ふふ」


「でも、発表では個人名は伏せるんでしょう?」


「はい。信頼できる相手、と表現する予定です」


「それがよいわね」


 母上は少し考えた。


「ただ、リリス様の中では、それがアルだと分かっているのでしょう?」


「……はい」


「なら、発表の言葉は一般化しても、支えになった気持ちは消えないわ」


 その言葉は、少し救いだった。


 発表では俺の名前を出さない。


 でも、リリスの中にある最初の半歩は、俺との出来事だ。


 それでいいのかもしれない。


 ライズは背後で鞄を確認しながら、いつものように言った。


「若様、本日のハンカチは八枚でございます」


「今日も八枚か」


「最初の半歩回想日でございますので」


「回想日って何だ」


「想定される涙は、当時思い出し涙、信頼できる相手表現による照れ涙、若様が『俺も覚えています』等と仰った時の強烈な嬉し涙でございます」


「最後、言いそうで怖い」


「高確率です」


「俺への信頼が変な方向に高い」


「若様ですので」


「どういう意味だ」


「そのままの意味でございます」


 ライズはさらに紙を差し出した。


「本日の注意点でございます」


「またあるのか」


 紙にはこう書かれていた。


 ・発表用の具体例は、感情を煽りすぎない。


 ・「婚約者」と言うとアマリリス様が泣く可能性あり。


 ・「信頼できる相手」が無難。


 ・若様が照れるとアマリリス様も照れる。


 ・二人同時に照れると周囲がニヤニヤする。


「最後、注意点なのか?」


「注意喚起でございます」


「周囲がニヤニヤするのは避けられないのでは?」


「はい」


「なら書かないでくれ」


「事前認識は重要です」


 たしかに、今日の反省会で俺とリリスが照れれば、ユリウスは絶対に笑う。


 エレナ嬢はにこにこする。


 クラリス嬢は赤くなる。


 ニールは視線を逸らす。


 見える。


 全部見える。


 学園へ向かう馬車の中、俺は窓の外を見ながら、最初の半歩を思い出していた。


 たしか、母公認の後だった。


 リリスが安心して、少し距離が近くなっていた。


 俺はライズの助言を受けて、ただ「近いです」と言うのではなく、


「あと半歩だけ下がりましょう」


 と伝えた。


 リリスは、それをとても嬉しそうに受け取った。


 戻る場所があるみたいで嬉しいです。


 そう言った。


 その時は、少し驚いた。


 止められて嬉しいのか、と。


 でも今なら分かる。


 リリスにとって、近づきすぎることは、愛情や安心の表れでもある。


 けれど、近づきすぎて嫌われることは怖い。


 だから、ここまでなら大丈夫だと示されることが、安心になったのだ。


 それは、拒絶ではない。


 調整。


 まさに半歩。


 正門前に着くと、リリスはいつもの場所にいた。


 制服姿。


 ブルーローズの髪飾り。


 だが、今日のリリスは、すでに少し赤かった。


 たぶん、同じことを考えている。


 俺を見つけると、ぱっと笑い、でもすぐに照れたように視線を下げた。


 歩いてくる。


 走らない。


 ただし、歩幅が少し小さい。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。今日は歩幅が小さめでした」


「最初の半歩のことを考えていたら、歩幅が気になってしまって」


「分かります」


「アルも?」


「はい。今日はずっと、そのことを考えていました」


 リリスの目が潤む。


「アルも、覚えていてくださったのですか?」


「もちろんです」


「……っ」


「朝から強かったですね」


「強いです」


 リリスは深呼吸した。


「小声版です」


「朝一回目ですね」


「はい。ですが、今日は思い出し小声版です」


「新しい分類」


「最初の半歩を思い出すと、胸が温かくなって」


「はい」


「アルが、私を嫌がらず、戻る場所を教えてくださった日なので」


 真正面から言われると、かなり照れる。


「リリス」


「はい」


「俺も、あの日のことは大切に思っています」


 リリスの目から涙が落ちた。


 早い。


 分かっていた。


 でも、これも言うべきだった。


「アル……」


「嬉しい涙ですか?」


「はい」


「では、ハンカチを」


 俺はハンカチを出した。


 リリスは受け取り、目元を押さえた。


「発表前から泣いてしまいました」


「今日は仕方ないです」


「はい」


 ミラが後ろで静かに言う。


「本日一回目、通常発生でございます」


「ミラ、通常発生って」


「最初の半歩回想日ですので」


「ミラまでライズみたいに」


「共有しております」


「本当に共有が密ですね」


 リリスは涙を拭きながら少し笑った。


 それだけで、朝の空気が柔らかくなる。


 教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


「おはよう。今日は具体例を詰める日だよね」


「はい」


 リリスが答える。


「最初の半歩の話です」


 言った瞬間、顔が赤くなる。


 ユリウスがにやりと笑った。


「お、もう照れてる」


「照れていません」


「いや、照れてる」


「照れています」


 リリスが素直に言い直した。


 ユリウスが笑う。


「素直」


 エレナ嬢が微笑む。


「でも、最初の半歩はとても良い具体例ですわ」


「エレナ様もそう思われますか?」


「はい。アマリリス様が安心できた理由が、とても分かりやすいですもの」


「……ありがとうございます」


 リリスの目がまた潤みかける。


「今日は本当に涙が多くなりそうですね」


「はい」


 俺が言うと、ユリウスが笑った。


「まあ、最初の半歩だもんね。二人の原点みたいなものだし」


「原点」


 リリスがその言葉に反応した。


「アルとの原点」


「リリス、廊下です」


「はい。小声版です」


「早い」


 エレナ嬢が小さく笑う。


「今日は、皆で支えますわ」


「ありがとうございます」


 教室に入ると、ニールとクラリス嬢が早速声をかけてきた。


「アマリリス様、今日は具体例を考えるんですよね」


 ニールが言う。


「はい。最初の半歩について」


「楽しみにしています」


 リリスの涙腺にまた一撃。


「ありがとうございます。受け取ります」


 クラリス嬢も頷く。


「私も、最初の半歩のお話は聞きたいです」


「少し恥ずかしいです」


「でも、きっと一番伝わると思います」


「クラリス様……」


 リリスは嬉しそうにハンカチを握る。


 まだ泣かない。


 今日は耐えたり泣いたり忙しい日になるだろう。


 一時間目は自由研究準備。


 先生はまず、昨日の改稿を踏まえて、具体例の選び方について話した。


「発表における具体例は、ただ面白いものを選べばよいわけではありません」


 黒板に書かれる。


『中心とつながるもの』


『短く説明できるもの』


『聞き手が想像できるもの』


『話し手が大切にしているもの』


「この四つを満たすものが望ましいです」


 先生は教室を見渡す。


「アマリリスさんの場合、最初に半歩という考えが生まれた場面が良いでしょう」


「はい」


 リリスは少し顔を赤くして頷いた。


「ただし、個人的な感情をそのまま長く話しすぎると、発表の軸が揺れます」


「はい」


「感情は大切ですが、聞き手が受け取りやすい形へ整えましょう」


 また整える。


 発表そのものも半歩なのだ。


 先生はリリスに言った。


「まず、出来事を三文で説明してみましょう」


「三文」


「はい。一文目、状況。二文目、言葉。三文目、そこから何を感じたか」


 リリスは真剣にノートへ書く。


 俺も横目で見る。


 先生が促す。


「では、声に出してみましょう」


 リリスは立ち上がった。


 顔は赤い。


 だが、逃げない。


「私は、感情が強くなった時、信頼できる相手との距離が近くなりすぎることがありました」


 教室が静かになる。


 信頼できる相手。


 俺のことではあるが、発表用にはそれでいい。


「その時、『あと半歩だけ下がりましょう』と言ってもらいました」


 リリスの顔がさらに赤くなる。


 俺も顔が熱くなる。


 ユリウスが楽しそうにこちらを見ているのが分かる。


「それは拒絶ではなく、ここまでなら大丈夫という戻る場所を教えてもらえたように感じました」


 言えた。


 三文。


 短いが、ちゃんと伝わる。


 先生が頷いた。


「とても良いです」


「ありがとうございます」


「ただ、一文目が少し長いので、もう少し整理できます」


「はい」


「『感情が強くなると、相手との距離が近くなりすぎることがあります』でよいでしょう」


「相手、ですか」


「発表では、その方が聞き手に広く伝わります」


「はい」


 リリスは少しだけ寂しそうにした。


 俺は小声で言う。


「リリス」


「はい」


「発表では相手。でも、リリスの中では分かっていればいいと思います」


 リリスの目が潤む。


「アル」


「強かったですか」


「強いです」


「でも、本当にそう思います」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


「受け取ります」


 先生が少し微笑んでいた。


 その後、リリスは三文を何度も整えた。


 最初は照れで詰まった。


 次に「信頼できる相手」と言ってしまい、また顔を赤くした。


 先生が「相手」でよいでしょうと助ける。


 ユリウスが「でも信頼できる相手の方がリリス様らしい」と言う。


 エレナ嬢が「発表の種類によって使い分けてもよいですわ」とまとめる。


 ニールが「相手の方が初めて聞く人には分かりやすいです」と言う。


 クラリス嬢が「でも、最後に信頼という言葉があると温かいです」と言う。


 意見が出る。


 リリスは一つずつ受け取っていく。


 泣きそうになりながら。


 でも、受け取っていく。


 最終的に、こうなった。


『感情が強くなると、相手との距離が近くなりすぎることがあります。そんな時、「あと半歩だけ下がりましょう」と言ってもらったことで、私は拒絶ではなく、戻る場所を示してもらえたのだと感じました。そこから、感情や距離を否定せず、相手と自分がどちらも息をできる場所を探すことを、半歩と考えるようになりました』


 完璧では?


 かなり良いのでは?


 俺は思わずそう思った。


 リリスがこちらを見る。


「アル」


「はい」


「どうでしょうか」


「とても良いです」


「本当ですか?」


「はい。最初の出来事から、半歩の意味へ自然につながっています」


 リリスの目が潤む。


「……自分のことなのに、少し研究らしくなりました」


「なりましたね」


「皆さまのおかげです」


「リリスがちゃんと受け取ったからです」


「強いです」


「今日はすみません」


「でも、嬉しいです」


 リリスはハンカチを握りしめ、涙を一粒だけ拭いた。


 授業の後半、先生はリリスに短い発表の練習をさせた。


 今回は、最初から半歩を中心にした構成。


 リリスは前へ出る。


 昨日より少し落ち着いている。


「私の研究は、礼法における感情表現と周囲の配慮についてです」


 声は安定している。


「中心となる考えは、半歩です」


 教室の空気が少し柔らかくなる。


 もう皆が知っている言葉だ。


「感情が強くなると、相手との距離が近くなりすぎることがあります。そんな時、『あと半歩だけ下がりましょう』と言ってもらったことで、私は拒絶ではなく、戻る場所を示してもらえたのだと感じました」


 言えた。


 俺は少し照れた。


 リリスも顔を赤くしている。


 でも、言えた。


「そこから、感情や距離を否定せず、相手と自分がどちらも息をできる場所を探すことを、半歩と考えるようになりました」


 先生が頷く。


 リリスは続ける。


「小声版は、自分の感情が大きく動いていることを周囲に静かに伝える合図です。ハンカチの橋は、支えられた経験を誰かを支えるためにつなげることです」


 ここも短くなっている。


「私はまだ、感情を整えることが上手ではありません。ですが、半歩ずつ、自分と周囲が落ち着いて向き合える方法を学んでいきたいと思っています」


 終わった。


 昨日より、確実にまとまっている。


 教室に、自然な拍手が起きた。


 リリスは目を潤ませたが、泣かなかった。


 深呼吸。


 受け取った。


 先生が言った。


「非常に良くなりました」


「ありがとうございます」


「昨日より発表の軸が明確です。これなら、初めて聞く人にも伝わるでしょう」


「……ありがとうございます」


「受け取れますか?」


「はい。受け取ります」


 リリスは深呼吸した。


 泣かなかった。


 本当に強くなっている。


 休み時間、ユリウスがにやにやしながら俺の隣に来た。


「アルフレッド」


「何ですか」


「あと半歩だけ下がりましょう」


「やめてください」


「名言だね」


「からかわないでください」


「いや、本当に良い言葉だと思うよ」


 ユリウスは笑いを少し収めた。


「拒絶じゃなく戻る場所って、結構すごい考え方だよ」


「俺はそこまで考えていませんでした」


「でも、アマリリス様がそう受け取った。そして君もそれを否定しなかった」


「はい」


「だから半歩になった」


 ユリウスの言葉は、意外と深かった。


「君たち二人で作った言葉だね」


 俺は少し黙った。


 二人で作った言葉。


 そう言われると、胸が温かくなる。


 リリスが少し離れたところでクラリス嬢と話していたが、こちらを見ていた。


 聞こえたらしい。


 顔が赤い。


 目も潤んでいる。


「ユリウス様」


「ん?」


「あちらに刺さっています」


「おっと」


 リリスはハンカチを握ったまま、深呼吸した。


 エレナ嬢が水を出している。


 クラリス嬢が慌てている。


 また小さな橋がかかっている。


 昼休み。


 食堂では、最初の半歩の具体例について、また話題になった。


 リリスは食事をしながらも、発表文を何度も頭の中で繰り返しているようだった。


「リリス、食事中は少し休みましょう」


「はい。でも、言葉が浮かんでしまって」


「発表文ですか?」


「はい」


「焦らなくて大丈夫です。もうかなり整っています」


「……アルがそう言ってくださると、安心します」


「はい」


「でも、泣きそうです」


「食堂です」


「はい。感情の半歩です」


 リリスはスープを一口飲んだ。


 落ち着く。


 エレナ嬢が言う。


「発表文、とてもよくなりましたわね」


「ありがとうございます」


「特に、『相手と自分がどちらも息をできる場所』という言葉が素敵です」


「それは、王子殿下との茶会で考えたことでもあります」


「ええ。だから深みが出ていますわ」


 リリスの目が潤む。


「深み……」


「危険です」


 俺が言うと、ユリウスが笑った。


「褒め言葉全部危険だね」


「はい」


 リリスは真剣に頷いた。


「でも、受け取る練習です」


「偉い」


「ユリウス様、それも危険です」


「ごめん」


 ニールが近くの席から少し顔を出した。


「アマリリス様、僕、発表で半歩の考えを聞いて、友人との距離でも使えるなと思いました」


「友人との?」


「はい。教えすぎても相手が困るし、放っておきすぎても冷たい。半歩って、そういうところにも使えそうだなって」


 リリスは目を丸くした。


「バートン様、それはとても良い視点です」


「えっ」


「私、発表に少し入れてもよろしいでしょうか」


「ぼ、僕の言葉でよければ」


「はい。ありがとうございます」


 ニールが赤くなる。


 リリスも嬉しそうにする。


 ユリウスが小声で言った。


「研究がどんどん広がるね」


「本当に」


「でも、広げすぎ注意」


「ですね」


 午後の魔法基礎では、リリスの魔力は昨日よりさらに安定していた。


 発表文が整うと、心も整う。


 それが魔力にも出ている。


 教師が言った。


「アマリリスさん、今日は光がとても安定していますね」


「ありがとうございます。研究の言葉が少し整いました」


「言葉が整うと、魔力も整う。良い例です」


「受け取ります」


 リリスは深呼吸した。


 泣かない。


 受け取った。


 俺はその様子を見て、少し誇らしくなった。


 放課後。


 レオナルド先輩がいつもの場所で待っていた。


 今日はなぜか、いつもより少し表情が緩い。


「リリス」


「お兄様」


「最初の半歩を具体例にしたそうだな」


「はい」


「あと半歩だけ下がりましょう、か」


 リリスの顔が真っ赤になる。


「お兄様、復唱しないでください」


「良い言葉だ」


「……ありがとうございます」


「アルフレッド」


「はい」


「君も照れているな」


「はい」


「よし」


「何がよしなんですか」


「照れがあるなら、まだ健全だ」


「判断基準」


 レオナルド先輩は真面目な顔で続けた。


「リリス、その具体例は良い。お前が半歩を拒絶ではなく戻る場所として受け取ったことが、一番伝わる」


「はい」


「だが、長く語りすぎるな」


「お兄様も同じことを」


「大切だからだ」


「はい」


「父上に聞かせたら、途中で泣いて話が進まない」


「でしょうね」


「現在、札が増えた」


「またですか?」


「『最後まで聞く』だ」


「お父様……」


「効果は未知数だ」


「未知数なんですね」


 俺は思わず言った。


「ガロウ公爵、発表本番で最前列にいたら大変では?」


 レオナルド先輩は真顔で頷いた。


「だから母上が席を調整する」


「どこに?」


「後方、かつ出口から遠い場所」


「出口から遠い」


「走り出さないように」


「完全に動線管理」


 リリスが笑った。


 兄も少しだけ笑う。


 正門で別れる時、リリスはノートを大事そうに抱えていた。


 今日は朝よりずっと落ち着いている。


「アル」


「はい」


「最初の半歩を、ちゃんと発表の言葉にできました」


「はい」


「少し恥ずかしいですが」


「俺も恥ずかしいです」


「一緒ですね」


「はい」


 リリスは嬉しそうに笑った。


「今日の宝物名は」


「はい」


「最初の半歩を言葉にできた日の宝物です」


「良い名前です」


「あと」


「はい」


「アルと一緒に照れた日の宝物です」


「それも宝物なんですか」


「はい。とても大切です」


「……そうですか」


 リリスの目が潤む。


「アル」


「はい」


「半歩は、私だけの言葉ではなくて、アルと一緒にできた言葉なのですね」


「……そうですね」


「嬉しいです」


「俺も嬉しいです」


 リリスは泣いた。


 静かに、嬉しそうに。


 俺はハンカチを差し出した。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 馬車が遠ざかる。


 俺はそれを見送りながら、最初の半歩をもう一度思い出した。


 あの時は、ただの距離調整だった。


 でも今は、二人で作った言葉になった。


 人に伝えるための研究になった。


 リリスが自分の心と向き合うための支えになった。


 それなら、少し恥ずかしくてもいい。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上が待っていた。


「今日はどうだった?」


「最初の半歩を具体例にしました」


「おお」


「発表文もかなり整いました」


「そうか」


「少し恥ずかしいですが」


「良いことだ」


 父上は笑った。


「恥ずかしいくらいの方が、読……いや、聞き手にも届く」


「今、何か言いかけませんでした?」


「気にするな」


 母上が微笑む。


「リリス様、嬉しかったでしょう」


「はい。泣きました」


「でしょうね」


 その後、フルーラ家から書状が届いた。


 一通目、ガロウ公爵。


『最初の半歩が具体例になると聞いた。泣いた。私が。あと半歩だけ下がりましょう。良い言葉だ。泣いた。セレスティアに「最後まで聞く」の札を追加された。私は最後まで聞く父でありたい。たぶん泣く。 ガロウ』


 二通目、レオナルド先輩。


『具体例は良い。半歩の始まりが伝わる。ただし、父上には危険だ。「最後まで聞く」の札を追加したが、効果は未知数。母上が発表本番の席順を検討している。出口から遠い席になる可能性が高い。 レオナルド』


 三通目、セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日、リリスは最初の半歩を発表用の言葉に整えられたようですね。個人的な出来事を、聞き手に届く形へ整えることは、とても大切な学びです。あなたがあの日、拒絶ではなく戻る場所を示してくださったことに、改めて感謝いたします。夫には「最後まで聞く」の札を追加しました。効果は未知数ですが、継続が大切です。 セレスティア』


 俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。


 最後まで聞く。


 効果は未知数。


 ガロウ公爵、発表本番前から危険人物扱いである。


 父上は腹を抱えて笑った。


 リーマスは「聞き届ける愛もまた試練でございます」と頷いた。


 ライズは静かに親指を立てた。


 俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 最初の半歩、ちゃんと言葉にできました!!


 でも、お父様は最後まで聞けるか未知数です!!

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