第36話 公爵令嬢様、発表練習で自分の言葉に泣きます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
王子殿下との茶会から、数日が過ぎた。
……と言いたいところだが、実際にはまだ翌々日である。
たった二日。
それなのに、俺たちの周囲の空気はかなり変わっていた。
まず、リリスへの視線。
以前は、公爵令嬢としての憧れや、俺との婚約への好奇心が多かった。
途中で、噂のような嫌な視線も混じった。
だが今は、少し違う。
王子殿下がリリスの自由研究に関心を示した。
しかも、正式な茶会で話を聞いた。
さらに、オスカー・ベルクが俺たちへの態度を改め始めた。
その結果、リリスの研究そのものが注目され始めたのだ。
小声版。
半歩。
ハンカチの橋。
少し前なら、俺たちの周囲だけで通じる不思議な言葉だった。
しかし今では、クラスの何人かが普通に、
「それ、半歩で考えると分かりやすいね」
とか、
「今のは小声版案件かも」
とか言い出すようになっている。
いや、待ってほしい。
便利なのは分かる。
分かるが、広まり方が早すぎる。
リリス本人も、それを見て嬉しそうにしつつ、恥ずかしそうに泣きそうになる。
忙しい。
そして今日。
自由研究の授業で、ついに先生から言われた。
「アマリリスさん、そろそろ発表の形に整えましょう」
発表。
つまり、クラスの前で話す。
いずれは学年内で選ばれれば、さらに大きな場で話すこともある。
王子殿下が楽しみにしていると言った研究だ。
注目は、以前より確実に増えている。
リリスはそれを聞いた瞬間、顔を赤くし、目を潤ませ、しかし逃げなかった。
「はい」
と答えた。
その声を聞いた時、俺は思った。
ああ。
今日も絶対に泣くな、と。
朝。
屋敷の食堂でその話を父上にすると、父上は楽しそうに笑った。
「ついに発表練習か」
「はい」
「リリス嬢には大きな山だな」
「そうですね」
「だが、王子殿下の前で話せたのだから、クラスの前でも話せるだろう」
「それを本人に言うと泣きます」
「だろうな」
母上が微笑んだ。
「でも、発表はまた別の緊張でしょうね」
「はい」
「王子殿下の前では、相手は少人数でした。今度はクラス全体の視線を受けることになるわ」
「そうですね」
「リリス様には、視線を敵だと思わない練習が必要かもしれないわね」
「視線を敵だと思わない」
「ええ。見られることは怖いけれど、必ずしも責められているわけではないから」
母上の言葉に、俺は頷いた。
リリスは視線に敏感だ。
自分がどう見られているかを気にする。
それは公爵令嬢として育ったからでもあるし、泣き虫な自分を恥ずかしいと思ってきたからでもあるのだろう。
だが、今のクラスの視線は、以前とは違う。
応援している人もいる。
興味を持っている人もいる。
クラリス嬢のように、リリスの言葉に救われた人もいる。
それを、リリスが受け取れるかどうか。
今日の課題は、そこかもしれない。
ライズは鞄を確認しながら、いつものように言った。
「若様、本日のハンカチは八枚でございます」
「発表練習日だからか」
「はい。想定される涙は、発表前緊張涙、先生に褒められた時の感動涙、友人に応援された際の安心涙、若様が『話せています』等と仰った時の強烈な嬉し涙」
「また俺が危険因子」
「最重要でございます」
「最近、俺の言葉が一番危険じゃないか」
「はい」
「即答だな」
「事実ですので」
ライズはさらに小さな紙を渡してきた。
「こちら、発表練習時に若様が使える短めの言葉でございます」
「そこまで用意したのか」
紙にはこう書かれていた。
・今の説明は分かりやすかったです。
・一息置きましょう。
・急がなくて大丈夫です。
・ちゃんと届いています。
・リリスの言葉で話せています。
最後が危険すぎる。
「ライズ」
「はい」
「最後は泣く」
「はい」
「分かってて入れたな?」
「必要な場面があるかと」
「確かに」
リリスの言葉で話せている。
これは、発表練習では大事な言葉になる気がする。
使う時は、覚悟しよう。
学園へ向かう馬車の中、俺は昨日までの流れを思い出していた。
茶会。
殿下の評価。
オスカーの変化。
クラスの視線。
そして、リリスの研究。
最初は、ただの俺たちの間のお約束だった。
小声版。
半歩。
ハンカチ。
それが、いつの間にか研究になり、礼法になり、人と人をつなぐ考えになった。
リリスの世界は、少しずつ広がっている。
泣き虫で、天然で、距離感が赤点な公爵令嬢。
けれど、誰かの涙に気づける子。
その彼女が、自分の言葉で人前に立とうとしている。
俺は、それを隣で見届けたい。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
今日も美しい。
だが、いつもより少しそわそわしている。
俺を見つけると、ぱっと笑う。
歩いてくる。
走らない。
けれど、足取りは少し早い。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日は少し早歩きでした」
「発表練習のことを考えていたら」
「緊張していますか?」
「はい」
素直な返答。
リリスは胸元で指を軽く握る。
「王子殿下の前でお話しできたのに、クラスの前で話すと思うと、また違って怖いです」
「そうでしょうね」
「変でしょうか?」
「変ではありません」
「本当ですか?」
「はい。相手が少人数なのと、大勢の前なのは違います」
「……よかったです」
リリスは小さく息を吐いた。
「アル」
「はい」
「もし私が急いでしまったら」
「頷きます」
「もし言葉に詰まったら」
「待ちます」
「もし泣きそうになったら」
「ハンカチを出します」
「……いつも通りです」
「はい。いつも通りです」
リリスの目が潤む。
「小声版です」
「朝一回目ですね」
「はい。でも、今日は練習の日なので、深呼吸で戻します」
リリスは深呼吸した。
一度。
二度。
涙は出ない。
「戻りました」
「はい。できています」
「……危険です」
「すみません」
ミラが後ろで静かに頷いた。
「本日一回目、未遂でございます」
「ミラ、未遂って言わないでください」
「記録上必要です」
「記録するんですね」
「はい」
もう定番である。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
「おはよう。今日は発表練習だっけ?」
「はい」
リリスが答える。
「緊張しています」
「そりゃするよ」
ユリウスは軽く笑った。
「でも、王子殿下の前で話せたんだから、大丈夫」
「……っ」
「危険」
俺が即座に言う。
ユリウスは「あ」と止まる。
「ごめん、強かった」
「強いです」
リリスは深呼吸した。
「でも、受け取ります。ありがとうございます」
エレナ嬢が優しく微笑む。
「今日は私も聞きますわ。練習ですもの」
「エレナ様」
「アマリリス様の言葉は、きっと届きます」
「……っ」
「今のも強い」
「はい」
リリスはまた深呼吸した。
「今日は、朝から練習みたいです」
「そうですね」
俺が言うと、彼女は小さく笑った。
「でも、一人ではないので」
「はい」
教室に入ると、すぐにニールが声をかけてくれた。
「アマリリス様、今日、発表の練習をするんですよね」
「はい」
「楽しみにしています」
リリスの目が潤んだ。
早い。
「楽しみに……」
「はい。半歩の話、ちゃんと聞いてみたいので」
「ありがとうございます」
リリスは深呼吸する。
「受け取ります」
クラリス嬢も少し遅れて近づいた。
「アマリリス様」
「はい」
「ハンカチの橋のお話、私も聞きたいです」
「クラリス様」
「もちろん、無理はなさらず」
「ありがとうございます」
リリスはまた潤みかけた。
今日は本当に危険だ。
しかし、泣かなかった。
受け取った。
その姿を見て、教室の空気が少し温かくなる。
一時間目。
自由研究準備。
先生は教室に入ると、今日は最初から発表練習について説明した。
「今日は、全員が少しずつ自分の研究を声に出して説明します」
教室がざわつく。
「完成している必要はありません。むしろ、未完成の段階で話すことで、足りない部分が見えてきます」
先生は黒板に書いた。
『一、研究の題名』
『二、何を調べているか』
『三、なぜそれを調べたいのか』
『四、今分かっていること』
『五、今後調べたいこと』
「まずは、この五つを短く話せるようにしましょう」
五つ。
リリスは真剣にノートへ写す。
俺も自分の研究ノートを開いた。
俺の研究は、伯爵領における小規模農園と商人の流通の関係について。
正直、リリスの研究ほど劇的ではない。
だが、父上からは「地味な研究ほど領主には大切だ」と言われている。
まず、先生は希望者から練習すると言った。
当然、最初に手を挙げる者は少ない。
ユリウスが俺を見る。
嫌な予感がした。
「アルフレッド、先にやる?」
「なぜ俺を見るんですか」
「君がやると空気が作れるかなって」
「俺を盾にしないでください」
「支え合いだよ」
「都合がいい」
だが、俺が先にやるのもありかもしれない。
リリスがいきなり立つより、俺が一度前に出た方が空気が軽くなる。
そう考えていると、リリスが小声で言った。
「アル」
「はい」
「私、アルが先に話してくださると、少し安心します」
「……分かりました」
それを言われたら、行くしかない。
俺は手を挙げた。
先生が頷く。
「では、シェルザートさん」
「はい」
俺は前に出た。
教室の前に立つと、思った以上に視線を感じる。
リリスはいつも、こういう視線を受けながら立っているのか。
いや、公爵令嬢としては、もっと多くの視線を受けてきたのだろう。
そう思うと、少しだけリリスの緊張が分かった気がした。
俺は一拍置いて話し始めた。
「俺の研究は、伯爵領における小規模農園と商人の流通の関係についてです」
自分の声が少し硬い。
だが、話せる。
「何を調べているかというと、農園で作られた作物が、どのように市場へ届き、どこで価格が変わるのかです」
少しずつ、声が落ち着く。
「なぜ調べたいかというと、将来、領地運営に関わる時、作る者と売る者の両方に無理のない仕組みを考えたいからです」
教室は静かに聞いている。
意外と、皆真面目だ。
「今分かっていることは、小さな農園ほど、天候や道の状態、商人との契約に大きく左右されることです。今後は、実際の取引記録や、父から聞いた領地の例を整理したいと思っています」
話し終える。
一礼する。
先生が頷いた。
「よくまとまっています。少し硬いですが、内容は明確です」
「ありがとうございます」
席へ戻ると、リリスが目を輝かせていた。
「アル、すごいです」
「まだ練習です」
「でも、領地のことを考えているアル、とても素敵です」
「リリス、教室です」
「……小声版です」
自分が発表した後に、リリスが泣きそうになる。
なぜだ。
しかし、少し嬉しい。
俺は小声で言う。
「受け取ります。ありがとうございます」
リリスの目がさらに潤む。
「アルが受け取ってくださいました」
「そこでも泣くんですね」
「嬉しいので」
先生が少し笑っていた。
続いて、何人かが短く発表した。
ニールは算術と商取引について。
クラリス嬢は刺繍の文様と家の歴史について。
エレナ嬢は貴族令嬢の手紙における季節表現について。
ユリウスは、学園内の情報伝達と噂の広がり方について。
おい。
それ、最近の実例が多すぎませんか?
発表中、ユリウスは涼しい顔で言った。
「噂は、誰かが意図して流す場合と、無意識に広げる場合があります。どちらも、最初の情報よりも受け手の感情で形が変わります」
クラスの何人かが気まずそうにした。
クラリス嬢も少し俯いた。
だが、ユリウスは責めるようには言わない。
「だからこそ、聞いた側が一度立ち止まることが大切だと考えています」
リリスが真剣に聞いている。
ユリウスの研究も、最近の出来事をちゃんと学びにしている。
そして、ついにリリスの番が来た。
先生が名前を呼ぶ。
「アマリリスさん」
「はい」
リリスは立ち上がった。
教室の空気が少し変わる。
注目。
期待。
心配。
それらが混ざっている。
リリスはゆっくり前へ出る。
歩き方は綺麗だ。
だが、緊張で少し指先が固い。
俺は席から彼女を見る。
目が合う。
俺は小さく頷いた。
リリスは息を吸い、吐いた。
そして、前を向いた。
「私の研究は、礼法における感情表現と周囲の配慮についてです」
声は少し震えていた。
でも、聞こえる。
「私は、感情が動きやすく、人前で泣きそうになることがあります」
教室が静まり返る。
リリスは逃げずに続ける。
「以前は、それをただ恥ずかしいことだと思っていました。ですが、学園で過ごす中で、感情を隠すだけではなく、どう整え、周囲とどう支え合うかを考えるようになりました」
リリスは一拍置いた。
俺を見る。
頷く。
続ける。
「今、主に三つの考えをまとめています」
来た。
「一つ目は、小声版です。自分が泣きそうな状態であることを、周囲へ静かに伝えるための言葉です」
何人かが頷いた。
もう知っている言葉だからか、教室の空気は柔らかい。
「二つ目は、半歩です。近づきすぎた心や距離を、否定せず少し整える考え方です。近すぎる時は半歩下がり、遠すぎる時は半歩近づく。自分と相手が、どちらも息をできる場所を探します」
先生が静かに頷いている。
リリスの声は、少しずつ落ち着いてきた。
「三つ目は、ハンカチの橋です。支えられた経験を、誰かを支えるためにつなげることです」
クラリス嬢が顔を上げた。
リリスはそちらを見ない。
でも、言葉は届いているはずだ。
「私は、まだ感情を整えることが上手ではありません。ですが、皆さまに助けていただきながら、少しずつ学んでいます」
リリスの目が潤んだ。
ここで泣くか?
いや、彼女は深呼吸した。
「今後は、礼法において感情を否定しすぎず、周囲へ配慮する方法について、さらに整理したいです」
言い切った。
一礼。
教室は一瞬、静かだった。
その沈黙は、驚きと受け止める時間だった。
そして、最初に拍手したのはニールだった。
続いてクラリス嬢。
エレナ嬢。
ユリウス。
そして、クラス全体に拍手が広がった。
リリスは顔を上げたまま固まっていた。
目が潤む。
拍手の中で、彼女は俺を見た。
俺は小さく頷いた。
ちゃんと届いている。
その合図を送る。
リリスの目から、一粒だけ涙が落ちた。
先生が穏やかに言う。
「アマリリスさん、とてもよく話せました」
「……ありがとうございます」
「泣きそうですか?」
「はい。嬉しい涙です」
「では、深呼吸を」
「はい」
リリスは深呼吸した。
教室は静かに待った。
誰も笑わない。
誰も急かさない。
待つ。
それが、このクラスの日常になり始めている。
リリスは涙を拭き、席へ戻った。
俺は小声で言った。
「リリス」
「はい」
「ちゃんと届いていました」
リリスの目がまた潤む。
「……強いです」
「でも、言うべきだと思いました」
「はい」
「リリスの言葉で話せていました」
完全に泣いた。
机に座ったまま、ハンカチで目元を押さえる。
「アル」
「はい」
「それは、強すぎます」
「分かっています」
「でも、嬉しいです」
「はい」
エレナ嬢がそっと水を差し出す。
ユリウスが笑いながら小声で言う。
「今のはアルフレッドが悪い」
「分かっています」
「でも、良い言葉だった」
「ありがとうございます」
リリスは涙を拭きながら笑った。
授業後。
先生がリリスの席へ来た。
「アマリリスさん」
「はい」
「発表として、非常によい形です」
「ありがとうございます」
「ただし、少し内容が多いので、発表本番では例を一つに絞るとさらに伝わりやすくなります」
「例を一つ」
「小声版、半歩、ハンカチの橋。三つすべて大切ですが、時間によっては、半歩を中心にするとよいでしょう」
「半歩を中心に」
「はい。小声版とハンカチの橋は、半歩の周囲に置く形です」
リリスは真剣にメモする。
「分かりました」
「そして、最後の言葉がよかったです」
「最後?」
「皆さまに助けていただきながら、少しずつ学んでいます、というところです」
リリスの目が潤む。
先生は微笑む。
「それは、あなたの研究の姿勢そのものです」
「……ありがとうございます」
「受け取れますか?」
「はい」
リリスは深呼吸した。
「ありがとうございます。受け取ります」
泣かなかった。
すごい。
だが、先生が去ったあと、俺を見るなり泣きそうになった。
「アル」
「はい」
「先生に、受け取れました」
「はい。できていました」
「でも、今になって泣きそうです」
「遅れてきましたね」
「はい」
俺はハンカチを渡した。
リリスは一粒だけ涙を拭いた。
休み時間。
クラリス嬢がリリスの席へ来た。
「アマリリス様」
「はい」
「発表、とても素敵でした」
「ありがとうございます」
「ハンカチの橋のところ……嬉しかったです」
「クラリス様」
「私も、支えられた経験を、誰かに返せるようになりたいと思いました」
リリスの顔がくしゃっとなった。
「小声版では足りません」
「えっ」
クラリス嬢が慌てる。
俺はすぐハンカチを出した。
エレナ嬢も水を用意する。
ユリウスは「これは仕方ない」と頷いている。
リリスは涙を拭きながら笑った。
「嬉しいです」
クラリス嬢も目を潤ませた。
するとリリスは、自分のハンカチを差し出した。
「どうぞ」
クラリス嬢は少し驚き、そして笑った。
「ありがとうございます」
また橋がかかった。
昼休み。
食堂では、リリスの発表練習の話がすでに少し広まっていた。
早い。
学園の情報伝達は本当に早い。
ユリウスの研究が捗りそうである。
いつもの席に座ると、リリスは少し疲れた顔をしていた。
「今日はかなり頑張りましたね」
俺が言うと、リリスはこくりと頷いた。
「はい」
「食べられそうですか?」
「少し」
「無理せず」
「でも、お母様に発表練習の日ほど食べなさいと言われました」
「セレスティア様はいつも正しい」
「はい」
リリスはスープを一口飲む。
俺もパンを食べる。
リリスがそれを見て安心した顔をする。
「アルも食べました」
「リリスも食べました」
「見守りですね」
「見守りですね」
ユリウスが笑う。
「もう食事も支え合いだね」
「はい」
リリスが真面目に頷く。
エレナ嬢がにこにこしている。
「今日の発表、私も感動しましたわ」
「エレナ様」
「アマリリス様の言葉で話せていました」
俺と同じ言葉。
リリスの涙腺に刺さる。
「……エレナ様まで」
「本当ですもの」
「今日は、もう涙が忙しいです」
「それだけ大切な日なのですわ」
リリスはハンカチを握りながら、ふわりと笑った。
午後の魔法基礎では、発表練習で感情を使ったせいか、リリスの魔力は少し不安定だった。
教師もそれに気づく。
「アマリリスさん、今日は少し疲れていますね」
「はい。発表練習がありました」
「なるほど。では、今日は安定させるより、揺れを小さく戻す練習にしましょう」
「はい」
リリスは目を閉じる。
光が揺れる。
でも、すぐに戻す。
半歩。
呼吸。
戻る場所。
俺も隣ではない位置から、それを見守る。
リリスは目を開け、俺を見る。
俺は小さく頷いた。
彼女も頷き返す。
言葉はいらない。
それだけで通じる。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日はいつもより少しだけ期待した顔をしている。
「リリス」
「お兄様」
「発表練習をしたそうだな」
「はい」
「どうだった?」
「泣きました」
「だろうな」
即答。
リリスが少し頬を膨らませる。
「でも、話せました」
「そうか」
「皆さまが、拍手してくださいました」
「よかったな」
リリスの目が潤む。
「お兄様」
「泣いてもいい。今日は発表練習の日だ」
「はい」
兄の許可が甘い。
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「リリスは自分の言葉で話せたか?」
「はい。とても」
「そうか」
レオナルド先輩の表情が柔らかくなる。
「なら、よい」
「先生にも褒められていました」
「そうか」
彼は少しだけ目を細めた。
泣きそうか?
リリスがそれに気づく。
「お兄様?」
「泣かない」
「まだ何も」
「泣かない」
先回り。
怪しい。
ユリウスが横で小さく笑っている。
レオナルド先輩は咳払いした。
「父上にも伝える」
「お父様は……」
「泣く」
「ですよね」
「現在、札による制御中だ」
「今日も札ですか?」
「今日は『座る』『深呼吸』『走らない』の三枚だ」
「お父様にも深呼吸」
「半歩が必要なのは、リリスだけではない」
「お兄様……」
真面目に言うから面白い。
正門で別れる時、リリスは今日一日の疲れで少しほわっとしていた。
だが、表情は明るい。
「アル」
「はい」
「今日は、発表できました」
「はい」
「声は震えました」
「はい」
「涙も出ました」
「はい」
「でも、話せました」
「はい。ちゃんと届いていました」
リリスの目が潤む。
「今日の宝物名は」
「はい」
「自分の言葉で話せた日の宝物です」
「良い名前です」
「あと」
「はい」
「皆さまの拍手が橋になった日の宝物です」
「リリスらしいですね」
「はい」
「とても良いと思います」
「……泣きます」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、涙を拭く。
「アル」
「はい」
「発表本番も、隣にいてくださいますか?」
「もちろんです」
「……強いです」
「今日は、もう仕方ないです」
「はい」
リリスは涙を拭きながら笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はそれを見送りながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
王子殿下との茶会。
その翌日の余韻。
そして今日の発表練習。
リリスは、一つずつ越えている。
泣きながら。
笑いながら。
半歩で戻りながら。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「今日はどうだった?」
「リリスが発表練習をしました」
「話せたか?」
「はい。自分の言葉で」
「泣いたか?」
「はい」
「だろうな」
父上は笑った。
「だが、よくやったな」
「はい」
母上も嬉しそうに微笑む。
「リリス様にとって、大きな一日だったのね」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『娘が発表練習をしたと聞いた。泣いた。私が。自分の言葉で話せたらしい。拍手ももらったらしい。さらに泣いた。セレスティアに札を三枚出された。「座る」「深呼吸」「走らない」。私は騎士団長だが、今日は座った。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『リリスが発表練習を乗り越えた。よくやった。君も支えられたようだな。発表本番まで、無理をさせすぎるな。父上は札三枚で制御中。今のところ走っていない。奇跡だ。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日、リリスが自分の言葉で発表練習をできたと聞きました。あの子にとって、人前で自分の感情について語ることは、とても大きな一歩です。支えてくださり、ありがとうございます。夫には「座る」「深呼吸」「走らない」の札を用意しました。効果はありますが、「走らない」の文字を見て涙ぐんでおります。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
ガロウ公爵。
走らないの札を見て涙ぐむ。
なんでだ。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「走らぬ愛もまた愛でございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
自分の言葉で、ちゃんと発表できました!!
でも、お父様は『走らない』の札で泣きます!!




