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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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35/76

第35話 公爵令嬢様、百歩先のお父様より近くで泣きます



 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 昨日、俺たちは王子殿下との正式な茶会を終えた。


 小応接室。


 紅茶の香り。


 夕方の光。


 エドワード殿下の穏やかだが人を見透かすような目。


 オスカー・ベルクの、以前よりずっと丁寧な態度。


 リリスの震える声。


 それでも、ちゃんと整えられた言葉。


 小声版。


 半歩。


 ハンカチの橋。


 そして、王家との縁談を断ったことへの向き合い方。


 リリスは、逃げなかった。


 王家を軽んじたわけではない。


 ただ、自分は俺を選んだ。


 アルの婚約者であることは、半歩下がらない。


 そう言った。


 俺はその隣で、逃げないと言った。


 フルーラ公爵令嬢の隣に立つことは、甘いだけでは済まない。


 王家との距離、貴族社会での視線、家格の差。


 殿下はそう言った。


 それでも? と聞いた。


 俺は、逃げません、と答えた。


 言った瞬間、自分でも心臓が鳴った。


 殿下の前で。


 王族の前で。


 でも、それだけは引けなかった。


 そしてリリスは泣いた。


 普通に泣いた。


 小声版ではなく、完全に泣いた。


 嬉しい涙だった。


 殿下も、それを止めなかった。


 むしろ、俺の言葉を使って言った。


 嬉しい涙なら、止める必要はないね、と。


 その瞬間、この茶会は少なくとも悪いものではなかったのだと分かった。


 オスカーも言った。


 俺の見方を改める、と。


 完全に認めたわけではない。


 けれど、以前のように軽く見ることはない。


 それだけでも大きい。


 そうして茶会が終わり、屋敷へ帰った俺は、三通の書状を読んだ。


 ガロウ公爵は泣いた。


 レオナルド先輩は疲れた。


 セレスティア夫人は百歩を決定した。


 百歩。


 ついにガロウ公爵は百歩地点へ送られた。


 理由は、五十歩地点から走ったから。


 娘が泣きながらも誇らしげに帰ってきた。


 俺が逃げないと言った。


 それを聞いたガロウ公爵が、感動のあまり走り出したらしい。


 それで百歩。


 声は届かないが、手紙なら届く。


 セレスティア夫人の手紙には、そう書かれていた。


 冷静すぎる。


 愛が暴走する父。


 それを歩数管理する母。


 妹を見守りつつ父を止める兄。


 そして、その中心で泣くリリス。


 フルーラ家、濃すぎる。


 だが、不思議とその濃さにも慣れてきている自分がいる。


 怖い。


 今朝、朝食の席で父上が昨日のことを聞いてきた。


「アルフレッド」


「はい」


「改めて聞くが、殿下の反応はどうだった?」


「悪くはなかったと思います」


「笑ったか?」


「はい」


「考え込んだか?」


「はい」


「オスカー・ベルクは?」


「見方を改めると言っていました」


 父上は少し目を細めた。


「それは大きいな」


「そうなのですか?」


「ああ。ベルク家は王子側近としての立場がある。そこの子息が、お前を軽んじないと態度を変えるなら、周囲も勝手に動きにくくなる」


「なるほど」


「殿下も、敵意ではないのだろう?」


「はい。ただ、興味はかなりあるようでした」


「それが一番面倒なこともある」


「はい」


 父上は紅茶を飲んだ。


「王族の興味は、光にも影にもなる」


「光にも影にも」


「ああ。評価されれば守りになる。だが、注目されれば余計な目も増える」


 昨日の食堂の視線。


 廊下の噂。


 そういうものが頭に浮かぶ。


「今日から学園の空気は少し変わるだろう」


「はい」


「殿下が笑って、オスカーが見方を改めた。これが広まれば、悪意ある噂はさらに弱まる」


「それは良いことですね」


「だが、今度は好奇心が増える」


「……はい」


「リリス嬢は、昨日の余韻でかなり揺れるだろう」


「間違いなく」


「支えろ」


「はい」


「ただし、また注目されるから、泣く場所には気をつけさせろ」


「はい」


 母上が柔らかく言った。


「アルも、今日は少し疲れているでしょう」


「そうですね」


「大きな場を越えた翌日は、気が抜けるものよ」


「はい」


「リリス様だけでなく、自分も半歩で整えなさい」


「俺もですか」


「ええ」


「分かりました」


 自分も半歩で整える。


 最近、本当に半歩が万能語になっている。


 だが、今日の俺にも必要なのは確かだった。


 ライズは鞄を確認しながら言った。


「若様、本日のハンカチは九枚でございます」


「増えた!?」


「茶会翌日の余韻対応日でございます」


「昨日より多いのか」


「昨日の本番では緊張により涙が制限されていた可能性がございます。本日は安心から解放され、涙量が増えると予測されます」


「分析が怖いくらい具体的」


「また、周囲から『昨日はすごかったですね』と声をかけられるたび、アマリリス様が泣きそうになる可能性がございます」


「高いな」


「さらに、若様の『逃げません』発言を思い出された場合」


「泣くな」


「はい」


「俺も言われるたび照れる」


「若様用の香草茶も入れております」


「ありがとう」


 素直に礼を言った。


 今日は俺にも必要かもしれない。


 学園へ向かう馬車の中、俺は昨日の茶会を何度も思い返した。


 あれで良かったのか。


 もっと上手く言えたのではないか。


 リリスを泣かせすぎたのではないか。


 殿下に失礼はなかったか。


 オスカーの「見方を改める」という言葉を、どこまで信じていいのか。


 考え始めると、止まらない。


 だが、昨日のリリスの顔を思い出す。


 王子殿下の前で半歩で立てた日の宝物です。


 アルが逃げないと言ってくださった日の宝物です。


 そう言って泣いていた。


 あの涙は、悲しいものではなかった。


 なら、昨日はきっと意味のある日だったのだ。


 正門前。


 リリスはいつもの場所にいた。


 制服姿。


 ブルーローズの髪飾り。


 ただし、今日のリリスは見た瞬間に分かった。


 かなり泣いた後だ。


 目元が少し赤い。


 頬もほんのり赤い。


 でも、表情は暗くない。


 むしろ、ふわふわしている。


 これは昨日の余韻だ。


 俺を見つけたリリスは、ぱっと笑った。


 そして歩き出す。


 走らない。


 だが、浮いている。


 比喩ではなく、足取りがふわふわしている。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。ですが、かなり浮いていました」


「……昨日のことを思い出してしまって」


「でしょうね」


 リリスは両手を胸元で握った。


「アル」


「はい」


「昨日、言えました」


「はい」


「殿下の前で」


「はい」


「半歩も、小声版も、ハンカチの橋も」


「はい」


「王家を軽んじたわけではないことも」


「はい」


「アルの婚約者であることは、半歩下がらないことも」


「はい」


「そして、アルが」


「はい」


「逃げません、と」


「言いましたね」


 リリスの目から、ぽろりと涙が落ちた。


 正門前。


 朝一番。


 予想通りである。


「小声版ではありませんね」


「はい」


「嬉しい涙ですか?」


「はい。安心と、誇りと、昨日の思い出です」


「混ざっていますね」


「はい」


 俺はハンカチを差し出した。


 リリスは受け取り、目元を押さえる。


「すみません」


「謝らなくていいです」


「でも、朝から」


「今日は仕方ないと思います」


「アル」


「はい」


「昨日、私、立てていましたか?」


「立てていました」


「王子殿下の前で?」


「はい」


「アルの隣で?」


「はい」


「……よかったです」


 リリスは深く息を吐いた。


 涙は止まりきらないが、表情は穏やかだ。


 ミラが後ろで静かに言った。


「お嬢様は、昨夜も何度も確認されておりました」


「ミラ」


「大切なことですので」


「何を確認していたんですか?」


 俺が聞くと、リリスは恥ずかしそうに俯いた。


「私、殿下の前で失礼ではなかったでしょうか、と」


「失礼ではありませんでした」


「アルに頼りすぎていなかったでしょうか、と」


「頼りすぎではありません」


「泣きすぎでは」


「嬉しい涙でした」


「……っ」


「しまった。強かったですね」


「強いです」


 リリスはまたハンカチを目元に当てた。


 ミラは微笑む。


「本日一回目、かなり大きめでございます」


「数えないでください」


「セレスティア様への報告がございますので」


「報告されるんですね」


「はい」


 ということは、ガロウ公爵も泣く。


 百歩先で泣く。


 声は届かないが、手紙で伝わる。


 朝から濃い。


 教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


 ユリウスはリリスの目元を見るなり、納得したように頷いた。


「昨日の余韻だね」


「はい」


 リリスは素直に答えた。


「朝から泣いてしまいました」


「仕方ないよ。昨日はかなり大きな日だったから」


「ユリウス様」


「でも、昨日のアマリリス様は本当にすごかった」


「……っ」


「危険」


 俺が即座に言うと、ユリウスは「あ」と口を押さえた。


「ごめん。強かった」


「強いです」


 リリスは深呼吸した。


「受け取ります。ありがとうございます」


 涙は出なかった。


 いや、少し出かけたが耐えた。


 エレナ嬢が優しく微笑む。


「アマリリス様、昨日は本当にお疲れ様でした」


「エレナ様も、同席してくださってありがとうございました」


「私は隣にいただけですわ」


「それが、とても心強かったです」


 エレナ嬢の頬が少し赤くなる。


「ありがとうございます」


 リリスが少し驚いた顔をする。


「エレナ様が照れています」


「リリス、そこを指摘すると攻撃になります」


「攻撃ではありません。可愛いです」


「追撃です」


 ユリウスが吹き出した。


 エレナ嬢は完全に赤くなった。


 リリスは本気で不思議そうにしている。


 いつもの空気が戻ってきた。


 そのことに、少し安心した。


 教室に入ると、すぐに空気が変わった。


 昨日の茶会の話は、想像以上に広まっていた。


 王子殿下が、リリスの研究を評価した。


 オスカーが、俺への見方を改めた。


 リリスが王子殿下の前で、自分の婚約についてはっきり話した。


 俺が逃げないと言った。


 どこまで正確に伝わっているかは分からない。


 だが、教室の視線には、はっきりとした変化があった。


 以前の好奇心よりも、少し敬意が混じっている。


 ニールが最初に近づいてきた。


「シェルザート君、アマリリス様」


「おはようございます」


「おはようございます、バートン様」


「昨日の茶会、お疲れ様でした」


「ありがとうございます」


「その……すごかったって聞きました」


 リリスが少し頬を赤くする。


「すごい、というほどでは」


「でも、王子殿下の前で研究を説明したって」


「はい」


「半歩のことも」


「はい」


「ハンカチの橋も」


「はい」


「僕、少し聞いただけだけど、やっぱり良い研究だと思います」


 リリスの目が潤む。


 俺は即座にハンカチを準備する。


 リリスは深呼吸した。


「受け取ります。ありがとうございます、バートン様」


「はい」


 ニールは優しく笑った。


 そこへクラリス嬢も来た。


 彼女は昨日より少しだけ緊張していたが、真っ直ぐリリスを見た。


「アマリリス様」


「はい」


「昨日、お疲れ様でした」


「ありがとうございます」


「ハンカチの橋のお話をされたと聞きました」


「はい」


「……とても嬉しかったです」


 リリスの表情が揺れた。


 クラリス嬢は続ける。


「私とのことが、アマリリス様の研究の一部になったのだとしたら、少し恥ずかしいですが……でも、嬉しいです」


「クラリス様」


「もちろん、私の名前は出していないと聞いております」


「はい」


「ですが、私も、あの出来事から学びました」


 クラリス嬢は少しだけ頭を下げた。


「ありがとうございます」


 リリスの涙腺に直撃した。


「……小声版では足りません」


「はい」


 俺はハンカチを渡した。


 リリスはそれを受け取り、涙を拭いた。


「クラリス様、私も、ありがとうございました」


「はい」


 教室は静かに見守っていた。


 以前なら、リリスが泣けば少しざわついたかもしれない。


 今は違う。


 ああ、嬉しい涙なんだな。


 そう分かる空気ができている。


 リリスが作ってきたものだ。


 一時間目は礼法だった。


 ベイル先生は教室に入ると、いつも通り黒板に文字を書いた。


『大きな場を終えた後の礼』


 もう、誰も驚かなかった。


 むしろ、教室中が自然にノートを開いた。


 先生は淡々と話し始める。


「大きな面談や茶会、発表などを終えた後、人は油断しやすくなります」


 刺さる。


 昨日の今日である。


「成功したと思えば、浮かれる。失敗したと思えば、落ち込む。どちらも自然なことです。しかし、重要なのは、その出来事をどう受け取り、次の日常へ戻るかです」


 日常へ戻る。


 それが今日の課題だ。


「昨日の自分を誇ることは悪くありません。けれど、昨日の成果だけで今日を過ごしてはいけません」


 リリスは真剣に聞いている。


 俺も。


「また、周囲から褒められた時は、過度に否定しすぎず、感謝して受け取ること。必要なら、まだ学ぶことがあります、と添えるとよいでしょう」


 リリスが小さく頷いた。


 まさに朝からやっている。


「そして、疲れていることを認めることも礼です。無理をし続けると、周囲に余計な心配をかけることになります」


 先生の視線が一瞬だけリリスへ向いた気がした。


 リリスも気づいたのか、少し背筋を伸ばす。


「今日は、呼吸を整え、いつも通りを意識しなさい」


 いつも通り。


 昨日も今日も、その言葉がよく出る。


 授業では、大きな出来事後に声をかけられた時の返答練習をした。


 俺の相手はユリウス。


 ユリウスはにこやかに言う。


「シェルザート君、昨日は殿下の前で立派だったそうだね」


「ありがとうございます。まだ学ぶことばかりですが、リリスが自分の言葉で話せたことが何よりよかったと思っています」


「うん。自然」


「本当ですか?」


「ちょっとリリス優先すぎるけど、君らしい」


「そうですか」


 一方、リリスはエレナ嬢と練習していた。


「アマリリス様、昨日の茶会でのご発言、とても立派でしたわ」


 エレナ嬢が言う。


 リリスは深呼吸した。


「ありがとうございます。まだ緊張も残っていますが、自分の言葉で話せたことは嬉しく思っています」


「完璧ですわ」


「危険です」


「では、半歩分だけにしておきます」


「ありがとうございます」


 ベイル先生が頷く。


「アマリリスさん、よく受け取れています」


「ありがとうございます」


「シェルザートさんも、周囲の評価をリリスさんの努力へ戻す姿勢はよいです。ただし、自分の努力も否定しすぎないこと」


「……はい」


 先生は本当に見ている。


 俺が自分のことを軽く扱いがちなことまで見抜いている。


 リリスがこちらを見る。


「アル」


「はい」


「アルも、昨日とても立派でした」


 教室で直球。


 俺は固まった。


 ユリウスが笑いを堪えている。


 エレナ嬢は微笑んでいる。


 ベイル先生は何も言わない。


 受け取れという空気だ。


 俺は一拍置いた。


「ありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです」


 リリスの目が潤んだ。


「受け取ってくださいました」


「はい」


「……小声版です」


「そちらが泣くんですね」


「嬉しいので」


 教室が少し笑った。


 悪い笑いではない。


 温かい笑いだった。


 二時間目は自由研究準備だった。


 リリスは昨日の茶会で殿下から言われたことを、丁寧にノートへ書き込んでいた。


『感情を隠すだけではなく、礼として整える』


『近すぎる時は半歩下がる。遠すぎる時は半歩近づく』


『自分と相手がどちらも息をできる場所を探す』


『嬉しい涙は止めなくてもよい。ただし場を整える』


 良い言葉が並んでいる。


 中でも、遠すぎる時は半歩近づく、という部分は昨日リリスが答えたものだ。


 あれは本当に良かった。


 俺がそう思っていると、先生がリリスのノートを見て頷いた。


「昨日の対話が、研究をさらに深めましたね」


「はい」


「特に、遠すぎる距離にも半歩が必要、という考えは良いです」


「ありがとうございます」


「これは、個人間だけでなく、家同士、立場の違う者同士にも応用できます」


「家同士……」


「はい。ただし発表では広げすぎないように。まずは自分の経験を軸にしましょう」


「はい」


 先生は俺にも言った。


「シェルザートさん」


「はい」


「あなたも、昨日の茶会で得た視点を記録しておくとよいでしょう」


「俺もですか?」


「はい。リリスさんの研究を支える側として、何を学んだか」


 俺は少し考えた。


 何を学んだか。


 昨日、俺が学んだこと。


 俺はノートの端に書いた。


『隣に立つとは、前に出すぎず、しかし逃げないこと』


 それを見て、リリスが目を潤ませた。


「リリス、見るのが早いです」


「見えてしまいました」


「小声版?」


「はい」


「今日は多いですね」


「昨日の余韻です」


 仕方ない。


 休み時間、オスカー・ベルクが教室の前に現れた。


 クラスの空気が少し変わる。


 上級生ではないが、別クラスの彼が来るのは目立つ。


 オスカーは入口で俺たちを見つけると、丁寧に礼をした。


「アマリリス様、シェルザート殿。少しよろしいでしょうか」


 昨日の今日である。


 俺とリリスは顔を見合わせた。


 リリスが小さく頷く。


「はい」


 廊下に出る。


 エレナ嬢も自然に少し後ろへ。


 ユリウスは教室の中から様子を見ている。


 オスカーは以前よりずっと礼を整えていた。


「昨日は、ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 リリスが答える。


 オスカーは一拍置き、俺へ視線を向けた。


「シェルザート殿」


「はい」


「昨日、私は見方を改めると申し上げました」


「はい」


「その言葉に偽りはありません」


「……ありがとうございます」


「ただ、まだ完全に理解できたわけではありません」


 正直な言葉。


 だが、以前のような攻撃ではない。


「ですので、今後も少し話を伺うことがあるかもしれません」


「私たちに、ですか」


「はい。殿下も、アマリリス様の研究には関心をお持ちです」


 リリスは緊張したが、深呼吸した。


「研究についてでしたら、未熟ながらお話しできるよう準備いたします」


「ありがとうございます」


 オスカーは少しだけ表情を緩めた。


「それと」


「はい」


「昨日の『遠すぎる時は半歩近づく』という言葉は、私にも考えさせられました」


 リリスが少し目を見開く。


「ベルク様にも?」


「はい」


「……ありがとうございます」


「私も、少し遠くから見すぎていたのかもしれません」


 オスカーの声は小さかった。


 けれど、確かに本音が混じっていた。


「アマリリス様とシェルザート殿の関係を、家格や立場だけで見ていた部分がありました」


 俺は黙って聞く。


「昨日のお二人を見て、それだけでは測れないものもあるのだと感じました」


「……」


「まだ、うまく言葉にはできませんが」


 オスカーは丁寧に礼をした。


「失礼いたしました」


 彼は去っていった。


 廊下に残された俺たちは、しばらく黙っていた。


 リリスがぽつりと言う。


「アル」


「はい」


「ベルク様が、半歩近づいてくださいました」


「そうですね」


「……嬉しいです」


「はい」


「怖かった方が、少し近づいてくださるのは、不思議です」


「遠すぎる距離の半歩ですね」


「はい」


 リリスの目が潤む。


「小声版です」


「はい」


 俺はハンカチを差し出した。


 リリスは一粒だけ涙を拭いた。


 教室に戻ると、ユリウスが小声で聞いた。


「何だった?」


「オスカーが、昨日の言葉で少し考えたそうです」


「へえ」


 ユリウスは少し驚いたように眉を上げた。


「それは大きいね」


「やはり?」


「うん。彼が自分からそれを言いに来たなら、かなり変化してる」


 エレナ嬢も微笑む。


「アマリリス様の言葉が届いたのですね」


 リリスは小さく首を横に振った。


「私だけではありません。アルも、皆さまも」


「そう言えるところが、アマリリス様の素敵なところですわ」


「危険です」


 リリスは深呼吸した。


 今日のリリスは、泣きそうになってもよく戻っている。


 昼休み。


 食堂に行くと、昨日とは空気が少し違っていた。


 好奇心はある。


 だが、それ以上に、妙な緊張が和らいでいる。


 王子殿下が敵意を示していない。


 オスカーも態度を改めた。


 その情報が広まったからだろう。


 俺たちはいつもの席についた。


 リリスは今日はちゃんと食事を取れそうだった。


「リリス、食べられそうですか?」


「はい。昨日、お母様に、茶会翌日こそ食べなさいと言われました」


「セレスティア様はいつも正しいですね」


「はい」


「ガロウ公爵は?」


「百歩先で、朝食を取りながら泣いていたそうです」


「百歩先で朝食」


「お母様が、声が届きにくいので札を使ったと」


「札!?」


「『食べなさい』『泣きすぎです』『三歩戻らない』と書かれていたそうです」


「セレスティア様、対応が実務的すぎる」


 ユリウスが笑いを堪えきれず肩を震わせている。


 エレナ嬢も口元を押さえている。


 リリスは少し恥ずかしそうだ。


「お父様は、札を見てさらに泣いたそうです」


「なぜ?」


「お母様の字が美しいから、と」


「もう何でも泣くじゃないですか!!」


 つい声が出た。


 近くの席の生徒が少し笑った。


 リリスも笑った。


 朝からの緊張が、ようやく少しほどけた気がした。


 午後の魔法基礎では、リリスの魔力は少し揺れていたが、昨日ほどではなかった。


 教師が言う。


「アマリリスさん、今日は昨日の疲れが残っていますね」


「はい」


「ですが、戻し方は安定しています」


「ありがとうございます」


「大きな出来事の翌日としては、よい状態です」


「受け取ります」


 リリスはそう言って、深呼吸した。


 泣かなかった。


 俺も少しだけ魔力が硬かったが、何とか戻した。


 教師が俺にも言う。


「シェルザートさんも、少し緊張が残っていますね」


「はい」


「自覚できているなら大丈夫です」


「ありがとうございます」


 俺も受け取った。


 放課後。


 レオナルド先輩が待っていた。


 今日は昨日よりかなり穏やかな顔だった。


「リリス」


「お兄様」


「今日は泣いたか?」


「朝と、教室と、クラリス様と、ベルク様のことで少し」


「多いな」


「昨日の余韻です」


「なら仕方ない」


 判定が甘い。


 レオナルド先輩は俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「オスカーが来たそうだな」


「はい」


「見方を変え始めている。悪くない」


「そうですね」


「殿下も、今後は敵対ではなく関心として関わってくるだろう」


「はい」


「だが、油断するな」


「分かっています」


 リリスが少し不安そうに兄を見る。


「お兄様、また殿下とお話しすることになりますか?」


「なるだろうな」


「……はい」


「怖いか?」


「少し」


「だが、昨日よりは?」


「昨日よりは、大丈夫です」


「よし」


 レオナルド先輩は小さく頷いた。


「父上は百歩地点から七十歩まで戻った」


「戻りすぎでは!?」


「母上が札で止めている」


「札で」


「『戻らない』『泣きすぎ』『座る』の三枚だ」


 リリスが笑った。


 俺も笑ってしまった。


 ガロウ公爵、札で制御される騎士団長。


 強いのか弱いのか分からない。


 正門で別れる時、リリスは今朝より落ち着いていた。


 昨日の余韻を一日かけて受け取った顔だった。


「アル」


「はい」


「今日は、昨日のことを少しずつ日常に戻せた気がします」


「はい」


「皆さまが声をかけてくださって」


「はい」


「ベルク様も、少し近づいてくださって」


「はい」


「怖かったけれど、嬉しかったです」


「はい」


「今日の宝物名は」


「はい」


「大きな茶会の翌日に、日常へ半歩戻れた日の宝物です」


「とても良い名前です」


「あと」


「はい」


「百歩先のお父様が札で止められた日の宝物です」


「そこも宝物なんですか!?」


 リリスは少し笑った。


「お父様らしいので」


「確かに」


「アル」


「はい」


「昨日、逃げないと言ってくださったこと」


「はい」


「今日も、思い出して嬉しかったです」


「俺も、リリスが半歩下がらないと言ったことを思い出していました」


 リリスの目が潤む。


「強いです」


「今日は最後なので、いいかなと」


「はい」


 俺はハンカチを渡した。


 リリスは涙を拭きながら笑った。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 馬車が遠ざかる。


 俺は見送りながら、長く息を吐いた。


 昨日の大きな出来事は、今日、少しだけ日常に戻った。


 けれど、完全に元通りではない。


 殿下との関係。


 オスカーの変化。


 リリスの研究。


 学園の空気。


 全部が少しずつ変わっている。


 それでも、リリスは今日も泣き、笑い、半歩で戻った。


 俺も、隣にいられた。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上が待っていた。


「今日はどうだった?」


「昨日の余韻がすごかったです」


「リリス嬢は泣いたか」


「かなり」


「嬉しい涙ならよし」


「はい」


「学園の空気は?」


「良い方向に変わっています。オスカーも自分から話しに来ました」


「そうか」


 父上は満足そうに頷いた。


「大きな一歩だな」


「半歩ではなく?」


「時には一歩でもいい」


「なるほど」


 その後、フルーラ家から書状が届いた。


 一通目、ガロウ公爵。


『娘が茶会翌日もよく立てたと聞いた。泣いた。私が。クラリス嬢やベルク殿とも少し話せたらしい。よかった。私は百歩地点から七十歩まで戻ったが、セレスティアに札で止められた。「戻らない」と書いてあった。字が美しかった。泣いた。 ガロウ』


 二通目、レオナルド先輩。


『茶会翌日の空気は悪くない。オスカーが自分から言葉をかけたのは大きい。リリスはよく余韻を受け取った。君も平常に戻れている。父上は札で制御中。現在七十五歩地点。五歩戻された。 レオナルド』


 三通目、セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日、リリスは茶会の余韻を抱えながらも、少しずつ日常へ戻れたようです。大きな場の後に、いつもの一日を過ごすことも大切な成長ですね。オスカー様も少し考えを改められたようで、よい流れだと思います。なお、夫には札を導入しました。「戻らない」「泣きすぎ」「座る」の三枚です。効果はありますが、札を見て泣くため、継続が大切です。 セレスティア』


 俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。


 札を見て泣く。


 ガロウ公爵、制御方法に感動してどうする。


 父上は腹を抱えて笑った。


 母上も口元を押さえて笑っていた。


 リーマスは「文字にも愛は宿るのでございます」と頷いた。


 ライズは静かに親指を立てた。


 俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 茶会翌日も、よく半歩で戻れました!!


 でも、お父様は百歩先でも札を見て泣きます!!

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